有馬氏


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【有馬氏略史】

有馬氏の出自は大村氏と同様、藤原純友をその租とし、そののち(『寛政重修諸家譜』では八代後)の朝澄が有馬氏の開祖であるとする。しかし宝治元年(1247)六月五日、「有間朝澄」という人物が子、深江入道蓮忍に先祖宗伝の地である「肥前国高来郡東郷内深江浦」の地頭職を譲る文書によれば、朝澄は「左衛門尉朝澄」であり、「藤原」姓ではないことが明らかとなっている。また、別の文書では朝澄が開発した田畑が前の文書中の村内に含まれていて、これは有馬氏が同地域の在地領主であることを示すものであるという。また有馬氏は当初、貫地の有間庄から名を取り、「有間」と称していた。「有馬」と称するのは南北朝期以降であるという。

鎌倉時代、有間氏は『吾妻鏡』に見え、肥前国御家人となって島原半島でいくつかの小地頭職を得ていたと考えられているが、一部地頭職の改易、東国御家人の地頭任命などで鎌倉時代の有間氏はそれほど勢力を伸ばすことのできる存在ではなかったらしい。時代は下って鎌倉幕府が瓦解後、後醍醐天皇による建武の新政が開始されると、有間彦五郎入道蓮恵がかつて奪われた地頭職の回復を雑訴決断所に訴えていることが分かるが、結局は退けられている。

それ以後、南北朝・室町期の有馬氏については史料がほとんど存在せず、動向がよく分からないという。わずかに貞和六年(観応元年、1350)、有間次郎三郎澄世が足利直冬について活動し、応永元年(1394)には南朝側についていること、また有間鬼塚彦七郎澄明が文和三年(1354)九月から翌年十一月まで南朝側に付いているのが確認されるのみという。

戦国初期に入った文明二年(1470)、有馬貴純は大村家徳を松浦に逐い(『北肥戦誌』)、同六年にも大村領に侵入、大村純尹を松浦郡の島に逐ったが、純尹は同十二年に渋江氏の加勢を受けて大村を貴純から奪回した(『大村家覚書』)という伝承が残っている。しかし、外山氏は、有馬貴純でなく、子の尚鑑が大村を攻撃したという記録(『大村記』)など、諸書の記述が一致しないことから、事実ではないであろうと指摘している。

その後有馬氏は島原半島で徐々に勢力を強め、戦国初期までに半島の国人や土豪などをほぼ被官化していたと考えられるという。これに対応して、有馬氏は日野江城から移って新たに原城を居城とした。その中で有馬貴純は明応三年(1494)、肥前など五か国の守護であった少弐政資を擁して周辺の勢力とともに松浦氏を攻め、平戸松浦氏の当主松浦正(のち弘定)を筑前に逐った。この戦功により貴純は少弐氏より恩賞として領知を与えられ、これが有馬氏隆盛の礎になったとされる。天文八年(1539)には有馬氏は肥前守護に就いていたことが知られる(『大館常興日記』七月三日条)。当時、有馬氏は肥前国最大の勢力に成長を遂げていたのであった。

その勢力の大きさが伺える出来事として、大村氏の家督を晴純の二男、純忠が相続したという出来事があげられる。それ以前、純忠の養父である純前の母が有馬貴純の娘、妻も貴純の嫡男である尚鑑(純鑑)の娘であったとされ、純前が兄良純を差し置いて家督を相続したことも背景に有馬氏の力があり、純忠の入嗣も有馬氏が大村氏に影響を及ぼしたものであったと考えられている。このように、有馬氏は周辺領主との婚姻関係を利用して影響力を強めていったのであった。

しかし、龍造寺氏が急激に勢力を拡大するに従って、有馬氏は徐々に圧迫を受け、晴純の子、義直(義貞)のときには旧領である高来郡一郡のみを保つまでに勢力を弱めた。この義直の頃、有馬氏領内にキリスト教が広まり、義直の子、晴信の天正十年(1582)に千々石ミゲルら少年遣欧使節を派遣した。

天正十二年、有馬晴信は島津氏と協同して龍造寺氏と戦い、当主隆信を討ち取った。その後豊臣秀吉に臣従、朝鮮出兵にも出陣、関ヶ原合戦に際しては加藤清正の宇土城攻めに子の直純を派遣して徳川家康より本領を安堵された。しかし晴信はその後ポルトガル船の焼き討ち、岡本大八事件などがあって甲斐に配流され、切腹を命じられた。晴信の子、直純は父の配流後も家康との関係が深かったためにそのまま家督相続を許され、慶長十九年(1614)には日向国に加増転封、その後は元禄期に領民逃散の罪を得て改易されるも、越後糸魚川を領してのち越前丸岡を与えられ、そのまま明治を迎えた。

