日記バリのことダンスの経験ダンスの思考/哲学と美学/BBSAbout/Link/Top
                  
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日記
(200301)


□0130(Thu)


遊園地再生事業団#14《トーキョー・ボディ TOKYO BODY》を見た。
(@世田谷、シアタートラム)

タイトルに引きつけられて行ったわけなんだけれど、、、だって「東京」の「身体」って期待させるじゃないか。 でも2時間20分かけて宮沢さんは、「東京」の「身体」が描かれなければならないのだ!と語るばかり、 実際にそれが描かれることはなかった。
眼の見えないおじさんが、東京に観光に来て(and失踪した娘を捜して)東京中を私は触りまくったって、 言葉ではそんなこと言ってたけれども、そんなシーンなかったぞ、おじさんはしゃべってるだけだったぞ。 このおじさんは宮沢さんの分身なのだ。彼の語りが宮沢さんの意志を代弁しているというよりは、その態度そのものが。 ディテールが描写されない。それは例えば、ビデオの映像を役者が舞台上でなぞるところなんかもそう。 ボーリングの映像をまんまなぞる役者たちはしかし顔の表情まではなぞっていない。あるいは、 なぞるということにかまけて、映像の人々のもっている自然な動きのグルーブまでは汲み取っていない。 その辺りは、「いや、だってダンスじゃなく演劇なんですから」と言われそうだけれども、その場合の「演劇」ってものが舞台を見ている限り なんとも「既製品」的で、冒険的あるいは反省的ではないのだ。実は一番驚いたのはその点。
「ボディ」とはそうなると「裸体」のこと?あるいは性的なカラダ?男女ともやたら脱ぐシーンが多いので。もしそうだとしても、そのディテールが見たいのだ。「ヘルス」の小部屋での会話はテレビで見たことありそなやりとりでいいのか、「客」と「娼婦」が「先生」と「生徒」でもあるというそのそれぞれの関係のあわい、それが呼吸として会話の間としてあらわれてこなきゃつまらない。そのディテールに触れた時に、「ボディ」の感触が見る側に伝わるはずなのに。せりふとして「リアル」という言葉は出てくるのだけれど、それは「リアルじゃなきゃね」という批評的発言でしかなく、「こうでしょでしょ」と動いて描く線としてはあらわれてこないのだった。



□0129(Wed)


北村成美・手塚夏子《余計なこと2003》を見た。(@麻布、ダンスがみたい!)

「私的解剖実験3.1」
今日は目が印象的だった。冒頭、北村と並んでスクリーン上に立つ手塚の「顔踊り」で、ステップを踏んだ後スルリと床に弧を描く脚の爪先のように、手塚の両眼がくるりくるっとダンスしたのが鮮烈だったからか。焦点を合わせた目ならば、何をどのように見ているのかが推測できる。でもそんな意味の発生を避けるように、焦点をぼかした目は、ただダンスする体の一部となって体の、その他あらゆる部分に等しい価値に収まることになる。そのような方法は、見る側の身体にまで及んでくる。手塚の体に反応してぼくの体も勝手にピクピクする。体が水の沸騰のようにあちこちで勝手に小爆発をしてる。最後にゆっくりと暗転する間、この虚ろなまなざしはあらゆる「意味」から離れた死体のようにさらされた。力無く半端な高さに上げられたままの両腕やこの虚ろな瞳は、文楽人形のような、マネキンのような不吉さを湛えて闇に消え去る。

「おさかな天国」
手塚暗転後、黒いワンピースを着た北村が中央に。両手に握ったマジックを前に持ち上げて後ろに向かう。後ろの壁に両手をぐるぐると回して円を描いたと思ったら一瞬しゃがみ込んでくるっと真顔でこっちに振り向く。気がつけば壁には二本の花が。さらに横にずれて魚を描く。その後手塚もあらわれるが、彼女の線は意味をもたない。壁を背にして片腕で体の周囲にマジックを走らす。腕と体の関係で出来る線の流れ。抽象画の手塚に対して具象画の北村という感じ。「つなぎ」として面白い趣向。

「ラベンダー」
手塚のとは異なり、北村の目は、濃厚に意味を発生させて、観客を挑発するような、挑発するようにして遊ばれようとしているような、観客とのばっちりな掛け合いを誘発しようとする。挑発したかと思うとでんぐり返ししてお尻をオモテにする北村のダンスは、歓待のダンス。それでいて、最後のしっとりとしたピアノ曲に静かに揺れる姿で、ラベンダーの名を借りた孤独なはかない女のダンスをみせたりもする。北村は自分の女という性(さが)を告白するだけじゃなく、それによってちょっと恥ずかしくて愛くるしいダンスというものの性をみせてくれているように思う。ダンスの素顔はちょっと恥ずかしい、人前でノってみせるなんて、ノってる人を見て楽しむなんて。でも憎めない奴でもあるダンス、愛くるしくてちょっと恥ずかしいそのムズムズする中間で、北村はこっちを見つめながらこっちとの距離をダンスで埋める、ダンスで離れる。このスタンスがきちんと設定されているからこそ、理屈っぽいしかめ面なしで、観客はこの北村ワールドに向かい合えるのだ。

この晩の公演がよかったのは、帰り道、麻布の大通り、前を歩く二人組が手塚のダンス、北村のダンスを真似して遊んでいたことで実証された。ダンスはそうやって伝染するもの。二人のダンスは麻布の街なかにまで広がっていったのだった。



□0126(Sun)


金曜日(24日)に笠井叡《いとしいジャンポール》を見た。感想後日。
(@麻布、ダンスがみたい!)

