掲示板 「無名庵」過去ログ その九
No.401〜438(2000/7/24〜8/23)

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[438] ありがとうございます 投稿者:石酉雅楽頭 投稿日:2000年08月23日 (水) 03時16分
 戦武堂様、ありがとうございます。

[437] 一方井 投稿者:戦武堂 投稿日:2000年08月23日 (水) 00時28分
「いっかたい」。
現、岩手県岩手郡岩手町一方井が発祥地でしょうね。

[436] 質問です 投稿者:石酉雅楽頭 投稿日:2000年08月22日 (火) 22時16分
 久しぶりのカキコです。
 質問なのですが、南部家臣(だったと思う)に「一方井定宗」なる者がいましたが、この「一方井」とは、どう読むのでしょうか?教えてください。

[435] 北の諸大名の小ネタ 投稿者:てったん 投稿日:2000年08月21日 (月) 00時54分
 初めてやってきましたが、無名大名の系図など、面白いデータ、
興味深く拝見しました。
 さて、安東氏についてですが、彼等の系図には阿倍仲麻呂や
安倍晴明に関わるとされるものもあるようです。
 あと、南部氏が近世大名としてランクアップした背景には、
南部の馬や鷹献上を頻繁に行っていたこともあるようです。
 松前氏は、かなり早い時期から「志摩守」を自称していた
ようです。認められるまでには色々あったみたいです。
 本当に小ネタですいません。では。

[434] Re[432]: 越前大野城・秀康、忠直時代 投稿者:くらのすけ 投稿日:2000年08月19日 (土) 02時11分
こんばんは。武藤さま、くわしい事をありがとうございました。

> 土屋正明(福井藩直轄領)
>  秀康の家臣、慶長6年入城か?慶長12年(一説に慶長13年)、秀康 に殉死。
そうでした。諱は正明でしたね。「左馬助」とばかり出ているので。忘れてました。

行く暇はなさそうですが、一度行ってみたいですね。あと福井に大阪側から
入るときに米原から琵琶湖の東側を通って行きたいのですが、時間の都合上
実現してません。あちらの方が史跡がいろいろあるのですが。

>味舌政宗さま
詳しくは、味舌さまの掲示板に書き込みさせて頂きました。
しかし、すごいですね。分国法を一条づつ読むというのは
史学科の学生でもやっていないのでは?


[433] おかえりなさいませ 投稿者:味舌政宗 投稿日:2000年08月18日 (金) 23時54分
今ごろになっておかえりなさいませとはなんですが無事ご帰還
なによりです。ゼミ合宿だったんですね。
15000HITおめでとうございます。なんといっても情報
量が半端でなく多い貴重なページですから更なるご発展を
期待してます。
話はかわりますが掲示板はやっぱりこのようなタイプがいいですね
わたしのところもとうとうツリータイプの奴を辞めて自分でKENTのスプリクトを使って簡略な掲示板にしました。ツリーだと
内容を読むのに更にクリックしないとわからないから来ていただいている方には使い勝手がわるかったようです。
古文書(活字版)を読む為の入門書でいいものってありませんか
最近分国法などを始めた為そっちの素養がないまま突き進んでいる
のでもう少し読めるようになりたいと思っておりまして...。
もしよろしければお勧めがあれば教えてくださいませ。

それでは帰還いたします。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~masita/clubindex.htm


[432] 越前大野城・秀康、忠直時代 投稿者:武藤舜秀 投稿日:2000年08月17日 (木) 21時28分
城主一覧(秀康・忠直時代)
土屋正明(福井藩直轄領)
 秀康の家臣、慶長6年入城か?慶長12年(一説に慶長13年)、秀康 に殉死。
土屋忠次(福井藩直轄領)
 父・正明の没後、大野城を継ぐが、、父の殉死が法に触れ、慶長14 年に追放?
小栗正勝(福井藩直轄領)
 慶長14年に入城。
松平直政 秀康三男。
 元和5年、上総姉ヶ崎1万石、寛永元年、大野5万石を与えられる。
 同10年(一説には12年。)信濃国松本7万石に移封。のち、 松江18万石に移封。(直政と直基の間、丸岡藩主・本多成重預 かり?)
松平直基 秀康四男。
 寛永元年、勝山3万石。寛永12年、大野5万石に入封。正保元  年、山形15万石、慶安元年、姫路15万石  
松平直良 秀康五男。
 寛永元年、木本2万5千石。同12年、、勝山3万5千石。正保元 年、大野5万石に入封。延宝6年没。
松平直明 
 延宝6年、父直良の家督を継ぐ。天和2年、明石6万石に転封。
秀康・忠直時代ではありませんが、
天正3年の一向一揆討伐の功により、金森長近が大野郡の3分の2を賜り大野城に入城しています。もう3分の1は原政茂です。

