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200305



(200304)

05 ドゥルーズ『批評と臨床』/06 ゲルマニックな身体のリアル。/11 ローラン・プティ/12 『ぼくんち』/13 キリンジ・キャッチャーイン・ザ・ライ・手塚治虫/18 キリンジ/19 自然=アウトサイダーアーティスト/22 塾・『青の炎』/23 船越桂/24 ダンス美学・パンク・プロセニアムアーチ/25 永田耕衣『二句勘弁』/27 平山和子・永田耕衣/30 ドレミノテレビ
 *ダンスは
赤字


0430(Wed)


「みなさーん、きょうはいっぱいまねましたねー。
これからもあたらしいおともだちをいっぱいまねてみましょうー」(ううあ)

フト、テレビをつけると超生き生きした子供の集団とお姉さん(+おねえ声のけったいなパーカッショニスト)の姿が。彼らは次々にひとりひとりの踊りをまねっこしていく。うわーあ、なんだこれすんげえ踊ってるじゃん、全員が無邪気に体を遊んでいるぞう。どどどういうわけ?そもそもこれは何?
すると今度はUAお姉さん(ホームページでは「陽気な歌のお姉さん」「ううあ」と呼ばれている!)がこれまたけったいな衣裳で登場し、隣のにいやん(山口とも、通称「ともとも」)とまねっこ遊びをはじめる。そんで出てきたのが冒頭の一言。その後、UAが「ひらいたひらいた」(童謡)をうたう。
これ、『ドレミノテレビ』と言う番組。こんなにグルーヴィーな身体が見られる場所はそうない(なんて言うと大げさでしょうか、いや)のでは。エンドロールには「振付 珍しいキノコ舞踊団」の文字。そうですかそうですか。なんか「ウゴウゴルーガ」以来の衝撃です、ええ。しかしあれはCG中心、これは人間の体を遊ぶのがメイン。
今年度の教育テレビは、マジカッコイイ。イタ語のアシスタント土屋アンナの、ジロラモもたじろぐマイペース・傍若無人振りに「やられ」ていた矢先。そういえばちょっと前の朝にも、「のむらまんさい」が子供たちと一緒に「波(どーどーどどーどどどーどどどう)」を踊っていた、し。グレイト。

ドレミノテレビのホームページ

放送時間は、
月曜(げつよう) 午前(ごぜん)9:00〜9:15
水曜(すいよう) 午前(ごぜん)9:30〜9:45
で、ぼくがみた「まねる」の回は、もう一回、5/7に放送されるそうです。

先日、BBSに書き込むのは辞退したいというシャイな友人から、次のような感想(土方論への)をいただいた。
「土方巽がどうでもいいってことをはっきりさせておくことが大事なのではないでしょうか」。
「どうでもいい」ってこともないんですけれど、ぼくにとって大事なのはその踊りが「踊っている(ダンシーである)」ということであり、それに自分が巻き込まれていること、その状態を見失うことなくこの踊りのダンシーはいかなるロジックに基づいているのか?などと考えること、なのです、まず第一に。だからやや乱暴に言うと、土方巽も「ドレミノアソビに挑戦する子供たち」もぼくには同じ土俵にあがった、ともにただの踊っている人なのです。その意味ではレジェンドとしての「土方巽」はさし当たり脇に置いておきたいとは思っています、よ。この場を借りて、感想、ども。

今後も、感想・意見・批判などなどお待ちしております。



0429(Tue)


夕方、恵比寿→代官山→中目黒と散歩コース。
代官山で、Mr. Friendlyというキャラクターショップ&カフェで、キャラクターの形をした小さなホットケーキを食べながら、若者を眺める。
中目黒では、川沿いの古本屋にはまる(牛がトレードマーク)。
ゼードルマイヤー『中心の喪失』美術出版社。
菅谷規矩雄ほか『われわれにとって自然とはなにか』社会思想社。
を買う。
その後、やはり川沿いの沖縄料理をだすカフェでしばし食事。



0427(Sun)


