掲示板 「無名庵」過去ログ その三
No.101〜150(1999/12/27〜2000/2/07)

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[150] はじめまして&ご無沙汰です。 投稿者:くらのすけ 投稿日:2000/02/07(Mon) 00:35
こんばんは。自分の最後の書き込みがすでに先月のことでした。
そんなに経ってないような気がするんですが…

>宮野州さま
はじめまして。
HP、完成したらお知らせください。リンクさせていただきますので。
北関東というと、那須とか宇都宮とかですか?

>天神さま
御無沙汰しておりました。御元気でしたか?
現在、中国地方を中心に、ということでアップしているので
今回は赤松氏です。つぎつぎにマイナー系大名を
アップしていきますよ(笑)。頑張ります。

>肥後もっこす(仮)さま
ありがとうございます。そうですか、右馬助→信濃守に
変えているようなのですか。
どこかの論文で見ましたが、戦国武将の殆どが
「官途名→受領名」と展開していくんだそうですよ。
そう考えると、同一人物なんでしょうね。
あと、血縁関係は長智の親という線はかなり確実なんですか?

ところで、「官職」と「官途」とはどういう違いがあるんでしょうか。
「官職」は「官途」「受領」の両方を指すんでしょうか。
「官途」って歴史辞典にも載っていないようなので。

ではこのへんで。

[149] 深水頼金のこと 投稿者:肥後もっこす(仮) 投稿日:2000/02/06(Sun) 10:53
いまだに調べてたりします(^^;
『中世九州相良氏関係文書集』によると、
官途は初め右馬助だったようです。
「伊集院孤舟等連署起請文写」永禄5(1562)年6月21日
には、深水右馬助頼金と書いています。
「相良氏老臣連署書状写」天正5(1577)年?11月5日
では、深水信濃守頼金としていますが。
右馬助が従六位下、信濃守が従五位下ですから、
この間に地位が向上したんでしょうかねぇ?
まあ、どうせ私称なんでしょうけど(^^;

あと、血縁関係ですが、いまだにちっとも分かりません。
以前名前を出した深水長命との繋がりも?です。
ただ、深水家の菩提寺を長命が建てていて、そこに長智も葬られたんですよね。
だから血の繋がりはあると思うのですが、証拠が見つからなくて……。
繋がってるとしたら、たぶん
長命―頼金―長智 か 長命―○―頼金―長智 と思いますが。

[148] 始めまして 投稿者:宮野州 投稿日:2000/02/06(Sun) 06:14
お初にお目にかかります。
中小大名に注目されたHPにはとても興味があり書き込ませて
頂きました。
実は私も北関東を中心とした戦国系のHPを開こうかな・・・
と考えているものです。
(系図、人物紹介、合戦など)
ここのパクりだと思われないようなものを作らないといけません(笑)
いつになるかわかりませんが、そのときは1度ご来訪ください。
それではまた。

[147] お久しぶりです♪ 投稿者:☆彡天神 投稿日:2000/02/04(Fri) 01:26
ごぶさたしておりました。
赤松氏をUPなさっていたのですね。
赤松氏といえば今の岡山東部や兵庫南部を領地としてもっていた
守護大名ですよね〜。
ここはちらっと見ただけでも小勢力がいっぱいあるところだし
大変だったのでは?
これからも頑張ってください♪

[146] 何も無くてすみません… 投稿者:くらのすけ 投稿日:2000/01/31(Mon) 00:36
>味舌さま

2000hitにつづき、4000hitもとのことで、
おめでとうございます。
これくらいしか出来ることが無いので申し訳ないのですが。

ブーさまの件は、全然問題ないと思います。
みなさん、それぞれにくわしくて、こちらも色々と
教えていただく形になっています。ありがたいです。

なお、更新が滞っておりますのは、新たなコンテンツ作成のため、
というより、毎年恒例のこの時期のテストやらレポート提出やらに
追われているためであります。
コンテンツもぼちぼち手をつけてはいますが、テスト明けに
大々的に登場!というわけにはいかなそうです。

本来、味舌さまのところの掲示板に書き込むべきですが、
もう時間が迫っておりますのでこれにて失礼致します。

[145] 2000に続き4000HITを踏みました。 投稿者:味舌政宗 投稿日:2000/01/28(Fri) 19:49
管理人様こんばんわ。お久しぶりです。この間ブー殿の書きこみで
はボケていてぜんぜんピントはずれ名回答をいれてしまいました
...。
さて、4000HIT目2000HITに続いて私が頂いてしま
いました。最近のこのページの充実振りは目を見張るばかりです
更新が滞っておられるようですが、また新たな更新があるんで
しょうか。楽しみにしております。
それでは。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~masita/clubindex.htm


[144] 過去最長の… 投稿者:くらのすけ 投稿日:2000/01/27(Thu) 00:48
くらのすけです。
更新が滞っております。
過去最長の空白期間になりそうです。
暫くお待ちください…

[143] すいません、忘れてました。 投稿者:くらのすけ 投稿日:2000/01/22(Sat) 17:43
KUBOさま
> > ところで慶広の母親はこの2人のどちらかでしたっけ?
>
> えっと、これはどういうことでしょう? 慶広の母は河野季通の娘ですが...