[431] そういえば 投稿者:くらのすけ 投稿日:2000年08月16日 (水) 01時27分
>肥後もっこす(仮)さま
ゼミ合宿でちらと耳にしたのですが、
大谷吉継の発給文書に関する論文が来年あたりに
出るらしいです。『大谷刑部のすべて』に未収録の文書も
あるので、かなり多くなるようです

>武藤舜秀さま
結城秀康・松平忠直時代の解説ってありませんでしたか?
城代による支配だからおもしろくないのかも知れませんが…

[430] 越前大野城入城記念レポート・・・ 投稿者:武藤舜秀 投稿日:2000年08月15日 (火) 17時05分
越前大野城。
大野城の入り口は西と東の二つありました。
私は西から入りました。
大野城は典型的な山城です。
らせん状の階段を登りやっとの思いで門の前までたどり着きました。(次の日はとても足が痛かった・・・)
門跡を通り過ぎ,ふと右手側を見てみると,金森長近像が建っていました。
そこからまた,石階段を登ると右のほうには便所!?、左のほうに本丸入り口がありました。
先ず,くつを脱ぎ,入城料200円をはらいました。
本丸の中は大野城の資料館となっており,金森家,江戸時代に入府した土井家の展示物がありました。1・2階は資料館、3階は行っていませんからよくわかりませんが,城下を展望できる部屋ではないでしょうか。帰りにテレフォンカードを買い,もとの登山道!と化した道を歩いて帰りました。

[429] 終戦記念日(内容と無関係) 投稿者:肥後もっこす(仮) 投稿日:2000年08月15日 (火) 09時12分
>くらのすけさん
>他の人のサイトになってましたね。
>更新しなかったから削除されたのですか?
余裕が無くなってきたので自ら消しました。
どうせネタも無かったので(汗)

>消えたコンテンツの復活のご予定は?
大谷刑部は詳しいページがあるのでパス。
犬童休矣は……宿題にしておきます。残業は嫌です(爆)

[428] 契約、ですか 投稿者:くらのすけ 投稿日:2000年08月15日 (火) 00時48分
どうも。徐々に平常に戻りつつありますが、
明日はバイトなのでもうそろそろ寝なければならず。

>義綱公
遊佐の嫡家は「美作守」ですか。ということは二本松畠山も
嫡家ということで、そのままついていったんですかね…

>武藤舜秀さま
なかなか渋いところにお出かけでした。実は私も福井(武生と福井)には
行きました。図書館で資料集めでしたが。
ところで、大野城は今どんな状態ですか?

>肥後もっこす(仮)さま
他の人のサイトになってましたね。更新しなかったから
削除されたのですか?
しかし、あんな(失礼)人のサイトより肥後さまのコンテンツ
の方がずっと役に立つと思うんですがねぇ…。
消えたコンテンツの復活のご予定は?

つまらない話ですが、今回はゼミ合宿(古文書調査)で京都、
→山口(文書館)→津山(博物館)→大阪泊(本当に宿泊のみ)→福井→柏崎(図書館)
と廻ってきました。
傍からみれば観光なんでしょうが、自分にはそんな実感はないです。
ずっと図書館に籠もっていますし。唯一の観光らしいことは福井での
列車待ちを利用して、黄昏の福井城跡を少し歩いたくらいでしょうか…(^^;)
ま、今後、今回集めた資料をとりあえず生かすことが大事ですね…

[427] お帰りなさいまし〜 投稿者:肥後もっこす(仮) 投稿日:2000年08月14日 (月) 17時25分
御帰還早々ですが、私めのサイト「衒=Terra」が消滅しましたので、
リンクを外して頂きますようお願いします。
翔竜 政宗戦記を励ます会。
http://members.tripod.com/aw4P/
は生きてますので、リンクは御自由にどうぞ。