3月に他界した恩師のもとに本を届けると、逆に、沢山のおみやげをいただいてしまった。こういうときってほんとにどうしていいか分からなくなる。
そのなかに、平山和子という絵本の挿絵で有名(らしい)な作家の、枯葉を書いたポストカードがあった。御夫人によると、これを故人の知人などに送る礼状にするという。
もともとぼくはかなりの「枯葉好き」だ。枯れはじめてもなおあざやかな赤、黄の色は、生命の燃え尽きた後僅かに残っている体温のようにみえる。カサカサという音も好きだ。ばりばりと千切れて別の生命の養分になるその前の、まだ自分の輪郭を主張しようとする枯葉。その絵を描き続ける作家、と、その絵に惚れてその絵によって夫の死に形を与えようとする人、なんとじわっとすてきな悲しい(悲しくもすてきな)話だろう。
大学生くらいの頃だろうか、ぼくの「おきに」の画家にアンドリュー・ワイエスがいた。ワイエスの繊細な枯れ草一本一本を描いた絵を、飽かずに眺める時間が大好きだった。こういう行為は思想的に(アートワールド的に)名付けることが難しい。だから、こういうことを人に口にすることもあまりない。でも、堪らなく好きで、特に精神が弱っている時などは、こういう「場所」につい救いを求めてしまう。そういうくせはあまり変わっていないようだ。
人間は割り切れなさを抱える時、どうにかそれを理屈で整理しようとするよりも、割り切れなさを徹底的に認める方に向かうことがある。御夫人は、美しい庭に先日ツツジが狂い咲きしたのだと教えてくださった。そんな偶然に、いま巡り合わせた出来事の理不尽を重ね合わせる。そうすることでしか生きられない、そういうことがある。自然のディテールに目を凝らしていく。そこにある偶然をもてあそぶ、その偶然から今日を生きる。
永田耕衣の眼差しは、いつも、自然と人間の生とのスリリングなあわいに向けられていて、カッコイイ。俳句という最小限の言葉による表現は、僅かな言葉を可能な限り猛り狂わせようとする、かなり過激な方法なのだろうか、永田の句論を読んでいると、俳句というものが一曲1分30秒で燃やし尽くそうとする「パンク」に似ているように思えてくる。ふしぎだー。



0425(Fri)


永田耕衣『二句勘弁』(「弁」はもっと難しい字を使う)永田書房を神保町で買った。
句論。素晴らしい。

じっくり舐めるように読んで読んで宇宙を感じる石ころのような語・句を転がしてみる、そんな汲めども尽くせぬ豊かな味わい、がある。興味深いのは、タイトルからも伺われる通り、二つの俳句を並置してみることによって、そこにスパークする何かを発見しようとする(シュルレアルな?)企みだ。瞬時に気に入った二句。

「恋猫の尾にまつわれる虚空かな」高原義純
「恋猫の恋する猫で押し通す」永田耕衣

前者を永田はこう論じている、

「恋猫のピンと立てた尻尾、地に長く延べ敷いた尻尾、クルリと宙に廻しもする尻尾、その一々には虚空がまつわりついているというのであろう。いな、虚空の手中に在って、自在生命の真剣な遊びをみちびかれている風情が、一句の風情であろう。」(13)

この辺りは本書の中で特に「虚空」を論じるくだりにあたるのだが、冒頭で永田は、「東洋的精神の極致は虚空の思想ではあるまいか。極致というのは、三昧境といってもよく、恍惚境ともいってよいが、その境の地盤は無執着の遊戯(ゆげ)ぶりにあろう」(12)と説いている。「虚空」という「無執着」の「極致」にあって、自在にまた真剣に生きるその「遊戯ぶり」、それが春の「にゃわあーん」となく「恋猫」の生の中でうたわれる。恋に没頭する没頭振りは、むしろ「無執着」なまでにある生の運動のなかを走っているのだろう。だから、後者の自句を永田はこう評するのだ、

「[この句の如きも]生身に虚空のまつわりついている所業であって、必ずしも種族保存意識の小乗には堕ちえぬ虚空のふるまいと見てよい。人間のナマ半可な目には、ひたすら執着と見えようが、そうではなく虚空的所業が押し通す風情とみなければならぬ。」(13)

「押し通す」という言葉でもって永田の句は、生の、あるいはもはや「虚空」という言葉でしか指示できないある「はじまりの力」(?)の強引なまでの腕力「振り」を、読むものに空想させる。簡単に言えば「春の力」とでもいいましょうか、恋猫を笑えてもそれが「恋する」ことには逆らえない、その真剣な振る舞いには。そんな、そんな春です。確かに、はい。
永田氏の文章はそんな言葉の一語一語が持つ力、可能性を無限に感じさせてくれてうれしくなる。俳句なんて世界知りませんでしたが、ちょっとはまりそうです。



