掲示板 「無名庵」過去ログ その八
No.351〜400(2000/6/26〜7/24)

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[400] Untitled 投稿者:戦武堂 投稿日:2000年07月24日 (月) 21時20分
>上杉家の家臣で大崎姓のものいないかな(^^;

少なくとも幕末にはいません。 

[399] Re[398]: 再び疑問 投稿者:☆彡天神 投稿日:2000年07月24日 (月) 14時18分
(*^-^*)ノこんにちわー
今日は会社を休んで今起きたとこです(w

> さて、疑問というのは、引き続き黒川氏です。
> 黒川稙家が晴氏の兄だということで、更に疑問が…

そうなんですよね〜くらのすけさんのおっしゃる通りです。
それは私も気になっていることなのでちょっと付けたしでカキコします。
まず参照に黒川報恩寺系図、水沢大衡家系図から
景氏(1484〜1552)稙国(1502〜1560)
稙家(  ? 〜1568)晴氏(1533〜1609)
となっています。
つまり稙国と稙家は共に8年ずつ当主にあったことになっているのです。
稙国に関しては将軍義稙より偏諱があったことが年齢からも
考えられるのですが稙家については稙国の子だとすると
ちょっと不可能なんですよね〜
系図は古文書としての価値はB級なのでほとんど信頼できない。。。
そこに載ってる年齢などまったくでたらめなことが多いのでなんとも
言えないけれどもあえて上記の通りの年代を信頼してみると
義稙に偏諱を受けたと考えられる稙国、稙家は兄弟だったか若しくは
同一人物とも考えられるんですよねー
ただ残ってる系図にはそれぞれ別に書いてあります。。。

> それと、黒川氏の通字は「氏」かと思っていたのですが、

たしかに稙国・稙家のみが歴代で「氏」を使ってません。
それから将軍家より偏諱を受けたのだろうと推測できる当主も
稙国・稙家・晴氏の3人のみです。それまではまったく将軍と
同じ文字を使ってる当主はいないのです。
三人については偏諱を受ける前の名前が私は知らないのでその前は
若しかしたら「氏」がついていたかも。。。
ちなみに稙国の男兄弟は8人いたらしいですが「氏」の字を使ってる
のは3人しかいないです。まあほとんどが養子にいってるので
当たり前なんですけどね(^^;

もうひとつ追加でちなみに大崎義直は50年近く当主の座について
いるので長期に渡って当主であることは稀ではあるが有り得ることだと
思ってます。

[398] 再び疑問 投稿者:くらのすけ 投稿日:2000年07月24日 (月) 01時57分
hazuさま(はじめまして!天神さまに続き、大崎氏にお詳しい方
登場ですね)
や肥後もっこす(仮)さま、KUBOさまに
私の分からないところはお任せいたしまして…

畠山(二本松)義継の子に関しては今後の「無名武将列伝」の追加の為に調べましたので
補足という形で…
長男の義綱は蘆名盛隆の命でその家臣沼沢出雲と同六郎に
殺害された、とあります。享年十六歳。
『伊達治家記録』の伊達輝宗殺害の近くの記事に「義継嫡子国王丸十二歳ナルヲ
守立…」とあるので、1585年に12歳(数え)であったことで1574年生れで
1589年に死亡した、ととりあえず考えられそうです。

二男義孝は
「始国綱、七郎、後右京、仕上杉景勝有戦功、後仕水野家二百人扶持、
嫡子七百石、二男三百石ヲ賜」とあります。
(以上、「積達館基考」所収畠山系図、『二本松市史』所収)
ですから、江戸時代初期からずっと水野家に仕えていたんですね。

さて、疑問というのは、引き続き黒川氏です。
黒川稙家が晴氏の兄だということで、更に疑問が…
足利義稙が将軍だったのは大永元年(1521)まで。
稙家が死んだのは天神さま(No.390)によれば1568年。
家督を継いだのが1560年だということは、元服して(または偏諱をもらって)
から40年近く親が家督にあったということになってしまいます。

それと、黒川氏の通字は「氏」かと思っていたのですが、
景氏と晴氏のあいだに稙国と稙家がいる、ということは
この二人は本来当主となるべき人物ではなかったということでしょうか?

東北の国人クラスの領主の知識に乏しい(いや、全国ですね)
からではありますが、考えれば考えるほど分からない…

[397] Re[391]:RE: すみません 投稿者:hazu 投稿日:2000年07月23日 (日) 23時45分

>>大崎義隆の長男・義易、畠山義継の長男・国王丸、足利義昭の長男・義
>>尊の行方がわかりませぬ。この3人にピンときたら110番・・・ではあ
>>りませんが、没落後の行方がわかりません

現在知られている大崎氏の系図は次のとおりです。
1 尊卑文脈(国史大系本)第3編 清和源氏
2 寛永諸家系図伝 最上氏系図
3 系図纂要 清和源氏・源朝臣姓 大崎
4 会津四家合考附録 大崎家譜
5 伊達族譜 内族譜第4(4の変形)
6 仙台武鑑 大崎家系図(4の変形)
7 仙台市斎藤報恩会所蔵 大崎家譜(4の変形)
8 伊達秘鑑 大崎家系(最もずさん)
9 大崎・最上・黒川及び支流家譜(4の変形か、庶流がまじっているのか)

 このうち、大崎義隆の跡について、正三郎としているのが、3、8、
9の各本であり、5は三次としている。
 仙台市斎藤報恩会所蔵の大崎家譜では、正三郎の諱を義易、その子を
源三郎義元としているそうです。
 仙台人名大辞書では三次の諱を義興とし、父と一緒に上杉景勝に臣従
し、白石城で亡くなったとしています。(義隆は会津で亡くなっている
そうです)

 ここまで書いてきて、結局はいるのかさえわからないことがわかりま
した(゚゚ )バキッ☆\(--#)
 上杉家の家臣で大崎姓のものいないかな(^^;