土曜日(25日)はユーロスペースにてロメール特集3本立て。
《クレールの膝》
《獅子座》
《愛の昼下がり》
約6時間(2:40−8:30)座り通しで、三本目の終わりには腰を上げると立ちくらみがして通路を歩く足が千鳥足状態。でもロメールの面白さ、奥行きの広さはかなり分かった!
ところでユーロスペースってところは、座席の作り方が最悪で、前に背の高いひと、髪の毛がとんがっているひと、背筋の伸びたひとが坐ると1/3くらいスクリーンがカットされてしまう。それで二本目からは最前列で見たのだけれど、三本目のとき予告編が終わり本編が始まる瞬間、「おらっ、そこのでかいのあたまひっこめろっ、ひっこめろってんだよ、おまえだよ!」と言う怒声をあげる輩が。問題はユーロにあるとしても、ホントにシネフィルってのは人間性を欠いてるよなあと思って不快になるやいなや、「ひひっ、わたし?ひひっ、これ以上ちっちゃくできないのっ、」と返事するオネエ声。かわいそうに、背の高いオカマさんがシネフィルのターゲットになっていたんですね。その返事にひるむどころか、「じゃあお前、くび横にしろ、もっとだよお、おらもっとよこにずらせ!」と続けるシネ。「はああっ!」と泣き声のような返事が応える。さてこの声の主はその後2時間ほど、ずっとくびを横に傾けたまま硬直していたのだろうか、、、南無阿弥陀。

今日はJanisにてCDを借りる。clammbon 《id》が秀逸。声高に好きだと語る人に今まで会ったことないけれど、もしいつかクラムボン好きですって人に会ったらよいひとだと思おう。ジャケもかっこよい。小池アミイゴなるイラストレーターの手による。



□0122(Wed)

Abe "M"ariaの《Abe"M"ARIA'S 「Abe"M"LIVE!」----CUT UP THE DANCE----》を見た(@麻布die pratze、ダンスがみたい!)。

Abeを見ている時、ただ見ているのではなく見ることを通して触覚的に感じている。そのことを強く意識するのは、Abeが客席に乱入し、自分のすぐそばで暴れている時だ。近くにいるAbeがイヤなのは何をされるか分からなくて怖いからではなく、近すぎて見てしまうからだ。見ていることを意識させられて、触覚的に没頭して見ることができないのがイヤなのだ。ちょっと離れてまた暴れはじめると、視覚は再び触覚的に感覚し出し、Abeの動きに連動する。目を通してぼくの体はAbeの「散る」「砕かれる」「裂ける」「振り切れる」体になる。一時間弱の公演で、ほとんどAbeのテンションは落ちることがなかった。その興奮の一方で「長い」と感じてしまうのは、ぼくがAbeの公演を見ていたのではなくて感じていた(感じるという仕方でぼくもAbeとともにダンスしていた)証拠だ。ぼくの体がAbeの持続し続ける衝動に耐えきれなかったのだ。
GASKANK&落合敏行の「音」は、爆音のビートとディストーションの砂粒が嵐になって体内を振動し、音圧の妙な快楽が広がるのだが、決してピークに達することなくクールな姿勢を保ち続けた。このクールネスとAbeの散らばる体は緊張ある関係を一度も崩すことがなかった。
最後暗転すると、舞台奥の窓の向こうにオレンジ色に輝く夜光灯だけが光っていた。それは夕暮れのように、ある時の終わりとともに別の時間が始まる予感を残す見事な借景になっていた。


□0119(Sun)


昨日に引き続きラボに足を運ぶ。横浜駅に着くと雨がかなり勢いよく降っていた。それでも会場に行く前に、頭にフードを被せて、昨日も食べた立ち食いそばの店に寄る。相鉄線入り口付近にカウンターだけのそば屋があって、昨日はあまり期待せずに天ぷらそばを食べたのだけれど、これがたいそう美味かった。それで今日も同じものをいただく。そばは問題なくいいし、それに何よりもつゆが美味い、また天ぷらがつゆと合っていい味出している。次の日に思い出してよだれが出るレベル。狭いのに人がどんどんやってきて、片手にどんぶりを持ちながら急いで食べる、それがまたいい。横浜に行くささやかな楽しみができた。


1.IMY/泣き虫
男二人、それぞれ自己紹介をし始める。このスロースタート、やな予感。次にだらだらと「なんかいいことあった?」などと会話がはじまる。その合間合間にダンスらしき動作がはさまれる。何を見せたいのか、何がしたいのかわからない。不可解なまま二人は突然「ア゛ー」と叫びだしたり、ニヤニヤしながら盆踊りのようなまたレスリングのようなことをする。作品云々ではなく、こんなわけのわからないものを人に見せてしまう態度に出来事として驚いてしまう。ネットの掲示板とか日記のようだ。ネットの反省を経ていない言葉の垂れ流しにもはや慣れつつあるけれど、舞台でそれを表象してしまうのは驚きだ。あるいは横浜駅前の路上で売っている自称アーティストのイラストのようでもある。自己満足に処置なし。