0424(Thu)


大学では、「美学特殊研究」という授業の中で、内容としては「ダンス美学」を講義(?)している。

「ダンス美学」という言葉は恐らくない、少なくとも「ダンス」を「美学」という学問の土俵にのせて議論すると言うことは日本では行われていない、だろう。世界においても、スパーショットと僕くらいだろう、なんてね(『芸術としての身体』という論集があるが、あれは一時期流行していた言語(or分析)哲学の方法を持ってダンスを語ろうとするもので、確かに哲学的ではあるが、美学の歴史の厚みをひもときながらダンスを扱うと言った体裁にはなっていない、尊大に言えば僕のやろうとしていることはまさにこれ)。『美術手帖』のプロフィールには、この「ダンス美学」という言葉を思い切って使ってみたのだが、そこには上記の理由の他に、「舞踊」という言葉を避ける、と言う意図もあった(つまり「舞踊美学」という言葉はあやしいながら存在しています)。「舞踊」という言葉は、ダンスを学問として捉えるために作られた造語で、「日本舞踊」はまあいいとしても、普段は使わない何か堅い学術用語という感じがある。しかもこの言葉は、普通「アートとしてのダンス」にしか用いられない(「バレエ」とか「モダンダンス」とかにしかね)。僕は「アート」として地位を固めたダンスほど「ダンシー」ではない傾向がある、という風に考えているので、僕の研究にとって「舞踊」(という言葉)は、扱いたい「ダンス」という領域のうちの、ごく狭いどちらかと言えばダサイ分野のものなのだ。広くダンスを捉えて、そのなかから「ダンシー」のロジックを開いてみる、それがぼくの「ダンス美学」。なんです。
そこでぼくはダンスを一言、こういう風に定義してみました。

ダンスとは制度の中にありながらなお自由に見える動きの美である。

どうですかね。これだけでは解りにくいでしょうか、ね。近代=アートという制度、この中にダンスは閉じこめられながら、その不自由を自由に転化させようとする。ダンスは逃走と構築、逸脱と再編という二つの相反する方向に引き裂かれそうになりながら、両者の力の均衡を線として描き続ける。僕はとりあえずこう考えて、それを出発点に、一年間しゃべり続けてみようと思っているのです(こう書いてお分かりかと思いますが、ぼくの興味関心は「暗黒舞踏」にだけあるわけではないのです)。

学生たちは難しいと言いながらも非常によく聞いてくれている。別に大学で「ダンス」や「美学」を学ぼうと入学してきたわけじゃないのだから、きっと不可解だったり面食らうことも多々あるだろうに、でも、毎回授業終わりに書いてもらうレポートも皆一生懸命書いてくれる。まったくありがたいことです、はい。

それで今日授業の後、ある学生と話をしているうち、ぼくが中学生の頃パンクにはまっていた話をすることになった。それはある小さなライブハウス(幻の千葉ダンシングマザー)での出来事。Oi系パンクというのが流行っていて、一時期ぼくはそれにはまっていた。ある日マイナーなバンドの対バンライブを見に行った(「見る」というよりは体感しに行く、暴れに行くと行った感じ)。その小屋は、狭くまた舞台と客席の間にはほとんど隔てる何もない状態(確か10センチくらいバンド側の床が高かった、それだけ)。演奏がはじまると、最前列に陣取ってしまったぼくは、前に向かっていく観客の運動に共鳴しながらも同時にそれを背中で制止する必要があった。ぼくはこのとき体で「プロセニアムアーチ」を体感していたといってもよいだろう。客席と舞台とを分ける無意識の境界線がある!でも、それ、おかしいじゃん!「パンク」って「デストロイ!」ってことでしょ。ならば、この境界線はデストロイしないの??ぼくは子供心にそう考えながら、とはいえ背中で制止することを止めることができなかった。そんなこんなしているうちに、ヒートしたヴォーカルがマイクを激しく動かしながら、ポゴダンス(激しく上下にジャンプを繰り返す動き、ときにサッカーのフェイントのごとく斜めに足を出したりする)をし出した!「あっ」と思う瞬間、彼のマイクの尻尾の部分が僕の目を直撃した(「バツーン」)。「プロセニアムアーチ」がデストロイした瞬間、と言ったら大げさかなあ。でも、この「痛み」の体験はぼくにとって果てしなく大きくて、この時期に出会ったこんなことまたそれについてブツブツ考えたりしたことが、今につながっている、のです。