 参考 『中世東北の武士団』
    『仙台人名大辞書』


筈衛

[396] Re[394]:RE: かぶった… 投稿者:hazu 投稿日:2000年07月23日 (日) 23時45分

>>タイトル: かぶった…

 11分勝ちました(^o^)オイオイ

 ※ みなさん、はじめまして(^^;)
   HAZU(筈衛)と申します(^^;
   普段は@NIFTYにいます。ここんとこ、WEB掲示板のいろ
  いろなとこに出没し始めています(^^;

 筈衛

[395] 二本松氏 投稿者:KUBO 投稿日:2000年07月23日 (日) 00時08分
HAZUさんのおっしゃるように、畠山義継の子孫は岡崎藩水野家(忠邦の先祖)
に仕えているようです。水野忠邦が老中になるために肥前唐津藩から遠江
浜松藩への転封を願ったときに、それを諫死した二本松大炊義廉という家
老がいましたが、その子孫にあたるそうです。
 足利義昭の長男義尊は、興福寺大乗院の門跡になっていたようですが、
義昭が死んだあと、その名跡を継ごうとして(義昭は一応1万石の捨て扶
持を秀吉に与えられていた)還俗し、足利高山と名乗りましたが、果たせ
なかったそうです。

[394] かぶった… 投稿者:肥後もっこす(仮) 投稿日:2000年07月22日 (土) 23時39分
しかも俺の方が内容薄い(汗)
「鳥の詩」を聞いて現実逃避でもするか〜♪

[393] 畠山国王丸は 投稿者:肥後もっこす(仮) 投稿日:2000年07月22日 (土) 23時33分
佐竹氏のもとに落ち延びた後、ぶっ殺されたんじゃなかったかと。
足利義尊は……坊さんにでもなってたのかな?(適当(汗))

引き出しが空っぽになりつつある(仮)でした。ネタ切れかけ。

[392] Re[391]:畠山義継の子 投稿者:hazu 投稿日:2000年07月22日 (土) 23時28分

>>大崎義隆の長男・義易、畠山義継の長男・国王丸、足利義昭の長男・
>>義尊の行方がわかりませぬ。この3人にピンときたら110番・・・で
>>はありませんが、没落後の行方がわかりません

 畠山義継の長男国王丸は蘆名盛重の寵童となり、将来を期待されたが、
結局は切腹したそうです。
 その後、国王丸の弟が葦名家を出て、最後はどこかの藩の家老くらいの
人物になりました。
 その子孫は、二本松を名乗っております(^-^;
 確か、幕末は山形県のどこかの藩でした(^^;

 足利義昭の長男義尊はどこかのお寺の住職だったような。


 資料を見ずに書いているので少しの差異は御容赦を・・・・(^^;)

 筈衛

[391] すみません 投稿者:武藤舜秀 投稿日:2000年07月22日 (土) 22時54分
コメント遅れてすみませぬ。畠山氏のことはわかりました。
大崎義隆の長男・義易、畠山義継の長男・国王丸、足利義昭の長男・義尊の行方がわかりませぬ。この3人にピンときたら110番・・・ではありませんが、没落後の行方がわかりません

[390] 朝から歴史♪ 投稿者:☆彡天神 投稿日:2000年07月22日 (土) 07時23分
(*^-^*)ノおっは〜♪
今日はなぜか早起きをしてしまった天神です(^^;

>注記ですが、晴氏の父が「景氏」と解説しているのです。

一応、私が調べた限りでは晴氏は稙国の次男になってます。

景氏―稙国―+―稙家
         |   
         +―晴氏

稙家は実質8年しか(1568年死去)当主の座についておりません。
晴氏が兄稙家の跡を継いだわけですけども
これについてはよくある話題で晴氏が兄を毒殺したのでは?
ということも云われてます。

前にくらのすけさんが奥州仕置のとき晴氏と似たような人で
殺された人がいるってカキコしてありましたよね〜。
それは桃生郡深谷領主の長江晴清のことだと思います。
黒川晴氏の入道名が月舟斎、長江晴清の入道名が月艦斎と称して
共に伊達・大崎・葛西の勢力がぶつかる地域を領しています。
さらに大崎合戦の時は晴清は伊達氏側として大崎領に攻めこんで
いますが伊達氏側が敗れたとき泉田重光とともに人質として
大崎氏に捕まりました。
そのとき重光は頑として大崎氏に降らず最上義光に送られましたが
晴清は大崎氏にすぐ降り本領の深谷に返されています。
もともと日和見な政策を取っていた晴清を政宗は嫌ったらしく
奥州仕置のとき捕まえて殺してしまいました。
この奥州仕置のどさくさに政宗は他にも八森定直や国分盛重など
殺害、粛清をしてます。
さすがは政宗(w

[389] 追伸:宮野州さま 投稿者:くらのすけ 投稿日:2000/07/22(Sat) 02:22
14000Hitだったそうで。
お知らせありがとうございます。
うちのところはこういうお知らせを頂くことが
なんにも反映されないので申し訳ないのですが…
またキリ番を踏まれたら、お知らせ下さい。

[388] ふと気づいた… 投稿者:くらのすけ 投稿日:2000/07/22(Sat) 02:12
有馬氏関連の論文を手に入れたのですが、『肥前有馬一族』という本が
新人物往来社から出ているのですね。手近な図書館にもないし、
かといって買う気もしないし…結構詳しいみたいなのですが。

>宮野州さま
お久しぶりです!お忙しいようですね。体調を崩さないようにお気をつけ下さい。
古河公方からの任官は、建前は将軍家へ斡旋する、という事ではないでしょうか。
「とりあえずあんたは○○佐を名乗って良いですよ。あとからわたしから
将軍家に言っておきますから」という感じで。

さて、偏諱で盛り上がった黒川氏ですが、『伊達治家記録』の手持ち分を
何気なく見ていたら気になることが…
黒川左馬頭為重という人物からの書状写しがあり、
晴氏が為重に改名した、もしくは早世した子供かも知れない、とは編者の
注記ですが、晴氏の父が「景氏」と解説しているのです。
そう考えると、足利義稙の偏諱、という事は成立しなくなってしまいます。

黒川氏が発給した文書というのを知らないので、これをそのまま信じることも
現時点で私は出来ないのですが、発給文書では「稙家」「晴氏」なのでしょうか。

これについて、ご存じの方、いらっしゃいますか?

