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日記
(200302)



□0222(Sat)


八重洲ブックセンターで、
『日本の名随筆 人形』四谷シモン編、作品社、
『バレエへの招待』鈴木晶、筑摩書房、
『日本浪漫派とナショナリズム』ケヴィン・マイケル・ドーク、柏書房、
を買う、でももともとの購入予定は果たせず、上智大学で、
『西脇順三郎 W』『西脇順三郎 X』、筑摩書房を借りる。

土方巽→永田耕衣→西脇順三郎

というチェーンに導かれる。西脇は、瀧口の親分みたいな、つまりある時期までの日本のシュルレアリスム界のドンなのですな。もち名前は知っていたけれども、こんなデカい人とは、、、西洋のヴィッツの思考を古代から近世ベイコンを軸にしてシュルレアリスムまでつながる大河としてつかみとっている、うわあ。このラインまず身体化しとかなきゃいかんかった。西脇からあらためて土方へ戻る時に見える景色はいかに。



□0221(Fri)


電車で二時間、飛行機が日本一多く発着する場所の近くまで揺られる間、昨日の永田の評論文を読んでいた。昨日書き残したことに、両方の詩に出てくる「淋しき」についての永田の考察があった。永田は「永遠(淋しき)」という言い方で「淋しき」の語に「永遠」を読み込む。それは有限なものが死に触れるところにのみあらわれる不可視の眺望とそれへの情感を嗅ぎ取ったものと思われる。体調が自ずと必要な栄養を要求するように、この情感をぼくは必要としていた。振り切って下車。肝臓の悪い老婆のもとへ。


□0220(Thu)



とても忙しい。やるべきことがこれでもかとやってくる。自転車を直し、修理の間、大学で諸用を済ませ(K助手おめでとう、これからもよろしく!)、戻って直った自転車に乗って帰るとすぐに荷物を詰め込んで三田へ。慶應義塾大学アートセンター内、土方アーカイヴに原稿のチェックに。昼、雨の中コンビニの前でにくまん、あんまんをほおばる。耳にはクラムボン。
ぼくは今回の土方論文で「間腐れ」という言葉にこだわったわけだけれど、この言葉の「元ネタ」とでも言えるものがある。永田耕衣という俳人の中に。例えば彼は『物質』(昭和59年)という句集の中で、次のような句を詠んでいる。

ねじ花の腐れ間長き女体かな

ここにある「腐れ間」。このような間の腐ったことを語る永田は、ある時期足繁くアスベスト館を訪れていたという。この「腐れ間」が「間腐れ」となって土方の思考に受肉する。ああ、また面白きパンドラの箱をひらいてしまったようだ。
さらに永田の本の一冊を土方が所蔵していたことが分かり、それを見せてもらったのだが、これがめっちゃくちゃに面白いのだった!『しゃがむとまがり』と名づけられた評論文(?)。西脇順三郎の詩集『旅人かへらず』をめぐって、とくにそこに収録された二つの詩をとりあげて論じている。


渡し場に
しやがむ女の
淋しき


***

草の実の
ころがる
水たまりに
うつる
枯れ茎のまがり
淋しき人の去る


この二つの詩にあらわれる「しやがむ」と「まがり」に徹底的にこだわって、そこに金原省吾という美学者(?)の「線の美学」や、西脇の「異なった二つのものが一つのものに調和されている関係が詩である」というようなシュルレアリスムの遺伝子を受け継いだ、「らしい」思考などが参照されたりしながら議論が蛇行し続ける。
「しやがむ」「まがり」ってそれは詩によって行われた一種の「ダンス」とも受け取れ、そうであれば永田の文章はまるでダンス美学の姿を纏っているように見えてくる。たとえば、

「線は完結の中に延長し、延長は刻々に完結する。かかる働きは、生成作用である。生成作用は常に生長し、その生長の各瞬間が、そのまま生活の要求を実現している。しかも実現そのものは、更に次の不満を持ち、その実現を持っている。永久の満足と永久の不満、永久の完結と永久の未完結。」

という金原の文章を読んで永田はこう懺悔し、金原の中に見落としていた何かを思い「遺憾であった」と嘆息する、

「「しゃがむ女」は、自身「しゃがむ」線形態的姿形に「永久の満足と永久の不満」を含蓄しているのだという、この「矛盾」の直下にこそ「しゃがむ女」自体の生命的「生長作用」を見るべきなのに、それを覚知し得なかったウラメシさだ。」

これだけ切り取っただけではわかりにくいかも知れませんが、いやあオドロキの面白さであります。行為をまなざす目の運動、それが受信する情感をトレースせんとする意志!弟子になりたい!



