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日記
(200303)

20 室伏鴻《即興三夜 第一夜》/21 室伏鴻《即興三夜 第二夜》/22 《ノイズ&ファンク》・丹野賢一《PUNK EXECUTION 002-BARB》/26 アカルイミライpart1/27 現代美学研究会(上智)/28 アカルイミライpart2・コイズミアヤ/30 GEISAI3

□0330(Sun)


友人の日本舞踊の発表会を見てから、夕方、パシフィコ横浜で行われていた「GEISAI-3 by サバイバー」に足を運ぶ。
カイカイキキホームページ
文化祭のバンド会場に行くと、ヘタクソなコピーバンドを続けてみせられたりした。なんかそんな感じがした。なかなかイイナ、と思わせる者もいるので、「イカ天」と言ってもいいかも。村上、奈良は当然のことながら、会田誠、タカノ綾、できやよい、などのコピーがこれでもかと並んでいる。コピーのスゴイのは、そうすることでいつのまにかスタイルのようなものが生まれてしまっているということだ。反復が個人の不確かな表現を歴史化する。もう「アート」キャラ祭りの様相。こんなにまねっこしてて恥ずかしくないのか、と思いきや、考えてみれば銀座の画廊に飾られた絵だってほっとんどが「なんちゃって〜」なんだよね。アートの拡大再生産は、アートの歴史をどんどん生産する(これもアートなんだって言う烙印をどんどん押してゆく)。でもそれがアートの消費者を拡大再生産させる力をもつかどうかは疑問。はっきりいって観客は少なかった。当日1500円は、平均的な展覧会の入場料の二倍だ。その価値があるかどうか。色々な付加価値を付けることでなんとかもたそうとしている感じ(ナマ浅野忠信が拝めたり、奈良くんが隣で喋っているのを聞けたり、鉄拳のショーが見られたり、、、)が、やや「イタイ」感じがした。これら総体としての村上現象を確認した、ということ。



□0328(Fri)


最近、四五日まえから毎朝悪い夢で目が覚める。二回見たのは、夜な夜な強盗が家に侵入してくる夢。猛烈に不安な気持ちで目が覚める。戦争のせいか、個人的なことなのか。
映画《アカルイミライ》の主人公は夢で未来を見るのだという。しばらく見なくなって突然ふたたび現れた夢は、どこかの砂漠か森で突風に曝されながら歩くというものだった。主人公の彼にとってそれが「ミライ」だったとして、ぼくの不安な夢も「ミライ」を指し示すものなのだろうか。もちろん黒沢の新作は「革命」の映画なので、不安な暗い夢こそ、現実の仮象的世界をぶち破る予感としてむしろ積極的に据え置かれているのではある。あんまり夢が怖いので目を覚ましたらまだ5:30。早起きして、はじめて家の近所をジョグした。丘の上まで駆け上がると雪の残るどこかの山脈が見えた。

土曜以降の上映はレイトショーらしいです。こんなページがありまっせ。 予告編が見られます。

あとついでなので、最近、コイズミアヤの新作展をギャラリー椿(京橋)にて見てきました。
ギャラリー椿のコイズミアヤのページ 空間へのセンスがともかく素晴らしい。必見です。



□0327(Thu)


久しぶりに上智の研究会。広島に赴任した「前部長」も遊びに来てくれて、静かに盛り上がった。「若者」の発表に刺激される。



□0326(Wed)


最近買った二冊の本、
『待つしかない、か。  二十一世紀身体と哲学』(木田元・竹内敏晴、春風社)
『劇団解体社』(鴻英良+清水信臣、劇団解体社)
には、どちらも対談で、身体をめぐる議論を展開している最近の本、という以外にも興味深い共通点がある。つまり戦争が身体論の基点になっている、どちらも。ってことを整理してみると色々と面白そう、なのだが、体力不足。時間がある時そんなこと、書いてみようと思う(いまのところ思う「だけ」)。

