別所氏

参考:中国地方関係図(別のウインドウが開きます)

【別所氏略史】
別所氏は赤松氏の庶流で、赤松則村の弟の子、敦光が「別所五郎」と称したことに始まるとする。「別所」の地名は播磨国に二ヶ所あり、そのどちらが本貫地かはあきらかでない。

嘉吉の乱においては別所氏も赤松氏の下に参じ、共に篭城した。その後15C末になって別所則治は、播磨に侵入した山名政豊が赤松政則を破った時在京していたが、浦上則宗に追われて播磨を逃れてきた政則を堺で保護、政則を擁して播磨へ戻り、山名氏を破っている。

この戦功によって則治は政則より東播磨八郡を与えられて当該地域の守護代的役割を果たすことになり、別所氏は三木城に拠ることになる。

則治の孫、村治は父の早世によって十代半ばで家督を継ぐが、おりしも赤松義村と浦上政宗の対立が激化した頃にあたっており、家中の統一がとれずに村治は義村側、叔父は政宗側についたという。叔父は対立の中で死去したが、東播地域の領主は浦上氏に対抗したので浦上氏の攻撃を受け、享禄三年(1530)には浦上氏に城を奪われて一時流浪の身となった。

翌年に浦上政宗が戦死して赤松氏の勢力が回復すると、別所氏も三木城に復帰するが、今度は天文末〜弘治年間にかけて三好氏の攻撃を受け、勢力拡大どころか回復すら望める状況ではなくなっていた。

しかし永禄末頃からは再び勢力を回復してきた別所氏は足利義昭を奉じた織田信長の入京に兵を派遣し、天正三年(1575)には恭順の意を示し、織田氏に組した。

天正六年、中国征伐に際して総大将の豊臣秀吉と別所氏重臣の間で意見が対立、別所氏は毛利氏に組する事を決した。そして丹波の波多野氏と共に挙兵、織田氏の中国地方進出に大きな障壁となった。当初は難攻不落を誇る三木城であったが、秀吉の「三木の干殺し」と言われた兵糧攻めによってついに天正八年に別所長治の切腹によって開城した。

三木氏は長治の叔父、重宗が織田氏についたので滅亡はせず、子の吉治のとき丹波園部に移り関ヶ原を迎え、その後も続いたが、寛永五年(1628)、吉治が仮病と偽って参勤交替を怠り、鷹狩をしていたことが発覚して改易され、別所氏は断絶した。

別所氏系図

2001/6/3系図改訂

【別所氏の一族・家臣団】

・別所賀相【べっしょ・よしすけ ?〜1580(天正8)】
山城守。吉親とも。長治が幼年の頃より後見する。兄弟の重棟(重宗)と不仲で、別所氏が謀叛した一因として、主戦派の賀相が和平派の重棟を失脚させたこともあるという。長治・友之兄弟と共に自刃の折、一人だけ曲輪に篭ろうとしたため家臣に殺されたという。

・別所友之【べっしょ・ともゆき 1560(永禄3)〜1580(天正8)】
長治の弟。長治とともに自刃。

・別所盛相【べっしょ・もりすけ ?〜1580?(天正8?)】
紀伊守。安治時代に存在が確認される。永禄〜元亀年間の頃か。下の別所家敏とともに書状に連署しているほか個人で「上月左近将監」に対し返事を送ってもいる。

・別所家敏【べっしょ・いえとし 生没年未詳】
大和守。始め福原与十郎家敏と称したが、功があり別所の苗字を与えられたらしい。福原右馬助(詳細不明)の祖父という。

・淡河定範【おうご・さだのり ?〜1580?(天正8?)】
弾正忠。淡河城主で長治と縁戚関係にあり、共に信長に叛く。羽柴秀長の攻撃を撃退したものの、大軍に対抗する為に城を焼き、三木城に退き別所長治に合流した。

・三宅治忠【みやけ・はるただ ?〜1580(天正8)】
別所氏の重臣。別所賀相と共に秀吉の陣に赴くが無下に扱われたために謀叛を勧めたという。三木落城の時に長治の介錯ののち自刃。治忠は家老の家柄であったが家老職に就けなかったため長治に不満を持っていたが、長治の死後の供をするものがいないから、と自刃したという。

・中村忠滋【なかむら・ただしげ 生没年未詳】
別所氏の家臣。羽柴軍に娘を人質にして内応を約束するが実は計略で、羽柴軍を敗退させたため娘は殺された。落城後綾部に潜んでいるところを発見されて捕らえられたが、娘を犠牲にして主家に尽くしたことを認められて中村一氏の与力になったという。


【参考文献】

『兵庫県史』第3巻 1978
『兵庫県史 史料編』中世9(1996)・7(1993)・3(1988)・2(1987)
黒部亨『ひょうご合戦記 戦国の武将たち』 1998
渡邊大門「播磨国別所氏系譜試論」(『駒沢史学』56、2000)


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