姉小路(三木)氏

参考:中部地方詳細図(別のウィンドウが開きます)

【姉小路氏略史】
姉小路氏の略史を記すには「姉小路氏」と姉小路氏の名跡を継いだ「三木氏」のことを記さねばならないので長くなると思われるがご了承頂きたい。

 姉小路氏は、北家藤原氏の師尹(藤原道長の祖父の弟)に始まる。建武年間(1334〜1337)に姉小路家綱が飛騨国司に補任されたのが飛騨国司姉小路氏の初めで、土佐国司一条氏・伊勢国司北畠氏と並び「三国司」と称された。

その後応永十八年(1411)におそらく一族の所領争いから家綱の甥の国司・姉小路尹綱が突如として挙兵し、京極氏・斯波氏の追討に遭い討死した。その混乱で姉小路氏は三家(小島家・小島向家、又は小鷹利家・古河家)に分裂し、小島家が嫡流となって当初は国司を継いだが、15C末頃になると、「飛騨両国司」と書かれた史料があるので、一時国司が同時に2人存在したことも考えられる。

筆者が確認できる最後の国司は大永七年(1527)に死去した古河家の済俊であるが、弟の高綱も国司となった可能性がある。済俊の子と孫は弘治二年(1556)に江馬氏に攻められて古河家は断絶した。その後三木氏が永禄五年(1562)古河姉小路氏の名跡を継いだ。

 

姉小路氏系図


 三木氏の出自の詳細は不明である。飛騨国守護京極氏の被官であった三木正頼が、姉小路氏の応永十八年の挙兵で軍功を挙げて益田郡竹原郷(現 下呂町)の代官に任じられ、それから勢力を拡大していったという。三木直頼(?〜1544)の代に桜洞城(現 萩原町)を築き、各地の国人を与力衆に編成していった。天文十年(1541)に直頼は本願寺に詣でているが、その時供した「伊藤但馬守」は「三木より上にて候へ共、権勢によって今ハ三木与力の由候」(本願寺日記)と記されている。
 
 天文末から天正年間にかけては、飛騨は上杉氏と武田氏の勢力争いの地となり、三木氏は上杉氏と結び、武田氏は北飛騨の江馬氏をつけ、三木氏を背後から突かそうとした。その後飛騨・越中両国は信濃・越後に対する牽制地として上杉・武田氏の攻略が活発化した。その中で三木良頼は永禄二年(1559)、嫡子光頼(のち自頼)を国司につかせ、自身も永禄五年、姉小路嗣頼と名を改め、従三位権中納言に叙任された。しかし永禄七年には武田家の臣、山県昌景が安房峠を越えて飛騨に侵入し、三木氏も軍門に降り、飛騨国は武田信玄の勢力下に入った。が三木氏は独自に活動を続け、自頼に斎藤道三の娘を迎え、斎藤氏と結び、のち織田信長との関係を深めた。
 
 武田信玄や上杉謙信は元亀から天正初めにかけて亡くなり、織田氏と結んでいた三木氏の勢力は伸張した。謙信死去の翌年、天正七年(1579)には松倉城(高山市)を修築しここを本拠としている。家督を継いでいた自綱は子や兄弟を謀殺し、本能寺の変に乗じて攻撃してきた江馬氏や同盟していた国人も悉く滅ぼし、ついに天正十一年(1583)、三木氏は飛騨の統一を遂げた。
しかし、わずか二年後の天正十三年、金森長近の飛騨攻略で自頼は降伏し京都に逃れ、子の秀綱・三木(鍋山)元綱は松倉城で篭城、陥落後逃走中に殺され、三木氏は滅亡した。

三木氏系図

【姉小路・三木氏の一族・家臣団】

・鍋山顕綱【なべやま・あきつな ?〜1583(天正11)】
豊後守。実は三木自綱の弟。鍋山氏を継ぐ。三木氏の飛騨平定に障害があったものか、天正十一年に妻ともども殺されている。

・鍋山元綱【なべやま・もとつな ?〜1585(天正13)】
自綱の末子。豊後守。顕綱のあと、鍋山氏を継ぐ。金森氏の飛騨攻略に抵抗したが、叶わず兄秀綱の拠る松倉城に篭ったが落城。逃走中に兄弟で殺された。