有馬氏系図

【有馬氏の一族・家臣団】

・有馬義純【ありま・よしずみ 1550(天文19)〜1571(元亀2)】
義貞の長男。元亀元年に父義貞の隠居を受けて家督を継ぐが、翌年に急死。わずか二十二歳であった。

・有馬純忠【ありま・すみただ 生没年未詳】
備中守。義貞の末子。大村氏に養子に入った純忠とは別人(叔父にあたる)。『寛政重修諸家譜』によれば家臣となったという。兄の純実も記述はないが、家臣になったようである。

・千々石直員【ちぢわ・なおかず ?〜1570(元亀1)】
晴純の二男。千々石氏の養子となる。元亀元年の龍造寺氏侵攻の時、父義直を援助するために出陣し、討死した。

・有馬純貞【ありま・すみさだ 生没年未詳】
晴信二男。右京亮。直純の異母弟。幼名が「高麗曹司」とあることから、朝鮮出兵の頃に誕生したものであろうか。

・安富徳円【やすとみ・とくえん 生没年未詳】
左兵衛尉・越中守。実名不詳。徳円は法名。安徳城主安徳純俊(徳)の兄弟で、妹か姉が有馬義貞の妻となっている。もと僧籍にあって還俗し、有馬晴純時代より晴信に至るまで老職にあったという。有馬氏直轄地の有家の代官も兼任。
 ルイス・フロイスは「賢明で博識の人物」と評価している。天正十二年の龍造寺氏の有馬氏への侵攻に際して、有馬氏宿老中ただひとり龍造寺氏へ寝返らなかった。その際、島津氏への援軍要請に赴いている。受洗名ジョアン。代々老職の家となったが、江戸前期の寛文七年(1667)に子孫が誅せられて断絶した。

・山田純規【やまだ・すみのり? 生没年未詳】
兵部。父主計頭某は有馬貴純・尚鑑の時代に老職であったとする。娘が有馬晴信の妻(直純の母、早世)となっているので、おそらく純規も上級家臣団の一人であったと思われる。

・久能賢治【くのう?・かたはる 生没年未詳】

武蔵守。有馬義貞時代の「国老」。国老中、数少ない新参で、貴純時代に先祖である久能与八郎が家臣となったことに始まるという。しかし子の純能のときに断絶した。

・堀純政【ほり・すみまさ 生没年未詳】
久能と同じく、義貞時代の国老という。

・鷹屋純次【たかや・すみつぐ 生没年未詳】
晴信時代の国老という。久能氏と同様、有馬一門ではない家臣であるという。

・島原純茂【しまばら・すみしげ 生没年未詳】
ルイス・フロイスによれば、後述の西郷純堯とともに「同国(有馬領)のもっとも身分の高い殿のうちの二人」とされていた。仕置にあたる老職ではなく、合戦の際に指揮をとる大身家臣であったようである。安富徳円の娘を妻とする。
 キリスト教と距離を置き、有馬氏も妥協せざる得ない程勢力を持っていた。龍造寺氏の侵攻に際しては西郷氏と共に平戸に逃れている。

・島原純豊【しまばら・すみとよ 生没年未詳】
純茂の子。キリスト教で対立していた古賀氏を暗殺している。

・西郷純堯【さいごう・すみあき 生没年未詳】
南北朝期以降、伊佐早村に居住。有馬氏家臣としてこの地域を中心に活動していた。父純久は有馬晴純の実弟で、養子として西郷家に入った。弟は深堀純賢。有馬氏城下に出仕はせず、半独立的家臣であった。フロイスは「伊佐早殿」と称したという。キリスト教に関心を示さず、大村純忠の暗殺を謀ったりし、有馬義貞はキリスト教入信をその影響力から躊躇している。
 一時子息を有馬義貞の養子にして相続者とする事に成功。晴信を自らの養子としたが、不成功に終わる。

・西郷信尚【さいごう・のぶなお 生没年未詳】
純堯の子。純尚とも。龍造寺隆信の有馬氏侵攻に際して龍造寺氏に寝返る。「信」は龍造寺隆信の偏諱と思われる。

・谷川純之【たにがわ・すみゆき 生没年未詳】
義貞時代の国老だった弾正左衛門の子。罪を犯し弟の純奔とともに断絶した。


【参考文献】

外山幹夫「有馬氏の領国支配」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』49、1995)
同氏『中世九州社会史の研究』 1987
阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典(コンパクト版)』(新人物往来社、1990)
『新訂 寛政重修諸家譜』12


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