これがぼくの「近代」(=アートという制度)との出会いだったわけ、きっと。こんな話を、次回、ルイ十四世の時代からパリオペラ座への劇場構造の変遷を振り返りながら、することでしょう。



0423(Wed)


東京都現代美術館に、
『船越桂』
『サム・フランシス』を見に行く。
東京駅丸の内北口からバスが出ている。それに乗ると大体30分くらいかかってしまうのだけれど、これが一番歩かないですむ方法だろう。これまでの小ピクニック気分を余儀なくされていたのと比べるとかなり楽。
船越は、もっと「ずしーん」と来るかなと思っていたのだが、かなりあっさりした印象。きっとこの人の中でなっている音楽というものがあるとしたら、かなりフツーの「ニューミュージック」のようなものなのではないだろうか。そんな観念の地肌が垣間見えてしまった気がして、ちょっとのれない。でも、最後から一つ二つ目の部屋の作品、要するに最近作はちょっと違う。ヘンな自分にちょっと素直になっている感じ。『美術手帖』で多くとりあげられていた、ふくよかな胸が露わになっている作品は、かなりヘン。よく言えば清楚、悪く言っちゃうと「カマトト」な彼の女性像(顔)にくっつけられたヘンな丸みの上半身に、妙に母性的というなぷくっとふくれた乳房。これ解釈によっては町野変丸にも見えてくる(?!)。腕のない上半身の像の胸の辺りにさびた針金がぐるぐる巻きになっているのとかも、見ようによっちゃあかなりキテる。船越さん、どこへいくのか。
帰り際、アートショップで、
宮川淳『美術史とその言説』水声社、
北澤憲昭『アヴァンギャルド以後の工芸 「工芸的なるもの」をもとめて』美学出版、
を購入。



0422(Tue)


今でも田舎で塾という仕事をしている
(経営者であり先生であり掃除のおばちゃん一人三役)。

今年は「来るもの拒み去る者追わず」という方針で経営的には縮小方向なのだが、昨日も僅かに残った中学生や高校生が来てぼくを賑やかす。彼らはぼくにとって十代というものを垣間見るモデル的存在。彼らを通していまの十代を知る。最近は『すごいよ、マサルさん』というマンガの存在を教えてもらった。いやあ、すごいよ、マサルさん。空手部と帰宅部の男の子二人組の挙動は、このマンガにルーツがある。何かぼくがキツいこというと「ひゃあー」と脱力した声を出して倒れ込む。その動きの間が絶妙で、「こいつらあセンスある!」と密かに思ってたら、そのルーツがあったのだった。「脱力」にも「こつ」があって、そういうリズムを密かに(いや「ジャンプ」という場なのだから大々的にか)錬成させているのがギャグ漫画界というものなのだろう。こういうのまったく侮れないッスよね。

そんな高校生に大プッシュしたい(でも言いそびれたよ)『青の炎』。あらし二宮とあややが素晴らしいのは当然のこと、この映画がグレイトなのは、性をめぐる描写のすばらしさではなかろうか。高校生の性の一瞬の燃焼、これだけが描かれていると言うべきだ。主人公二人にはキスのシーンさえないのだが、例えば、改札の前であらしがある事情を告白するとやるせないあややが頭をあらしの胸に柔らかくもたせかける、こんなシーンのなんとセクシーなこと。これ以外にも挙げればきりがないほど、少年の性の微妙ないろいろが描かれている。それが「青春」というパッケージに収まっている辺りが、優れたアイドル映画といわれる(だろう)ところだ。蜷川は、この映画をアイドル映画として撮ろうとしたとインタヴューで語っていたが、その際意識したのが『セーラー服と機関銃』であったというのは、なるほどうなづける。フランス乃至アメリカのイイ青春小説(中編)を読んでいるような、青春・残酷・犯罪・アイドル映画。高校生の時見たかった!