すっかり忘れてこのような発言になりました。失礼しました。
たしか「お、この河野という家は慶広の母方の家なのか、それなら
加えてみようかな」などと考えていた事がありました。(結局加えてませんが。)

[142] Re[141]: やっぱり西国は… 投稿者:KUBO 投稿日:2000/01/22(Sat) 00:39
>くらのすけさん

> やはり2人を迎えているのですね。それだけ下国氏の「歴史的
> 位置」が高かったということですかね?

それはそうでしょうね。元々は主筋に当たりますからね、下国氏は。
だからこそ、江戸時代になっても蠣崎・松前一族以外としては唯一家老職を出す家柄になってますし。

> ところで慶広の母親はこの2人のどちらかでしたっけ?

えっと、これはどういうことでしょう? 慶広の母は河野季通の娘ですが...

[141] やっぱり西国は… 投稿者:くらのすけ 投稿日:2000/01/21(Fri) 01:15
どうもこんばんは。

吉川経家のことで盛り上がっていらっしゃるようですね。
しかし、自分は本当に西国に弱いですね。
皆さんの解説がいまいちピンときません。
ほとんど事件をしらないので。(大きなものは知ってますけれど)

>KUBOさま
やはり2人を迎えているのですね。それだけ下国氏の「歴史的位置」が
高かったということですかね?
ところで慶広の母親はこの2人のどちらかでしたっけ?

>ブーさま
柚木崎丹後守の諱は正家というのですか。
あと、江里口信常の逸話とそっくりというのが興味ありますね。
と、いうことはその話は作り話なんでしょうか?
個人的には一番初めの「薩摩琵琶歌」の逸話がいいですが、
おそらく戦国時代には「二君に仕えず」という思想はまだ
形成されていないでしょうね。

柚木崎正家という人物は、なかなか面白そうなので
「日向記」を読み返してみます。

ではでは。

[140] 感謝,感謝 長年の懸案がやっと 投稿者:プー 投稿日:2000/01/20(Thu) 23:32
 KUBO様
 早速,ご回答いただきとても感謝しています。経家について鹿児島の図書
館で調べてみましたが今までずっと分かりませんでした。長年の疑問がやっ
と解けました。感謝,感謝。

 味舌政宗様
 吉川家の内紛の様子がとてもよく分かりました。朝早くから本当にありが
とうございました。今後ともよろしくお願いします。




 

[139] ごめんなさい。間違っておりました 投稿者:味舌政宗 投稿日:2000/01/19(Wed) 19:44
>ブー様
 すみませんでした。下の書きこみの件KUBO殿のおっしゃる
とおり私自身が吉川広家と吉川経家を取り違えておりました。
朝早くレス付けたので寝ぼけてたみたいです。大変申し訳ござ
いません。私のレスの上のKUBO殿の書きこみが正解です。

>KUBO様
 ご指摘大変有難うございました。完全に取り違いをしておりまし
たこの場をお借りして御礼及び謝意を申し上げます。
 

http://www5a.biglobe.ne.jp/~masita/clubindex.htm


[138] RE:吉川経家について 投稿者:KUBO 投稿日:2000/01/19(Wed) 07:20
味舌政宗さんのおっしゃっているのは、関ヶ原で毛利を西軍に参加させなかった「広家」のことじゃないですか? 確かに彼は元春の二男ですけど、プーさんがおっしゃっているのは鳥取城主だった「経家」のことだと思います。
経家は元経の弟経世の子で興経の従兄弟になります。ちょっとうろ覚えですが、興経は最後は重臣に離反されて、当主の座を追われますけど、経世は興経と対立していた重臣の一人だったと思います。興経を追い出して元春を迎えたわけですから、毛利に殉ずるのも当然といえば当然かもそれません。

[137] Re[136]: 吉川経家について 投稿者:味舌政宗 投稿日:2000/01/19(Wed) 06:56
>  吉川経家について
>  元経,興家とどのような関係にあるのでしょうか。毛利に乗っ取られた吉
> 川の一族がどうしてそこまで毛利に殉じたのでしょうか。詳しい経緯や系図
> をご存じの方がありましたらご教示ください。

こんばんわ。はじめまして味舌(ました)と申します。
吉川経家と元経、興経の関係ですがこれに関していうと経家は
かれらの直系ではありません。元経は毛利元就の妻妙久(実名不明
のためこのように記載します。)の兄で元就の義兄であり興経は
その元経の子供になります。本来の吉川氏は興経が直系となるので
すが元就の次男元春の吉川家入嗣により興経は家督から追い出され
殺害されてしまいました。その経緯は大内氏の月山富田城の戦いで
大内方に属しながら戦いの途中尼子に寝返ったため大内氏は大敗北
を喫して、元就も煮え湯を飲まされました。その当時吉川氏におい
興経は寵臣を登用し一門である吉川経世(妙久の弟)たちと対立し
経世一派が元就と結びつき元春の入嗣を実現させました。
興経には嫡男がいたのですが、元就により幽閉され最後は殺害され
ました。経家は祖母(妙久)を通して吉川の血をひくものではあり
ますが吉川元春の息子つまり毛利元就の孫にあたり毛利一門である
のです。したがって吉川氏といえども実態は毛利氏であったのです
だから毛利宗家の一大事に藩屏となって殉じたのでしょう。
系譜について新人物往来社の「戦国大名系譜人名事典(西国編)に
載っております。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~masita/clubindex.htm


