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1226(Thu)

サンタクロースを何歳まで信じていたか、という会話をこの頃よくしていた。
集計の結果、大体、小学校にあがるころには「サンタクロースはいない」という事実を飲み込むようになる。
だから小学校以降は、サンタクロースはいないけれどクリスマスプレゼントはもらっとく、というイベントになる。
でも、このイベント、やっぱりサンタクロースが運んでくれていると信じられている内の方がもらう方は(あげる方も)盛り上がる。
ほしいものをサンタにお願いするのに仏壇に向かってお祈りしていたチグハグな幼稚園生のぼくは、
サンタが運んでくる「ミラクル」を確かめたくて、親には黙ってご先祖にムニャムニャ念じていた。
それでも、なぜか念願の品がクリスマスの朝、枕元にあった時にはホントに驚いた。いまでも謎である
(親というのはこういうときに心血を注いで頑張るべきなのだな)。

「信じる」というのは不思議なもので、全面的に疑いなしに信じるなんてことはない。
むしろ半信半疑のことがらだからこそ、「信じる」という言葉を用いるのだ。
去年アメリカのビルがあっという間に崩壊したことを「信じる」とは言わない。当然の衆人に共有された事実だから。
一方「信じる」ことは、「疑い」(事実かどうかの疑い)から完全に切りはなされはしない。でも、
疑いがあるからこそ信じる余地があり、信じる楽しさも、時に苦しさもある。
このあわいにふわふわとサンタクロース(クリスマス)は浮遊する。
昨日Aがハンバーグをほおばるぼくに面白いこと言ってくれた。ある時、サンタクロースを信じるのを止めなければならなくなった、と。
小二までは完全に信じていたのだが、周りから色々言われて、小三にはもう「信じる」ことができなくなったという。
「いる」「いない」の事実問題とは別に、「いる」と信じることは可能だ、ファンタジーにリアリティを感じるなどはそうだ。
「信じる」ことを止める前の彼女は、「信じる」ことのあわいを楽しんでいたのだろう。「いないいないばあ」のような遊びを。
このリアリティは、なくしてみるとずいぶん懐かしいものに思える。
公園通りの木々の「チカチカ」がぼくにとっていまでもリアルか、昨日の夜、確かめるように歩いてみた。



1223(Mon)

山口瞳『礼儀作法入門』(新潮文庫)を買う。
伊丹十三夫妻の仲人を務めた山口、大江健三郎はこの山口を嫌いだとどこかで言っていたという。
「左」の大江に対して「右」の山口、そういうシンプルな対立図式を考えるとすれば、
高校生のころ大江がアイドルだったぼくが、いま山口のような「保守的」作家を楽しく読んでいるというのは不思議な変化だ。

これはタイトルの通り、現代(実際は1980年代)の作法を説いた本。
大江がフランス哲学だとすれば、山口のこれは近代イギリス哲学の風情がある。

「礼儀作法とは形式のものである。知らなくてもいい。あるいは、知っていてこれを行わなくてもいい。
あるときは、エチケットに適ったことを行わない方がいい場合さえある。天然自然でいい。しかし、高
橋(高橋義孝)先生の言われるような無私の精神でいるときに、礼儀作法は、エチケットは、自然にその人間に
湧いてでてくる。上から与えられたものであり、同時に、下から湧き出てくるものである。」

もはや完全に失われたもの、砂浜に書いた文字が波に流されるように消えて
しまった「人間」のドキュメントとして読む。



1222(Sun)

前日のもらったチラシで知って、夕方からふらっと
土方巽舞踏上映会の企画に行き、
《肉体の叛乱》(1968)
《疱瘡譚》(1972)
《陽物神譚》(1973)
を見た。
元藤さんの話によると、とうとう来年の三月末でアスベスト館は閉館になるそう。
気になるのは、ここが持っている貴重な映像作品のこと。その後どのような扱いになるのだろうか。
閉館と同時にお蔵入りだけは避けて欲しい。これまで見逃していた《疱瘡譚》のヴィデオを
今日はじめてみたのだけれど、それは、この公演が本当に素晴らしい、
非常に完成度の高いものであったことを十分立証するものだった。これと《肉体の叛乱》をペアで見ることによって、「土方の舞踏」
は最も正確に理解される、そういっていいだろう。このペアでDVDを作って欲しい。
そうしてこれらの映像に誰もがアクセスできる状態にしておいて欲しい。舞踏へのいらない誤解を払拭するために。
アスベスト館存続よりもそのことが、舞踏を後世に残す一助になるに違いない。

《肉体の叛乱》(1968)
この作品で土方は動物と踊るということをしたかったらしい。元藤さんの話によれば、
白馬を借りてきて舞台にのせようとしたが、かなわず、会場前に繋がれていたという。
会場入り口に馬のいる作品。あと、豚やウサギが舞台に登場し、あの真鍮版の先にはニワトリが吊され、
最後に退場する土方は大きな鯛を口にくわえている。

