蘆名氏

参考:東北地方詳細図(別のウィンドウが開きます)

【蘆名氏略史】
蘆名氏は相模国三浦郡蘆名村から起こった三浦氏の一族である。三浦義明の七男、佐原義連を蘆名氏の祖とし、この義連が文治五年(1189)の奥州征伐の功で会津地方に所領を得たという。義連の子で盛連の四男、光盛が三代目を継ぎ、長男は猪苗代氏の祖となった。なお「蘆名」を称したのは光盛の時代からである。本格的に会津に土着するのは七代直盛(1323〜1390)の時代で、このときに現在の会津若松に城を築き「鶴ヶ城」と名づけ、城下を黒川としたという。

 蘆名氏の南北朝時代・室町前期の動向は不明である。15C中頃になると、嫡流と庶流との勢力争いが頻発している。
また、この頃には蘆名氏は伊達氏の娘を娶ったために、友好的な関係を結んでいた。伊達稙宗と父尚宗の争いに関与したり、伊達氏と最上氏の争いにも参加し、伊達側を援助している。十五代盛舜の時代には、蘆名氏は実質的に「会津守護」(本来存在しないが室町時代から蘆名氏が自ら称している)として各地に転戦し、朝廷からも会津の支配者、という認識をされていたようである。

 蘆名氏は十六代盛氏の時代が全盛時代である。畠山氏・田村氏・二階堂氏などを次々と配下とし、越後国の一部まで勢力は拡大した。しかし蘆名氏の全盛時代はここまでであり、当主の早世や暗殺などであっけなく支配体制は弱体化していった。
二十代当主は伊達氏か佐竹氏から迎えるかで家中が対立し、結果的には金上盛備の進言で佐竹義重の次男を迎えるが、これが伊達氏との摺上原合戦を引き起こすきっかけを内包していた。

 天正十七年(1589)、伊達氏と蘆名氏は摺上原で戦い、激戦の末蘆名氏は敗れ当主義広は実家である佐竹に戻り、蘆名氏は滅亡した。
なお、血脈は針生氏によって保たれ、伊達家の家臣となり存続した。

蘆名氏系図

【蘆名氏の一族・家臣団】

・蘆名亀若丸【あしな・かめわかまる 1583(天正11)〜1585(天正13)】
盛隆の子。盛隆謀殺の前の月に誕生する。産屋に入ったまま喪に服したという。重臣の後見で難局を乗り切ろうとしたが天正十三年に疱瘡で死去。

・針生盛信【はりゅう・もりのぶ 1553(天文22)〜1625(寛永2)】

盛幸の孫。天正四年(1576)金上盛備の子、盛実と席次を争っている針生民部が盛信である。天正十年には上杉氏と蘆名氏の盟約について交渉している。針生盛幸は蘆名盛滋の子。金上氏と共に家老の上位の別格に位置していた。蘆名滅亡後、伊達家臣となり、盛信の次男実信は大坂の陣に父の替わりに参陣している。

・金上盛実【かながみ・もりざね 生没年未詳】
盛備の長子。盛備の摺上原での討死後も、引き続いて伊達氏に対抗する。豊臣秀吉も鉄砲や弾薬を送り抗戦を励ますなどしていたが、天正十七年降伏。そのまま居城である津川城代とされたが、翌年罷免。その後の消息は不明。

・富田滋実【とみた・しげざね 生没年未詳】
左近将監。蘆名氏四天宿老の一人。天文七年(1538)の黒川城下大火の際にすでに存在している。永禄九年(1566)の伊達氏と蘆名氏の和議の血判起請文に他の三名の老臣とともに署名。富田氏は松本氏と同様、会津地方土着の豪族であったと考えられるという。
2001/3/21加筆

・富田氏実【とみた・うじざね 生没年未詳】
美作守。滋実の子か。元亀三年(1572)、村境の争論に際し調停を行った。子の富田将監(隆実)は蘆名氏滅亡後、相馬氏に仕えて家老となり、元和三年(1617)時点で相馬氏の領地の一郷を管轄していた。
2002/8/25加筆

平田宗範【ひらた・むねのり 生没年未詳】
蘆名四天の一人。天文十三年(1544)、渋河源左衛門尉に蘆名盛氏の承認の下で土地を売却している。平田氏は蘆名氏譜代の直臣で、室町時代初期に蘆名氏により滅ぼされた新宮氏の根拠地を与えられたと考えられるという。
2001/3/21加筆

・平田実範【ひらた・さねのり 生没年未詳】
永禄九年の血判起請文に署名。四天の一。宗範の子か。

・平田常範【ひらた・つねのり 生没年未詳】
是亦斎。永禄十一年、上杉家臣河田長親に対して上杉と蘆名の友好を求める書状を送っている。

・平田輔範【ひらた・すけのり 生没年未詳】
左衛門尉・尾張守。天正九年、栗村某に蘆名盛隆の承認の下土地を売却している。なお、栗村氏も蘆名氏の重臣である。天文九年、同七年の黒川城下火災で焼失した諏訪社が再建されたときの棟札に名を連ねる。以前「常範の子か」と記したが、天文九年当時、常範の名が見えないため、常範と輔範は親子関係ではないとみられる。
2001/3/21加筆

