秋月氏


参考:九州地方詳細図(別のウィンドウが開きます)

【秋月氏略史】

秋月氏は大宰府の官人、大蔵氏の一族と伝えられる。同族に原田・高橋・三原・田尻氏が存在した。秋月を名乗ったのは大宰大監種成の子、種雄が筑前国秋月庄を本拠としたことからである。種成は『寛政重修諸家譜』によれば、平家が都落ちしたとき、安徳天皇の警護をしたと記されている。

しかし、系譜関係はあまり明らかでなく、『竹崎季長絵詞』に「筑前国御家人あきつきの九郎たねむね」が見えるが系譜には見えず、『太平記』に「秋月備前守」の存在がみられるが種貞かその曾孫である種道と考えられ、正確な系譜は分かっていない。

種道から四代目の種朝は周防国の大内氏に与し、永正七年(1510)まで活動が伺えるという。その孫、種方(文種・文衆)は天文十年(1541)、大内義隆から幕府番衆に推挙されている。しかし大友義鎮(宗麟)に抵抗し、龍造寺氏らと連合して挙兵するものの、弘治三年(1557)七月、居城古処山城を攻められて落城、敗死した。これは、家臣小野九郎右衛門の寝返りによるものとも伝えられる。

父種方の敗死による秋月氏の没落後、子の種実は毛利氏にのがれていたが、永禄二年(1559)、かつての居城古処山城を奪還し(『国史大辞典』の種実の項には大友氏より許された、とある)、秋月氏を再興した。

種実は大友氏に対抗して毛利氏と好を通じ、永禄十年の毛利氏の九州侵攻にも協力した。しかし永禄十二年には大友氏に従っている。だが大友氏が島津氏との耳川合戦で大敗すると再び反大友氏の連合を組むなど、ほぼ大友氏に対抗している。

天正十五年(1587)、豊臣秀吉の九州侵攻に名物の茶器を献上して降伏。同年日向高鍋に移された。慶長から寛永あたりに至る幕藩制成立期には家老の専横によって家中が乱れたが、幕末まで藩領を守った。

ちなみに、上杉鷹山(治憲)は秋月氏(種美の子)の出であり、米沢藩の中興の祖となったが、その弟で高鍋藩を継いだ種茂(鶴山)も兄鷹山に倣って善政を敷いたと伝えられている。

秋月氏系図

【秋月氏の一族・家臣団】

・秋月晴種【あきづき・はるたね 1539(天文8)〜1557?(弘治3?)】
種方(文種)の長男。天文年中、足利義晴の一字を賜り「晴種」と称すという。没年不詳であるが十九歳で早世した。秋月氏が大友氏に攻められて没落した弘治三年、父種方と共に討死したともある。

・秋月種至【あきづき・たねよし? 1576(天正4)〜1605(慶長10)】
石見守。種実の三男で種長の弟。種守と記される系図もある。朝鮮出兵では六十六の首級をとったが、三十歳で早世した。

・秋月(白井)種盛【あきづき(しらい)・たねもり 1581(天正9)〜1643(寛永20)】
権之助。内田実久の六男。白井家に養子に入り種長・種春期の家老。
 種長死後、秋月種貞でなくその子種春(誕生からの付家老であった)を家督に据えるために奔走するが、種春を家督に据えた後は反対勢力を次々に粛正・失脚させ、また粛正に直接関わった一門すら排除するなど権勢独占に邁進。子の又左衛門種重の代まで権勢は続くが、種重の晩年、謀叛の流言を流された結果、神水の誓いで他心ないことを誓ったものの種重が直後に死去。その後藩主種信による又左衛門派の粛正が行われ、白井氏の権勢はおわった。
 ちなみに、「秋月」姓は藩主の許可を得ずに名乗ったものという。

・秋月(内田)種正【あきづき(うちだ)・たねまさ 1585?(天正13?)〜1639(寛永16)】
蔵人。秋月種盛と共に内田実久の子(七男)。「秋月」の姓は当主より与えられている。種長・種春期の家老。「大垣出陣」(関ヶ原合戦か)に十六歳であったという。大坂の陣には幼い種春の名代として出陣。しかし寛永四年(1627)の家中騒動(上方下方騒動)で出奔(追放とも)。肥前唐津へ行き、島原の乱では富岡城に籠もり戦功をあげたという。
 その後紀州徳川家に召し抱えが決まるが、大坂に向かったところで病死したという。妻は種長の娘である。

・内田実久【うちだ・さねひさ 1535(天文4)〜1617(元和3)】
善兵衛。内田壱岐の弟という。しかし『本藩実録』では壱岐と善兵衛は改名した同一人物ではないかともする。種実が毛利氏に逃れたときからの家臣。山口で蟄居している間に壱岐が種実の屋敷を建て、介抱したという。天正十三年(1583)、種実の隠居と共に家督を長男の四郎右衛門に譲る。秋月氏の高鍋移封にも従い、高鍋では隠居料として五百石を与えられた。