《疱瘡譚》
カラスの鳴き声、吹きすさぶ冬の風。最初土方の上がった左足だけが見える。
上げた足がしばらくして別の生き物のようにフラフラと漂い出す、そして弱々しく床に触れる。
落とした腰、くの字に曲げた足、この足が床を踏みならす、
明らかに歌舞伎を参照している(観客による一場一場での拍手とか、かけ声とかもその印象を強くさせる)。
でも、マネじゃない。
歌舞伎が別のロジックの中に解体され組み換えられている。踏みならす足がリズミカル。
踏む前の僅かな静止、そのポーズのなかの曲がった足、そのかたちが印象的でたまらなく美しい。
この美しさは作品全体を貫いて、ひとつの様式美と言えるものに達している。
男達の群れが進む、これも本作品の基本要素なのだが、舞台を横切る動き横向きの体、
その時に映える腕のかたち、両足のバランス。古代ギリシアの壷絵のようなプロフィール。
あるいは《牧神の午後》ニジンスキーのポーズを連想させる。
それは単なるポーズではなく、動きの基点になるような働きをしていて、群舞は統制されながらも独自の密度を保っている。
女三人の踊り、太夫の声が三味線と混じる、最初の歌舞伎のイメージにさらに文楽の要素が重ねられたよう。
すると女達の動きは、人形のそれのようにも見えてくる。基本的には振り付けられている。でも、
振りのリズム(そう、思っていたよりずっとリズミカルなのだ、「バタバタバタ」とゲタの音が作るリズム)
に体は単に従属するだけではなく、そこに「考察による遅れ」のようなオフビートが混ざる。
首を亀のように伸ばして胸をへこませ上半身に空洞を作る、そんな芦川の
滑らかな動きの一瞬一瞬が強烈な印象を残す。

ふたたび現れた土方は、病に倒れた寝たきり老人のように
腰が砕けた状態で、足を触手のように僅かに上げながら耄けている。
「手ボケ」の動き。何も出来ない、それでありながら無数の動きが詰まった肉体。
低く流れ続ける三味線と太夫の声、でもそれは「日本」を喚起させる壁紙ではない。反復するフレーズはむしろコルトレーンの
それのように響く。西洋のダンスの模倣でないことは当然ながら伝統的日本に追従するわけでもない、
それを参照しながらも距離をおきながら、「脱構築」する身振り。その距離感は今でも十分新鮮。

「老人」と喩えてしまったが、踊り手の身体は男で女でもない、人間でもない得体の知れない何かにどんどんなってゆく。
インドの修行僧のような細く平べったい土方の身体、そこにさらしものの身体への意志を強く感じる。見られることの欲望。
時折、馬の走る足音が響く。そのリズムは馬の身体を舞台に漂わせる。この作品の中軸にあるのは「足」だ。
床を踏みならすリズムだけでなく、最後の女達の踊りでは、横向きで曲げた足のかたちを見せる静止の瞬間があるが、
そんなポーズのなかにも、印象的な「足」のイメージがあらわれる。
抑制された単色の作品、それだけに一層統一的な美しさが充満している。
終幕後の観客の熱狂は単にカリスマにではなく、間違いなく作品に向けられている。
(ちなみにこの作品は《四季のための二十七晩》の中の一作品)

《陽物神譚》
大駱駝艦の最初期の公演。
麿はもとより、ビショップ山田、大須賀勇、天児牛大、室伏鴻なども参加しており、映像の最後の10分程は
客演した土方がヴァーグナーを背景に踊る。体内回帰、禁止と侵犯などのイメージ、凝った美術、昔からラクダカンは
こうだったのか、という印象。

ちなみに、今後《疱瘡譚》が見られるのは、2003/3/29の19:00アスベスト館の一回のみ。
これは見ておかなければなりません。



1221(Sat)

冬の激しい雨が降った日。
午前中に、
エリック・ロメール《グレースと侯爵》(@シャンテシネ3)を公開初日初回で見て、
その後、夕方から
《ネクスト・ネクスト3》(@森下スタジオ)に足を運ぶ。
〈黒田育世〉
〈砂連尾理+寺田みさこ〉
〈飛び入り家系〉
〈岡本真理子〉のラインナップ。後日感想を。



1220(Fri)

《黒沢美香ソロダンス ロマンチック☆クラブ in 武蔵小金井》(@小金井、アートランド)
副題は、
「聖軆のごとく吹き送るひたいの水晶は極端に若い女のごとく踊る」。
演目は、「女子体操」(薔薇の人「ROLL」より抜粋)と「ロマンチックナイト #02」。

今年の後半は、元気になってきた黒沢に何度も感動させられた。
そんな今年の記念になるような公演だった。



1218(Wed)