[426] 只今帰着。 投稿者:くらのすけ 投稿日:2000年08月13日 (日) 23時36分
とりあえず無事帰還したことをお知らせします。
某市観光案内所と某市立図書館でインターネットが出来そうだったのですが
出来そうだったのですが、パソコンの電源が入っていなかったり
夏休みで子供達が多かったのもあり、リアルタイムに旅のお知らせを
書き込めませんでした…。

[425] この間・・・ 投稿者:武藤舜秀 投稿日:2000年08月12日 (土) 21時58分
この間,美濃の郡上八幡城,越前大野城,同じく一乗谷へ行ってまいりました。時々にする、お城めぐりは楽しいものです。

[424] 遊佐氏・・・。 投稿者:畠山義綱 投稿日:2000年08月05日 (土) 00時00分
>伊達家の「天文の乱」で二本松氏の片方の中心的勢力は
>遊佐美作ですよ。
もともと遊佐氏は出羽国でおこりましたし、遊佐の嫡家
は代々美作守を名乗っています。やはり二本松にも存在
濃厚ですね。

[423] 行く直前ですが 投稿者:くらのすけ 投稿日:2000年08月03日 (木) 20時36分
武藤さま

>陸奥のほうも謀反とか起こしてたらお笑い話になるな
伊達家の「天文の乱」で二本松氏の片方の中心的勢力は
遊佐美作ですよ。

では、皆様再開の日までお元気で…

[422] そうですか・・・ 投稿者:武藤舜秀 投稿日:2000年08月03日 (木) 20時08分
次は由利十二頭ですか・・・由利徹が出てきたりして(笑)
畠山氏は河内と能登と陸奥の3つ国を持ってました。
・・・話は変わって,畠山氏の家臣に遊佐氏がいますが,陸奥のほうはいざ知らず,ですが、河内と能登の遊佐氏は謀反・離反を繰り返してたそうで・・・陸奥のほうも謀反とか起こしてたらお笑い話になるな。なんか変な話しになってすいません

[421] しばらくお別れです 投稿者:くらのすけ 投稿日:2000年08月03日 (木) 01時48分
こんばんは。くらのすけです。

>義綱公
>二本松の義綱の父・義継は読み仮名「よしつぐ」
>能登畠山家の私の父義続の読み仮名は「よしつぐ」
「よしつぐ」「よしつな」と同一のヨミの人物がいますね。
(たしか義綱公のサイトにありましたよね?二本松の解説が。)
関連性は分かりませんが、「義」が決まっているために、ある程度
使う字(下に)が限定されてくるからということも一因ではないでしょうか?
なんらかの関連もありそうですが…

また、能登畠山の子供は河内畠山にも養子に行っているという説を
見ました(晴俊?だったかな…)

さて、明日の夜からゼミ合宿と卒論資料集めに出かけるので、
しばらく留守に致します。ご了承下さい。
出かけるまでに由利十二頭をアップしたかったのですが、
結構忙しく、ろくに出来ませんでした。やはりほぼできあがっているものを
地方を考えずにアップすれば良かったかなぁ…

ではでは。

[420] なんか・・(苦笑) 投稿者:畠山義綱 投稿日:2000年08月02日 (水) 13時55分
畠山ときて義綱。なにか私のことを言われている気がし
ます(苦笑)。
余談ですが、二本松の義綱の父・義継は読み仮名「よしつぐ」
能登畠山家の私の父義続の読み仮名は「よしつぐ」
二本松の方が時代はもっと後ですが何か関連性はあるのでしょ
うか?ちなみに義孝も私(義綱の次男が)義隆で読みが一緒。
もっとも義隆は二本松畠山に養子にいったとの話もあります。
なんか自分ねたばっかり・・・(苦笑)

それに、私の家(能登畠山)も代々修理大夫を使うの
ですが、二本松でも修理大夫をつかっていたんですよね・・・。

[419] 8月ですね… 投稿者:くらのすけ 投稿日:2000年08月02日 (水) 01時04分
いよいよ8月となりました。
私は例年に比べて家にいる日数が少なくなりそうなのですが、
皆様はご旅行・資料収集(^_^;)などのご予定はお決まりですか?