黒沢清《アカルイミライ》を見る。素晴らしい。塩田が「女の子」に頼るダメな男の映画(そう言うことを前提に「女の映画」といってもいいかな)に対して、黒沢の新作は「女」を必要としない生粋の「男の映画」。素晴らしい。「革命」とか「希望」というアナーキーな言葉が、異様なくらい2003年の今に輝く。
ってわけで、山崎広太をとばしてしまった。



□0322(Sat)


今日は強行軍、三本立て。
《ノイズ&ファンク》(@赤坂、ACTシアター、マチネ)
タップと言えば黒人のもの、それは分かっていたけど、実際に見るのはフレッド・アステアとかハリウッド・ミュージカル映画のタップ。アステア好きだけれど、彼ら白人(=ハリウッドスタイル)のタップをいわば「ライト」と見なして一蹴しながら、自分たちをいわば「ヘヴィー」「クール」あるいは「ルーツ」と考えるセヴィアン・グローバー(振付家、ダンサー)のアティテュード、スタイル、タップそのものを全面的に支持したい!いやいや簡単なこと、やられた!惚れた!打ちのめされた!のであります。
脚で床を叩く、そのリズムの分割具合が想像を遙かに凌駕する細かさ。リズムの間にどんどん切り込み、どんどん狭い空間に入り込み、細部の細部へと飛び込み続ける。最初、タップの音は別録りで踊りにあわせてただ流しているのかと思ってしまった。だってそんな風にしか考えらんなかったんスよ。単純に信じられない、こんな「連打」「連打」「連打」が、目の前の二本足の人間によって鳴らされていることが!超人的、デジタル的。ヒップホップとテクノの出会いが、タップっつージャンルのなかでどんどんくり返されジッコーされていたのか、、、すっげ。そして知らなかったぼくに無知の涙!
サッカーというか、空間の狭さを喜びとする点ではフットサルや路地裏サッカーに近い、空間性、リズムを感じる。徹底的にビートに奉仕する脚が次のチャンスに向けて切り込もうとする、その脚の上で「次=未来」を予感し、身構えつつも積極的に脚の冒険に乗っていこうとする上半身に、たまらないスリルを感じる。バランスを崩しかける腰に可能な限りのサポートを試みながらしかも優美な魅力も忘れない、女性ダンサーの長く柔らかい腕。サイコー。「ダンスへの尊敬の念と愛情こそ人生の理解を深めることに気付いた」という彼女(ドーメシア・サンブリー・エドワーズ)の言葉、素晴らしい。「自由」とか「平和」という言葉は、こういう場所で使いたい。ストイックで冷酷なまでに真摯な、決して「意味」に安住しない、ただダンスだけに賭ける、そんな場で、のみ。 da beat!

放心状態で赤坂の坂をとぼとぼ下り、漫画喫茶で時間つぶし、岡崎京子『リバース・エッジ』を読む。

丹野賢一《PUNK EXECUTION 002-BARB》を見た(@西荻、WENZ STUDIO)。
丹野のすごいのは、よりかからないところだろう。「ダンス」は当然のことながら、「ブトー」にも「演劇」にも「パフォーマンス」にも「パンク」にもよりかからない。何にもよりかからず、では何をやるかというとき、「丹野賢一」をやる、ということだけが残る。丹野賢一は唯一「丹野賢一」をやる。だから、見ている間、「表現主義」という言葉がチラついた。形式をなるべく排除する代わりに丹野は「丹野」をやる、それは「表現主義」などという言葉と接触するのか否か、、、否か。あとぼくにとって丹野スタイルというのがあって、それは行為の手前でやや短いポーズを用意する、というところだ。そこに強い自意識を感じる。これが気になる、良かれ悪しかれ、この自意識が時間化される、ぼくはそれを見る。「苦手」といって切って捨てられない切実さを感じる。