田舎での二日間の「おつとめ」が終わり、今日は「上京」がてら二本の美術展へ。
《現代美術への視点 連続と侵犯》(@東京国立近代美術館)
《Gerhard Richter》(2002年の新作展、@西新宿、WAKO WORKS OF ART)

「現代美術」というカテゴリーはもはや全然同時代(現代)的じゃないじゃんという気がする昨今、
美術展を見に行くという欲求がかなり萎えつつあったのですが、「連続と侵犯」なるキーワードにそそのかされて
午前中の曇った空のもと、お堀の脇の美術館に行ってしまったわけです、つい。

後でカタログを読んで分かったのですが、このキーワードは「美術」の「歴史」への「連続と侵犯」という意味なんですね。
やっぱ美術は歴史性にがんじがらめにならざるを得ないのでしょうか、ね。
この呪縛に従属しつつ、時にそこからの僅かな些細な逸脱を「侵犯」と呼んでみる。
その程度の振幅でしかないのか、しかも実際展示されていた作品は「その程度」にも達していないのだ。いやはや。

唯一見るに値するかなというのが、中山ダイスケの諸作品。
白くコーティングしていない麻のキャンバスには、絵の具でのデザインに糸でのステッチがかぶさり、共存する。
キャンバスを縫ってしまう方法、その起源は知らないが、
ちょっと前の『美術手帖』に若手の作家が犬を縫って描いて注目されていたのを思い出す。
百聞は一見に如かずで、写真では目にとまらなかったのだが、実際に見ると結構これは面白い。
この方法によって作品は、支持体が麻製の布で出来ていると言うことを自ずと語り出す。
油絵はそもそも、布というものに担われていたのだという当然のしかし看過された事実に気づかされる。
そう見ると、絵の具によるストライプやチェックのデザインが、テキスタイルというかプリントというか、服飾的な何かに思えてくる。
テキスタイルのもつ不思議な感触。
地と図、空間と個体のそれぞれの関係が絶えず往還して止まることのない、そんな世界。

でも、視覚的な遊戯としてちょっと魅力的という程度で、身体丸ごと持って行かれる感じはないのだ。

と不満ばかりでも、この展覧会で美術全般を否定するなんて気、さらさらありません。
ということで、憂さ晴らしもかねてRichterへ。
ぼくはこの人のことを理論的に説明する力なんて全くもっていない。ただひたすらイイなと思う。
ただペインティングナイフでピヤッとなでられた絵の具の跡に、そこに残された形状にただ引きよせられるままに眼を傾けていたい。
カタログとここでしか売ってない(かもしれない)、この画廊で出版した市原研太郎のリヒター本を買って帰る。



1215(Sun)

《踊りに行くぜ!!〜JCDN全国パフォーマンススペース間のダンス巡回プロジェクト〜》
の東京編(@セッションハウス)を見る。

この企画は、コンテンポラリーダンスの(主に)若手達がダンス公演の少ない地方に行って公演をする、そういう
地方へ向けてダンスを伝える(啓蒙する?)という目的を果たしている。が、それだけではない。
普段、東京に居を定めている観客に地方のダンスの在り方を伝える(これも一つの啓蒙)という役割も担っている。
それは決して軽んじられてはならない意義をもっている。

東京に住むものは、多量の情報とアクセス出来る分、実は情報に操作されてしまう場合も多い。
一日にひとつの公演しかないならば、みんなでそれを見に行くが、二つ三つあれば、そのうちどれを見るか選択しなければならない。
その時に案外、「評価が定まっている」とか、「人気がある」とか、「話題になっている」とかが選択の基準になってしまう。
その場合、話題には出来るが、実際はなんにも新鮮さの感じられない、
つまんない経験を積み重ねる、という結果に終わることがなんと多いことか。
やる側も、ある程度の集客があればそれでオッケーと思っているかも知れない。
結局、つまらないものが拡大再生産してゆき、舞台経験は単なる教養的な経験となって形骸化してゆく。それが東京の現況。

いったいぼくらは何を見たくて会場に足を運ぶのだろう。
この日お話しした女性の言葉を借りれば、
「新しいアートがはじまる、生まれ出る」瞬間に立ち合うためじゃないだろうか。
この「誕生」は、情報の多さには決して比例しない、むしろ時にそれは疎外の原因にもなる。
地方のダンサー達の作品には、この新しい何かが生まれる瞬間に
真摯に向かっていこうとする野心を感じることがある。そんなトライアルを見ることには、完成品を愛でるのとは違う楽しみがあるのだ。