>hazuさま

>義綱、義孝ともに同母兄弟のようですので、本来義綱の名前であった
>とも考えられます。義綱の死後、義孝が継承したのかもしれません。
すごく納得できる説です。
ところで、この畠山家は(河内も能登も?)「王」がつくんですね。古河公方の幼名のように。

また、hazuさま、KUBOさま、系図についてのご説明ありがとうございました。
さらに伺いますが、特定の家の系図を集めていらっしゃるのですか?
(KUBOさまは「窪田」姓を集めているのは存じておりますが、その他も?)
私がやろうとしている大名家は改易されてしまい(のち再興しますけれども)
家臣は分かるんですが明治以降がたどれないので随分と未発見史料が
有るような気がするんです。でも手がかりが…(その自治体は元藩士の
追跡調査などしていないと言い切るくらいです…)
こういう家も分かるのでしょうか?

[418] 系図の収集方法 投稿者:KUBO 投稿日:2000年07月30日 (日) 01時12分
>筈衛さん
 わざわざ調べていただいてありがとうございます。申し訳ない(^^;)

>くらのすけさん
> また、系図部屋のことを再びお尋ねしますが、系図の収集はどちらから?
 私も筈衛さんとほとんど変わりません。札幌の古書店を回ったり、東京に旅
行に行った時に神保町の古書店で漁ったり、道立図書館で調べて資料をコピー
してきたりしてます。蠣崎氏関係の資料は、道立図書館と函館図書館でコピー
したり写真に写してきたりしたものです。

[417] Re[405]:RE: その先の日本へ。 投稿者:hazu 投稿日:2000年07月29日 (土) 20時16分
>>義孝が「国王丸」なのですか?

 「霞が城物語」(遊佐 東著)ではそうなっておりました。
 ただ、原資料に当たりたいので、『二本松市史』所収の次の資料で検
討したいと思います。

『松府来歴金華鈔』
  梅王丸→九郎義綱
  国王丸→七郎国次→右京進国次→右京進義孝
『山口道斎物語』本文
  国王丸 →九郎義綱
  右京義孝
『山口道斎物語』畠山家本系図
  梅王丸(国王丸)→九郎義綱
  十郎義孝    →右京進義孝
『山口道斎物語』当地伝来畠山系図
  梅王丸 →九郎義綱
  七郎国次→右京進国次
『積達館基考』畠山系図
  梅王丸→九郎義綱
  七郎国綱・・・→右京義孝
  (どういう経過で名前を変更したのかわからず)

 七郎を幼名とした畠山(二本松)家の当主
  家泰(晴国とも)・・・七郎→右馬頭
  義氏(重義とも)・・・国王丸→七郎→信濃守→修理大夫

 右京を通称とした畠山(二本松)家の当主
  義国
  義継
 なお、畠山(二本松)家は初代国氏は右馬権守、中務大夫であったが
2代国詮からはほとんどの当主が修理大夫になっていました。

 以上から考えると、国王丸も七郎も将来の当主にふさわしい幼名であ
り、通称ですね。
 義綱、義孝ともに同母兄弟のようですので、本来義綱の名前であった
とも考えられます。義綱の死後、義孝が継承したのかもしれません。
 義綱が16歳とすると義孝は12歳でしょうから、元服前の可能性が
あります。


筈衛

[416] Re[415]:RE: 「家督関係」と「系譜関係」 投稿者:hazu 投稿日:2000年07月29日 (土) 06時52分
>>天神さまが稙家・晴氏の通称を指摘されましたが、皆様が書いていらっ
>>しゃる系図は「家督関係」を示しているのではないですか?

 わたしのは家督関係ですね。親子関係を示すには資料が少なすぎます
から(^^;)

>>前回アップした白河結城氏関連の書籍で見たのですが、
>>白河結城系図のなかに、小峰義親が白河晴綱の
>>子供に位置しているものがあるんだそうです。

 小峰義親の系譜上の位置はいくつかあるようです。
 それだけ、白河結城氏と小峰氏の関係がわかっていないということで
すね(^^;)

>>義孝=国王丸説ですが、長男の義綱が国王丸かと思ったので。

 はい、わかっています(^^;)
 だから、いいかげんに答えられない(^^;

>>また、系図部屋のことを再びお尋ねしますが、系図の収集はどちらから?