闇に消えた夕暮れの街をてくてく、東京タワーの下で巨大なオレンジの曲線をみつめる。肝臓を患った老婆を思う、有限であることの崇高さを闇に眺める。

(高橋さん、掲示板にニブのことありがとう、この場を借りてとりいそぎ)



□0216(Sun)


BOX東中野にて、《風の景色》関連イベントを見に行く。

BOX東中野のホームページ




□0215(Sat)


ニブロール《ノート(裏)》を見た(@天王洲、スフィアメックス)。
この作品について言いたいことが沢山あるが、見た後友人と浜松町の「鳥元」で全部しゃべってしまったので、あらためてここで繰り返す気になれない。一言で言えばダメだった。
ダメな公演を見ると、「なぜダメなのか」「アートという制度の可能性と限界は?」なんて哲学してしまう。よい公演というのは、どれだけ未知の解読不能な「宇宙語」で語られたものであっても、こんな問いをすることなく目の前のシーンにどんどん巻き込まれてしまうもの。それは多分作品の中に問いだけではなく答えも用意されているからではないか、明示的な答えではなくても、何かしら共有できる答えがほの見えるものなのだ。簡単に言えば劇場にすべての人が参与できる「空間」ができるはずなわけだ。友人は最近、町田康の「きれぎれ」、黒沢清「カリスマ」を見た後で、今日と合わせて自分の中で「わけわかんないもの三部作」だったらしい。このチェーン、妙にはまっている気がする。
二人でもりあがったのは、「ディテールが命だ」という話。暴力は「戦争」でも「宇宙人」でも「いじめ」でも「精神病」でもなく、ただ満員電車で乗り合わせてしまった酔っぱらいの挙動に怯える日常のなかにあるのではないか。今日のニブロールは暴力が「ネタ」に見えてしまった。困った時に手癖で切り抜けようとするあざとさがあった。厳しすぎるだろうか。でもぼくがニブロールの公演に足繁く通うのは、そこに「ディテールへの意志」を感じるからなのだ。矢内原という人が世界に生きて世界を見ている強烈な目線を感じるからなのだ。去年の夏、JADEのセミナーで質問されると矢内原は、「要するに」と意見をまとめることを拒否し(あるいはそれが出来ずに)、ひたすら昨日あったことなどをしゃべり続けていた。電気屋に行って、連絡を受けてないのに修理を頼んだビデオデッキを勝手に取りに来て店員を困らせている少しヤバイおじさんを見た話とか、、、そんなことを思うにつけ、もっともっとデキゴトの、行為の、言葉のディテールを、襞をまさぐる公演が見たかったと嘆息せずにはいられないのだ。もし異論のある人がいたらどうぞ自由に掲示板にでも書いてください。



□0214(Fri)


ワタリウム美術館に《ヘンリー・ダーガー展 『非現実の王国で』》を見に行った。
もう10年くらい前になるだろうか、『芸術新潮』だったか『別冊太陽』だったかがいわゆる「アウトサイダー・アーティスト」を紹介する特集を組んだことがあって、それを読んで以来こころのどこかで気になり続けていたこのダーガー。1万5千枚に及ぶ長編小説『非現実の王国で』の挿絵として描かれた300枚の絵の一部が展示されているのだけれど、誰かにみせるために描かれたのではない、ただ自分の欲求の実現のために描かれた作品は、しかし想像していた以上の完成度だった。晴れた空の下で少女軍団とおじさん軍団が戦う、少女は追いかけられ首を絞められ、ときに内臓を切り出され腕がもぎ取られる。その光景を見つめる雲の描写がすばらしい。学芸員の解説によれば、ダーガーは気象に猛烈な興味をもっていて、日々の天気をノートに付けつづけたのだという。爆発の描写、馬の疾駆の描写、剣を突き上げる、そこから逃れようとして走る描写、この人のスピードの描写(の欲望)はなかなかすさまじい。ひとり小さな密室で線を引く、その運動に随伴する気持ちの声が、「ビューン」とか「シューッ」とつぶやく声が聞こえてきそうだ。