[136] 吉川経家について 投稿者:プー 投稿日:2000/01/18(Tue) 22:45
 くらのすけさん こんにちは。
 よく地元の人も知らないような武将を集めましたね。感服します。

 吉川経家について
 元経,興家とどのような関係にあるのでしょうか。毛利に乗っ取られた吉
川の一族がどうしてそこまで毛利に殉じたのでしょうか。詳しい経緯や系図
をご存じの方がありましたらご教示ください。

 柚木崎丹後守正家について
 高岡町誌にいくつか説がありました。肥後内田荘が出自でこのころ,柚木
崎城主,内山衆去川の役人。日州一の槍突き。
 木崎原合戦で敗走中,一人とどまり追っ手の島津軍を,廿八まで弓で射落
とし,追っ手の島津兵はひるんで進めずそのすきに伊東の敗走兵は退くこと
ができた。島津忠平に呼び止められ馬をおりて年少の一子を忠平公に奉る,
忠臣は二君に仕えずと言って自害した。(薩摩琵琶歌:明治25年)

 子孫が昭和59年に建てた慰霊碑には2つあり
・くらのすけさんの言うとおり,敵軍に紛れ忠平を槍で刺そうとするが,忠
平の馬が驚いて前膝を折り,兜の真向を突いてしまい,忠平の部下に討ち取
られた。(日向纂記)江里口信常のような話です。ただ前膝を折ったのは伊
東新次郎の時という説もあります。
・忠平に呼び止められ箭を発せんとするとき忠平に槍で突き刺された。
(三国名勝図会)

 子孫は島津家に取り立てられ,孫は19石でした。西南戦争で,高岡の柚
木崎嘉一郎が死亡しており,あるいは子孫かも知れません。


[135] Re[128]: いろいろ 投稿者:KUBO 投稿日:2000/01/17(Mon) 09:51
くらのすけさん、こんにちは。

> 近いうち、また大幅に改訂するつもりです。(新しい家臣もわかったので。)

 楽しみにしております(^^)

> ということは、師季は季広の二女と九女を迎えていたという事なのでしょうか?

 私の手元にある松前氏の系図は、『松前町史』の史料編に載っていた「松前家記」によるものですが、それによると季広の次女は「家臣下国式部大輔師季入道清観ノ妻」とあり、九女は「家臣下国師季継室」とありますので、師季は季広の次女と九女を妻としていたということになりますね。

[134] Untitled 投稿者:くらのすけ 投稿日:2000/01/16(Sun) 02:14
こんばんは。

まず
>千葉ちゃん様
いつもすいません。変な質問ばかりして。
千葉氏全体を調べていらっしゃるのに重箱のなんとやらみたいで
申し訳ないです。

>ブー様
以前「プー様」と書いてしまいました。すいません。
それと、相良頼貞については鋭い御指摘ありがとうございました。
西日本についてはほとんど分からないもので、家同士の時代関係も
つかめていないのです。

あと、削除の事ですが、書き込みの流れを大事にしたいので、
基本的にそのままにしたいのですが、よろしいですか?

>肥後もっこす(仮)様
また新たな資料の提供ありがとうございます。
「多良木町史」にもそのようなこと(塚があるよ、というようなこと)が
書いてあったのですが、伝承であるという事を強調していたように
みえたので使わなかったのですよ。

また、深水氏の系譜が錯綜しているみたいですね。
系図とかきちんとしたのはないんですかね?
肥後もっこす(仮)様、深水氏について、系譜の検討など
してはいかがですか?論文になりそうですね。

ブー様・肥後もっこす(仮)様の御指摘・御教授によって、
相良頼貞を訂正しました。(日曜日に新しいものとともにアップ予定)
ありがとうございました。

[133] 深水頼金と深水宗芳の関係 投稿者:肥後もっこす(仮) 投稿日:2000/01/15(Sat) 21:38
またもや相良の話題を。
『人吉市史』のある箇所に頼方は頼金の子だと書いてありました。
しかし別の箇所では宗芳(頼金)としています(^^;
さらに相良長毎時代の球磨奉行の一人として、
深水右馬介(宗芳父)という人物を挙げていました。
深水右馬介というのは、次の長祇時代の奉行である、
深水右馬介入道(舜吁)長命と同じ人だと思われます。

……もはや何がなんだかさっぱり分かりません。責任者出てこい!(爆)

[132] 相良頼貞 投稿者:肥後もっこす(仮) 投稿日:2000/01/14(Fri) 20:19
『肥後文献叢書(三)』収録の「新撰事蹟通考」より。
(漢文を適当に(爆)書き下しています)