その後、疲労困憊雨も降るなか、
《風の景色》(主演 土方巽、監督 大内田圭彌)を見に(@BOX東中野、レイトショー)。
夜の町中を徘徊する着流し姿の土方巽、それを追う手ぶれカメラ。白桃房のブトー・ライクな「くしゃ顔」と痙攣歩き。監督の勝手な「ブトーとはこれなり!」という困ったちゃんな誤解から生まれた困ったちゃん作品。土方は動画作家に恵まれなかった。本人が作品の映像化を望まなかったということもあるかもしれないが(で、その消極さが災いしたということでもあるのだろうが)、映像の土方は、実像からほど遠い、容易に誤解を生む存在でしかない、ほんと残念なことなのだけれど(ただ、小川伸介の作品で踊った姿はそれほどでも(悪く)なかったことを、付け加えておきたい)。ってわけで、「もう、やめてー、みないで〜」(声:横井弁護士)。



□0321(Fri)

室伏鴻《アスベストファイナル公演 即興三夜》の第二夜を見た。

舞台上に打楽器類が所狭しと並べられている。今日はYAS-KAZとの共演。今日は真鍮板が二枚。
後半の後半、YAS-KAZグループのオンステージになってしまうまでの時間は、室伏がどう土方にひかれ、巻き込まれ、距離をとりながらも決して無視することが出来ない存在であるのかを語る、一種の「ドキュメンタリー」のようだった。途中、真鍮板に正座して話すところなんて、いつもの室伏流「ボヤキ」しゃべりとは違う、本当に「ただしゃべる」みたいになっていた。「真鍮板は粉だ」「《肉体の叛乱》の真鍮板が光るのをみて、舞踏を志した」「土方は真鍮板にこだわった、そのわけは戦後のバラックの世界のなかで、真鍮板の輝きに魅了されたから、、、」「真鍮板はimitation gold」「《肉体の叛乱》は真鍮板に模造男根をつけた土方が絡んだ」正確ではないけれど、室伏はこのような言葉をしばらくぽつぽつ語りつづけた。実際に《肉体の叛乱》で使用したという真鍮板を揺すり、蹴り飛ばし、持ち上げ旋回し、また板の下になって押しつぶされながら、室伏にとって土方とはこのメタリックに光る、時にこちらを見返す鏡のようにもなり、またさらに乱反射する真鍮板のことなのだと痛感する。室伏の体に必ずと言ってよいほど塗られる銀色の粉は、「メタリックの土方」に対する反作用なのだと見ることが出来るのかも知れない。彼岸の日、男が男に話しかける。その時間に、YAS-KAZのドラムは甘い感傷を挟み込む隙を与えずクールにあおり立てた。



□0320(Thu)−2


室伏鴻《アスベストファイナル公演 即興三夜》(@目黒、アスベスト館)の第一夜を見てきた。

室伏による土方=アスベスト館へのオマージュ、舞台中央に真鍮版が横たわる。顔に白いレースを巻き付けてスーツ姿に帽子の室伏があらわれる。真鍮版の周りをめぐると端のスツールに腰を下ろす。不意に強烈な痙攣が腕に脚に腰に起こり、震動する線に見る側の眼が震える。フツー強張れば、硬くなったからだはただ一方向に固まってしまう。それが室伏の場合、凝集ではなく拡散の方向にからだが向かう。腕が鎌のような形に手首を強張らせている間に、脚は脚で勝手にやや柔らかい動きで斜めに伸びる。同時に首が傾ぐ、もう一方の腕も何かが乗り移ったように別の意識からひとり暴走する。ダンスがスリルをもつのは、例えばこんな時だ。バリのレゴンダンスで、少女の五体がバラバラの複数の意識にコントロールされているように見える時、感じるゾクッとするスリル。しかし室伏にかかると、レゴンがもつ「美」のような防護壁さえ取り外されてしまう。その自由がさらに危険と暴力を解放する、そんな予感が期待を孕む。
ただし、今夜の室伏、後半にかけてこの自由を振り回すには至らなかった、というべきかもしれない。真鍮版、これは明らかに《土方巽と日本人−−肉体の叛乱》へのオマージュだ。途中真鍮版を担いで「危ない」と思わせるほどぐるぐる回転する姿は、72年に《四季のための二十七晩》でひとつの形に結実する「後期の土方舞踏」とは違う、大胆で男性的な60年代の、つまり「前期の土方舞踏」を彷彿させた。けれど、どこか考えあぐねている。オマージュというものの受け身的性格がそうさせるのだろうか。室伏にとっても、「土方」という像は巨大すぎるのか。横たわる真鍮版の下に手を突っ込んで、さらに角を口にくわえたまま背中をぐぐっと丸めて真鍮をたわませた瞬間は凄かった。くわえた口に広がっているかも知れない真鍮の鈍い味がこちらの口にも転移する。横の壁にバツーンと板を叩きつけた時も空間の大胆な暴力に圧倒された。こんないい瞬間もあったのだが、、、