ワタリウム美術館

その後、脚の悪い老婆のようにてくてくとゆーっくり青山から表参道まで歩き、ナディフへ。そこでは三宅信太郎によるイベントをやっていた。小学生くらいの女の子が描いた落書きのような彼の絵は最近よく見かけるが、ダーガーの没入度に比べれば、どうしても「あざとい」感じがしてしまう。本気でこれ描きたかったのかな。現代美術史における自分のポジションとか意識してない?とか意地悪なことききたくなる。イベントが始まる前に外に出た。出てすぐ向かいのフランス料理店でグルメな猫がないているのをしばらく眺める。

三宅信太郎のホームページ

ナディフで以前から欲しかったマックス・エルンストの『百頭女』(河出文庫)を買った。「文学による絵画であり、絵画による文学である」この本の緒言は、ブルトンが書いていて、そこにある「デペイズマン」の説明がどうもブルトンによるデペイズマンの最良の定義らしい。そこでブルトンは、次のように言っている。

「超現実はそのうえ、あらゆるものの完全なデペイズマン、つまり環境変化に対する私たちの意志に応じているだろう(そしていうまでもないことだが、ついにはひとつの手を腕から切りはなして別の環境に置くことだってできるのだし、その手はそれによって手としての利を得ることになる…)」(14頁)

これ読んですぐに思い浮かぶのは川端康成のこと。彼の短編小説、「片腕」は、次のようにはじまる。

「「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」と娘は言った。そして右腕を肩からはずすと、それを左手に持って私の膝においた。
「ありがとう。」と私は膝を見た。娘の右腕のあたたかさが膝に伝わった。」(109頁)

ある男がある娘の片腕を自分のと取り替えて一晩過ごすというこの奇妙でその上強烈にエロティックな話を、ひょっとして川端は先のブルトンの言葉を頼りに発案したのでは、、、そんな推測が湧いてくる。確かに、新潮文庫(『眠れる美女』所載)の解説で、三島由紀夫はこの小説を「超現実的な夢想」と呼んでいるし。(この三島の解説がこれまた秀逸。とはいえ脱線に脱線を重ねることになるので、後日機会があればその話書きます)

ぼけっと『百頭女』読みながらギネスビールでお茶して、再びてくてくと青プクへ。そこで友人Jにばったり会ったのには驚いた。



□0213(Thu)


咳がきえない。朝は咳が止まらなくて涙目で目を覚ます。ぜんそく持ちの子供みたいだ。子供の頃、「病弱」に憧れる健康優良児だったぼくにとって新鮮な感覚。発作のように肺の奥からむせかえる体は、ぼくの意識とは別に、勝手に生きている。こうやって病気になってみると普段は気づかないことに気づく。体はまさにモビルスーツなのだ、自分の中の他者、なのだ。「おもしれえっ」と思いながら肺の暴走に涙腺が反応するのを眺める。

さっき(夜9時頃)、ある出版社から連絡が来まして、昨年秋に研究会(演劇理論研究会)で発表などをした土方巽論がめでたく入選したとのことでした。具体的なことは後日あらためて発表します。研究会のみなさん、また色々と助言してくださったみなさん、どうもありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。
4月出版の号(5月号)に掲載されると言うことなので、これからブラッシュ・アップしたり、校正や図版の手配など色々忙しくなりそう、、、今日の昼間は、シラーの優美論を雑誌投稿に向けて書き直したりしていた、その矢先のこと(これで今年上半期に三本の論文が世に出ることになる!かな?ほんとに?無理かも!)。しかも今月末に引っ越しを考えているのだ。まさに「ひっちゃかめっちゃか」状態になりそう。カゼひいている場合じゃない!でも体は「スト」決め込んでいる、どうしよう!




□0209(Sun)


トップページの印象からぼくの専門を文化人類学なのかと思う人もいるかも知れませんが、一応「美学」となっております。最近さぼりがちなのですが。
さぼっててまたカゼを言い訳にしたりして、でもそんなんじゃいけないなあと一念発起、色々な作業をはじめているのだけれど、その最中でスゴイもの発見してしまった。

The Analysis of Beauty


これ、イギリスの風俗画家として有名なホガースの唯一の著作『美の分析』のウェッブテクストなのだ。といっても「しーん」「何?」かもしれないが、それは仕方ない。翻訳もないし、いまのところ18世紀の美学に興味ある人だけのおもちゃといった存在なのは事実。でも、この人の「蛇状曲線」論は、ダンスの分野のみならず(というかもっぱら)美術分野の人々にとっては無視できない、マニエリスムからアールヌーヴォーに至る線の美学の核となる重要な考察だったりする。こういうページが出来たりすると、「そうかホガースルネッサンスが来るかも」と勝手に思ってしまうのは、一種の過剰な「ファン心理」みたいなものかも知れないけれど、これを期に読者が増え、また批評、研究が進んでくれるのを望むことは許されよう。貴兄諸氏、お時間があったらちょっと読んでみてください。なにせめっちゃクールな、それでいて快楽にあくまで忠実なカッコイイ哲学なのです。