 私の場合は古本屋を含めた本屋から買った本、福島県立図書館をはじ
めとした図書館でコピーした資料、図書館から借りた本ですね(^^;

>>>戦国以前に遡れる系図はまれです。
>>家産などを代々相続して永続する「家」の形成は
>>戦国以前には遡れないとうちの先生が仰っておりました。

 心を強くしました(^^;
 実際に系図を見ていると、造られているのは江戸時代になってからな
んですよね(^^;
 だから、いくら名門といわれていようと江戸期以前の系図は書かれて
いないところがあるのかなと思っていました。
 白河結城氏の遺臣がそうなんです(^^; 斑目氏も系譜もっていないよ
うだし・・・(^^;



筈衛

[415] 「家督関係」と「系譜関係」 投稿者:くらのすけ 投稿日:2000年07月29日 (土) 01時55分
黒川氏からはじまった系譜論も、総論的になってきましたね。
趣味的にであれ、家臣系譜を参照する私にとっても役に立つ話です。

申し訳ないですが、個別レスにするとすごく膨大になってしまうような気がしますので
失礼ながら以前私が書き込んでから以後の皆様の話のいいとこどりでレスさせて頂きます。

>藍住伯耆守さま
教員採用試験、お疲れさまでした。私の同期も苦戦しているようです。

>>稙国=租国・稙家=禎家とは偏諱説が成立しませんね。
>これは単なる写し間違えか誤植かですね。
下でhazuさまが仰っておりますように、一概に「稙」が正しいとはいえないのでは、と
私も思いました。「稙」が写し間違いとの逆説も成り立つと思います。

また、もし「稙」だとしても、偏諱についてはかなりつらいのではないかと。

で、ここからが本題で、タイトルと関連するのですが、
天神さまが稙家・晴氏の通称を指摘されましたが、皆様が書いていらっしゃる系図は
「家督関係」を示しているのではないですか?
前回アップした白河結城氏関連の書籍で見たのですが、
白河結城系図のなかに、小峰義親が白河晴綱の
子供に位置しているものがあるんだそうです。

で、どなたかが、「家督関係」と「本当の系譜関係」が示されている系図の
二種があるのではないか、と指摘していらっしゃったのですが、
黒川氏もこの類なのでは、と。
ですから、家督が景氏−稙国−稙家−晴氏と継承されたことを、
我々は系譜関係かと考えていたわけで。

『伊達治家記録』には晴氏が景氏の子、と書いてあることは以前にも
書きましたが、たしか1600年代後半に編纂開始されたんですよね?
もちろん全く間違っているかも知れませんが、伊達家も編纂するに当たって
考証は行ったと思われ、まったく間違っているとは思えないのですが。

ひょっとしたらこの説は皆様折り込み済みでしたらご了承下さいませ。

あ、あと
>KUBOさま・hazuさま
義孝=国王丸説ですが、長男の義綱が国王丸かと思ったので。
また、系図部屋のことを再びお尋ねしますが、系図の収集はどちらから?

こちらはhazuさまへ
>戦国以前に遡れる系図はまれです。
家産などを代々相続して永続する「家」の形成は
戦国以前には遡れないとうちの先生が仰っておりました。

[414] Re[410]:RE: 教採撃沈! 投稿者:hazu 投稿日:2000年07月29日 (土) 00時17分
>>>稙国=租国・稙家=禎家とは偏諱説が成立しませんね。
>>これは単なる写し間違えか誤植かですね。古文書の字体としては両者
>>とも間違えやすいのです。近世成立の系図ともなると系図の復元はそ

 わたしも写し間違えか、誤植だとは思います(^^;)
 ただ、どちらが本当の名前かというと、他の資料を確認する必要があ
るのかなと思います。傍系の子孫にとっては、できるだけ本流の立場を
上げて、自分も名流の子孫にしようとするものだと思っています。
 江戸時代以前は系図を作成することはあまりなかったのではとも思っ
ています。いろいろな藩の藩士や地方の旧家の系図を見ていますと、江
戸時代初期の人が2、3代目という系図をよく目にします。
 戦国以前に遡れる系図はまれです。
 今私たちが、先祖を調べようとすると、位牌、戸籍、伝承を調べて、
4,5代がやっとです。戸籍がない場合を考慮すると3代くらいが先祖
を調べる限度なのかもしれません。
 石碑、位牌があっても、戒名が読みにくくなるのでしょう。それをい
いことに家系を造ることもあったのでしょう。
 そこで、必要になってくるのが、その時代の文献となるのでしょう。
文献の調査から系図が判ってくればうれしいことでしょう。
 また、文献の調査の目安に系図がなればよいと思います。

>>が河野氏と婚姻関係を結び大友氏と断絶させたからだという説がでて
>>います。このように、婚姻関係や同盟関係の変化から系図が正しく残
>>されないこともあります。黒川氏の場合はそのような背景はあるので
>>しょうか?黒川氏に限らず・・・