・一宮国綱【いちのみや・くにつな ?〜1585(天正13)】
右衛門大夫。姓は山下とも。入道して一宮入道三沢(さんたく)と号す。三木自綱の妹婿となり、三木一族に列し三木国綱と称す。金森氏の飛騨侵攻に際して捕らえられたが領民の嘆願で赦免。しかし金森氏の支配に不満をもち蜂起。合戦に敗れ討ち取られる。俗にこの蜂起を「三沢の乱」という。
2000/2/20改訂(没年の訂正、肥後もっこす(仮)様の御教授による)

・塩屋秋貞【しおや・あきさだ ?〜1583(天正11)】
筑前守。三木氏の重臣。はじめ尾崎城(丹生川村)に拠り、のち塩屋城(宮川村)に移る。越中方面に主に活躍したが、上杉氏と三木氏との交渉を取り持つうち、関係を深め、永禄十一年(1568)に上杉氏に臣従。飛騨の目代に任ぜられた。天正十一年討死。

・広瀬宗城【ひろせ・むねしろ ?〜1583(天正11)】
山城守。天正十一年、三木自綱とともに牛丸綱親を攻め、敗死させた。しかし、同年の九月には自綱によって殺された。

・内ヶ島雅氏【うちがしま・まさうじ ?〜1547(天文16)】
兵庫介。内ヶ島氏は大野郡の国人。出自は不明。天正十三年(1585)の大地震により居城の帰雲山(白川村)が崩壊、一族すべて滅亡したという。

・内ヶ島氏理【うちがしま・うじとし? ?〜1585(天正13)】
雅氏の嫡子。天正十三年の大地震で死亡、一族は滅亡した。

・江馬時盛【えま・ときもり ?〜1573(天正1)】
常陸介、右馬頭。時経の子。武田氏につこうとしたが、長子輝盛が上杉氏につこうとしたので対立し、輝盛に殺された。 江馬氏は北飛騨の高原郷(現 神岡町・上宝村)に勢力を張っていた国人(居城は諏訪城)。平清盛の弟、常盛の子輝経が祖という。一時三木氏と同盟関係にあったが敵対し、度々合戦に及んだ。

・江馬輝盛【えま・てるもり ?〜1582(天正10)】
常陸守。父や一族をことごとく殺し、江馬氏の実権を一手に掌握。織田氏と結んだ三木氏に対し、本能寺の変に乗じて攻め入ったが、逆に討死を遂げた。

・江馬信盛【えま・のぶもり ?〜1581?(天正9?)】
右馬允。時盛の三男。幼くして寺に預けられたが、山県昌景の飛騨侵入で武田氏に人質として送られ還俗、信玄の家臣となったという。父時盛が輝盛に代わって江馬氏を継がせ、武田氏に忠誠を誓おうとした事も家中騒動の一因という。輝盛によって甲斐に追放された。

・麻生野直盛【あそや・なおもり 1508(永正5)〜1564(永禄7)】
江馬時経の次男。麻生野の洞城に拠ったため麻生野氏を称す。

・麻生野慶盛【あそや・よしもり 1539(天文8)〜1573?(天正1?)】
直盛の嫡子。従兄弟にあたる江馬輝盛に殺された。


【追加分】

2002/4/15追加
・広瀬宗直【ひろせ・むねなお ?〜1585(天正13)】
兵庫頭。宗城の子。金森可重に従い、家名再興に尽力したが果たせず、三木(姉小路)氏滅亡後に他の土豪らの蜂起(三沢の乱)に参加して敗死したという。

・畑安高【はた・やすたか ?〜1585(天正13)】
三木(姉小路)氏の有力武将という。金森氏の飛騨攻めに際して、三木氏は松倉城に籠城して迎え撃ったが、その合戦で討ち死にしたという。


【参考文献】

『岐阜県史』通史編 中世 1969
『岐阜県史』通史編 近世上 1968
多賀秋五郎『飛騨史の研究』 1941
『飛騨下呂』 通史・民俗 1991


【他サイト情報】
飛騨の勢力に関しては、『帰雲城と内ヶ島氏の謎』(赤影様)が内ヶ島氏を中心として、姉小路氏・三木氏等や江戸期の金森氏まで解説しておりおすすめです。

HOMEへ / 武将列伝indexへ