と、
こう「地方」のダンサーを持ち上げてみているが、「コンテンポラリー」の場合、「地方色」というものが鮮明にでるというわけではない。
例えば、松山では(モダン)ダンスが盛んだと言う。とはいえ、それが一つの伝統となり、ある種のカラーをつくり、
コンテンポラリーダンスを産み出す際の土壌となっている、というわけではないらしい。
そもそもコンテンポラリーであるということは、自分のダンスの根を常に自分自身のなかに求めていかなければならないものなのだ、
それは「地方」だろうが変わりはないらしい。結局は単に東京との情報の差が、新鮮さをもたらしているだけかもしれない。
情報過少であるために、それに縛られないダンスが生まれている、ということ。
そういうことであっても、そんな初期衝動のダンスがみられる珍しい機会であると考えれば、
《踊りに行くぜ!!》東京編には掛け替えのない意義があると思う。


前口上が長くなってしまったけれど、感想をちょこちょこと。
ここまで書いてアレだが、総評は辛い、ようするに共通して観客への視線に乏しい。
奇抜なメモが書き殴られた面白いノートを覗いたような楽しさはあるが、「それっていったい何?」と疑問符が残る。
じゃあ「何」かが分かればいいって、そういうことじゃない、
良い作品てのは、自分で立てた奇妙な問いに自分できちんと返答している。こういう反省の回路ができてないということ。
その回路がきちんとあれば、自ずと観客の座る席もそこに用意されているはず。

〈丹波直美〉
前半と後半に分かれている。前半はよかった。
ゆっくりとした動きに丁寧さが感じられる、多い動きは手と足が連動するパターン、シンプルで体の分節が大きいのだが、
何か独特の質感がある。体のサイズに踊りが合っている。派手さはないが嘘のないダンス。
ただし後半になると曲がハイテンポになり、その速さに体がついていけなくなる。
その分結果として単調な動きになってしまう。前半でよいと思ったところが、
曲によってバラバラになってしまった。なぜこのようなツートーンをやろうとしたのだろうか。残念だ。

〈合田緑+三好絵美+戒田美由紀〉
今回のひとつの収穫。タイトルの〈Locker Room〉通り、
アイデアが整頓されないままにごちゃ混ぜに並んでいる。混沌の極み。
その未整理なところにハッと目にとまる動きをみせるのは戒田美由紀、この人の頭の中では何がうごめいているのだ??
こんなところになぜこれが?という意外な動きが三人の関係のなかでさらに破調をきたす。この三人の中では
「会話」は成立しているのだろうか。ぼくにとっては人間とも思えない宇宙語を話す不思議少女たち。
それは、わけの分からないが無性に惹きつけられるものに出会った瞬間とも思えるが、だまされたような気にもなる。
せめて三人の中では会話が成立していてほしい、こっちには不可解な内容であっても。
そうであればこっちははらはらしながらそれを眺めることはできる。さて、今後に期待。

〈CRUSTACEA〉
自分がやっていることが見る側にどう伝わっているのかがあまり反省できていないのだろう。
イメージに無意味なばらつきが目立つ。「苦痛」とか「自傷」という観念が浮かんでくるが、その割りにダンスはすこぶる健康。
いや、ダンスとはそもそも健康なものなのだ。踊れる体なのだから。そういうちぐはぐがそこここにあらわれる。
観念(自分を語る語り口調)の古ぼけた感じを、ある種の懐かしさに転化してみたりした。まあ、そうする以外には見所に乏しい。
ダンスは観念からではなくフト動いてしまった腕を問い直すところから始まるのだろう。
それがここにないのでダンスがとまって見えてしまうのだ。

〈山賀ざくろ〉
大阪編での評判を聞いて今回一番期待していたのだが、
決めないところに決める、ぬけたところに間ができるはずのこの作品、
今回のざくろは、「最近恋人ができたんだけれど、この作品ではもてない男やります」っていう感じで、ポイントがずれてしまっている。
もちろんほんとに恋人ができてもいいのだけれど(いや事実は知らないが)、自分の作品の肝はなんとしても見失ってはいけないだろう。
それが素人ではないダンサーの必要条件だろう。
間がもてずに次々と進んでしまうのは、自分のなかにしかるべき反応をしてくれる観客の像がないからか。
それがあれば観客はそのポジションに自分をおくことができる。
つまり観客は観客が作るのではなくダンサーが作る、というところがあるのじゃないか。
それがあればざくろ作品のポテンシャルはもっと発揮されるだろう。例えば、両腕をくるっと丸めてすぐにすっと伸ばす、あのリズムは
ざくろオリジナルのダンスを期待させるのに十分なのだし。

〈星加昌紀+高橋砂織〉
ノイズがかぶさり、三味線なども混ざる音楽は面白かった。そこにダンスは合いの手を入れてこない。
二人の体の接触する瞬間瞬間を丁寧に考察しようとする気概は感じさせる。でも、ずうっと遠かった。
作品のなかに観客の位置がないように思えた。何を伝えたいのか、なんでダンスしているのか。
でも、自分で考えたアイデアのエスキスは他人の模倣ではない新鮮さがあった。
今回は「習作」、もしそうだとすれば、さらに展開したものをいつか見てみたい。



1214(Sat)