 良くはわかりませんが、伊達氏、大崎氏との関係を考えれば、答えが
見つかるかもしれません。
 伊達氏は稙宗、晴宗のときに最も乱れ、大崎氏もそれに巻き込まれて
います。黒川氏もそれに巻き込まれたとかもあったのかもと想像します(^^;


筈衛

[413] Re[412]:Re:おっと失礼! 投稿者:hazu 投稿日:2000年07月29日 (土) 00時17分
>> そうだよねえ、いきなりじゃわかるわけないか(^^;) えっと98年の1月11日
>>(おお2年半も前じゃ)の発言で、元資料は「霞が城物語」(遊佐 東著)という
>>本です。福島県立図書館にあるらしいです、ってなんか筈衛さんの発言見て
>>筈衛さんに教えるのってなんか変な感じ〜(^^;)

わはは(^o^)
『霞が城物語』か。やはり、本を借りて書いたのかな(^^;
コピーがないところを見るとそのようです。

ハムレットになったような気持ちです(^^;)
明日、会津に行こうか、県立図書館に行こうか。


筈衛

[412] Re:おっと失礼! 投稿者:KUBO 投稿日:2000年07月28日 (金) 21時56分
>HAZUさん
>  いつ頃の発言だか、教えてください(゚゚ )バキッ☆\(−−#)
>  その発言に資料の名前が入っているといいな〜(^-^;
 そうだよねえ、いきなりじゃわかるわけないか(^^;) えっと98年の1月11日
(おお2年半も前じゃ)の発言で、元資料は「霞が城物語」(遊佐 東著)という
本です。福島県立図書館にあるらしいです、ってなんか筈衛さんの発言見て
筈衛さんに教えるのってなんか変な感じ〜(^^;)

[411] Re[409]:Re:その先の日本へ。 投稿者:hazu 投稿日:2000年07月28日 (金) 11時58分
>> えっとですねえ、多分そうだと思いますけど、私は現物を見ていないので
>>はっきりはいえません(^^;) すんません、筈衛さんパ〜ス(をい(^^;))

 パス受けました(^−^;
 でも、資料が出てこない(;_;)

 いつ頃の発言だか、教えてください(゚゚ )バキッ☆\(−−#)
 その発言に資料の名前が入っているといいな〜(^-^;

 筈衛

[410] 教採撃沈! 投稿者:藍住伯耆 投稿日:2000年07月27日 (木) 15時33分
こんにちは。先程教採で撃沈してきた藍住伯耆です(ToT)

ご無沙汰してる間に黒川偏諱・系図ネタが展開してますね。皆さんすごいですな!
さて、2.3意見してよろしいですか?

>稙国=租国・稙家=禎家とは偏諱説が成立しませんね。
これは単なる写し間違えか誤植かですね。古文書の字体としては両者とも間違えやすいのです。近世成立の系図ともなると系図の復元はその時残っている史料を基にすることが多く、その史料の信憑性にも疑問がある場合が多いですね。しかもなんせ当時の慣習である通字や人名に使う漢字ではないのを平気で書いているのですから。

> この位牌は奥州仕置後現在の富谷町に帰農していた黒川氏の家老職であったという渡辺氏が江戸時代中期に収めたものです。
位牌を基にして作成された系図も、実は疑問が残ります。作成時期がその人物の没した時期より遙かに下る可能性があり、改竄もその時に行われることが多いからです。

> この位牌の元の原典がなにかというのは不明ですが報恩寺にはもうひとつ系図が残っていてそれはこの位牌とは景氏・稙国(租)・晴氏の3人のみが同じで他の名前はまったく違うものです。こちらの系図は現在東大が所蔵してたしか関東公方の流れであったと伝えているものがこの系図です。
> そして現在通常流布している系図というのが水沢大衡家系図でこれは水沢伊達氏(元留守氏)の家臣となった大衡利氏の家系で残したもので利氏は景氏の孫、宗氏の子です。生没年は1555〜1632で晴氏のいとこになります。
> 利氏の生没年はほぼ確かなものだと思われるので利氏は戦国後期に、つまり稙家から晴氏に代わるとき13〜4歳だったので景氏以降の系図は水沢大衡家系図がほぼ正しいのではないかと。。。
> ただ偏諱を受けたものと仮定すると年代があわなくなってしまうのですが。。。
系図史料は完全に史料価値がないわけではありません。意図的に改変を受けたり抹消されることがありますが、逆にその背景を看取し、系図の作成の意図や残り方から真実を見極めることも可能です。だから諦めずに系図研究を続けて下さいね(って私が余計なこというまでもないですね)。しかし、