葦北郡津奈木の地頭となり津奈木の城に居たり。
密かに兄義陽に叛き薩摩に通ず。
義陽兵を遣わしこれを捕らえ八代小谷に幽す。
義陽戦没するにおよび変に乗じひそかに逃げて上球磨に赴く。
近郷これのため駭動す。
島津忠平日向国真幸にあり。
これを聞き使を遣わし頼貞を招きその逆乱をとどめる。
相良の旧臣相議してついにこれを殺す。
その廟城下いまの春光禅寺の右にあり。
相良天神と称す。
すなわち前にいう小谷の地なり。

……こっちの方が真実っぽいですね(^^;

[131] 木幡氏 投稿者:千葉ちゃん 投稿日:2000/01/14(Fri) 09:22
くらのすけさん、こんにちは(^∇^)
岡田氏の系譜ですか!岡田宣胤の子・木幡貞清は木幡勘解由長清のあとを継いだようです(『相馬岡田系図』)。ただあの系譜はいちど見直さなくてはいけない部分があった気がします。
木幡家はもともと相馬氏の執政の家柄で、相馬重胤が下総から行方郡に下ってきた際からの家柄とつたえられています。
伝説的な要素があると思いますが、木幡家の祖は常陸国に住んでいた将門の臣・藤原清名(浮島大夫)であるとされます。その9代目の孫・藤原周防守義清が「木幡」を称して、その玄孫・木幡周防守範清が一族とともに相馬重胤とともに奥州に下り、行方郡目々澤村を与えられ、相馬家執事になったようです。
 その子孫・主水正盛清は、相馬家中の内紛に巻き込まれて殺されてしまったために、相馬氏執事の木幡嫡家は断絶することになります。このとき盛清の妻が子・藤五郎と伊達家に逃れ、藤五郎は伊達家にとりたてられて目々沢丹後守重清を名乗っています。その孫が伊達家一族(でしたか?)の奥山大学常辰です。
結局、木幡家・青田家にかわって相馬氏の筆頭家老になったのは熊川家のようで、中村藩筆頭家老を代々つとめ、現在の相馬野馬追いでも、総大将の相馬さんは熊川家を本陣にしています。
 木幡家の歴史はちょっと複雑で史料も少ないため、結局よくわからないです(T_T)木幡家について自分が参考にしてるのはほとんどが『奥相秘鑑』なのですが、これは信憑性を疑う部分もあったりするんです。木幡継清・木幡高清・木幡清吉については、これまたよくわからないです(T_T)もうちょっと勉強しますね。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~bame/index.htm


[130] くらのすけさんへ 投稿者:プー 投稿日:2000/01/13(Thu) 23:57
 野球のドラフトです。間違いでした。こらからもよろしくお願いします。
 ここの欄はご覧になったら削除してください。

[129] 相良頼貞について 投稿者:プー 投稿日:2000/01/13(Thu) 23:52
 くらのすけさんへ
 ドラフト(別のホームページ)の件は私の勘違いでした。申し訳ありませ
んでした。すばらしいホームページですね。昨日初めて書き込みさせていた
だきました。見つけた時はとっても感動しました。いずれ九州の土持家など
もお願いします。
 相良頼貞について 
 相良頼貞が日向に逃げたのは天正9年12月か翌年の1月ですが,このこ
ろ日向は大半が島津家,ごくわずかな北部は大友家の支配下にあり伊東家の
勢力は天正6年を境に一掃されていると思います。求麻外史の間違いでない
でしょうか。
 柚木崎丹後守について
 実家に高岡町誌がありますので,帰った時にでもまた書き込みしたいと思
います。柚木崎丹後守の死は確か薩摩琵琶の題材になっていたような気がし
ます。

[128] いろいろ 投稿者:くらのすけ 投稿日:2000/01/13(Thu) 23:33
こんばんは。

>ひろし様
はじめまして。ようこそおいでくださいました。
これからよろしくお願いします。

山県昌景ですか…私も良くわからないですけど、
あまり知られてないのですかね?
たしか子孫が越前松平家の家臣になったらしいことは知っているのですが。

>プー様
はじめまして。
柚木崎丹後守、そのような悲しい出来事が…
でも、義弘を殺そうとした人ですよね?
(たしか乗っていた馬が止まったとかだとか)
ところで、私はくらのすけですが、プー様の知っている方
でなはないと思いますよ。
不躾ですけど「ドラフト」ってなんですか?
わたしは「ドラフト会議」しか思いつかないのですが…

あと
>KUBO様
蠣崎氏に関する新たな論文をコピーしたのですが、
それをみたら前述の海保氏論文がこれでもかというくらいに
反論されていました。
なのでなんだか分からなくなっています。
でも、卒業論文を改訂したものというのがすこし怪しい感じもするのですが
…(いや、書いた方に失礼ですね。)
すくなくとも、近藤氏の記述が慶広代からではないようですね。
近いうち、また大幅に改訂するつもりです。(新しい家臣もわかったので。)
あと、蠣崎氏の娘と下国氏の関係ですが、
師季と直季に嫁しているというのはこれで
いいみたいなんですが、ちょっと気になる記述が…
師季の「北方」が季広二女で、重季の「母儀」が季広九女…
師季と重季は父子ですよね?
ということは、師季は季広の二女と九女を迎えていたという事なのでしょうか?
もう良く分かりません。