0419(Sat)


  ずっと朝から仕事をする。来週はどうしてか、「村上隆のアート戦略を通して近代という制度の問題を明らかにする」という授業をする(ようになりそうだ)。「美学・美術史概論」という授業の第一回目で、「ここでは美学の講義をやるので、美術史にはほとんど触れませーん」と宣言したばかりなのに、、、気づいたらそんなことになっていた。きっとイラク戦争の影響だ(って言っても分かりにくいだろうけれど、説明し出すと長くなるので悪しからず)。
  でも、晴れた土曜の朝から「アート」のことを考えるなんてあんまり気分のいいものではないですね。「アート」っちゅうのは「制度」「ヘゲモニー」「権力」など政治的問題ではあっても、純粋な目の喜び(ex.ホガース)なんてほとんど関係ないんだから。「概論」の学生はきっと来週そんな話ばかりするぼくに、ほとほとあきれてしまうかも知れない。
  夕方、逃げるように近所を散歩に出かける。家の周囲には、果樹園地帯があって、丘にひとたび上がると、野原のような空間が広がる。タンポポやら、下の写真の草やらが「うわー」っと生きている。風に揺れるこんな草花を見ているとまったく飽きない。ホガースの好んだ「放縦さwantoness」という言葉が浮かぶ。自然と芸術を比べて、自然が優れているのは、人為の目的を遙かに超えたこの出し惜しみない放縦さ故だろう。目が、豊かに微動するシーンに喜び狂う。こういう時に、ホントに本郷から引っ越してきてよかったと思ってしまう。写真に撮ったこの草を戯れに手にすると、なんかこの濃い緑の生命力にちょっと怖じける。怖い、自然のパワーが怖い。そういえば、この日記を始めた第一回に書いたことも、そんな自然の運動への畏怖についてでした。冬の間は静かにしていた自然が騒がしくなってきた今日この頃。よーく見ると自然って怖い。どこまでもディテールがある。その点芸術作品なんてのはたいしたものじゃない、大抵肉眼視レベルだもの。自然にはそんな「たが」はないから、ぐんぐんどんどん細部を凝らしていく。偏執狂的アウトサイダー・アーティストですな、自然ってのは。なんてことをぽつぽつと考えながら、車の走る道にでる。束の間、「トリップ」体験を堪能した夕方でした(そして、再び買い物にでると空に巨大な虹が。自然パワー炸裂の春)。





0418(Fri)


前回の日記にも書いたのだけれど、本当にキリンジの新譜は素晴らしい。それは何度言ってもいい足りないくらいに。極まるところを知らない「ポップス道」と言ってみたけれど、もはやこれは大文字の「音楽」です。例えば、モーツァルトが「クラシック」なんてカテゴリーに束縛されることなくただの音楽として素晴らしいと思えることがあるように、これはただ「音楽」として素晴らしい。もはや氷河期を迎えつつある「フジ月9ドラマ」の主題歌が自身の縮小再生産でしかないのと比べると、キリンジのイノベーションはただただ感動的。もはや「はっぴいえんど」はレジェンドとして棚に上げといて、ぼくら2003年の人間はただお構いなしに2003年のキリンジを聞けばいい。

最近は3曲目の〈愛のCoda〉がお気に入り。とくに、

「不様な塗り絵のようなあの街も
花びらに染まっていくのだろう」

のところがイイ(でもぼくは「不様なのに絵のようなあの街」と聞き違えていた!まあ、これも悪かないでしょ?)。「ポップス」の文脈で「不様(ブザマ)」という言葉が響くことの斬新さ、過激さ!今テレビで175R「朝が来るまで語り明かした〜」などと唄う、その老成振り(終わっている振り)と比較せよ。「不様な塗り絵のような街」としか言いようのない現在の日本に生きる「いらだち」、それだけがリアル。リアルな音楽が部屋に響いていること、そのかけがいのない救い。

ようやく告知していた『BT/美術手帖』五月号が書店に並ぶようになりました。
BBSに書きましたが、そこのお読み下さった方、是非感想(に限らず質問でも意見でも批判でも何でもイイッス)をBBSに書き残してくださいな。ぼくの授業に出てくれている学生君(さん)たちも、もし書き込んでくれたら、成績に大いに反映させましょう(うそ)。ペンネームでも構わないです、どうぞご自由に。