今日は二本立て、
ローザス(アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル)《ファーズ》(@彩の国さいたま芸術劇場)
勅使川原三郎《Raj PacketU》(@新国立劇場中劇場)

《ファーズ》
コンテンポラリーダンスの旗頭の一人と言ってよいだろうドゥ・ケースマイケル、とはいえ、
20年前に作られた最初期の作品に、同時代性をみとめようとするのは、ちょっと酷。

先週は石井漠、その前の週はオイリュトミーと、もはや同時代とは言い難いものを、それなりの文脈を探しながら
観る機会が重なったこともあり、今回のローザス作品を見る眼もそんな歴史の一部として楽しむところがあった。
簡単に言えばかつての方法としての「ミニマル」。ニューヨーク留学直後の作品。これが何を意味していたか。
話がずれるけれど、そういえば10月の黒沢美香マンション公演で見た作品の多くは「ミニマル」な要素が濃かった。
特に高濃度だった〈WAVE〉や〈距離〉は85年と87年の作品、確か黒沢がアメリカに渡った直後だろう。
黒沢とローザスの共通性なんていまでは考えられないことだけれど、でも「ミニマル」を通してならそう言えるのだ。

〈Piano Phase〉
タイトルはライヒの曲名による、以下同様。
ドゥ・ケースマイケルとドゥ・メイの二人、光沢のある白いワンピースに白いシューズに短いソックス。
巨大な銀色の壁を背景に並んで踊る。壁には二人の影が二つずつ映る。
腕を振り上げながら足は半回転する。それが延々繰り返される。
一曲をこれでもたせるのはちょっとキツイ。後半かなり眠くなる(特に壁から離れて踊り出してから)。
ミニマルな音楽を踊る、という条件がなぜ必要なのか、それは何をもたらし魅力的なものにするのか、とぶつぶつ考える。
二人は完全にユニゾンしているわけではなく、ときどき一方がテンポをずらし、ずれが一回りしてまた元に戻る、ということもある。
それも、パンフの小沼氏によれば、ライヒの漸次的位相変位プロセス(gradual phase shifting process)を
ダンスでなぞっていると言うことのようだ。
繰り返し「ピン」と腕が前に振り出されるその小気味よさ、女性らしい力強さは今作品で気になったところ。
ミニマルの形式のなかに、そこからこぼれでてくる要素が見えてくる。形式に追従しない内容面、線に対する色彩。
この関係が目に付いてくる。

〈Come Out〉
今度はやはり二人が、作業着風の衣裳で椅子に座り、頭上のランプのもとで踊る。
「イス」という条件が反復の条件にさらに付け加わる。
薄暗がりだったせいでより強調されたのかも知れないが、ひとつのフレーズを締めくくる静止が印象的だった。
静止がリズムを作る、切断が「間」を生む。すごく機械的なんだけれど、でも独特のリズムを感じる。
テクノにグルーブはあるのか、っていう逆説的な問いがあるけれど、そんなことを思う。ただし、この時間が正直最も眠かった。

〈Violin Phase〉
ドゥ・ケースマイケル一人で踊る、ワンピースに戻る。
今度は腕を横に、体に巻き付けるようにする、その繰り返し。
最初に微かに動きの見える程度だったのが最後にはまぶしいばかりになった照明の効果も手伝ってか、一番ドラマチック、気に入った。
三角形の図に組んだ平均台を正確に、しかも息もつかせずスタスタ渡る、そんな感じ。
後半になるにつれて、課した条件の隙間をすり抜けて激しく強く踊る、スカートのドレープが激しく乱れる。
徹底して禁欲的な条件の下でズレ・ブレをみせること、これがやりたいのだきっと。
ミニマルという法は、その網の目からすり抜けるエモーションを垣間見せるために、用いられている。
そう考えると、
ドゥ・ケースマイケルの女性的少女趣味というような衣裳や振付の余韻は、「法という父に従いながらも
どこかで反抗の機会を伺っている娘」という連想をぼくのなかに引き起こすのだった。

〈Clapping Music〉
この作品も、フレーズの静止の瞬間に独特の間を生みだそうとするもの。
膝を曲げつま先立ちして「ピッ」と止まるところが印象的。反復のリズム感、を感じる。

−−−

《Raj PacketU》
幕からはみ出した舞台部分にウサギが、柵に囲まれ、開演前から舞台にいる。
10匹ほどいるうちのほとんどが身を寄せ合って固まりになっている、弱々しい体。
後半にでてくる山羊や牛も含めた動物たちとダンスがどうからむのか。ただ結果は期待ほど面白いものではなかった。