2.初期型/ワキのニオイをワキガという
ひとつの規則に徹底的にこだわる。その意味で「ミニマル」な作品。しかしこの規則がくせもの。わきの下に手を置いてわきを閉めると「プッ」と音が出る。この動作をひたすら真顔でするだけ。この「プッ」を四人がひたすらくりかえす。もうたまらなくおかしい。「腸がねじれる」とはこのこと。「プッ」って音がおかしいってそれだけじゃない(と思いたい)。例えば、メガネの男(ウエノマサヒロ?)の背筋が「ピッ」と伸びてて決まっている、だからこそ「プッ」に「腸」が反応してしまう。あるいはリズムとか「間」がいい。そう思いたい。でも、この作品のゴールは「笑い」なのだろうか。「笑わせること」がこの作品の目的なのだろうか。あるいはこんな問いが浮かんでしまう。笑いはダンスなのだろうか。この作品をわざわざ「ダンス」として見る必要はないかもしれない、でも「ラボ」という場で見ている以上、これが「ダンス」として成立しているのか、と考えてみたくなる。まだまったく答えらしきものはない。

3.金魚×10/空気の底、身体の色
上半身裸の男二人がレスリングのように肩をあわせている。その二人にちょっかいを出す赤いTシャツ姿の少年。ダンスする二人の「真剣さ」をおちょくる少年は、ダンスする「恥ずかしさ」への批評精神のようにも思えるし、ただ入り込んでしまったダンス空間でルールを知らずに遊ぶガキのようにも見える。ただしこういうセンスを自分たちがどこまで自覚しているのか、この場面以外には目立つものはなく、結局、旅の恥は掻き捨て的にあばれているのを身の置き所なく見せられたと言う感じ。

4.武田信吾/
ダンスというよりは漫談。ならばそういう場でやればいい。泣くほど笑ったけれども、シュールな笑いをダンスの場でやって受けた、ということ。

5.山賀ざくろ/えんがちょ
4.などで散々笑ったので、もう山賀を「笑い」の括りで捉える必要を感じなかった。それがよかったのか、今日の「えんがちょ」は今までぼくが見たなかでベストだった。「アイーン」で伸びたからだがスッと弛緩する瞬間の決まっているところがダンス。情けない男の心情や記憶や望みが振り付けとして出来上がっている、作品の完成度としては今回の「ラボ」のなかで傑出していた。今回でこの作品の上限を見せてもらえた気がしたので、新作が見たくなった。早く作ってほしい。



□0118(Sat)


 ラボ20#14の(キュレーター山下残)一日目(18:30)を見に行ってきた。
 山下残のチョイスによるものなのだろうか、それとも若手のある種の傾向と取るべきなのだろうか。今日の四人の女性たち(滝本あきとはちょっと異なるのだが)、共通して自分の日常の些細なアイテムがきっかけとなって作品を生み出そうとしていた。それは印象的だったし、イイナと思った。だからこそ、同時にやはり共通してその日常へのまなざしがダンスへと昇華されていないことは残念だった。


1.オトギノマキコ
前半の最初のほうに、四つんばいになってやや痙攣した身体は、ちょっと期待させるところがあった。時折見せる、やたらと長い腕の間接が外れたような不気味な動きも、この人の身体のオリジナリティを予感させた。でもそんな踊りへと繋がってゆくような動きの始まりがぞんざいに捨てられ、次へ次へと進んでいってしまう。バケツに「ミルキー」を入れてあらわれ、床に撒き散らす。本物のイチゴを何個も落として手で握り締め、足の指で潰す。溢れる赤い汁に口が反応してしまう、またてらてらと光るその汁にも独特のなまめかしさがある、外しているような気はしない、でもそれがなかなか転がっていかない。しゃれなのかまじなのか。その両者をあいまいなままでも縫い合わせる役を果たしうるダンスがなんとも不確か。途中からこの人のむき出しになった脳の中をのぞいているような気がして恐ろしくなる。そこからは作品の質というよりは、作品という現象についてつらつら考えてしまった。

2.滝本あきと
横向きに立ち、後ろの腕を背中から前に回して前の腕に絡ませる。自分のなかのもう一人の自分、予期せぬ他者としての自分、というコンセプトが受け取れる。基本的に、ゆっくりとした動きでそのコンセプトにスリルがない。時間的というよりは空間的、ダンスというよりは彫刻的な考え方に傾いているように思えて、この作品がダンスである必要を感じない。