[387] 関東勢力の偏諱 投稿者:宮野州 投稿日:2000/07/22(Sat) 01:44
どうも。
大して調べてもいないのに、発言するのはおこがましいですが、
関東に関しての偏諱に関して、ちょっと・・・(しかもちょっと乗り遅れてるか?)
関東諸勢力の古河公方からの偏諱は、おっしゃられるように、将軍家からの下げ渡しというよりも、
古河公方から直接頂いたという印象が強いですね。
関東諸勢力にとっては、落ちたとはいえ古河公方の存在は、
中央の将軍家と同等の上位権力としていたところがあるような気がします。

この件も詳しく調べてみれば面白そうですが、何せ気力が・・・

PS
14000hitとりましたよ〜(実はこれが言いたくて書き込みしたという説もあり・・・(^^;)

[386] 「義」字 投稿者:くらのすけ 投稿日:2000/07/20(Thu) 01:35
偏諱について盛り上がっていますので、しばらくこの話で続けましょうか?
といっても私からは提供できるものはないのですが…

>義綱公
リンク文についてご感想ありがとうございます。
しかし、「能登畠山家武将総覧」については是非書き加えたかったのですが
畠山関連なので書き加えることができませんでした。
しかし、二本松畠山が嫡家とは…

>戦武堂さま
戦武堂さまのところでは失礼しました。
これからも興味のある話題があれば書き込みしていただければ幸いです。
ところで「清和源氏系の通字が義」というのは今更ながらに納得しましたが
上の字が決まっていますから随分同一名の人物が多いですよね。
そういう対策とかはあったのだろうか…(○代前の名前から解禁、とか。
江戸時代に関しては、毛利綱広(輝元の孫)の元服の時、幕府から
「松平家は昨今多いので、実名をよく一門と考えるように。」という風に
言われていたことがありましたが。)

>味舌政宗さま
分国法の連載もはじまり、さらに充実したサイトになりましたね。
ところで、初め奥州管領は二人だったのに、なぜ一時期四人に
なってしまったんでしたっけ?南北朝争乱でしたっけ?

丁度、二本松畠山氏に手をつけ初めていたので、二本松氏が嫡家とか、
いろいろ皆様の書き込みが役に立ちそうです。
(結構家臣の名前って分かるんですね…一門衆が多いですが)


[385] 満慶が義満の偏諱。 投稿者:畠山義綱 投稿日:2000/07/19(Wed) 00:06
どうも、義綱です。意外と反響があって嬉しいです。さすが人気サイト!
>戦武堂さん
なるほど、満慶が義満の偏諱なんですね。兄の満家も「満」の字があることから、その線がつよいですね。満慶は宗家の当主も経験してますし、義満に寵愛されたようなので。

>武藤舜秀殿
詳細は味舌殿のおっしゃるとおりです。概略をお話すると、畠山家の血筋的に嫡家は奥州に残り奥州探題に就任する奥州畠山氏に。畠山の庶流が足利将軍に積極的に従軍し、守護に任命され畿内で力を発揮しました。で、奥州畠山氏が勢いが無くなっていくので、河内畠山氏が宗家のようになったのです。本当の嫡家は奥州畠山氏なのです

[384] Re[383]: たしか・・・ 投稿者:味舌政宗 投稿日:2000/07/18(Tue) 23:42
> 確か・・・奥州畠山氏(通称:二本松氏)は河内あるいは能登畠山氏の出であると思うのですが,どのようないきさつで奥州にきたのでしか?
畠山氏のことは畠山義綱殿が御詳しいですが僭越ながら...。
二本松畠山氏は奥州で猛威を振るった南朝の北畠顕家ら南朝方平定
のため派遣された奥州管領(奥州探題の前身)の4家のひとつで
斯波氏(後に奥州探題の大崎氏、最上氏の祖)、石塔氏、吉良氏
とともに奥州に入り土着しました。その後奥州が鎌倉公方の管轄
となると、鎌倉公方の出先期間、篠川、稲村御所の管領というかた
ちで仕えていたそうです。1411年の伊達松犬丸の乱(伊達持宗)
のときには畠山国詮が8000騎を率いて伊達持宗と戦ったと記録
されています。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~masita/clubindex.htm


[383] たしか・・・ 投稿者:武藤舜秀 投稿日:2000/07/18(Tue) 22:18
確か・・・奥州畠山氏(通称:二本松氏)は河内あるいは能登畠山氏の出であると思うのですが,どのようないきさつで奥州にきたのでしか?

[382] ありがとうございます 投稿者:戦武堂 投稿日:2000/07/18(Tue) 05:58
>皆様
大変勉強になりました。

>義綱殿
お久しぶりです。
初代満慶は足利義満の偏諱と考えておそらく間違いないんでしょうね。
あとは2代義忠の偏諱がきっかけで通字を復したというところでしょうか。
もともと大崎・斯波・最上らといっしょの足利氏の出ですからね。(というより
「義」の字は清和源氏系の通字なんですけどね)

[381] 文の説明が不足してますね。 投稿者:畠山義綱 投稿日:2000/07/18(Tue) 00:43
下の投稿で、能登畠山家が「義」を継字としたのは、勝手にしたのではなく、確か二代当主が「義」の字を頂いて「義忠」となったのが始まりです。

[380] リンクの文がまたまた追加(喜) 投稿者:畠山義綱 投稿日:2000/07/18(Tue) 00:42
どうも、こんばんわ。畠山義綱です。リンクの紹介文で、個人サイトの紹介を追加して頂いて、まことに恐悦至極にございます。
 ちなみに、能登畠山家では恐れ多い事に将軍家の「義」の字を
継字としています。その為か、家臣で「義」とつくものはおりません。能登畠山家の場合、能登畠山家として「義」が継字になっているのか?それとも、代々将軍家から「義」の名を頂いているのか、よくわかりません・・・・。

[379] うーむ・・・ 投稿者:武藤舜秀 投稿日:2000/07/16(Sun) 22:01
どうやら、稙宗あるいは、晴宗からの斡旋ということが有力のようですね。