> だから系図はB級史料の域を出ないのでしょうね。
それは仕方ないですね(−_−)

私も伊予河野氏やその周辺の武将達の系図研究をしていますが、河野氏の場合は婚姻関係に問題があって、室町戦国期には豊後大友氏と婚姻を結んでいたのが、大友氏の史料に残っているのに、河野氏側には全然ないのです。それは、戦国末期に大友氏の宿敵毛利氏が河野氏と婚姻関係を結び大友氏と断絶させたからだという説がでています。このように、婚姻関係や同盟関係の変化から系図が正しく残されないこともあります。黒川氏の場合はそのような背景はあるのでしょうか?黒川氏に限らず・・・

[409] Re:その先の日本へ。 投稿者:KUBO 投稿日:2000年07月27日 (木) 00時14分
>くらのすけさん
> 義孝が「国王丸」なのですか?
> それと、正式に「二本松」となったのは義孝からなのでしょうか?
 えっとですねえ、多分そうだと思いますけど、私は現物を見ていないので
はっきりはいえません(^^;) すんません、筈衛さんパ〜ス(をい(^^;))

> ところで、ニフティの系図部屋とは、かなりすごそうですね。
> どこから系図を入手するのでしょう?
> 御子孫の方が直接書き込みされるんですか?
 いえいえ、ほとんどは私や筈衛さんのような素人の系図好きな人間です。
まあ、書き込んでいる人間が北海道(私)から、東北、名古屋、兵庫と全国あ
ちこちに広がってますから、それなりに情報は集まってきますけどね(^^)

[408] Re[405]: その先の日本へ。 投稿者:☆彡天神 投稿日:2000年07月26日 (水) 23時18分
またまた登場('-'*)フフ

> 景氏の子が稙国・稙家・晴氏の様な気がするのですが…
> 更に想像をたくましくすれば、前者二名は側室の子。

さすがくらのすけさん想像力たくましいですね〜
おっしゃるとおり黒川氏の家督は代々彦五郎を名乗ってますが
景氏と晴氏は彦五郎、稙国は源次郎と名乗ってます(w
ちなみに稙家は不明です(^^;

> 黒川氏の系図、興味深く拝見しました。
> これをざっと見ると、「氏」がつく人物がむしろ少ないのですね。
> 稙国=租国・稙家=禎家とは偏諱説が成立しませんね。
> しかし、『仙台人名大辞書』というのは昭和時代の編纂ですよね?
> 史料的価値はどうなのでしょうか?

hazuさんが最初にカキコした黒川氏の系図は報恩寺の位牌をもとに
したものですね〜
この位牌は奥州仕置後現在の富谷町に帰農していた黒川氏の家老職
であったという渡辺氏が江戸時代中期に収めたものです。
この位牌の元の原典がなにかというのは不明ですが報恩寺には
もうひとつ系図が残っていてそれはこの位牌とは景氏・稙国(租国)
・晴氏の3人のみが同じで他の名前はまったく違うものです。
こちらの系図は現在東大が所蔵してたしか関東公方の流れであったと
伝えているものがこの系図です。
そして現在通常流布している系図というのが水沢大衡家系図でこれは
水沢伊達氏(元留守氏)の家臣となった大衡利氏の家系で残したもので
利氏は景氏の孫、宗氏の子です。生没年は1555〜1632で
晴氏のいとこになります。
利氏の生没年はほぼ確かなものだと思われるので利氏は戦国後期に、
つまり稙家から晴氏に代わるとき13〜4歳だったので景氏以降の
系図は水沢大衡家系図がほぼ正しいのではないかと。。。
ただ偏諱を受けたものと仮定すると年代があわなくなってしまうの
ですが。。。
だから系図はB級史料の域を出ないのでしょうね。

[407] Re[400]:やはり(^^;) 投稿者:hazu 投稿日:2000年07月26日 (水) 06時24分
>>>上杉家の家臣で大崎姓のものいないかな(^^;
>>
>>少なくとも幕末にはいません。

やはり、いなかったんですね(^^;)
いれば、もっと精しい系図が判っていますものね(^-^;

筈衛

[406] Re[405]:RE: その先の日本へ。 投稿者:hazu 投稿日:2000年07月26日 (水) 06時24分

>>稙国=租国・稙家=禎家とは偏諱説が成立しませんね。
>>しかし、『仙台人名大辞書』というのは昭和時代の編纂ですよね?
>>史料的価値はどうなのでしょうか?