ではでは。

[127] Re[89]: 伊東つながりってことで・・・。 投稿者:プー 投稿日:2000/01/12(Wed) 21:37
> 日向伊東義祐の家臣に柚木崎丹後守っていう
> 人物いませんでしたっけ?
> ご存知の方いらっしゃいましたら、情報お待ち
> しています。宜しく。
> では。
 うろ覚えで間違っているかも知れませんが・・・ 
 木崎原合戦で敗走中,追っ手の島津義弘(当時は忠平)に呼び止められ,
馬を降りて降伏したのに,気が立っていた義弘に殺されてしまいます。
 あとで後悔した義弘は,子孫を探し出して取り立てています。確か宮崎県
の高岡町誌に載っていたような記憶がありますが。
 くらのすけさんはドラフトのくらのすけさんと同一人物ですか

[126] Re[125]: 山県 昌景について 投稿者:ひろし 投稿日:2000/01/11(Tue) 19:43
> パソコンを始めたばかりで、このページをみて、感激しました。私も歴史lに興味がありまして、武田家臣・山県昌景を調べています。無名ではないのですが、資料に乏しく、満足のいく調査がいきません。詳しいご存知のかたは、教えてください。

[125] 山県 昌景について 投稿者:柳 裕志 投稿日:2000/01/11(Tue) 19:40
パソコンを始めたばかりで、このページをみて、感激しました。私も歴史lに興味がありまして、武田家臣・山県昌景を調べています。無名ではないのですが、資料に乏しく、満足のいく調査がいきません。詳しいご存知のかたは、教えてください。

[124] 連休が… 投稿者:くらのすけ 投稿日:2000/01/10(Mon) 23:37
くらのすけです。

HP立ち上げの時よりも(おそらく)情熱をつぎ込んで
リニューアルしました。
いやしかし、マップが表示されなかったりで結局何とかなったのが
更新日(1/10)の明け方…
0時〜4時くらいにご訪問された方は、繋がらないところがあったりしたと思います。
ご迷惑をおかけしました。
あと、画像データが余計にかかるので表示とかが遅くなってしまったかもしれません。
すいません。

>KUBO様
ありがとうございます。「〜家臣団事典」、あたって見ます。
山名氏について研究しているところはありませんかねぇ。

>天神様
どこかで拝見しましたがHP立ち上げ計画中とか。
すごく期待しています。
(大崎・葛西やらなくてすむ… (^_^;) )

ではでは。

[123] w(゚o゚)wウオォォォォー! 投稿者:☆彡天神 投稿日:2000/01/10(Mon) 23:23
地図入れたんですね〜
ヽ(´ー`)/うひょ…綺麗です♪
ますます見やすくなりました。

これを参考にして…(-。-) ボソッ


[122] Re[121]:情報収集 投稿者:KUBO 投稿日:2000/01/09(Sun) 01:35
くらのすけさん、味舌さん、こんばんは。

 手持ちの資料を見てみましたが、『系図研究の基礎知識』(近藤出版社)に同様の記述を見つけました。それによると続成は死んだ時に89歳だったそうです。そうすると逆算すると生まれたのが1481年といううことになります。
 でもそうすると、『戦国人名辞典』に出てくる明応2年(1493)年に活躍というのが12歳の時のこととなっちゃいますよね(^^;) ありえないことじゃないんですが、ちょっとねえ...
 『系図研究の基礎知識』には垣屋氏の部分は「主として『戦国大名家臣団辞典』、太田順三氏執筆部分による」と注記してありますので、『戦国大名家臣団辞典』にまず当たってみてはどうでしょうか? (これは私は持っていないので確認できません)

[121] Re[120]: Re[118]: 情報収集 投稿者:くらのすけ 投稿日:2000/01/09(Sun) 00:16
味舌様こんばんは。

>事典ではその出典は載っていませんでした。
> また守護戦国大名事典(国)なども見てみましたがありません。
やっぱり駄目でしたか。兵庫県史も見ているのですがないんです。
垣屋氏の系図についての論文があり、それに色々触発されているのですが、
続成は1570年に死んだとされているのに、活躍しているのが1400年代末
から1500年代初頭なんですよ。
それから何もしないで1570年、というのはやっぱりおかしいですよね?
一次史料に「垣屋続成が討死した」という記事があるのだろうか…



[120] Re[118]: 情報収集 投稿者:味舌政宗 投稿日:2000/01/07(Fri) 22:25
> くらのすけです。
> 少しお聞きしたい事があるんですが、
> 山名氏の四天王の内、垣屋続成という人物は
> 1570年(たしか)に田結庄氏に攻められて自刃、とありますが、
> 典拠している資料はなんなんでしょうか?
>
> ご存じの方いらっしゃいます?
>
> HP更新は週末くらいになりそうです。