[378] 深いですね… 投稿者:くらのすけ 投稿日:2000/07/16(Sun) 02:13
いや〜、こんなに偏諱で盛り上がるとは想像以上です。
皆様、詳しいですね〜。

>藍住伯耆守さま
将軍家の通字「義」とその下の「晴」「輝」などは値段が違うと聞いたことが
ありますが…本来は家格だったのでしょうか。
また、藍住さまの「斡旋」説、たしかにそのように思えます。

二木謙一『中世武家儀礼の研究』によれば、
大内義隆が渋川貞基(九州探題)・相良長唯(義滋)・同為清(晴広)への偏諱
(と官位叙任)を推挙しているとありました。
そう考えると、伊達氏も同じ事をしていても不思議はありませんね。
この中で「(偏諱授与などが明応期以降変化し)地方の大名や国人領主等
実力をもって成長した新たな階層の人々に授与されるようになる」とも
ありますので、国人領主クラスでも納得できそうです。

>天神さま
黒川氏の詳しいレクチャー、ありがとうございました。
「伊達治家記録」では結構厳しい書かれ方をしていましたよね。
伊達家側(しかも従属後)の視点で見ただけですので、
あまり重要視していませんでした。(同じような人物で殺されている人も
いたような気がしたので、その点でも策士なのでしょうか)
やはり東北は様々に入り組んでいて分かりにくい…

>武藤舜秀さま
当初、武藤さまの考えたことを私も考えたのですが、違ったようですね。
天神さまに教えていただくまでは、黒川氏がどれほどの実力をもっていたのか
あまり分かりませんでしたし。

>戦武堂さま
ご無沙汰しております。やはり非礼にあたるのですか。そういう行為は。
自分もなんとなく武藤さまと同じ考えが浮かんでいたのですが、
その時代の背景を考えることは重要ですね。

>光源院義忠さま
皆さん、偏諱などにご興味があったようで、ひさびさに掲示板が盛り上がりました。
話題を提供していただいた義忠さまにも御礼を申上げなくては。

ところで、鎌倉公方から東国諸大名へ、というのも藍住さまの言う
「斡旋」なのではないでしょうか。武田氏の「晴」字も。
(武田家はどの程度の家臣かが分からないので何ともいえませんが、
独立性が強い在地家臣であれば可能性はあるのではないでしょうか)

また、メールの件、了解いたしました。
次回更新時にこちらからもリンクさせていただきます。
これからもよろしくお願いいたします。

あまりに地味な勢力ばかり残って、更新する意味があるのだろうか…
とおもう今日この頃です。では。

[377] ありがとうございます 投稿者:光源院義忠 投稿日:2000/07/15(Sat) 09:47
偏諱の件で質問させていただいた光源院義忠です。
予想以上の反響に驚いています。

みなさまの御意見を考えあわせ、
黒川父子は、将軍家の偏諱を受けたもの
との判断で間違いないものと思われます。
黒川氏は、奥州探題大崎氏(足利氏支流)一族の
中でも、別格の存在だったらしいので、
家格の観点から見ても、
将軍家の偏諱を受けるには十分だったと言えましょうか。

> 与えられた偏諱を家臣にさらに与える(下げ渡す)行為は
> 与えていただいた人物に対し非礼であり、当時の認識からして
> あり得ない行為だと本で読んだことがあるんですが、真実は如 何。

おっしゃるように、基本的には、そのような事例は、あまり確認できません。
ただし、
 将軍・義成(義政) → 古河公方・成氏 → 小山成長
 将軍・義政    → 古河公方・政氏 → 小山政長
など、関東公方家が、東国大小名に偏諱を転授(こんな言葉ってあります?)
した例が見られます。
関東公方は、諸大名とは明確に異なる存在なので、
これは、特殊な例と言えるでしょう。

ひとつ気になるのは、
甲斐の武田晴信(信玄)の家臣に、
「晴」字を用いる者が、いるのですが・・・。

長々と書き込んですみません。
それでは、これにて失礼いたします。

http://homepage1.nifty.com/YMSKy/


[376] Re: 偏諱 投稿者:藍住伯耆 投稿日:2000/07/15(Sat) 02:57
再び藍住伯耆参上でーす♪
> 与えられた偏諱を家臣にさらに与える(下げ渡す)行為は
> 与えていただいた人物に対し非礼であり、当時の認識からして
> あり得ない行為だと本で読んだことがあるんですが、真実は如 何。

偏諱の問題は封建制的主従関係を考えるうえで重要な問題の1つです。私は中世専門ですので古代は分かりませんが、中世においては当初は偏諱を得ることがその人の影響下に入ること(例えば交名を進上すして領地を保護してもらうとか、元服で烏帽子親になってもらうとか・婚姻関係等々)を意味するものではなかったかと推測されます。
この場合、武家にはそれぞれの家で相伝する「通字」があるのですが、偏諱を受ける側はその受けた文字を諱に冠するのが通常です。これは近世以降も同じだと思います。したがって、父祖伝来の通字
が下にきている場合、偏諱を受けたものと考えて差し支えないと思われます。
また、戦武堂さんのご指摘のように、誰かから受けた諱を人に与えるということは、おそらくめったになかったと思います。諱(実名)というのは、現在の考え方では想像できないほど大切なものでした。中世の史料では実名よりも官途名や通称で人名を標記する場合の方が多く見られるのはそのためです。そして公的な文書では文書に公的意味を付与するためにも実名と花押あるいは印判が押されるのです。
それが将軍や天皇から下賜されるというのは、中世も鎌倉末〜室町の頃にはかなりの権威を付与されたことを意味したと思われます。しかし、戦国期に入り、将軍の権威が低下すると、同時に偏諱の権威も低下したものでしょう、義稙・義晴期には濫発されるに至ります。官位官職も同前です。
私は東国のことは詳しくありませんが、黒川晴氏の例は、おそらく伊達晴宗からの偏諱というよりは、晴宗或いは稙宗が斡旋して義晴から晴氏に偏諱が渡った可能性の方が高いのではないかと考えてます。戦国期といっても、幕府−守護体制は枠組みとしては残っていた時期ですから、守護伊達氏がそういう役回りにあったというのは、当時の社会状況からしてもうなずけます。ただし、莫大な献金が必要条件だったことはいうまでもありませんが・・・如何でしょうか?