・佐瀬貞藝【させ・さだのり 生没年未詳】
大和守。永禄五年(1562)蘆名氏の寺領寄進に際し、奉行として署名している。佐瀬氏は千葉氏の流れを組み、下総国佐瀬郷より出たという。代々諱に「常」を用いるのも千葉氏一門であるからという。
2001/3/21加筆

・佐瀬種常【させ・たねつね ?〜1588(天正16)】
大和守。貞藝の養子とされる。天文七年(1538)の黒川城下の大火で蘆名氏の居館も焼失したので、その再建まで盛氏が種常の屋敷に一時期居住した。摺上原合戦で討死。
2001/2/11加筆

・佐瀬常藤【させ・つねふじ 生没年未詳】
永禄九年の血判起請文に署名。四天の一。貞藝との関係は不明。

・松本氏輔【まつもと・うじすけ ?〜1574(天正2)】
図書助。永禄九年の血判起請文に署名。四天の一。この血判起請文の署名の位置から考えると、筆頭は松本氏、次が平田、佐瀬、最後に富田氏の順になるようである。天正二年(1574)、田村清顕を攻めた時に敗死。敗死したのは「氏興」との記録もあるが、詳しくは「Making of 蘆名氏」を参照されたい。

・松本行輔【まつもと・ゆきすけ 1569(永禄12)〜1584(天正12)】
氏輔の子か。「図書一子太郎」とあるのでほぼ間違いないであろう。松本氏は「輔」の字を通字としていたと思われる。天正十二年に栗村下総と共に盛隆の留守中、謀叛を起こし黒川城を占拠するが盛隆に討たれた。謀叛を起こしたのは蘆名家からの冷遇とされるが、たしかに松本氏は蘆名氏当主の片諱を与えられている(氏輔の父舜輔は盛「舜」、氏輔は盛「氏」を与えられていると考えられる)が行輔の「行」はこれを名乗る蘆名当主が存在していない。

・須江光頼【すえ・みつより 生没年未詳】
蘆名氏家臣。上杉氏や特に伊達氏との交渉に活躍した模様である。
1999/10/26改訂(須江光頼を「上杉家臣」としていたのを訂正。)


【追加分】

1999/12/16追加
・佐瀬常雄【させ・つねお 1568(永禄11)〜1588(天正16)】

種常の養子。富田氏実の二男という。摺上原合戦に養父種常と共に出陣。総崩れののち、敵中に駆け入り戦い、深手を負って退く。退却中に落命した。

2001/3/21追加
・猪苗代盛頼【いなわしろ・もりより ?〜1541(天文10)】
盛国の父か。天文十年(1541)十二月下旬、蘆名氏に対して謀叛を起こすも翌年正月五日には降伏した。「異本塔寺長帳」には「猪苗代三浦弾正盛頼謀叛に付き、黒川より富田并佐瀬氏大勢囲んで攻める。猪苗代散
(「さんざん」と読むか)に敗す。」と記されている。

・佐瀬常教【させ・つねのり 生没年未詳】
大隅。天文五年六月、黒川の実成寺宛の諸役免許状に「指南」として署名している。

・平田盛範【ひらた・もりのり 生没年未詳】
石見守。天文七年の黒川城下火災の時、焼け残った盛範の屋敷に蘆名盛舜を迎えている。また同九年、黒川城下の火災で焼失した諏訪社が再建されたときの棟札にも名を連ねている。

・松本舜輔【まつもと・きよすけ 生没年未詳】
図書助。氏輔の父であろう。天文七年の黒川城下火災では舜輔の屋敷も全焼した。同九年、諏訪社の再建がなったとき、棟札に署名している。同時に庶流と思われる松本輔光(伊豆守)の署名もみられる。

・平田舜範【ひらた・きよのり 生没年未詳】
左京亮。天文九年の諏訪社再興の棟札に署名している。「舜」は蘆名盛舜からの片諱と考えられる。

・栗村盛種【くりむら・もりたね 生没年未詳】
下総守。天正十二年(1584)、松本行輔と共に謀叛を起こした栗村下総と同一人物か父・祖父に当たると思われる人物。天文二年に松本良輔と共に諏訪社の争論の裁決を行ったほか、天文九年の諏訪社再興の棟札にも署名がある。


【参考文献】

『会津坂下町史』歴史編 1979
『会津若松史』第1巻 1967
『会津若松史』第8巻 1967
『戦国大名系譜人名事典 東国編』 1985
『仙台叢書 伊達世臣家譜」』第一巻 1975復刻
小島一雄『会津人物事典(武人編)』 1993
岩崎俊夫・佐藤高俊校訂、岡田清一校注『相馬藩世紀』第一、続群書類従完成会、1999


【他サイト情報】
蘆名氏の重臣、平田氏に関して、ご子孫の平田あつみ様が開設なさっているサイト『平田家』があります。

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