今晩は味舌です。典拠としている史料はわかりませんが戦国人名
事典(コンパクト版)の垣屋続成の項でに同じようなことが
書かれていましたが。事典ではその出典は載っていませんでした。
また守護戦国大名事典(国)なども見てみましたがありません。
ひょっとしたら県史あたりに載っているのではないでしょうか
但馬ですと兵庫県史でしょうか。解らないくせにレスいれてすみ
ません。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~masita/clubindex.htm


[119] 岡田氏 投稿者:千葉ちゃん 投稿日:2000/01/07(Fri) 02:24
くらのすけさん、KUBOさん、こんにちは。

KUBOさん、相原氏についてのことありがとうございました!
教えていただいたことを参考にして、ページに載せてみました。
コシャマインの乱の頃の北海道の館主は、本州の豪族系っぽい
出身者がいそうな気がしました。(岡部氏や南条氏、河野氏など)
こういうのは、興味をそそられます。。。

くらのすけさん、こんにちは!

 岡田氏については、岡田氏が発生した当時(このころは岡田は名乗らず、相馬でした)は、東北相馬氏の有力な一族として活躍をしていました。また、岡田相馬氏も独立した御家人で、惣領制がありました。ただ、相馬本宗家を「相馬一族の惣領」として尊重していたようで、戦いなどではその指揮下にあったようです。そして、室町中期になると、南北朝の混乱した所領の問題や、家督の早世などでしだいに相馬宗家に吸収される形になって、相馬本家から「岡田村」の知行安堵状を発給されて臣下になり、一門格とされたみたいです。このときから「岡田」を称するようになっています。
 こののちは忠実に相馬家に仕えていたようで、波風は立っていません。朝鮮出兵では岡田氏が先陣をつとめて上洛していますし、幕末には、藩主の子が岡田氏の家督をついでいます。

相馬氏のページ、そういえばまだ途中でした。作らなくちゃですね(^^;

http://www2s.biglobe.ne.jp/~bame/index.htm


[118] 情報収集 投稿者:くらのすけ 投稿日:2000/01/06(Thu) 23:13
くらのすけです。
少しお聞きしたい事があるんですが、
山名氏の四天王の内、垣屋続成という人物は
1570年(たしか)に田結庄氏に攻められて自刃、とありますが、
典拠している資料はなんなんでしょうか?

ご存じの方いらっしゃいます?

HP更新は週末くらいになりそうです。

[117] おめでとうございます。 投稿者:騎鉄 投稿日:2000/01/05(Wed) 01:26
くらのすけさん、みなさん、明けましておめでとうございます。
HPいつも楽しみにしております^^
色々勉強になりますことしきりです。

1000年余に及ぶ「武士の時代」の終焉・・なるほど、
そうなると今年は新しい時代の幕開けにもなりますし(ミレ
ニアムという言葉には馴染みませんけど^^;)色々節目を
迎えたということですね。
奇しくも関ヶ原から400年目の節目の年を楽しみたいですね。

[116] 相原氏と河野氏 投稿者:KUBO 投稿日:2000/01/05(Wed) 01:13
くらのすけさん、みなさん、あけましておめでとうございます。今年のどうぞよろしく(^^) で、話は変わって...

>千葉ちゃんさん
 相原氏ですが、千葉氏の一族で粟飯原(あいはら)氏という一族がいますので、ひょっとしてこの系統の子孫という可能性もあるかもしれませんね。
 河野氏は初代が政通、二代が季通と、諱に伊予の河野氏と同じく「通」の字が付いていますし、「新羅之記録」でも「越知氏」と記していますので(伊予河野氏の本姓は越智氏)、伊予河野氏と関係がありそうに思えます。ですが、前にも書きましたけど、結局これらの記録って自己申告ですから、どこまで本当なのかってのはもう歴史の謎ですね(^^;)

[115] あけましておめでとうございます! 投稿者:千葉ちゃん 投稿日:2000/01/04(Tue) 12:08
くらのすけさん、みなさん、明けましておめでとうございます!

遅れましたが、相原氏についての情報ありがとうございました!
胤字がついていたのでもしかすると。。。とは思っていたのです
が、東北の千葉さんの出かもしれないのですか。
そういえば河野という館主もいたと思うんですが、
彼は伊予の河野さんの一族なんですか??
「船つながり」で蝦夷まで来ていたとか。。。

今年もどうぞ、よろしくお願いいたします(^∇^)

http://www2s.biglobe.ne.jp/~bame/index.htm


[114] 今年もよろしくお願いいたします。 投稿者:くらのすけ 投稿日:2000/01/03(Mon) 23:36
皆様、新年早々より御訪問くださってありがとうございます。

2000年1月1日に更新したいがためにネタがないので日記だけ更新したりと
なかなかズルい手を使って、まともに更新しておらずすいません。

今、ちょっとリニューアル用にいろいろ作っているところなんです。
その合間に列伝などをさっさと書いて更新しようとしたんですが、
予想以上に手間取りまして、まだリニューアルすら目処がつかない状況です。