□0208(Sat)


黒田育世《SHOKU》、矢内原美邦《コーヒー》を見た。
(@横浜、ランドマークホール、横浜ダンスコレクション2003、〈「ヨコハマプラットフォーム」ナショナル協議員賞受賞者〉公演として)

《コーヒー》
横浜ダンスコレクションversionと括弧で付されたこの公演の事情は、新作の上演間近ということも相まって、積極的なリニューアルヴァージョンを立ち上げるまでの力を与えなかったということはあったのかもしれない。ともあれ最初のカップルのシーンがカットされその代わりにコーヒーカップが冒頭からあらわれ、また、プーさんのカップを床に落とす少女の映像が最初から使われるというやり方は、この作品のエッセンスを伝えやすいものにした。去年の今頃初演された時には、ぼくの周りの人々が三つくらい「?」マークを頭の上に付けていた。その彼らがこのヴァージョンでこの作品をはじめて見たならば、よかれあしかれよりキャッチーなものとして受け容れることが出来ただろう。3分ごとに曲が入れ替わるCDのように、印象的なシークェンスが繋がってゆく。そんなこと考えてゆくと、今回の《コーヒー》について、ダンスそのものよりはこの作品を見る環境を思わずにはいられない。今回の公演の状況(去年のコンペ受賞者のお披露目企画)はそもそも《コーヒー》作品の性格とまったくそぐわない。自分の中でそのズレが不快だった。作品中、くるりの曲が使われるけれど、例えばくるりのリスナーがくるりをただ好きなように、ニブロールがただ好きなファンというものがいたらいいし、そんな人々のなかでこの作品は見ていたいと思ってしまうのだ。今回は今まで以上に音楽の良さを感じた。ニブロールには是非ビデオを出してもらいたい。部屋でなら行儀よく坐っている必要ないし、一緒に踊ったり、映像と音響に触発されて自分勝手な踊りをしたっていいんだから。

《SHOKU》
昨年末、森下で見た時と構成上また振付上大きな変化はないはずなのに、印象はまったくと言ってよいくらい違っていた。あのときに消極的に映ったものがオセロの石が白黒反転するようにどんどん積極的に見えてくる。全体をきっちりと覆う黒の背景のせいか、今日は赤のワンピースと白の下着に統一感が保たれている。もやもやかりかりむらむらいらいら、どこへも行き着けない感情のよどみを抑えるように下腹部を押さえる手。いつか下着の下にまで手は向かうが、果たされない目的にいらつく動きは変わらない。「もやもや」感が、ときに激しいヘッドバンキングや足踏みと絡まり、行方なき強さを表象する。女であることのとまどいといらだち、いつまでも括弧がとれない、問いの消えない(女)の体のダンス。わけの分からない、身勝手な、うむをいわせない体に対するいらだち、今日はそれがストレートに伝わる、あくまでも作品として。赤いスカートから脱皮するように(女)の体があらわれ、横に並ぶ相手と手をつなぐ、確認するように触れる、不可解なものを恐れる雛のように。体の所々を照らした懐中電灯を残して暗転。



その後、Aとアジア雑貨の店をひやかし、バスで中華街へ。帰り道、横浜の古い建物の間を歩く、しとしとと雨が降る。



□0207(Fri)

山田せつ子《キザハシデオドル vol.6》を見た。
(@麻布、ダンスがみたい!4)

