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<過去の表紙>

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A Happy New Year!


No.1 2003.01.01
「試運転中」の言葉を取り、表紙を新しくして、新年にリニューアルオープン!しました。
表紙以外のページも徐々にデザイン変更中。動作不良のところがあるかもしれませんが、あしからず。

前世紀の詩人、痙攣の美の提唱者、アンドレ・ブルトンの姿勢について、ぼくの心の師匠、鈴木雅雄は「対象への愛」をキーワードに、こう言っています。ぼくは「対象」のところに様々な言葉(他者、ダンス、映画、音楽、文学、、、)を入れて読んでみたい。

「対象を軽々と別の文脈の中に投げ入れていくのではなく、それと接触することのじりじりとした居心地の悪さ、そしてそうであればこその抗しがたい誘惑に身をさらし、創造的な主体として対象の意味を書き換えるかわりに、その対象への愛において果てしなく自らを見失うこと、そして同時に、このことに伴うあらゆる危険を意識化するのを怖れない」
(『文化解体の想像力 シュルレアリスムと人類学的思考の近代』鈴木雅雄/真島一郎編、人文書院)

これが今年のマニフェスト。どんどんダンスに、美学に、日々のデキゴトに積極的に巻き込まれていく所存であります!






             
 


No.2, 2003.01.22
ドイツの文学者にクライスト(1777-1811)という人物がいた。『O侯爵夫人』『こわれがめ』などで有名な小説家、戯曲作家なのだけれども、幾つかの面白いエッセイも残していて、なかでも死の前年(1810)に書かれた『マリオネット人形劇場』は傑出したダンス論というべき小品だ。

このエッセイでクライストは、奇妙に屈曲した逆説を展開している。マリオネット人形の踊りは、反重力的であること、また自分の動作について振り返ってしまう反省をあらかじめ欠いていることから、舞踊家には遠く及ばない利点をそなえている。人形は人間に比べ、重くもないし余計な意識もない。そりゃそうだ、でも人間が踊るからダンスなのであって、人形の踊りを人間と同じように「ダンス」と呼ぶのはかなりの飛躍があるだろう。しかし人形が図らずも実現してしまっている踊りの理想に、人間の限界をみてとってしまうのがドイツ・ロマン主義の時代潮流というものであって、この理想主義(イデアリスム)の渦の中で、吹けば飛ぶよな人間存在の軽さを無視することも笑うことも出来ずに絶望し続けたのがこの人、クライストなのだった。

そんなクライストの作品集『チリの地震』(種村季弘訳、王国社)のなかに、「話をしながらだんだんに考えを仕上げてゆくこと」というこれまたたまらなく面白いエッセイがあって、忙しいことほったらかしにして最近読み返していた。


もし何事かを知りたくて考えても上手くいかなければ、ともかく目の前にいる人にこのことを話しかけてみよ。こうエッセイの語り部は読者に語りかける。そんなことを説くのは、話し相手が知りたい知識をもっており、彼/彼女からその知識を教えてもらえるからというそんな単純な話じゃあない。むしろ話し相手は誰でもいい、ともかく誰かに話しかけてみな、と語り部は言うのだ。なぜならば、「自分のもとめているものとあらかじめ若干の関係のあるなにやら模糊とした観念を私はもっており、であるからして、これを携えて臆面もなく一歩を踏みだしたしさえすれば、はじまったからには結末もあるはずという必然性に導かれて、話のすすむうちに、おどろくべし、複雑な文肢のある構文に認識が終止符を打ちでもしたように、情念がその錯綜した観念に完全に明白な刻印を与えてくれる」のだから、、、

なるほど。自分の中に答えはすでにある。でもそれは自分によってではなくて、ただ他者の「顔」を眼差しすることではじめて導かれる。そうか、そう。話をするってことは、たしかに話相手という鏡が必要となるライブパフォーマンスなのだ。自分から発したものではあるけれど、ある他者と話したことによってある思考がはじめて生まれ出てくる、それは何ともスリルある経験だ。このスリルは、自分の不確かさを自認し、他者からの触発がもつ無限の可能性に自らを委ねる精神だけが経験することの出来る感覚だろう。

自分とは他者であり、他者を通してのみ自分が分かる。クライストのリアリティは21世紀のリアリティでもある、ぼくはそう思う。さて今日はどんな他者があらわれるか?