3.竹部育美
スニーカーと帽子、音の出るおもちゃたち、まな板と包丁とたまねぎ。これらのまったく日常的なアイテムとともに戯れる作品。着ているものもルックスもごくフツーの「女の子」といういでたち。以前の日記にも書いたのだけれど、「裏原宿のスニーカーを踊る」なんていうダンスを見たいと思っているぼくなので、こういうアイテムには期待させられた(でも「裏原宿」って言葉ももうみずみずしくなくなっているなあ!)。ただこれらのものたちとダンスとは結局絡むことがなかった、と言うべきだろう。自分のお気に入りのスニーカーを「履く」、その感触とうれしさが単に自分に感じられるんじゃなくて外側へと広がっていく動きへと転化してゆく、そんなことが起きたらよかった。そこで初めてスニーカーを踊るということになるだろう。内側の感覚を外側へ表現として翻訳できるか、ここにダンスなのかただのじたばたなのかの分かれ目があるのだろう。難しい、でもそれができなきゃ作品として鑑賞するにたるものにはならない。ダンスとアイテムをコーディネートすること、それはファッションに似ているかも。ピーコは、ファッションチェックのときに全身の映る鏡を見なさいと言うが、同じことを考えた。他者と言う鏡を持たなきゃ作品にはならない。他者を観客をどこまで作品のなかに設定しているのかは必ず間違いなく作品に反映されてしまうのだ。

4.塩澤典子
ロック(こう書くと広範すぎでまた陳腐なのだが、パンクと言うのともまた違う)を部屋で聞いて、一人勝手に踊っている踊りを観客の前に持ち込んだ作品?だとしたら、ちょっと期待してしまう。でも完全に観客無視で自分の「ノリ」に没頭しているわけではなく、軽く足がステップを踏んでいたり、はじけ切らない。髪の毛をずっと三つ編みにしたり、体に鼻を擦り付けて嗅ぐしぐさは、自閉的でありつつ、そういう自分を享受しきれない辛さの表象としてうつる。ここにも鏡がないんだよな。本当にこの人はこう見られたいのかな、アイデアと表現とが自分の望むようにきちんとコーディネートされているのかな。内向きの感情をダンスにすることはまったく問題ないと思うのだけれど、内向きの感情を内向きにダンスすることはダンス向きではない。それは「ダンス」という場の特殊性としていえると思う。



□0117(Fri)

情報を。
大内田圭彌という監督による《風の景色》と言うタイトルの土方巽出演作品が上映されます。BOX東中野にて、2/8から。その前に2/2(19:00)には、この作品と《疱瘡譚》とがペアで、2/16(19:00)には《疱瘡譚》が単独で上映されます。前にも書いたように、《疱瘡譚》はオリジナルの土方舞踏を知ることのできる重要な作品なので、要チェックです。



□0115(Wed)

小林嵯峨《フンイチキ》を見た(@神楽坂die pratze、ダンスがみたい!)。

三部構成でなかなかの大作。中央に病院のベッド、点滴の時のような袋が吊られている。脇にはタライ。舞台奥の出入り口に白いネグリジェのような服がさがる。黒いストッキングにヒールを履き、ワンピース姿で登場した小林は体中に水を入れたビニールをつり下げて、ゆっくりとベッドに寝そべる。

第一部では、まずベッドの上でバルテュスの少女のようなしどけない姿で足をひろげたり、妖しげなポーズをとる。頬にはガムテープが貼られていて、それが顔のゆがみをつくり、ヒステリックな人物像を形作る役をなしている。ベッドからでて、しばらくするとキューバ音楽がかかりだし、そのリズムが乗り移ったように動き出す。動きがぎこちないのはゴム管で繋がれた水ビニールが揺れるせい。何かじゃまだなと思ったら、それを振り回したりした後で、指をつっこんでビニールを引きちぎりだした。「ピューッ」とこぼれる液体が、一種の解放感をもたらす。だらしなくでも重力の力でいきよいよく次々と漏れ出す水。水の質感。それを踊るのではなく、それと踊る、そこに「ブトー」の影を見つけようとするぼくから逃れて、小林はどこまでもブトー(の方法)に対して慎重に距離を置こうとする。タライの水に動物のような吼え声をたて、濡れた髪を振り上げ、タライに座り込んだ後、何とも形容の出来ない間の抜けた素早さでタライを飛び出し先ほどこぼした水溜まりに滑り込むその、なんとも鈍い感触、それこそが小林の模索しながら触れることの出来た、独自の方法へのかすかな手触りなのではないだろうか。何かが成立するわけでも、あるいは不可能が逆説的にゆたかな瞬間を成立させるのでもない、けれども、歯がゆくも希有な感覚の残響が残る。「アウラ・ヒステリカ」作品(本作も「舞踏AURA 5」と副題がついている)が見せる精神の狂乱は、音楽が止んだ後もなお終わらない。音楽が外側にあって彼女を踊らせたのではなく、むしろ彼女の内側で鳴っていた音楽が聴こえていたのだという反転がぼくのなかに起きる。このときの変わらぬ表情で踊る彼女に印象的にこれが示されているように思えたのだ。舞台という外が彼女の内なのだ。この内側がしかしまったくの謎なのであって、ぼくは、ふと思い出したように踊り出す両の手から、病の床につく老婆の指が眠りの中にあってわずかにでもリズミカルに動いているのを見るように、彼女を動かしている得体の知れぬ何かの存在をただ得体知れぬままに感じ取るだけなのだ。