最近、山田せつ子を見る時にどうしても笠井叡のことを考えてしまう。ブトーを「土方系」と「大野系」と大別するならば、大野−笠井ラインに山田は位置するに違いない。ぼくはこのライン(系)を、「ブトー・オプティミズム」と戯れに名付けている。恩寵を信じる踊り、踊れば恩寵があらわれると信じる踊り。この信じる強度とわけの分からない説得力が大野にも笠井にも共通に感じる「凄さ」なのだが、山田は彼らの凄みのある信仰の態度に対して懸命に距離を保ちつつ、またそうしながらその態度を強く信じようとしているように見える。弟子は反省しながらなおも接近しようとする(のか)。あるいは、接近したいのにそれでも反省することから逃げられない。立ちあらわれてくる線は決して明瞭ではないし、輪郭はあわいままなのだが、それをなぞることに快楽がないのではない。この人のストイシズムは、薄い鉛筆で試みられた線描画を思わせる、銀座の画廊におかれた一枚の絵。空間に漂う糸くずを見つけて指でよってみるような仕草が印象に残る。ものと踊る枇杷系のダンスは、山田によってはないはずのものの突如の出現として踊られる。受信すること、受信したと信じること、受信したものとの関わりをなぞってゆくこと。
後半に黒いスカートを胸の上で留めた姿は、「チマチョゴリ」を直観させたが、その連想で散らされたベビーパウダーの白が厳冬の朝鮮半島を思わせたというのは、安易に過ぎるだろうか。さらに続くのは、ピンクの照明にアラピアン(?)な手の腰の踊り。どこがゴールというのではない線の連なり、尽きないメッセージ。



□0206(Thu)

サルバドール・ダリ『ミレー《晩鐘》の悲劇的神話  「パラノイア的=批判的」解釈』(鈴木雅雄訳、人文書院)
L.ビンスワンガー『思い上がり、ひねくれ、わざとらしさ』(宮本忠雄、関忠盛訳、みすず書房)
などを買った。



□0205(Wed)


今回のカゼはしぶとい。毎日症状が変わる。今日は「ハナ」。
《黄泉がえり》を見に行く(塩田明彦)。予告編で期待してしまったが、多方向からの圧力がかかった結果、何がやりたかったんだかわけ分からなくなってしまった感じ。「塩田」作品とは言い難い。でも最後の最後に「高校生と騙って喫茶店でアルバイトする女子中学生」がずっとフォローされて、彼女の言葉に救われたと主人公のモノローグが入るところは、譲らなかったんだろうな。はあ。早く黒沢の新作を見に行かなきゃ。
冨田恵一(Tomita Lab)《Shipbuilding》を買う。キリンジのプロデューサーとして知名度の上がった人。一曲毎ヴォーカリストを招いて、本人は一曲だけ歌っている。一曲目にユーミンが唄っているのがこの盤の意味合いを決定的なものにしている。といってもどの曲もイイッス。南義孝とかの曲がCMで使われ、子供のぼくを身の丈かまわず切ない思いにさせたあの頃(70年代末)のエッセンスが、なぜ2003年に最新型の精巧なエンジンに切り替えられ蘇ったりするのだろう。こういうアルバムを聴くと、ポップスというものが、過激なディストーションを加えられつつも案外単純な思考を伴奏しているだけのヒップホップやテクノやパンクよりも、遙かにデリケートにそれ故に緻密に、強力なエネルギーを蓄えていることに感動してしまう。



□0203(Mon)

風邪をひいてしまった。劇場と言うところはカゼ菌の格好の繁殖地なのだろう。公演を見ているうちにぐんぐん調子が悪化することが二回ほどあったが、今回見事に流行にのってしまった。田舎の家から5分くらいのところに県立病院があり、軽い気持ちで行ってみたら、最終的に薬をもらうまでに2時間30分かかった!!マジで健康でなければ病院なんて行けない。診察までに1時間以上待って実際の診察は1分。それで診察代が薬代の約2倍なのだから、、、



□0201
(Sat)


昼に小田急線の柿生というところに生まれて初めて行った。夜に、AGUA GALA《崩壊する新建築》を見た。
(@麻布、ダンスがみたい!)
舞台中央に敷かれた鉄板に、ダンサーは腕に抱えた鉄板を叩きつける。その神経に直で触れてくる鉄と鉄との強烈な音、それがこのグループの質感を端的に語るものだと思った。あるいは大きなストロボをもって舞台を横切ってゆくダンサーは、見る者の網膜に光の斑点を残してゆく。感情や意味のあらわれる隙間を完全に塞いでしまおうとする意志、それを無機的な意志とでもいおうか。もしそのように「無機的」という形容詞を与えた場合、さて、このグループの身体動作はどう理解すればよいのだろう。身体は基本的に丸い、柔らかい、美しい、生命を感じさせる、つまり有機的な存在だろう。そしてそのことは彼らとて例外ではない。この有機性を身体から放逐するには、相当の覚悟で身体をコントロールしデザインしなければならない。最近少数精鋭になった解体社はそのひとつの希有な例と言えるだろう。ぼくはこの公演で、無機的な要素とこの有機的な要素がアンバランスなまま共存していることが気になった。