              




No.3, 2003.0320
土方巽は肉体の人であるだけでなく言葉の人だった。唐十郎はあるトークショーで、土方のことを「肉体使い」であると同時に「言葉使い」の人だった、と彼一流の表現で整理していたがその通りだと思う。土方がアスベスト館で、しばしば訪問者にイジワルな「禅問答」をして相手を験していたことは有名な話だ。金粉ショーから疲れて帰ってきた唐に、夜な夜なみそ汁を振る舞う土方は、「この中には何が棲んでいる?」と聞いてくる。唐が藪から棒に「虎」と答えると、土方は大層喜んだらしい。「みそ汁のなかには虎が棲んでいる」、こんな異常で奇妙な空想を歓迎する時代精神のなかに「暗黒舞踏」はあった。この空想力を「デペイズマン」と呼んでみよう。そうするなら、当時の日本に蔓延していたシュルレアリスムの思想こそ、土方巽という突然変異に取り憑き、彼の「暗黒舞踏」を牽引した精神に他ならないのだと推理する可能性も出てくるだろう。

土方の言葉は、確かに、シュルレアリスム的実験そのものだった。実践する言葉、行為する言葉。去年の九月、ぼくは熱病のようにそんな土方の言葉に憑かれていた。例えば、

「いま、ものから覗かれた風のように猫が逃げていった」

幾重にも折り畳まれた空想の襞に体をめり込ませて読む。
しかもこんな「実験」だけではなく、土方は言葉を繰りながら自身の舞踏を反省し、その姿をあらわにしようともしていた。

「農繁期、春先ですからみんな田んぼに出て働くわけです。隣近所の家には誰もいないんですね。それで三つか四つのガキってのはどこの家でも大体柱に結えられている。私はこっそりそのガキ達をのぞきにゆくんです。すると面白いですね。この幼児というのは。何か得体の知れない動きをやってる。自分の手に物を食わしてるのがいるんですね。おかしなことするもんだな、、、」

ここにあらわれているような、ものを見る土方の視線が気になる。日常を非日常に転換してしまう空想の視線。この視線への興味、視線への問いかけから、次のようなメモの言葉がリアルな実感をともなって浮き上がってきた。

「見えることが腐る地点からしか姿を表さぬもの、本当に生命を開くことは屍になることにむしろ似ている」

「腐る」と言うキーワード、晩年の土方はこれに「間」という言葉を結び合わせ、舞踏の独自な運動性格を説明しようとする。「間腐れ」、俳人永田耕衣との共鳴関係から深まっていったと見られるこの概念は、しばらくの間、舞踏の輪郭を捉えようとして捉え損ねていた煮え切らないぼくに、「コレ!」という一つの強力なヒントを与えてくれるものになった。

で、ぼくの土方巽論文の宣伝です。まだ承諾を得ていないので具体的な表記は避けますが、この度、公表7万部の美術系月刊誌(*上記している通り、現在はもう許可されています、その名は当然、『BT/美術手帖』ッス)が昨年募集した「芸術評論」に、土方巽の舞踏論で応募したところ、幸いにも入選(佳作)しました。掲載は五月号(4/17発売)です。よくまあ「ブトー」と「シュルレアリスム」で通ったものだと思いますね。応募を考えた時には、「スーパーフラット」と絡めないとダメかなとか思って、一時間くらい無駄な努力をしましたが、、、無理と気づき、邪念を払って約二ヶ月間で唸って書いたのでした。是非ご一読を。また、お世話になった方々にこの場を借りてお詫びとお礼を申し上げます。多謝!





 No.6 2003.8.02 No.7 2003.8.27
久しぶりにビンタンビールとバリダンスに酔った夏だった、、、




No.8 20040101 @ Kujukuri Beach




No. 9 20040324 @ Yuliati House in Ubud, Bali



No. 10 20040805 @Kawasaki (my dining room) 夏休みスペシャルヴァージョン





No. 11 20040909 @Ichinomiya
ドラマはないのにドラマティックなのが「自然」ってやつで、、、