第二部、白いTシャツを着けただけの小林。暗転中に、「水のモチーフのイヤらしい感じってのは、ブトーがキャバレー・ショーやいわゆるストリップともつ関係に何か秘密があるのか、、、」と考えていた矢先。ピンクの照明といい、文学的な理屈を付けたストリップなのか、ストリップ的な要素を取り入れた文学的なダンスなのか、何とも言えない情景。「おばさん」と「少女」とが行ったり来たりしている感じが、かなり気持ち悪かった。

第三部、吊られていたネグリジェを身につけあらわれる。冒頭、ゆっくり静止に近い進み方で歩く動きに「ブトー」を感じる。そう、この人はいまでも土方的ブトーの方法を身体にしみこませているのだ。そう思ったらそれをふわっとどけて変な目つきだの変な踊りだのをし出す。それも短い時間にどんどん印象の違う人物が出てくる。多重人格的な女の踊りと言うところなのだろう、いや、でも「踊り」というには踊りになり切れていない、ブトー的にも踊っているとは言い難い。ブトーの際(きわ)を通りながら周到にそれを避けようとする苦心が伝わる。例えば、昨年八月の舞踏セミナーで、小林は土方的ブトーのことを「人を〜に返す」動きだと定義していたが、そのような「返す」動きはここにはない。あるいはどこに返すのかがまったく設定されていない動きと言ったらいいだろうか。身体の本源として「自然」や「生命」などという言葉を用意して、そこに身体を返そうなどという意図がまったくみられない。ただひたすらヒステリックな女達に「なる」段階に留まり、そこにある混沌から離れない。「なる」段階に留まる、それは土方ブトーのしかるべき展開というよりは、それに対する禁欲的な態度というべきだろう。でもそうしてさまざまなものになることで空間に喧噪を生むことを望んだ。ぼくは今回の小林のスタンスというのはこう見ることができるのではないかと考える。



□0111(Sat)


昼に佐藤ペチカ+サイトウカオリ《赤と黒の太陽003〜マルメロの実〜》を見て(@神楽坂、ダンスがみたい!4)、その後、麻布で黒沢美香&Dancers《ダンス☆ショー》を見た(@麻布、ダンスがみたい!4)。

《ダンス☆ショー》は、87年から01年までの過去の黒沢作品を、お弟子さん達とともに踊るという賑やかで、しかし「素踊り」的な「ショー」だった。「弟子」なんて言葉を使うと、怒られてしまうかも知れない。パンフ的ペーパーで黒沢は、「徒弟制度先生反対。プロ嫌い。師弟関係拒否。」といっているのだから。プロフェッショナルに見せようとするファウンデーションを嫌い、統一を目指す洗練を拒否し、お互い当然だと承認し合っている師弟関係に反対する態度は、ショーの間つねに誠実に貫かれていた。スタジオの稽古着のままのダンサー達は、気負わず気取らずしかし絶対に必要な何かを見失わないように踊る。個人差はある。黒沢のどの要素に反応しているのか、何を求めて黒沢の近くにいるのかは様々なのだろう。ひょっとしたらそれほどのことでもないかもしれない動きでも、今日の晩はなんだかとってもよく見える。それは黒沢が貫き立て上げたダンス空間のなせる技なのだろう。この空間にすべてのものは自由にダンス的に動いていた。

1.記憶とアリア(’87)
黒沢と平松み紀が並んで立つ。この並立が一貫して続く。ほぼ同じ動きを黒沢に続いて平松がなぞる。途中から〈G線上のアリア〉が流れる。右腕を肘を基点に後ろに回すとその勢いに任せて体ごと「クルッ、クルッ」と回る。腕を中心にして、脚はリズムを湛えている。

2.北京(’98)
3.クワイ河マーチ(’98)
4.スリーピーラグーン(’98)
5.回転(’98)
黒沢のモダンダンス系統の流れを強く感じさせる作品群。2.3.は曲目がタイトルになっている。曲を踊る小品。かといって「モダンダンス」ではない。リズムのウラのウラをかいてオモテになっているというような屈折が所々にあらわれる。でも楽しい。単純に楽しい。ふざけるのが上手い女の子の話を聞いているような。でもふざけているのでもない。ふざけていては決して出てこないものが満たしている。

6.死ぬほど愛して(’98)
さて今度は何?と大きくV字を描いて並んだダンサー達の次の動きを待つ。でも、いつまで経ってもまったく動かない。前の作品で最後に転がされたひとりが前に倒れている。倒れているだけ。ホントに何も動かない。音楽がなっても。向かって左端のオガワ由香の右腕が僅かに曲がる。すると静かにいつか激しく動く。ダンスの始まる瞬間を踊る作品。

7.WAVE(’85)
すっかりふっくらと元気になった黒沢のソロ。でも右足首の包帯が気になる。そのけがのせいか、マンション公演で見たような、7−8歩前進して同じ数後退する形式のかわりに、じっと根を生やしたようにその場で踊る。歩く動作は「ミニマル」な作品という印象を強く与えることになったが、その面影は残しながらも今回はより黒沢らしさを感じさせるものとなっていた。音は無いのに音楽性を感じる。その独特のリズムを突然無視するかのようにふっと横を向いたりする。目線の在処に何かが居るのだとすれば、その何かがソロの空間に混ざり豊かになっていく。魑魅魍魎と踊る。