また、雑誌に載せたプロフィールのアドレスからこのHPをはじめて見てくださった方。不備が多いPなのですが、どうか悪しからず。ぼくの関心がただ「ブトー」にあるだけではないことが、さしあたりご理解いただけたら幸いです(「ダンスの思考」「ダンスの経験」なるページなどで)。日記のみならず、研究・批評のページもどんどん更新していこうという気持ちだけはあります。時折、どこかのダンス公演を見た後でも覗いてみてください。ぼくも何か感想を書いているかも知れません。



0413(Sun)


もうれつな忙しさのなか、朝7時ごろから仕事を始めるが、まったく終わる気配がない。あまりに終わりそうにないので、すっぽかして「日記」を書く。

1.KIRINJI《スウィート・ソウルep》
2.サリンジャー、村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』
3.雑誌『SIGHT  何故、手塚治虫はアトムが嫌いだったのか』

を買う。では箇条書きでつぶやきごとを。
1.複数の友人から「イイ!」と言われていたキリンジの新作シングル。すばらしい。この人たちのポップス道は極まるところを知らない。もっともっと異常なくらいふたりがモテモテになる瞬間が来たらいいのに、こわいけど、そんな瞬間ちょっと見てみたい。なんか10年後とかに突如としてそんなことが起きそう。

2.要するに『ライ麦畑でつかまえて』の村上訳版。これは売れるだろう、キリンジの10倍以上は確実に売れるんだろうな、村上氏はすんごいお金持ちになるんだろうなあ、嗚呼(まあ、そんなことどうでもいいんだけれど)。でも僕にとってこの本はしゃべり口が重要だったわけで、野崎孝による「〜なんだけどさ」「〜だったんだな」などの語尾のもつ雰囲気に、中学二年生のぼくはすっかりやられていた。10回は読んだな、あらすじはおろかディテールまで、覚えてしまっていたあの時期。大人になって読んでは意味がない本ベストワンをあらためて読んだらどうなのだろう。柴田元幸との対談なんて、中学の頃読んでいたらぼくのサリンジャー体験はまた随分ちがったものになっていたかも知れないなあと思いつつ。
村上+柴田による新訳についての対談(白水社)

3.手にしてみると結構充実していた手塚特集。近所歩いてた時、塾帰りの小学生がぽつり、「アトムって嫌いなんだよね」ってしゃべっていたのを思い出す。手塚マンガの完成度は同時になんか近づきがたさも帯びているような気が以前からしていた故に、なんか自然と頷ける気持ちなった。それに手塚賛美の中できた最近のリメイク版アトムなんて、よい子のためのマンガみたいな匂いがして、イヤなのかもな、子供たちには、なんて思ったり。



□0412(Sat)


阪本順治《ぼくんち》を見た(@シネスイッチ銀座)。
少女時代からAが敬愛していた観月ありさ主演、初日舞台挨拶も見たいということなので、早めに雨の中で並んで待つ。ちょうどいい具合にエレベーター脇の位置で行列していると、スーッと長身で小顔の女性が通りすぎる。瞬間こちらを見て微笑んだような気がした。ぼくらのちょうど一つ前、最前列に居た少年に反応したのかもしれない。少年のラッキーなドキドキ体験がこっちにも伝播してきて、何か「少年」な気持ちになってしまった!って、そんなことはどうでもいいんだけれど、この映画、ぼくはとってもはまってみてしまった。「水平島」という大阪のような、そうでないような架空の島で暮らす少年二人と周りの人々。前半はともかくアナーキー。道端の看板には「糞尿禁止」の文字。「ねこばあ」というどんどん子供生んでは世話放棄ほったらかし、猫と暮らし寺の境内裏が根城のばあさんとか、「てつじい」といってがらくたから粗悪な堅城を造って売っている、「物知り」なおじさん。九九のできない「あんどうくん」。そんなダメな、何にも生産できない世界に暮らす、二人の少年。『動くな、死ね、甦れ』(カネフスキー)を彷彿とさせる、無法の世界に生きる少年の目線、生き方、どうもこうもこうするほかない生。長男一太にヤクザな生活術を施すこれまたダメな男を演じる真木蔵人が素晴らしい。後半は、次男二太と観月ありさ演じるピンサロ嬢「かのこ」との一種の「メロドラマ」が待っている。ここはもうダメ、感涙感涙。《顔》でもそうだったが、流れ流れて目的のはっきりしないたゆたいの中で足を踏ん張らなきゃならない人間の生の描写、そんな姿勢が先日見た《アカルイミライ》とも共鳴して、この不毛地帯から、あるいは標なき大海原からむしろ「革命」のような言葉が響いてくる現在の日本映画のすばらしさにまた感涙。ありさもよかったッス。異様なほど長い脚や首やが、陳腐な「母性」にも「セクシー」にも頼ることなく、リアルな故に奇妙な一個の女をあらわしていたから。ともかく、これはいい映画です。あと、ビニールハウスで内職仕事しているダメなオヤジさんと子供たちのシーンというのがあるんだけれど、そういえばぼくが10年前につくろうとしていた映画にはビニールハウスでバンドの練習する若造たちというシーンがあった。それは撮るだけ撮ったんだけれどな、構想がでかすぎて完成しなかったのでした。