[375] 偏諱 投稿者:戦武堂 投稿日:2000/07/15(Sat) 01:54
与えられた偏諱を家臣にさらに与える(下げ渡す)行為は
与えていただいた人物に対し非礼であり、当時の認識からして
あり得ない行為だと本で読んだことがあるんですが、真実は如何。


[374] 偏諱について 投稿者:武藤舜秀 投稿日:2000/07/14(Fri) 23:41
偏諱について一言。皆様もご存知のとおり、偏諱には何通りかあります。
まず一つ目。主君から家臣へ与える場合。主君の名前が秀吉であったら、家臣は「吉」の字を上に持っていき、「吉○」と名乗るほうが多い。これは主君から一時与えられたと見たほうが妥当。例として、羽柴秀「吉」→大谷「吉」継
二つ目。大名が他の大名に偏諱する場合。
これは大名同士としての偏諱。一字を上げる大名の上の字を一字を貰う大名の名前の上につける。
例:佐竹「義」重→相馬「義」胤
  織田「信」長→長宗我部「信」親
三つ目。時の将軍からの一字。
その時期の将軍から一字を貰うこと。これは将軍としての存在のアピールするためにしているように思えるが・・・
例:足利義「晴」→武田「晴」信
まぁ、大体将軍が一時を与える大名は守護大名か有力な戦国大名ぐらいなので、下に挙げてあった黒川晴氏の場合はというと拙者が考えるには、晴氏は最初は伊達氏についていたので伊達晴宗からの偏諱と考えたほうがいいと思います。皆様は将軍から貰った字を他の豪族に上げるのか?と考える人もいるかもしれませんが、逆に考えると次のようなことがあります。
将軍→伊達晴宗→黒川晴氏という風に「晴」という字が廻されていますが、これは将軍の存在を強めるとともに、武士の頂点に立つ将軍の一字を豪族がつけているということでこの豪族が将軍の「準」家臣ということになるというものです。(変だと思う人は変だと思っていてください。)
しかも、晴宗→晴氏ということからも見ると、晴宗は晴氏に一目置いていたのでは?と思います。これは


[373] Re[371]の件。。。 投稿者:☆彡天神 投稿日:2000/07/14(Fri) 03:48
(*^-^*)ノばんわー
夜中にこそこそHP閲覧しております(w

> 葛西氏・大崎氏・伊達氏が足利将軍から偏諱を受けているのは
> わかりますが、黒川氏は前者三勢力に匹敵するほどの勢力だったの> ですか?

いえ、黒川氏はそんなに大きな勢力ではなく
そうですね〜伊達氏に屈した留守氏と同じくらいの勢力です。
ん?これじゃどのくらいかわからないか(^^;
え〜っと、1郡のみを領していた国人レベルの一族です。
地図を見ていただけるとわかるのですが伊達氏・大崎氏・葛西氏の
各勢力の丁度真中に位置する黒川郡を領していたところですから
いろいろ苦労していたようです。
例えば晴氏の祖父景氏は伊達氏家臣、飯坂清宗の子でおそらく
伊達氏の圧力に負けての入嗣だったのだろうと思いますし、晴氏の
婚姻関係などは正室が葛西氏の娘、娘は留守政景に嫁ぎ、養子に
大崎義隆の子義康をもらい、その嫁に亘理元宗(あれ?重宗かも)
の娘をもらうといった伊達・大崎・葛西各氏の均等を図った婚姻を
結んでいます。
このようにして晴氏は独立勢力としてしぶとく黒川郡を領したわけ
ですからなかなかの領主だったのではないかと思います。
そして政宗が唯一完全に敗北した合戦のキーマンも彼ですし。。。

この合戦では娘婿の政景と戦ったわけですけども伊達軍敗戦時に
政景を助けたのも晴氏です。
後に奥州仕置きで晴氏が領地没収の際、政宗に殺されかけた時、
政景が政宗に自分の領地と引き換えに命を助けるように
懇願しております。
その後晴氏は政宗の御伽衆として捨扶持をもらって命を永らえました。
黒川氏、そして晴氏という人物を少しでも評価していただいたら
これ幸いです(^^;

> そして足利氏側もそんなに名前をばらまいたのでしょうか?

これについては私よりづ〜っと詳しそうな方がいらっしゃるので
簡単に説明しますけれども上洛や献上したら比較的名前の一字は
もらえたようですよー
偏諱が一番手っ取り早く、他との兼ね合いも心配しなくていいもの
ですから(w
官位などは他との兼ね合いがありますからね〜
ちなみに藍住伯耆さんも言っておりますが義の字は足利一族や
家格の高いところに、植や晴等の字はそれ以外のところにあげたよう
です。もちろん例外はあるのでしょうけど。。。
私はあんまり詳しく知らないので光源院さんの方が詳しいかと。。。
おっとあんまり長々とカキコしちゃったのでこの辺で(^^;

[372] 足利将軍の偏諱について 投稿者:藍住伯耆 投稿日:2000/07/13(Thu) 17:52
どーも、藍住伯耆です(non)/^^

偏諱の話が盛り上がっていますね。
 中世後期の例をみると、足利将軍の偏諱授受にはパターン?があるようです。
 すなわち、義晴の場合「義」を与える場合と「晴」を与える場合の2通りで
す。当たり前といえば当たり前ですが・・・
 西国の場合、大内義興・義隆や大友義鑑・義鎮は前者、大友晴英(宗麟弟・
義長)・河野晴通などが後者のようです。義晴の偏諱授受については『年報中
世史研究』に論文がありますが、これは主に公家衆に対するものです。
 家柄により与えられる字が異なる可能性はあると思いますが、今のところよ
くわかりません。ただし、義晴期はいわゆる守護大名から戦国大名への移行期
とも考えられ、義晴の偏諱授受には何か特質があるように見受けられます。
 それは、与える対象が大名レベルから国人レベルまで拡がっていくのではな
いか、ということです。したがって、光源院殿のご質問の黒川氏の偏諱授受は
将軍家からとみてよいのではないかと私は思います。これも確証は乏しいのですが・・・
 また、足利将軍にはあまり知られていませんが別名を持っている人物がけっ
こういます。その文字を使っている大名・国人もままいるのでは?
 以上、横レスとなりましたが、 参考になりましたら幸いです。