8.飛び出す青春(’01)
10人程のダンサー達が舞台の端から端に「ピョーン」「パーン」「パーン」と飛ぶ、それだけ。でもこの作品で黒沢のことがこれまで以上に分かった気がした。「うらのうらでおもて」のような屈折の反復と言うよりは、ダンスというのは時に「楽しく」、時に「こっけい」、時に「美しく」、時に「悲しい」のだ、ということを体現しているのが黒沢の作品なのではないだろうか。

9.Sing Sing Sing(’88)


10.ララ(’98)
休憩後第一弾は、牧歌的な曲。群舞で一方向に固まって踊る、となんの前触れもなく突然に「バタッ」と一人、二人倒れていく。見事にばったり意味なく次々と倒れてはしばらくするとまたなんのきっかけもなく立ち上がりまた踊りはじめる。倒れる瞬間が間の決まる瞬間だと言うところ、それが勘所のように思える。片脚を前にパッと延ばしてドンと踏みしめるところでむしろ脱力してしまう「はずし」。こんな妙な間を全員が一斉にこなしているのを見ると、黒沢が増殖して群舞で踊っているように思えてきて恐ろしく、愉快になった。

11.月光を浴びた円周(’87)
オガワ由香のソロ。彼女が17歳の時初演。基本的にはひたすら舞台に大きな円を描くようにまわる。繰り返し一歩進んでは倒れるを繰り返すところは、10.からの流れでみることも出来るが、印象は異なり、切ないようなはかないような気分になる。黒沢の初期作品は、最近作よりも「ミニマル」の要素は強い。けれども、その形式をとることは、絶妙な瞬間を待機するために採用されているように思える。逸脱のための法。しかも本作ではそれはさらに叙情的な色彩まで誘い込むことに成功している。こんなに素晴らしい作品が、一回上演されてそのままになってしまう恐ろしさ、凄さ。ダンスというジャンルではいまだ公演を記録して将来見たい人がアクセスできるようにするという意識が希薄だ。たしかに、上演が終われば消える潔さも悪くはない。でもこのような素晴らしい過去の作品に出会ってしまうと、そこにこれまで成し遂げられていない未来を見たような気になってしまう。見ておいてよかった。

12.非常に幸福な距離は太陽の方向に疾駆する(’00)


13.ラルゴ(’96)


14.Sing(’88)



□0109(Thu)


いろいろと多忙を極めていたのだけれど、久しぶりにダンスを見に行く。VACA《一歩進んで二歩戻る》(「ダンスがみたい!4」より、@麻布die pratze)。最初、先端にライトを付けたマイクで二人が話すと、それぞれ相手のライトが光る仕掛け。いつかお互いの声がループしだし、何重にも重なって騒がしくなる。自己言及性(分析)から自己の増殖(綜合)へという意図が見えてくる。そんな「知的」な要素は受け取れるのだけれど、これがダンス的かというとそうじゃない。「まただなー」と思っていると、切断された音の狂った喧噪の中で踊る山田がだんだん面白くなってきた気がした。神経質につま先立ちしながら爪を噛むような手振りで繰り返し振り返る、そんな山田の定番的動きにこの音が共鳴し、増幅しているように思えたのだ。音の加速に体がついて行けず振り飛ばされるぎりぎりに立つ。でも後半は、ほとんど目立ったダンス的瞬間はなく、足立の独奏会のようになっていく。デバイスに熱中しすぎて演奏そのものにあまり工夫がないのでは。デバイスへの意識が消えて純粋に音の面白さが前景にあらわれてこなければいけないはず。その点、他にも例えば山田が最後に扱ったライト。大きなライトに手を触れると「ぶうううん」とうなる装置(これ、武井よしみちのパフォーマンスで見たことあるぞ)。最後のシークェンスで登場した割には、ハッとするようなアイデアが用意されているわけではない。だからデバイス先にありき、という風にどうしても思ってしまう。



□0108(Wed)


RIP SLYMEの《TOKYO CLASSIC》を聴く。
去年の夏、同時に出たSMAPを抑えてオリコン一位になったアルバム。その時期(ワールドカップ直後ということもあり、プチ・ナショナリズム(?)の熱気が残っていた)に試聴した時には、これはカッコイイ!と思っていたのだが。かるーい、ゆるーい感性は、2002年のもの。それを体現しているとは思う。他のヒップ・ホップのヒット組よりはずっとセンスがいいとも思う。でも、なんかおとなしすぎ、かるすぎ、あきらめすぎなかんじがあまりにも日本のいまを現状肯定的にトレースしていて好感が悲観にかわる。この変化には、「拉致問題」以後ということが関係しているのだろうか。
ところどころに出てくる、CDの針飛びのようなスクラッチやオフ・ビートを削り取ってしまうような音の断片化は、ギミックとして純粋に感性的にどうだこうだというより、機械に声が暴力を被る光景に見えてしまう。それはきっと余計な詮索なのだろうけれど、同時にギミックの扱いというのはそこまで考える必要があるのではないか、とも思う。例えば、テクノは単にサウンドであっただけじゃなく、思想だったのだから。