ですから、しばらく更新がなくても見捨てないで下さいね。

ではでは。

[113] あけましておめでとうございます 投稿者:味舌政宗 投稿日:2000/01/03(Mon) 16:09
管理人様、新年明けましておめでとうございます。今年もよろしく
お願い致します。昨年は私の愚問にいろいろとお付き合いください
まして有難うございました。本当に勉強になりました。
今年もまた頻繁にお邪魔させて頂きますがよろしくお願い致します

http://www5a.biglobe.ne.jp/~masita/clubindex.htm


[112] あけましておめでとうございます。 投稿者:よこぴい 投稿日:2000/01/01(Sat) 23:57
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお付き合い下さいませ♪

関ヶ原400周年でイベントがあるそうですね。私の今年の目標の一つかな♪

http://ww1.enjoy.ne.jp/~k.yokota/


[111] 謹賀新年 投稿者:肥後もっこす(仮) 投稿日:2000/01/01(Sat) 12:18
小早川秀秋が新年を迎えたら「金吾新年」ですね(爆)
元日から更新してあったので驚きました(^^;
あ、こちらからもリンクを張らせて頂きました。わたしも元日更新です(^^;
それでは、今年もよろしくお願いします(^^)

http://www.geocities.co.jp/Playtown-Bingo/5941/


[110] お!めでとう♪ 投稿者:☆彡天神 投稿日:100/01/01(Sat) 04:58
明けましておめでとうございます♪
昨年度中は皆様に大変お世話になりました。
今年もよろしくお願いします。

くらのすけ殿のHP更新心より楽しみにしております。
またまた余計なでしゃばりするかもしれませんが
ひとつお許しください('-'*)フフ

[109] あけましておめでとうございます。 投稿者:くらのすけ 投稿日:100/01/01(Sat) 00:15
皆様、新年明けましておめでとうございます。
とうとう関ヶ原合戦400年の年を迎えました。

それはそれでめでたいですが、ある意味「武士の時代」であった
1000年代が終わり、また新たな、しかしとてつもなく大きなみえない壁で、
過去の武将たちとのつながりが少しずつ薄れていくような気がするのもまた
個人的な感慨であります。

真面目な話はおいておきまして、今年もHPがさらに発展できるように
色々勉強していくつもりですので、よろしくお願いいたします。

最後に、本年が皆様にとりまして発展の年となることをお祈りいたします。

[108] 南条氏は... 投稿者:KUBO 投稿日:99/12/29(Wed) 10:42
>女川十郎五郎胤永さん
 南条氏ですが、広継は三代目のようです。初代は治部少輔季継で道南十二館の一つ脇本館(現知内町)の館主でした。二代目が光継、三代目が広継で、広継は蠣崎氏四代季広の長女(松前慶広の姉)を娶り、蠣崎基広の後を受けて上ノ国の守護となりました。しかし、宗家をねらう妻の陰謀が発覚して妻と共に自殺したそうです。 ですがその子孫は松前藩の中堅として幕末まで続いたようです。
 今回も「アイヌの反乱―武田信広―」を参考にしましたが、これは「南条氏履歴」を参考したそうで、後世に末孫が書いたものですので眉につばつけて読んだ方が良いかもしれません。
 実際、「南条氏履歴」には初代季継の兄中務大輔は豊臣家に属したなどというわけのわからん記述もあるそうですので(^^;)

[107] 蠣崎氏つながりで。 投稿者:女川十郎五郎胤永 投稿日:99/12/29(Wed) 04:01
肥後もっこす(仮)様。はじめまして。
柚木崎丹後守の情報有り難う御座いました。
やっぱり勇将だったんですね。でも実在
の人物なのかな?実在だったらいいな。
さて、蠣崎家臣の南条広継についてですが、
いまいちヨクワカリマセン。
蠣崎氏の一族ですよね?広継の妻が蠣崎氏
に対して謀叛を企てたとか、そうでないとか。
それと広継って確か「蠣崎某」って人と同一
人物なんですかね?ってあいまいな質問で
申し訳ないですが、「南条広継」情報を心より
お待ちしています。
では。

[106] Re[105]: 片倉氏=松前氏… 投稿者:味舌政宗 投稿日:99/12/29(Wed) 03:23
KUBOさんはじめまして。びっくりしました。片倉氏と松前氏
にそのような結びつきがあるとは...。私、伊達家のファンと
してさまざまな本を読みましたが、片倉氏については景綱、重綱
しか知りませんでしたので本当にびっくりしております。
さらにKUBOさんの松前氏(蛎崎氏)の研究はすごいの一言ですね
もっと私も歴史を勉強しなければ...。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~masita/clubindex.htm


[105] Re: 片倉氏=松前氏… 投稿者:KUBO 投稿日:99/12/29(Wed) 00:17
>☆彡天神さん、はじめまして

> 伊達家の家臣(準一家)に松前氏がいるんです。

 そうなんです。松前慶広は自家の安泰を図るためか徳川・南部・前田などあちこちの大名とつながりを作るために自分の息子達を使っているようです。

> さらに系譜を読んでびっくり松前氏の子孫はこの後、
> 片倉家に入嗣してるんです。(名は景長と称したそうな)