[371] 偏諱&はじめまして 投稿者:くらのすけ 投稿日:2000/07/13(Thu) 01:53
天神さま、肥後もっこす(仮)さま、お久しぶりです。
とくに天神さま、今回は助かりました。私では何ともいえない
ところでした(^^;)

>光源院義忠さま
はじめまして。くらのすけともうします。
おもしろいサイトを運営されていらっしゃいますね。
黒川氏関係は天神さまにお任せします。

ところで、
>天神さま
葛西氏・大崎氏・伊達氏が足利将軍から偏諱を受けているのは
わかりますが、黒川氏は前者三勢力に匹敵するほどの勢力だったのですか?
伊達氏の周辺は疎いのでよく分からないのですが…
そして足利氏側もそんなに名前をばらまいたのでしょうか?

>肥後もっこす(仮)さま
細川忠利はその通りのようです。

では。

[370] 偏諱♪ 投稿者:肥後もっこす(仮) 投稿日:2000/07/13(Thu) 00:01
相良晴広は足利義晴、相良義陽は足利義輝から一字賜ってるという話ですが、裏を取ってないのでこれ以上はノーコメント(ぉぃ
細川家だと、松井康之は家康から一字賜っている(ことになっている)ようですが。細川忠利なんてのは秀忠から賜ってるのかな?
三淵藤英は足利義藤から賜ってるんですよね、確か。ということは子供の秋豪というのは足利義秋から?

……ダラダラと書き込んでしまいました。最近は掲示板上にしか生息できないらしい。更新って何?(汗)

[369] Re[368]: はじめまして&質問 投稿者:☆彡天神 投稿日:2000/07/12(Wed) 01:17
ハジメマシテ。光源院さん。
私は大崎氏関連について浅はかながら調べてるものなのですが
大和町、大衡村、富谷町、大郷町の各町村史には偏諱を
受けたと言う史料は見逃しているだけかも知れませんが、
見つけかねました。
もしかしたら宮城県史の資料集か岩手県・山形県史に載ってるかな?

でも光源院さんもご存知のとおり葛西氏も大崎氏も伊達氏も
偏諱受けてるし偏諱は確かでしょうね。
確かなものがわかりばいいですね。

[368] はじめまして&質問 投稿者:光源院義忠 投稿日:2000/07/09(Sun) 22:34
はじめまして。
『戦国人物人名事典』を管理する、光源院義忠と申します。

いきなりですが、一つ質問させてください。
陸奥国黒川郡惣領職の黒川氏の、
八代稙家・九代晴氏の名前についてです。
この二人は、将軍義稙・義晴の偏諱を受けたと思われますが、
私の行動範囲では確認が取れません。
ほぼ間違いないと思うのですが、
何か確証がありましたら、お教え願えませんでしょうか。

http://homepage1.nifty.com/YMSKy/


[367] 街道をゆく。 投稿者:くらのすけ 投稿日:2000/07/09(Sun) 02:01
土曜日の深夜にやっていた「南予・西土佐のみち(多分)」を途中から見ました。
宇和島のあたりから見始めた(最後の方だと思います)のですが、
良いですね。自然が。宇和島にも一度行ってみたいものです。

>義綱公
オフ会ですか。非常にやりたいですし、幹事という大役を仰せつかっておきながら、
大変申し訳ないのですが、7・8月はちょっとどうなるかわからないです。
もし夏中に一度開催なさるのであれば、私は幹事を出来ない可能性が
高いです。本当に申し訳ないのですが
私を抜いて、考えた方が良いかも知れません。

>頴娃久虎さま
ご訪問ありがとうございます。
そしてご指摘ありがとうございます。地元の方でないと
名前の読みなど分からないものだと思うので、非常に助かります。
早速訂正しておきました。
みなさんのご協力により、より正確なものが出来てゆきます。

>応援団さま
わたくし、「くらのすけ」と名乗っていながら、大石内蔵助となんの関係もない
サイトを運営しております。大変申し訳ありません。

[366] ”大石主税”を歌う みずきまこと 投稿者:応援団 投稿日:2000/07/08(Sat) 22:28
昨年7月地元秋川キララホール700満席でデビューコンサート
がありました。行きましたよ〜〜〜!よかった!ロックもやったり
彼はもとロックバンド組んでたんだそうです!
オリジナル侍演歌 ”大石主税今ここに”有線に流れてるんですけど・・・ 今年9月20日立川市民会館大ホールでコンサート
あります!!応援してます!!ふれ〜〜〜ふれ〜〜まこと!!
ロックやったりダンスするそうです!応援願います!!

[365] はじめまして 投稿者:頴娃久虎 投稿日:2000/07/08(Sat) 01:30
いきなりで恐縮なんですが
大隅国肝属氏の家臣『安楽』ですが
これは、「あんらく」と読みます。たぶん(^_^;)

鹿児島には結構この姓の人いるので。

[364] 近いうちに・・・ 投稿者:畠山義綱 投稿日:2000/07/07(Fri) 14:50
どうも、畠山義綱です。
近いうちにまた、歴史ウェブマスター友の会やりませんか?
くらのすけさんが、お暇になってからでもいいですし、夏中に
一回は開催しておきたい気がします。次回幹事予定のくらのすけ
さんのご予定はいかがでしょうか?