それにしても観客が少ないのには驚いた。ブトーを志す若手が日本にいったい何人いるのか分からないが、一番見るべき舞踏手をなぜ見に来ないのだろうか。宣伝の少なさもあるのかも知れないが、アスベスト館という場所にもはや何らの求心力もないと言うこともあるのかも知れない。ともかく、この春あと二回も素(即興)の室伏を見ることが出来る、この喜びを享受せねば、皆々様!


いわゆる「戦争」がはじまった。昼にテレビをつけると地対空放射の映像。国連の無力。しばらく脱力。カントの、理念に基づく「定言命法」と個別的実際的な「判断」との距離を思う。判断論が問われているような気がする。



□0320(Thu)


約一ヶ月ぶりに日記を更新します。
この一ヶ月、個人的に色々なことがありました。普通の日記というものは非常に個人的な経験を、その時の心情も交えて書くものだろうけれども、ネット上の日記というものは個人の重要な事柄であればあるほど書けないのです、ね。書けることを少し記しておくと、、、
引っ越しをした(2/27)。一人(いや+A、あと後半に学部の学生が手伝ってくれた)でレンタカーを借り、都心から隣県へ。部屋はかなり埃が溜まっていて、用意した段ボール十二個では積み上がった本はまったく収まらず、どんどんビニールで巻いて、それらを六階から何度も往復して下ろした。また、カーナビの使い方が分からなくて、一時間くらい都心をぐるぐる回ってしまった(すごく細い道も選んでくるから、「嘘!こんなとこ曲がらないよね」と通りすぎると「コースを外れました」との声、、、これを20回くらいこなした!)。だが最大の問題は、ADSLの引っ越しに手間取ったこと。結局10日かかった。その間ネットどころかメールを読むことが出来ず、危うく重要な用件を無視しそうになった。10日かかるなんて犯罪的行為だよ、NTTさん、その他子会社さん。

ダンスは、
2/26に、モノクローム・サーカス《float》☆
3/1Nibroll《ノート》★★
3/3,4には黒沢美香《桃の園》(シアターX)★★★★
を見た。正直モノ〜には参った。ぼくの嫌いな「9.11」ネタである。表現の倫理というものは、(単に)表現のなかに倫理的な問題を盛り込むことではなく、表現というものがある種の越権、侵犯を犯し、暴力と化すこともあるのだということを自覚することではないだろうか。見ているうちに「表象の限界」「表象の不可能性」という言葉が浮かぶ。もう「サバルタン・スタディーズ」以後だと思っていたのだけれども。誰に見せたいのか、少なくとも「9.11」の被害者が見て喜ぶだろうか。表現というものの無邪気な残酷さを感じた。あと、手塚夏子、アベマリアの公演をキャンセル。残念だったけれど、表現より大事なモノが実人生にはある。で、今日は室伏、明日は丹野賢一から復活。

またこの間、基本的には講義の準備をしていた。「美学特殊研究」「美学美術史概論」という専門科目と「美学A」という教養科目。「美学特殊研究」では、ダンス美学をやります。いずれ授業計画表や講義の要旨などコーナーをつくってアップしていきたいと考えてます。