その他に《昭和レジデンス 青盤》《昭和レジデンス 赤盤》を聴く。
「ヨコスカ・マンボ」「昭和レジデンス」(青盤)
「昭和レジデンス」「若さでムンムン」「お聞き下さい皆様よ」(赤盤)
クレイジーケンバンドによる以上の曲が聴けます。平成十五年における、コンテンポラリーとしての「昭和」という不思議。



□0105(Sun)


何せ年末年始はテレビばかり見ていたわけなんだけれど、この時期のテレビで楽しみなのは、ネタをやるお笑い番組。何か一気に笑いの面白さ奥深さを勉強させられた感じだった。特にM-1はよかった。あと、元旦の午前中にフジでやってたネタ番組も。


一時期、「機知(wit, Witz)」について熱心に研究していたぼくは、笑いがとても気になる。カントは『判断力批判』のなかで、ひっそり「笑い」について語っているんだけれど、そこで出てくるのがこの機知なのだ。機知とは、通常異なると思われているものをある一点の類似性によって結びつける能力。カントがこっそりしゃべったこの能力が後の初期ロマン主義において花開く。彼らは、この結び合わせには閃光が煌めくと言っているが、笑いならば「間」が呼び寄せるもの、というところだろう。


「間」の面白いのは、オン・ビートよりはオフ・ビートが重要ってこと。表よりは裏。ありえないものが突然呼び出されてさも当然のような顔ですましている。そのズレの妙にみんなが笑う。「笑い」って言うのはそんな「裏」の共同体をこしらえ上げるところが面白い。どっかんどっかんみんなが笑うけど、全部ナンセンス。


内容でこのオフ・ビートをつくるのは古典的、例えばますだおかだやアメリカザリガニ。
でも、最近のはやりは既存の漫才の形式を崩してウラ拍を刻もうとするコンビ。筆頭は中川家。でもスピードワゴンやM-1で決勝に残った「笑い飯」もイイ。おぎやはぎは、どちらともいえない、男同士のどうでも言いような話のなかに、変に気をつかったり、突然はみだしたりする感情がたまらなくおかしい。この「間」はイマドキのリアル、身体の記憶が反応してくる。

他に目だつのはともかく動きで笑わそうとする人たち。テツandトモやキングコング。でもほとんどオン・ビートなんだよね、それはそれで笑ってしまうのだけれど。変な曲線をつくってピタッと静止する瞬間に何度見てもどうしても笑ってしまう。


お笑いは十分に知的で、また身体にくる。そこでダンスとの違いを考えたりするのだけれど、お笑いの場合は、笑わせるという到達点がはっきりあって、とりあえずそこに笑いが起きることがゴールと考えられるのかも知れないけれど、そんなゴールがお笑いより未知数のなのがダンスなのだろう。いや、笑いにもレベルがあって、例えば、松本人志の笑いには「万人受け」を拒みながら未知の彼方を目指す崇高さがある。簡単には割り切れないのか、お笑いとダンス。



□0104(Sat)


ボブサップを「気持ち悪い」と顔をしかめる女性は多い。
ひとつひとつぷっくりと膨らんだ筋肉の寄せ集まりのような彼の体に、はじめて見る人が多少なりとも何かしらの嫌悪感を感じる気持ちは、確かに頷けるところがある。「異形」という言葉さえ浮かぶ、イマドキに言えばキモイのだ。

一ヶ月ほど前にテレビでK-1を見た時に、既存の格闘家が当然もっているはずの技や構えをまったくもたずに、子供がデタラメに大人にくってかかっているような荒っぽい戦い方を見て、奇妙な面白さを感じた。すんごいデタラメさだと。しかも、K-1のグランプリに何度も優勝したことのある対戦者アーネスト・ホーストを、一発で横に吹っ飛ばし地に伏せた勝利は、格闘的エンターティンメントにほとんど興味がないぼくの眼にも「事件」に映った。技に対する力の勝利、人間に対する野獣の勝利という珍事。

この「ハプニング」は、異形の人にひとつの「格」を与えた。しかし、彼はその格闘家としての「格」をよりデタラメな方向に展開させようとするよりも、プロレス的なプレイの方向へと昇華させようしている。ある時期の彼のテレビ出演量は半端ではなかった。それは、「野獣」が実は「カワイイ」側面をもっているといういかにも日本的なテレビの方法によるものだ。このキャンペーンは、最初にもつ嫌悪感を上手いこと親しみやすさに転化する効果を発揮していた。でも、何かそこにいけすかないものを、何かしら不穏なものを感じてしまう。だから正月中は、誰かこの「ボブサップ」を正確に語ってくれないだろうか、と思っていた。ナンシー関ならどう言うだろう、とか。しかるべき人に批評して欲しかった、この現象はいったい何?