[363] 皆様へ 投稿者:くらのすけ 投稿日:2000/07/07(Fri) 01:42
ご訪問ありがとうございます。目新しいコンテンツなど
考えついていないので、当分今あるものの更新だけとおもいますが
よろしくお願いします。

>味舌政宗さま
卒論は何とかテーマ「だけ」は決まりました。あとはまた「混乱」が待っています。
官職総覧、お褒めいただいて光栄です。
味舌さまから見て、どこか使いづらいところはありませんか?
ところで、「東北の大名」とは『戦国大名論集』のことですね。
たしか吉川だったような…(不確実です)浅利氏関係で一度ちらとは見ました。

>東哲矢さま
ご訪問ありがとうございます。くらのすけと申します。
ご質問の件の、徳川義直のことですが、ご指摘のとおりです。
戦国期を中心として資料を集めたので、元和、寛永初期あたりで
記録が尽きてしまうのでああいう状況となっております。
(若干手抜きも入っている感がありますが…)
地元の方に指摘されてしまったので、近い内御三家くらいは全ての官職を
載せた方がいいですね。ご心配をおかけしました。

>義綱公
ただただ、感謝です。私からは何も出来ず申し訳ありません。

>武藤舜秀さま
本当に難しそうですね…東野氏、初耳です。『余呉町史』などはないのですか?
しばらく会えないのですが、同期に浅井氏家臣団をやっている人がいるので、
今度聞いてみます。でもどの家臣をやっているのかは忘れてしまいました。
また、伊達氏関係はやはり味舌さまがよくご存じのようです。
一度仙台あたりを旅行されて、古書店を覗いて見るとたくさん古本がありそうです
(値段は安くは無いでしょうけれど。)


>藍住伯耆守さま
さっそくご教授を生かして、河野氏を訂正してみました。また何かありましたら
ご指摘ください。河野氏を作るときに、一度「東方不敗」のよこぴい様に
いろいろ伺ったのですが、やはり大学院の方はすごいですね。
専門に研究していらっしゃることも大きいとは思いますが。
平岡氏についても、今回はっきりと分かりました。これはどういう資料に
あるのですか?

ではこのへんで。「無名武将列伝」一番進捗している制作途中のものは
白河結城氏ですが、どうも家の歴史が詳しくわかりません…

[362] 以前東北の大名に興味をお持ちとみましたので 投稿者:味舌政宗 投稿日:2000/07/05(Wed) 23:15
>武藤様
 どうも、はじめまして。以前掲示板に東北の大名に興味をお持ち
 とのことと拝見致しました。
 私も伊達氏のほか東北の大名には非常に興味を持っております。
 そこでわりと手に入りやすい史料や論集などをご紹介いたします
 ・奥州北部関係
  奥羽永慶軍記(新人物往来社)出羽小野寺氏や戸沢氏など 
  の小大名そして、安東氏など出羽を中心にかかれています
 ・伊達氏関係
  「東北の大名」小林清治編 出版社は失念しました。
  伊達氏や相馬氏の権威福島大名誉教授小林氏が編集した
  論集です。伊達が中心ですが浅利、安東氏についても
  書かれています。
  「塵芥集」の研究 
   こちらは伊達氏の分国法「塵芥集」の解説と伊達稙宗
   伊達晴宗についてかかれています。
  その他伊達政宗研究としては「伊達日記(成実記)」
  があり、これは伊達成実の日記ですが伊達政宗研究の
  基本史料とのことです。
 余計なおせっかいかもしれませんがご参考にしてください

http://www5a.biglobe.ne.jp/~masita/clubindex.htm


[361] 土居通周・平岡通資について 投稿者:藍住伯耆 投稿日:2000/07/05(Wed) 22:49
 一筆令啓上候、
 土居通周ですが、私の例示した系譜には登場しません。土居氏の系譜に
はまだいくつかあるので、その中に出てくると思いますが、調査中です。
通周は宮内大輔を称しています。通周発給文書としては永禄8年4月30
日付平岡通資・土居通周連署宿坊証文と、年不詳1月14日付土居通周書
状(いずれも高野山上蔵院文書)の2通が確認されます。平岡通資は平岡
大和守房実の長子で宮内大輔を称し、一旦由並氏を継ぎますが、また平岡
に復姓しているようです。房実の跡は通資弟遠江守通倚(みちより)が継
いでいます。土居通周は、通建・通利の一族と思われますが、土居清良と
は全くの別系統と考えられます。恐々謹言、
 

[360] 復帰おめでとうござる 投稿者:武藤舜秀 投稿日:2000/07/05(Wed) 22:40
復帰&更新おめでとうござりまする。
えーーっと・・・此度はちと難しいと存ずるが、
浅井が家臣、東野氏について知りたいのでござる。滋賀県余呉町一帯を治めていたらしく、東野氏の当主の名前が山の名前になったり、余呉町にある砦はほとんど東野氏の持ち城だったらしく・・・何とか、ご教授の程をよろしくお願いいたします

[359] 復帰おめでとうございます。 投稿者:畠山義綱 投稿日:2000/07/05(Wed) 14:34
どうも、畠山義綱です。
官職一覧・・・まだ出来上がっておりません、なれど
私の方も大きな山場は越えたので、なんとかなりそうです。
でも、能登畠山氏の人たちの官職受領(自称)年代が
さっぱりわからんです・・・(汗)

[358] 初めまして! 投稿者:東 哲矢 投稿日:2000/07/05(Wed) 11:32
 名古屋在住の者です。家康の第9子徳川義直の官職履歴ですが、
権大納言には任ぜられてはいないのでしょうか?漠然と大納言だと
思っていたのですが・・・。

[357] 祝ご復帰 投稿者:味舌政宗 投稿日:2000/07/04(Tue) 23:59
>くらのすけさま
 ご復帰おめでとうございます。卒論関係のほう良いテーマが
 決まりましたでしょうか。こちらの官職一覧表はとても
 見やすくて勉強になりますのでこれからもどんどん更新を
 頑張ってください。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~masita/clubindex.htm


[356] 一段落。 投稿者:くらのすけ 投稿日:2000/07/04(Tue) 01:16
くらのすけです。長らくお待たせ(待ってない?)しましたが
ぼちぼち更新を再開させていただきます。これからもよろしくお願いします。

>藍住伯耆守さま
おかげさまで、卒論構想発表は大きな破綻もなく、終了しました。
しかし、これからが本番なんですよね…すこし気が抜けてしまいました…

ところで、古文書調査は如何でしたか?
熱を出されたそうで、もう回復されたんですか?