キバツな諸々のイメージ、またそれらが出会う摩擦を体で動いてみせること、ダンスにはそういう側面があるけれど、
そのイメージを実際に舞台上にオブジェ化して登場させる。こういう方法は勅使川原の「美術家」の側面を強く感じさせる。
そこにあるだけで何かがスパークするはずという期待があるとすれば、それはかなり厳しい。
舞台というスリリングであり得る場が、勅使川原の「空想の美術館」を見せられただけ、
すべてがスティルライフ(静物=死物)でしかない。
もしこの状況に生の力を吹き込むものがあるとすればダンスのはずだが、このダンスがいけなかった。
すくなくとも勅使川原以外のダンサーに見るものは乏しい。その貧しさがますます空間を死の空間にする。
結局「偶然」を呼び込む余地がどこにもないのだ。すべてが勅使川原の手の中に囲い込まれている。
繋がれた牛、柵の中のウサギ、振りを覚え込んだ老人、それは異物でありながらハプニングの対象ではない。

本人の踊りは、気持ちを強く引きつけるところがある、ケムリの運動のようなどこに行きつこうとするのでもない、
だからこそあらゆるところが動き続けているダンス。奇妙なイメージも身体に練り込んで踊ってしまう異常さ。
ただそれも、共に舞台にいる山羊と絡む/絡まれることはなかった。



1208(Sun)

東京日仏学院にて、イズー「涎と永遠についての概論」(1951)を見た。

これは《モーリス・ルメートルとレトリスム》という企画の一環で上映された映画(本邦初)。
「レトリスム(le Lettrisme)」とは、「1950年代にフランス・パリで誕生し、その後50年以上
にわたって世界中の様々な芸術運動に影響をもたらした前衛的芸術運動」(チラシの解
説より)だという。シュルレアリスムを父にするような運動で、映画以外にも絵画やダ
ンスの作品まであるそうな。確かに様々な芸術運動に影響をもたらしたらしく、例えば映画では、ロメールが
この映画の批評を書き、後年自分の批評文の中でも重要な一作と見なしている
という。またこの映画のなかで「son」と「image」という言葉がパッとフラッシュのように
連続してあらわれたのを象徴とするように、ゴダールの「ソンイマージュ」という方法は、
彼らの影響を受けたと推定できるそうである(以上A情報)。

二時間ほどのこの映画(「涎と永遠〜」)、第一部と第二部に分かれていて、
一部は、シネクラブでの議論という体裁をとったレトリスムの宣言(アジテーション)が声で語られ、
映像はそれと一見何ら関係のない、ただ一人の青年がパリの町中をぶらぶら歩くというだけ
(第二部は、第一部の原理を受けて、音声では複数の登場人物のあられる、欲望と自由の物語が語られる)。
宣言で語られるのは、まさにこのような映像と音声との関係であり、
映像がもはや物語に支配されない、物語が映像の補助を必要としない、
両者が分離したような映画を産み出すこと。それは一言で「シネ・ディスクレパン」と称される。
あるいは、
「言葉のために映像を破壊すること」「直接フィルムを攻撃する」「写真のサディズム」「君たちの眼に害を与える映画を作りたい」
こんな主張が繰り返しなされる。そこで、直にフィルムにペンで落書きをしたり、上下を逆さまにしたうえでさらに逆回しをするというような
映像への陵辱を施してゆく。

興味深かったのは、二時間のあいだほとんど全編に渡って、バリのケチャのようなリズミカルな奇声がリピートされていたこと。
直截そうと分かるようにではないのだけれど、非理性や狂気を表現しようとする際
「バリ」がこう参照されるのだと思い、ちょっと面白かった。これが通奏低音のように流れ続けることで、
前衛映画特有の退屈さにリズムが生まれ、ノリが出来、気づくと二時間過ぎていた。

でも、案外映像の試みとしてはラディカルでなかった。それは、結局彼らが映画を陵辱の対象
として愛していたとはいえ、本当の意味で信頼していなかったからかも知れない。

今週末にも上映が予定されているそう。イズー作品の他、企画タイトルにも名のある
ルメートル作品も上映される。お勧めです。



1207(Sat)

《石井漠没後四十年記念 舞踊道》(@草月ホール)

「舞踊の真髄は、舞踊者から云えば動かぬ算段である。水が波を立てる。
あれは水が動きたくて波を立てるのではない。どうかして動くまい、波を立て
まいとするけれども、風が来て余儀なく動き、波を立てるのである。そこに何
等の無理がない。だから波のよせて返すのは半日見ていても決して飽きない。
踊のコツもここにある。コツが悟れれば、人に見せて飽かれぬ舞踊が生まれる。」
(「『動き』と『ことば』」『舞踊ざんまい』所載、右文社、昭和22年、114頁)

「あの動きの中には嘘が含まれていないこと、動く必要のある場合のみ動
いていること、遊びではないこと、そして最後に、他人を喜ばせる様に動い
ているのではないためだと思う。」(同上、115頁)


