赤松氏

参考:中国地方関係図(別のウインドウが開きます)


【赤松氏略史】
赤松氏は村上源氏であり、赤松氏を称したのは配流された源季房の子孫が土着して山田・宇野氏を名乗り、その後宇野氏の庶流である宇野家範が赤松村の地頭代官となってからである。家範の曾孫則村(円心)は護良親王に従って元弘の倒幕に参加し、戦功を挙げて建武政府から播磨守護職に任じられた。しかし護良親王が失脚すると則村も守護職を解任されてしまった。

そのために則村は足利氏に組して軍功を立てたため、室町幕府成立後は則村に播磨守護職・長子範資に摂津守護職が与えられて、有力守護大名に成長するに及んだ。幕府内でも京極・一色・山名氏らと共に将軍家の重臣に列した。

しかし、嘉吉元年(1441)、将軍足利義教の諸大名弾圧を恐れた赤松満祐(則村の曾孫)は義教を自邸に招き殺害し、播磨に引き上げた。幕府の戦備の遅れなどもあり、二ヶ月以上持ちこたえたもののついには落城し、満祐は自害、赤松宗家は断絶した。赤松氏の領国は討伐に参加した山名氏に与えられた。

赤松氏は庶流が残っていたが長禄元年(1457)、後南朝の残存勢力に奪われた神璽を赤松家臣が取り返したので幕府は赤松宗家の血を引く政則(満祐の弟である義雅の孫)に家督を継がせ、加賀半国守護に任じた。のちに応仁の乱で東軍に加わり活躍した政則は以前の播磨・美作・備前三国の守護への復帰を果たす。

だかこの頃より家臣である浦上氏が台頭し始め、政則没後、浦上則宗・村宗父子が国政を壟断し、大永元年(1521)には当主義村が村宗に殺害された。しかし嫡子政村(晴政)は享禄四年(1531)、摂津野里川における「大物崩れ」の合戦で浦上村宗を討つことに成功。この合戦で浦上氏の一族殆どが討死したという。村宗死後、浦上氏は晴政に服従を余儀なくされるが、すでに赤松氏の支配領域は昔に復することができる状態ではなかった。しかものちに浦上宗景は兄の政宗と対立して赤松氏から自立、備前を播磨から独立させる。

宗家建て直しには庶流にあたる赤松政秀(龍野城主)が奔走したが及ばず、晴政の子、則房は織田信長に降り、阿波住吉城一万石に封ぜられたものの、天正十三年(1585)に死去し嫡流はここで途絶えた。庶流の政秀の子、広通が赤松の名跡を残すかにみえたが、広通は関ヶ原合戦で西軍に属して同年十一月に鳥取で自害し、赤松氏は断絶した。

赤松氏系図

【赤松氏の一族・家臣団】

・喜多野柏阿【きたの・はくあ 生没年未詳】
「執権」と記されている文書もあり、宿老であるという。元亀年間ころに活躍している。喜多野氏はもとは「北野」を称したが北野天神を憚って「喜多野」と改称したという。

・難波泰興【なんば・やすおき 生没年未詳】
備前守。ほぼ祝融軒周登と共に奉書に署名。地位は難波の方が日下(日付の下)に署名しているので周登のほうが地位が上と考えられる。

・鳥居職種【とりい・もとたね ?〜1579(天正7)】

岡本周登や難波泰興と共にしばしば連署状に署名している。三人の中では最も格下のようである。
2001/8/27訂正:久安→鳥居。没年の追加。ふ〜む様のHPより一部転載させていただきました。職種の生涯を詳しく解説なさっています。

・岡本周登【おかもと・しゅうとう 生没年未詳】
祝融軒周登と号しており、文書の署名にも「祝融軒周登」と記している。赤松氏の家老か側近の奉行衆と思われ、しばしば文書に署名しているのが確認される。

・岡本光慶【おかもと・こうけい 生没年未詳】
祝融軒。おそらく周登の父か。天文中頃までは上記難波とともに書状に署名しているが、天文中頃を過ぎると周登に変わるのが確認される。


【追加分】

2001/3/15追加
・弥延之家【やのべ?・ゆきいえ 生没年未詳】
赤松氏の奉行人。長門守。「赤松播磨守政村(筆者注:晴政のこと)目代」と貼紙がされている。天文六年(1537)と七年に下の津田家職と連署した文書が確認される。兵庫花熊城主という。

・津田家職【つだ・いえもと 生没年未詳】
若狭守。赤松氏の天文中頃の奉行人。二通の文書は双方とも知行に関するものである。播磨室津城主という。


【参考文献】

『国史大辞典』
『兵庫県史』第3巻 1978
『兵庫県史 史料編』中世9(1996)・7(1993)・3(1988)・2(1987)


【他サイト情報】
赤松氏家臣団に関しては、ふーむ様の「落穂ひろい」がご自身の研究を生かして家臣団を個別に紹介なさっており、おすすめです。

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