□0411(Fri)


昨日の講義を聴いてくれた学生のみなさん、ページを見てくれてありがとう。
後日、早々に「コウギ」のコーナーを制作しようと計画中です。
そのなかで、講義の復習ができるようなものなどを作ろうと思ってます。またアンケートやレポートなど(当然無記名ですが)も載せようかと、思案しています。
時々見てください、よろしく。


今日の夕方は、
《ローラン・プティ  グラン・ガラ〜世界のスターによるありえない饗宴〜》を見た(@赤坂ACTシアター)。これについていくつか書きたいことがあるのだけれど、今週ははじめてづくしで、疲労困憊中。で、明日にでも書こうかと。

で、0419の今日書きます。
この公演、基本的には「フツー」でした。ぼくにとってプティは、『西麻布ダンス教室』によってはじめて意識して、見たいと思って見た人。でも『西麻布』で強調されていたような、コミカルな外しの動き(?)は、パーセントとして多くなかった気がした。それがまずちょっと不満。とはいえ幾つかハッとする瞬間があったことも事実。
個人的にはともかくも《ダンシング・チャップリン》から〈小さなバレリーナ〉が、ぐぐっと来た。クライストの『マリオネット芝居劇場』が語っていたような、重力の頸木から自由になると言う人形にだけ許されたバレリーナの夢を、このチャップリン・オヤジ(ルイジ・ボニノ)は、ひょいっとこともなげに達成してしまった。簡単なことなのだ。下半身を黒で消して手を「脚」にしてしまえば、「脚」(=手)は永遠に軽やかに跳び続けることができる。観客は手が「脚」になってしまったばかばかしさを笑っているだけじゃない。「脚」
になった手によって、バレエの夢が一瞬叶ったことを一瞬オドロキと共に喜び、しかしそのあまりにくだらないトリックが夢を叶えてしまったことにあきれて笑ってしまうのだ。ロマンチックバレエのギャグであると同時に、ギャグの仕掛けで思わず達成してしまった夢に驚く、そんな不思議なバレエ。
その他は、はじめて見た上野水香は真面目な動きではあるが、悪かないぜと思ってしまった。特に、『チーク・トゥ・チーク』でのファンキーと言ってもよいような踊りは思わず乗ってしまった。



□0406(Sun)


夕方、Aといつもの渋谷ツタヤで待ち合わせる。すると書籍コーナーで、
『TH叢書No.18 身体・表現主義〜ゲルマニックな身体のリアル。』(この読点(。)俺が付けたんじゃないよ!マジ?)を買ってしまった。この本、ピナ・バウシュやら、サシャ・ヴァルツやらの「身体性」を説明している。基本的に「オタク」的な感じ。イラストのセンスとかの、独特の内向性。2003年になぜ「ゲルマニック」なのか?この「身体」なのか?わからーん。
わからんものカバンに放りこんで、代官山までてくてくと花見に。来る途中の小田急線でも、鶴見川の桜で花見をしている人を見かけたが、当然のように空き地にござ(青いシート)を敷いて酒飲んでいる姿はよく考えると異様。フツーの昼間に、月極の駐車場で酒飲んでいる人々が居たら「異常」と思うよね、でもそれがオッケーなこの10日程の不思議。春を喜ぶ、花を愛でる自然の欲求が、2003年の日本でもなお勝手に沸き上がっている。いいね。
目黒川沿いの桜がとても好きで毎年行くのだった。