 あの有名な片倉小十郎景綱の息子重綱(重長)は息子がいなかったので、娘の喜佐と松前安広の間の長男の景長(つまり重長からいえば外孫)を養子にして跡を継がせています。だから、全く関係ない血筋ってわけじゃありません。
 それで松前家の方は景長の弟広国が跡を継いでいます。片倉家と松前家のつながりは深かったようで、景長の血筋が絶えた時にまた松前家から養子が入っています。

[104] 片倉氏=松前氏… 投稿者:☆彡天神 投稿日:99/12/28(Tue) 21:33
(*^-^*)ノばんわー♪
今は松前氏(蠣崎氏)が盛り上がっているのかな?
私も松前氏についてちょっこっとだけお話をA^_^;)

伊達家の家臣(準一家)に松前氏がいるんです。
全然、松前藩には関係無い人だろうと思っていたのですが
系譜を読んだらあらびっくり松前慶広のお子様なのですね。
名前は右兵衛安広、慶広三男だそうな。
家臣になったのは元和九年(1614)で戦国期にはあんまり
関係ないのですが丁度、大坂冬の陣のあった年です。
なぜ家臣になったのか忘れちゃったんですけどねA^_^;アセアセ…
さらに系譜を読んでびっくり松前氏の子孫はこの後、
片倉家に入嗣してるんです。(名は景長と称したそうな)
ってことは片倉家は途中から松前氏になっちゃったって
ことなのね…
伊達家の中枢である片倉家が実は松前氏だったというお話し
でした。

[103] すみません... 投稿者:KUBO 投稿日:99/12/28(Tue) 11:09
すみません。下の「相原氏について」は私が書いたものです。なぜか投稿者が「相原氏について」になってます。失礼しました(^^;)

[102] 相原氏について 投稿者:相原氏について 投稿日:99/12/28(Tue) 11:06
>千葉ちゃんさん
 相原季胤についてはくらのすけさんのおっしゃったことで良いのですが、父親の政胤のことを含め少し補足を...
 「北海道史」では相原氏の出身を甲斐国都留郡相原村としていますが、吉田東伍博士の「大日本地名辞書」では記述していないそうです。季胤の父・政胤が相原氏として最初に出てくる人物ですが、彼はコシャマインの戦いの頃、大館館主だった下国定季の副をしていました。この親子は両者とも胤の字が付いていることから、千葉氏または相馬氏の支族と思われ、陸奥国西津軽地方は鎌倉時代には江流末(えるま)郡と呼ばれ、郡内に相原という村があったそうですので、ここの出身ではないかと思われます。この地は安東氏の本拠十三湊に接近している点から安東氏と何らかの関係があり、蝦夷地に渡ってきたものと思われます。
 政胤はコシャマイン等に大館が陥れられたときに生け捕られましたが、武田信広等が大館を奪回したときに救出されました。コシャマインの本陣箱館を攻める際には、信広の後詰めとして兵百騎を率いて出陣し、この戦いで戦死したと伝えられています。それで、季胤が父の跡を継ぎ下国定季の補佐をしたわけです。
 季胤戦死後は相原氏は絶えてしまったようで、松前藩士にもその子孫と思われる名前は出てきません。
 とりあえず、こんなもんで。

【今回の参考文献】
 「アイヌの反乱―武田信広―」(白山友正、人物往来社)

[101] 本日二度目… 投稿者:くらのすけ 投稿日:99/12/27(Mon) 23:31
こんばんは。さきほどは時間がなかったのでKUBO様への
回答のみとなってしまいました。

>味舌様
葛西氏について、御協力できてよかったです。
味舌様のところはさらに充実しそうで、楽しみです。

>肥後もっこす(仮)様
お久しぶりです。リンクさせていただきました。
ところで、ちょっと面白い資料を手に入れたので、
近いうち肥後様の掲示板に書きます。

>千葉ちゃん様
お久しぶりです。たまたま葛西氏のページに行ってみたのですが、
すごい充実度だと思いました。
さて、相原季胤(相胤とありましたが、これでいいんですよね?)
ですが、『松前町史』によれば、
「松前」の守護職にあった下国定季の死後、この恒季が家督を継いだものの、
行状がすこぶる悪く、明応五年(1496)、
家臣たちが安東氏に訴えたことによって討伐され、
それによって相原季胤を守護職とし、村上政儀を補佐とした、とあります。
それまで季胤は補佐役でした。
しかし、永正十年(1513)にアイヌの攻撃があり、大館が落城、
相原季胤と村上政儀は自害した、ということです。

この事があって、蠣崎光広と慶広の父子は大館に移住するんだそうです。

これくらいなんですが、KUBO様の方が詳しいと思います。

ではでは。

[100] 相原相胤について 投稿者:千葉ちゃん 投稿日:99/12/27(Mon) 21:17
くらのすけさん、こんにちは。
コシャマインとの戦いのころの大館館にいた相原相胤という人物について知りたいのですが、何かご存知でしょうか??

  
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