さて、土居氏の詳細な情報、どうもありがとうございました。
しかし、分かっている人は分かっているんですね。詳細に。

ちなみに、私の「無名武将列伝」にある「土居通周」という人物は
「通親」なんでしょうか?それから何代も続いているようなので
別人なのでしょうか…
何にせよ、とても河野氏と繋がりが深い重臣ということがわかりました。
ありがとうございました。

>我孫子庄一郎さま
ご訪問ありがとうございます。
松平家家老の家柄ですか。すごいですね。
六角氏の家臣まで遡るという努力もこれまたすごいと思います。
ところで、その六角氏の家臣は「扶持千貫」という人物なのですか?
面白い名前ですね。六角氏が縁起がいいから改名しろと言ったのでしょうか。

では、これにて。

[355] 教えてください 投稿者:安孫子正一郎 投稿日:2000/07/03(Mon) 00:06
我が家は尼崎桜井松平家お側役三番家老の家でした。
そのルーツは戦国時代末期、近江佐々木家家臣安孫子城々主扶持千貫(現在の滋賀県秦庄町安孫子)までたどり着きましたが、何か情報をおもちの方いらしゃりましたら、ご教示頂きたいです。

[354] お詫び 投稿者:藍住伯耆 投稿日:2000/06/30(Fri) 23:07
 系図かなりずれてしまいました。申し訳ありません。
ご不明な点はなんなりと・・・

[353] 河野氏系土居氏 投稿者:藍住伯耆 投稿日:2000/06/30(Fri) 23:05
こんばんは。卒論の進み具合はいかがでしょうか?

 私は合宿中熱だしてフラフラの中古文書とにらめっこしてました。明治初期の国民軍の帳簿とか云々があり面白かったですよ。

 さて、お約束の越智姓河野氏流土居氏についてちょこちょこご説明しましょう。
 この土居氏は、南北朝期に得能氏と共に南朝方に属したことで有名ですが、戦国期の河野氏家臣団の名簿である近世作成とおぼしきわけの分からない史料『河野分限録』に「久米郡土居城主 土居兵庫頭通建 手勢八騎 御旗下組八組 合十六騎」とあり、河野氏の侍大将であったことが推測されます。また土居通建の弟が土居左馬助通利で、御旗本武者奉行とされています。
 そして、この土居氏の系譜を以下に示すと(兄弟は主な者以外は省略)

<越智姓土居氏略系図>(「麻生土居資料」伊予史談会蔵参照)
河野
通継┬通有=通治─通朝─通堯┬通能─通久─教通─通宣─通直
  ├通氏         └通之─通元─通春─通篤─通存
  ├通泰(南)
  └通成(土居)┬通胤┬通増─通重
         └通儀└通世─通村─通教─通勝─通三─通安┬堯快
 ├通武┬通親
 │  └通尚─…
 ├通州(井門)
 └通季(宇野)

…┬通建┬通真
 │  ├了庵┬某
 │  └通範└通由─通賢…
 └通利=安長

 となり、土居氏は河野通有の弟から出た河野庶家で(異説もあり)、久米郡に領地を得て土居城を構築していたようです。南朝方に属して通堯に反抗しますが後文明十二年(1480)教通の石手寺再興の際の棟札に「越智山奥之大材木請取引衆…土居中務殿」とあり、河野宗家の家臣団に帰参した様子が窺えます。
 弾正少弼通直の臨終の際「土居伊豆入道(通尚?)」らが看取ったとの記述(『予陽河野家譜』)があり、戦国期には土居氏は譜代の重臣でした。天正七年、喜多郡で大野直之が長宗我部元親の援助のもと挙兵し、土居通利・忽那通著らが派遣されますが、両将は四月に戦死しました。通利の跡は井門氏から安長が配されて継いでいます。
 天正十五年、牛福丸通直が安芸竹原へ赴くのに土居通建跡取り了庵と通利家の安長が付随しています。河野氏滅亡後は伊予に帰国したようです。(とりあえず完)

[352] 個人的印象です。 投稿者:くらのすけ 投稿日:2000/06/30(Fri) 00:52
>宮野州さま

>そうですか・・・またいいかげんなことを言ってしまったでしょうか?
>堀田や水野などはそんな気がしたのですが・・・
山形藩に関しては、本当にまったく個人的印象ですので、気にしないでください。
江戸中期以降に関しては全くと言っていいほど疎いので…

>でも幼少で要所を抑えるのは不適格だとして、
>ころころ異封されてしまう大名はたまったもんじゃないですね。
まあそうですが、家老の権力は大名の権力を背景にしていますからね。
大変なことが起ったとき、家老の独断で決められませんから。
一時姫路藩主であったある大名は、「転封に際して、大名はただ笑っていればよい」
と述べたと言うことです。達観してます。このひとは一生の内に大名の中で一番
転封を経験した人ですが…

ではでは。

[351] いやはや 投稿者:宮野州 投稿日:2000/06/27(Tue) 00:42
どうも。

>くらのすけさん
>でも、山形藩は自分としてはそのような印象がないのですよ。
そうですか・・・またいいかげんなことを言ってしまったでしょうか?
堀田や水野などはそんな気がしたのですが・・・

>3度くらい、幼少の姫路藩主がこちらにお世話になってます。
らしいですね。でも幼少で要所を抑えるのは不適格だとして、
ころころ異封されてしまう大名はたまったもんじゃないですね。

それじゃまた。

[350] ちょっときついですかね… 投稿者:くらのすけ 投稿日:2000/06/26(Mon) 23:52
>武藤舜秀さま
そういえば以前、大谷吉継の話をされていらっしゃったのを
思い出しました。賤ヶ岳のあたりなのですね。
資料館などはあるのですか?

東北戦国大名に興味がおありとのことですが、
滋賀周辺では資料をあつめるのはつらいでしょうね。
京都の古書店にはあるでしょうか…
ちなみに、「伊達治家記録」は
神田古書店街のサイトで調べてみましたが、24冊揃いで20万円…
神田ですから余計高いんでしょうね。
翻刻されているものは戦国期の3・4冊くらいで、あとは影写本(古文書を
写真にとって印刷したもの)なので、はじめの数冊がバラで入手できれば
安いのでしょうけど…
あとは、地元の図書館で「相互利用制度」のようなもので大きな図書館から
借りてきて貰うという手段くらいですかねぇ…

  
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