□0405(Sat)


一ヶ月更新が滞って、「再度!」と思っていたら再びコトが起こってしまった。もうどうにでもなれ!
年度初めにHPのリニューアルをと思っていたのだけれど、もう少し後になりそう。

で昨日、無邪気な受験生の無邪気な春期講習につきあった後、東京駅の古本屋でデタラメに数冊購入。

西脇順三郎『西脇順三郎』(岩波文庫)
夏目漱石『吾輩は猫である』(ちくま文庫)
中村雄二郎『感性の覚醒』(岩波書店)

その晩、ダンスの欲望と性差について議論したせいで、今日は春の嵐の中、ざわざわともやもやと考える。自宅近くにあるW大学で(コーネリアスを輩出したこの大学、一般人も本の貸し出ししてくれる、人に優しい「左翼」(「優しいサヨク」じゃないよ、いやそうか??)系大学)土方巽全集のT、Uを借り、それと、

ジル・ドゥルーズ『批評と臨床』(河出書房新社)

もついでに借りる。これがめちゃ面白い。例えば冒頭の「第一章文学と生」、

「書くことは、つねに未完成でつねにみずからを生み出しつつある生成変化にかかわる事柄であり、それはあらゆる生き得るあるいは生きられた素材から溢れ出す。それは一つのプロセス、つまり、生き得るものと生きられたものを横断する<生>の移行なのである。エクリチュールは生成変化と分かち得ない。書くことによって、人は女に−なり、動物あるいは植物に−なり、分子に−なり、知覚し得ぬものに−なるに至る。」(11)

「書くこと」の部分を「踊ること」に書き換えてみたくなる、するとこれ、舞踏論のように読めてくる。そういう視線で次の文を読む、するとある種のスリルが感じられやしないか。

「生成変化とは、ある形態(同一化、模倣、ミメーシス)に到達することではない。そうではなく、それは、人がもはや一人の女、一匹の動物、あるいは一つの分子とみずからを区別し得なくなるような近接のゾーン、識別不能性あるいは非差異化のゾーンを見出すことなのだ。」(12)

演じることで他者との同一化を目指すのではない、そうすることで身体を物語(既存の制度・コンテクスト・社会)に奉仕させるのではない、そういう近接を試みるゾーン、この危険な「非差異化のゾーン」の中に入ろうとすること。ここで言われる「生成変化」の言葉は、土方巽がしばしば対談などで用いていた「メタモルフォース」と響き合うだろうか。
さて、この文学(=ダンス?)が目指す先は、力強い生成変化そのものに身を委ねること、生成変化そのものであることであり、次の如き「健康」(ニーチェ的文脈における)の内にある集団を創出することだと、ドゥルーズは続けて言う。

「文学としての健康、エクリチュールとしての健康は、欠如している一つの民衆=人民(ピープル)を作り出すことに存する。一つの民衆=人民(ピープル)を創り出すことが、仮構作用の役目なのだ。」(16)

そうか、新たな「ピープル」を創出すること、これはまさにダンスの空間がもつ最大(?!)のスリルじゃないか。でもここにダンスの政治的なあやうさがあって、狂喜乱舞する人々の凝集力は容易に右傾化する可能性がある。この点を察知してドゥルーズは、さらに、「文学とは錯乱である」と言った後、この「錯乱」が二種類の傾向を持つことをこう指摘している。

「錯乱は一つの病であり、純粋で優勢だと称する人種を錯乱が打ち建てるたびに、すぐれて病であるものとなる。しかし、あの抑圧された私生児的=雑種的人種、さまざまな支配の下にあって絶えず動き回り、押し潰し監禁しにかかるあらゆるもの抵抗し、プロセスとしての文学の中にみずからの姿を白抜きに描き出すあの私生児的=雑種的人種の力に訴えるとき、錯乱は健康の尺度となる。」(17)

さて、ドゥルーズが言うところのこの「私生児的=雑種的人種」とは、舞踏のことだろうか。そしてそうだとして、舞踏という雑種的人種の可能性が、「グローバルスタンダード」の猛烈な勢いによって世界が一元化され、「去勢」されている中で、いったいどのようにして健康な錯乱を発揮することができるというのだろうか。ぶつぶつとそんなことを考える。