・内田実清【うちだ・さねきよ 生没年未詳】
土佐守。内田氏一門であろうが、実久などとの直接の関係は分からない。天正十七年(1587)の秋月氏家臣への知行宛行状に下記の税田宗雲・板波実理と共に署名している。地位は三人の中で二番目とみられる。

・恵利暢堯【えり・のぶたか 1550(天文19)〜1587(天正15)】
内蔵助。恵利氏は秋月種雄の弟、種久の子孫であるという。秋月種実の重臣。豊臣秀吉の九州侵攻を前にして秀吉に面会し、太刀打ちできないことを伝えるも種実は進言を容れず抗戦の構えを取った。そのため暢堯は家族と共に諫死した。
 暢堯の長男は龍造寺氏に人質となっていたため難を逃れ、のち鍋島氏に仕え、二男はのちに小早川秀秋の臣となったと伝えられる。ちなみに、「高鍋藩本藩実録」では暢堯が秀吉に自身の知行の配分まで伝えられ、それを了承したために誅せられたと記されている。

・恵利暢武【えり・のぶたけ 1563(永禄6)〜1587(天正15)】
暢堯の弟。秋月氏領の前線である岩屋城に秀吉を迎え撃つために在城していたという。兄の事を聞きつけ秋月に戻るも、途次で死を聞き自刃した。

・板波忠成【いたなみ・ただなり? ?〜1603(慶長8)】
左京亮。種実期の家老。大友氏との合戦ではほぼ参戦している。天正七年(1579)、大友氏に背き、毛利氏に組するにあたって、以前より毛利方であった宗像氏の重臣衆に宛てて、宗像氏に対して疎略ないことを誓う誓紙を木村種玄・坂田実久・桑原種清(いずれも下記参照)と共に連署している。かなりの重臣であると考えられる。

・板波長常【いたなみ・ながつね ?〜1617(元和3)】
清左衛門。左京との関係は分からない。反秋月(白井)種盛派だったため、元和三年、「不義」があったとして討伐を受けて討死した。長常は種実の娘を妻としていたためか、高鍋城内に屋敷を構えており、屋敷の守りが堅かったため、寄手にも相当の被害がでたと伝えられる。諱の「長」は当主種長からの偏諱であろう。

・板波実理【いたなみ・さねすけ?  生没年未詳】
平兵衛。板波一門であろうが詳細は不明。天正十七年、秋月氏家臣への知行宛行状に署名。連署中の地位は三人の中では一番高いようである。

・税田宗雲【さいた・そううん? 生没年未詳】
伊豆入道。実名不詳。筑前時代にも名前がみられ、高鍋移封後の天正十七年にも秋月氏家臣への知行宛行状に署名しているので、重臣であると考えられる。ちなみにこのときには「宗雲」と入道名で署名している。

・税田玄尚【さいた・はるなお? 生没年未詳】
民部丞。税田宗雲との関係は不明。慶長二年(1597)の秋月氏家臣への知行宛行状に署名。署名順から見ると一番高い地位である。

・坂田実久【さかた・さねひさ ?〜1581?(天正9?)】
勘解由左衛門尉。天正八年か九年の大友氏との合戦で先陣を務め、勝利を得るが翌日の大友方の反攻により討死。板波忠成・恵利内蔵助が追撃したという。

・木村種玄【きむら・たねはる 生没年未詳】
日向守。下の桑原種清・前記の板波忠成・坂田実久と共に宗像氏重臣宛の起請文に署名。「高鍋藩本藩実録」には筑前時代に「木村甲斐守」が現れるが、関係は不明。

・桑原種清【くわばら・たねきよ 生没年未詳】
丹後守。宗像氏重臣宛起請文では一番最後に署名し、地位も四人の中で一番高いようである。しかし記録類にはみえない。坂田実久・木村種玄らと共に諱を見てみると、木村・桑原は秋月文種(種方)からの偏諱で、坂田は種実からの偏諱ではないかとも考えられるであろう。

・入江親茂【いりえ・ちかしげ ?〜1623(元和9)】
主水。種春期の家老。妻は種長の娘たつ。宇都宮弥三郎(義綱?)に嫁ぐも、宇都宮氏が改易されたために実家に戻り、親茂に嫁いだ。慶長十三年(1608)の駿府城普請・元和六年の大坂城修築に派遣されている。

・神代勝安【こうじろ?・かつやす 生没年未詳】
種貞の付家老。種貞が家督相続を断念して大坂に赴いたときに従っている。

・星野吉実【ほしの・よしざね ?〜1581(天正9)】
中務少輔。糟屋郡高鳥城主。天正九年、大友方の薦野三河らが城を攻撃し、防戦するも矢に当たって討死したという。


【参考文献】

安田尚義『高鍋藩史話(再刊)』(鉱脈社、1998)
『宮崎県史』 通史編近世上(2000)・史料編近世4(1995)
『宮崎県史料 第一巻 高鍋藩本藩実録』 1975
『萩藩閥閲録』1、1967
『寛政重修諸家譜』18

『国史大辞典』


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