ロビーに置かれていた幾つもの石井漠の著作から、目に付いたものをメモした。
このような言葉を見ると、石井が舞踊にむけてかなり真摯な思索を傾けていたことが分かる。
作用(水の波立ち)は反作用(動くまいとする水)なしにはあり得ない。このような動きの理由をめぐる考察は、
いまではある程度どのダンサーにも自明の思考ではあるだろうが、日本の舞踊の黎明期にこのような
言葉が語られていたのだと思うと、たとえ彼の振付がシンプルなものであっても、それを単に素朴なものとして
片づけてハイ終わりというわけにはいかない気がしてくる。

ドビュッシーやシューマンあるいは山田耕筰のピアノ曲に合わせて踊る
(それ以外には、「無音楽舞踊」と呼ばれる打楽器伴奏のみの舞踊もあった)。
今回は、デュオやトリオが多かったが遺された作品の比率としてもそうだという。
ただし、若松美黄の話によると当時の印象としては群舞のイメージが強かったらしい。
基本的には、音楽のリズム的な要素に振りをあてることで動きが構成される。
「ズンチャッ、ズンチャチャ」とくれば、手は「ズン」で振り上げられ「チャッ」で一回「チャチャ」で二回振り下ろされる
(〈ゴリウォークのケークウォーク〉の冒頭)、というような。

単純と言えば単純で、分節の度合いが少なく、パーツはそう多くはない。
だから「お遊戯」みたいじゃん、と言って言えなくもないのだが、案外見応えがあるのが不思議なところ。

その理由の一つは、単純なだけに解釈によって面白くもつまらなくもなるというところがあるようだ。
〈怖がらせる〉(おじさんと少女がでてきて、おじさんが少女を「わっ!」と驚かせるというだけ(?)の作品)の、
少女がおじさんと横に進むところで、腕が真横に伸びて歩くたびに「ふわっ」とさせるが、そういう動きの余地に
何をどう盛り込むか、そう見ると単純なだけに案外デリケートな踊りに思えた。

また一つに、先の特徴よりはより石井オリジナルな要素と言うべきだろう、「力強さ」がある。
〈西風のみたもの〉と言う作品は群舞で、青い衣裳を着た女達が登場するのだが、
「風」で連想する滑らかなさわやかなイメージよりも、
腕を前に延ばし力を入れて「くっ」と曲げた姿勢などに象徴的な「力強さ」が印象的だった。
それは間違いなく石井に一貫した特徴だと言えるだろう、例えば、〈囚われたる人〉で自ら見せる、縛られた腕を解こうとして
力を入れる動作にも、そんな力の表現は見られた。

シンプルさと力強さは、当時(1920-30年頃)の時代精神の反映とも言えるかも知れない。
未来派やロシア構成主義などに見られる幾何学的な線の力強さ、あるいは機械化する世界のパワフルさ、
例えばそんな時代潮流の反映として石井漠作品を見ることは可能だろう
(「機械」に関して言えば、まさに〈機械は生きている〉という作品が今回上演された)。

恐らく、山田耕筰がらみで、音楽のリズム要素を積極的にダンス化する石井の方法
(このためには「舞踊詩」というワードを解析することになるのだろうか)とさらに
そこに見られる時代精神などを丁寧に論じれば、何か興味深いことが見えてくるのではないか!と思った(誰かやらないかな)。



1206(Fri)

不意に今日、
《リンゴ企画vol.7》(@セッションハウス)に行って来た。
面白かったのは、セッションハウスの美術系講座と連動企画と言うことなのか、
クロッキーの集団がごそっと客席を埋めていたことだった。
最初、ダンサー達が会場に入ってくると、思い思いにポーズをとる、二分間、一分間、三十秒、十秒、、、と間隔を空けてポーズを変える。
ダンサーの静止した姿をクロッキスト達はトレースしようと賢明になる。
その「カツカツカツ」と走らせる鉛筆の動きと熱心な表情が、ダンスを見に来たぼくには可笑しくてしようがない。
その姿勢には揺るぎないものがあって、集中した身体が並んでいる図は、ダンスに引けを取らない迫力。
でも、この企画黙っているだけじゃあ馬鹿みたいで自分でもやってみたくなってくる。
ダンサーの腕の線を、腰から足へと下る丸い線を、首まで続く背筋の緊張を線でなぞることは、
ダンスを見る行為に凄く似ているように思える。
そもそもデッサンの快楽って、見る行為を完成させるところにあると思う。
つまり、対象に肉薄するひとつの方法として、見たものを手の動きで模倣し紙に定着させること、それがデッサンではないか。
そうして舐めるように(触覚的に)見つめる行為(デッサン)を黙々と続けるクロッキストは、
水を得た魚のように嬉々としてダンサーの、動きを内包した身体を描き続ける、、、なんともうらやましい!