で、一人見つけました。藤原新也。まあ、いかにも彼らしいという気もするけど、少しは溜飲が下がった気分。ちょっと読んでみてください。

つまり、ボブサップにアメリカ資本主義的な肥満の身体を見つつ、またその肉体がもつテロ後のアメリカの暴力性を、また、それに対するショックアブソーバーとしての愛らしさのテレビキャンペーンを、上手く指摘しているのだ。「またテロ以後かよ!」とちょっと引くところもあるけれど、このようにデキゴトを何かの症候として、あるいは暗喩としてみるのが批評だとすれば、藤原新也、なかなかやるじゃんと思わずにはいられない。それに彼の場合、自分の身体感覚から批評しているのが伝わるので信頼が出来る。

でも、このアイドルもあっという間に消費されてしまうんだろうな。そう思うと藤原的な解釈(日本人のもつアメリカへのオブセッションとしてのボブサップ)よりも、ぼくは、すぐに「等身大」に引きずり下ろされてしまったボブサップに、無い幻想をどうにかこしらえ上げようとする現在のアメリカのみじめさをみてしまう方が強いのだ。



□0103(Fri)


なぜか強烈な吹雪の銀座に居た。そこで『composite』という雑誌を久しぶりに買ったら、色々と刺激を受けた。何よりも面白かったのは、カール・ラガーフェルドが40キロ以上のダイエットに成功して、ジーンズをはいて写っている写真。ちょっと前に、ファッション通信とかで見た、扇子をあおぎながらモデル達に囲まれていたおデブさんとは似ても似つかなかった。いまは細身の服がブームとかで、そんな服を掛ける優れたハンガーになりたかったというのがその理由とか。時代はボディコントロール、そしてスポーティー・ファッション(あくまでもモード的な)らしいッス。

で、そこに載っていた松井みどりさんのレポートが面白かったので、感想文めいたものを書いた(未完)。暇だったらと言うことで、どうぞ。



去年ドイツで行われたドクメンタ11が不評だったことは、とくに松井みどりの(『美術手帖』などによる)レポートによってもはや誰もが知るところになっている。松井によればその失敗の原因は、アンチ・エリート主義を目指して、「コンセプチュアル」で「自己言及的な抽象的形態」のもつ芸術の代わりに、現代の「グローバル化」にともなう「新しい世界認識やコミュニケーション」を積極的に取り込んだ「世俗的」な芸術をプロデュースしようとしたものの、それももはやすでに出来合いの理論に汚染されていたという事実を、キュレイター、オクイ・エンヴェゾーが十分に認識していなかった点にあるようだ。「出来合いの理論」とは、ポスト植民地主義やフェミニズムなどであり、これらの理論が芸術に及ぼす硬直化は、その理論自体が一種の(1990年代を象徴する)モードでしかなかったことを語っているのかも知れない。


「汚染」というのは不正確かも知れない。正確には、「ポスト植民地主義やフェミニズムなどの、理論に補強された(empowered)芸術にありがちな、作者が準備した結論に導くよう観客の反応を計算した予定調和的な表現の多出」されたことが、松井の考える失敗だからだ。彼女が批判するのは、理論ではなく理論武装であり、理論の作品への適用の安易さである。


ならば、この適用の安易さを回避して、作品が単に準備した結論を示す道具に陥ることなく、適切に理論と作品とが結び合う作品があれば良かったのだろうか、そうではなかったろう。理論が現代の問題を消化していることはあるだろう、いやまさしくそうでなければならない。しかしだからといって、作品のなかに現代の問題を「積極的に取り込む」ために理論は必ずしも必要ではないはずだ。むしろ理論が自ずとまとってしまう一定のモードが、この取り込みの足かせとなる場合の方が多いだろう。理論が作品制作のマニュアルになってしまうことによって、作品は容易に、具体的に拘わろうとしていたはずの現実ではなくマニュアルの方を参照し、それを鏡にするようになるだろうからだ。


モダニズムの制度性を批判的に検討したポスト・モダンの理論も硬直化して、今や、この理論ももはやそれ自身一種の制度的なふるまいを帯びはじめている。そのことに無自覚で、不用心に追従してしまう作家の態度、それこそが現代美術の退廃の大きな原因だと言うことができるだろう。


要するに、いまだに問題はモダニズムなのだということだろう。そこから自由になるには、私的なもの、個人の感覚を信じる他ないのだろうか。松井のまなざしはこの方向に向いているようだ。つまり、サム・デュラントという作家を松井が評価しているのだが、それは彼の作品に「ジャンルによって分断された情報を、個人の視点から統合することで、世界における自分の位置を測ろうとする努力が現れている」からだ。「アメリカの美術史、社会史、ロック音楽のなかから、自己の精神形成に影響を与えたものを、複合的なインスタレーションにまとめる」、そんな彼の手法は、「芸術的文脈に寄生した芸術」と断罪されることもあるという。松井は、この批判に対して、「芸術的文脈」を文化的共同体のなかで表現するための不可避の参照枠として、その枠をとおしてな
お、個人の視点からチョイスし統合する姿勢を高く評価する。


ならば、この個人の視点は、しかし本当に制度からのしかるべき脱出口になりうるのだろうか。

(ここまでで息が上がってしまった。体力不足か、、、)

*以上、『composite』(Vol.2 No.28 January 2003)に所載された、松井みどり「ドクメンタからロサンゼルスまで:現代美術の退廃と新生」を参照した。