何を隠そうぼくもダンス公演を見ながらメモを取るうち、ダンサーを描いてしまうことがある、チョコチョコと一筆書き風にですが。
それで時々、もっと上手くできたらとクロッキー教室に通いたいと
結構まじめに考えたりもする。だからこそなおさら、嫉妬と憧れを感じてしまったのだ。

出演者は、
上村なおか
奥田純子
NORIZ
林貞之
康本雅子

上村をはじめて見た。
即興の人だと聞いていたが、今回10分程即興的な踊りを見せた。
激しい動きも柔らかい動きも奇妙な動きも、美しいシュガーコーティングで包んでしまう。
あるムーヴメントの結びには一定のスローモーションがいつも置かれる、例えばそういうところ。
この美しさは、踊りの最中で一際光る外見上の美しさと相まって彼女の魅力の一部ではあるだろうが、
それらすべてを逆に彼女の問題点と見ることも出来るだろう。
何か独特のスタンスを感じる、
音楽で言えば、「鬼束ちひろ」とか「矢井田瞳」とか、シンガーソングライターのような印象をもつ、「等身大」というか。
こういうダンスもありと思いつつ、ダンスの快楽としては「パンク」の方が好きだなと思う。これは個人の趣味のレベルなのだろうか、否か。

後は、それぞれの人がやはり10分ほどの小品を続けて、最後の康本の時に全員が出演し踊って終わった。
公演の質としては、ダンサー達が一日で企画して仲間うちに見せた「忘年会芸」と言ったところか、
そういうわけで、特筆することはこれ以上特にない。



1201(Sun)

『ことばと音楽でダンスする 「オイリュトミーの時間(とき)」』(@関内、神奈川県民ホール)
《山崎広太 新カンパニー旗揚げ公演 Kota Yamazaki hug-hug Co.》(@天王洲、スフィアメックス)
を見てきた。


「オイリュトミー」なるものをはじめて見た。
あまり整理がついていないのだけれど、メモ代わりに書き留めておく。
言葉や音楽に動機づけられて踊る。それだけだったら普通のダンスと変わらないじゃん!ってことになるが、
1.言葉であればすべての母音と子音に一定の動きのフォルムが与えられていること、
2.音楽であればそれぞれの単音、和声などにやはり一定の動きのフォルムが与えられていること、
が明確な違いになっている。
そしてもうひとつこのオイリュトミーの方法には独特の目的があって、それは笠井によれば、
生命の形を捉えること、なのだそうだ。
要するに目指すは、言語や音楽を媒介にして生命を感じるダンス。

ならば、言葉も音楽も「生命を感じる」ためのツールに過ぎないはず、でも、方法としてかなり厳密に体系化した諸フォルムに従いながら
これをやるものだから、「生命を感じる」以前に、ただ規則を表現することに留まってしまいそうだ。講演を聞いていてそう危惧した。

そして実際、笠井の講演のあとの実演では、笠井以外の踊りは、生命の表現には見えなかった。
またオイリュトミー言語うんぬんよりも、
ある一定のゆったり滑らかな運動を途切れることなく続けることに一番労力が費やされているように見える。
かなり奇妙な古代ギリシア風(?)の薄く絞ったところのない服がつくるドレープは、
動きの流れている様子をトレースしているようで、体が示す動きの外観に寄与するパーツのようだ。
そんな装飾も含め、床に円やおそらく星形などを描いている足の動きが「生命」の端的な表現ということになるのだろう。
しかし、一定の速さで動いていることを至上命題としているようで、見ている側はそこに生命(生き生きとしたもの)を見て取るのは難しい。
シラーであれば「気取った優美」(人為的に、外見の「優美」を模倣する優美の意味)と言いそうだ。
そういえば、講演の時足の動きについては言及がなかった。これもオイリュトミー的に規定が与えられているのか、いないのか。
そう考えると、どこまでが「オイリュトミー言語」として規定されていて、どこまでが本人の生命の感じ取り方に委ねられているのか
判然としないのだ。足は自由裁量なのか、いや、
その動きは、本人に委ねられているようでいて、案外非個性的でみんな同じような動き方をしている。
またこれも、この生命を感じる際の自由裁量の問題だが、
音楽の(和声の)動きを説明するとき、デモンストレイターが音の鳴り始める前に動き出したのには驚いた。
音楽は、身体がそこから生命を感じる為の不可欠の媒介者なのか、
それとも単に自分の中の生命を感じるきっかけで、その後は自由にしてもいいということなのだろうか。

このことは、笠井の実演になると強烈で、音楽や言葉からどんどん逸脱していってしまっている(ように見える)。
まだまだ不明な点が多いのだけれど、
結局、オイリュトミー関係者の「生命」のとらえ方が、感覚的というよりもかなり観念的で(故にある一定のイメージに固定されていて)、
彼らが思っている(だろう)よりも生命を感じられない、ということが一番気がかりだった。
具体的に繊細に生命を感じることよりも「生命」についての一定のイメージに従うことに重点があるというか。
すくなくとも見ている側からはそうとしか思えない。やっている側は違うのだろうか。やってみると違うのだろうか。



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