 資料的価値ですか(;^_^A アセアセ・・・
 ないよりはいいという程度でしょうね(^^;)

 今回の黒川氏の系図でもいろいろ問題はあります(^-^;

 たとえば、
黒川氏直―――氏基  ―――顕氏  ―――氏房  ―――+
                            |
+―――――――――――――――――――――――――――+

+―氏矩―――景氏  ―――稙国  ―――稙家  ―――+
                            |
+―――――――――――――――――――――――――――+

+―晴氏―――義康

とすると、通常流布されているものになるというように、錯誤、誤植も
多いと思われる。
 しかし、かなり精しく書かれているから重宝する。話題作りにもなる
し・・・・(;^_^A アセアセ・・・


筈衛

[405] その先の日本へ。 投稿者:くらのすけ 投稿日:2000年07月26日 (水) 01時46分
東北地方の話題が続いてますので、以前のJR東日本の
東北キャンペーンのタイトルを持ってきました。
しかし、これからどうするんでしょうね?週末に使えるきっぷを
廃止してしまうなど…(3連休のみ有効のきっぷに衣替え)

>天神さま

>義稙に偏諱を受けたと考えられる稙国、稙家は兄弟だったか若しくは
>同一人物とも考えられるんですよねー
景氏の子が稙国・稙家・晴氏の様な気がするのですが…
更に想像をたくましくすれば、前者二名は側室の子。

>hazuさま
うちの掲示板は全国的に話題が散らばるのですが、
これからよろしくお願いいたします。

黒川氏の系図、興味深く拝見しました。
これをざっと見ると、「氏」がつく人物がむしろ少ないのですね。
稙国=租国・稙家=禎家とは偏諱説が成立しませんね。
しかし、『仙台人名大辞書』というのは昭和時代の編纂ですよね?
史料的価値はどうなのでしょうか?

また、黒川氏が関東公方の一流というのは、○氏と名乗ることで
そうかも…と思える節もありますね。「晴氏」って古河公方にもいましたし…

>戦武堂さま
江戸時代は姓を変えているかもしれませんね。明治になって戻したとか…

>肥後もっこす(仮)さま
天樹院って、千姫ですね。なかなか立派な人の局になってますね。

>KUBOさま
義孝が「国王丸」なのですか?
それと、正式に「二本松」となったのは義孝からなのでしょうか?

ところで、ニフティの系図部屋とは、かなりすごそうですね。
どこから系図を入手するのでしょう?
御子孫の方が直接書き込みされるんですか?

ところで、浅野家と伊達家が豊臣時代の取次役の関係で
絶交したのが江戸時代も継続し、幕臣等の仲介も役に立たなかった
という話があるのですが、二本松氏と伊達氏の関係はどのようなものだったのでしょうね。
二本松氏の主人が水野氏という譜代(老中にもなっているのでしょうか)ですから、
伊達家中と水野家中との交渉などもあった可能性もあると思うのですが。
やはり伊達家側は避けていたのかな?

[404] 二本松氏 その2 投稿者:KUBO 投稿日:2000年07月26日 (水) 00時25分
>肥後もっこす(仮)さん
 『徳川諸家系譜』所収の『柳営婦女伝系』を確認してみましたが、確か
にそのように出てますね。
 ついでですので、その後の二本松氏の系図を... でもこの元ネタはNifty
の系図部屋の筈衛さんの書き込みだったりする(^^;) 筈衛さん、すんませ
んm(__)m

畠山義継――――+―義綱
        |  梅王丸、九郎
        |  蘆名義広を頼る
        |  佐竹義重に奉仕
        |  義広に斬殺
        |
        |再興初代
        +―義孝――――――――――――+―義張――――――+
           称二本松         |  700石     |
           国王丸、七郎       |         |
           国次           |         |
           上杉景勝に奉仕      +―義政      |
           蒲生秀行に奉仕(3000石)    300石     |
           加藤嘉明に奉仕                |
           水野忠善の客分(月200石)           |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――+

+―義陳――――――義知――――――義元――――――義廉――――――+
                   右中      水野忠邦に奉仕|
+―――――――――――――――――――――――――――――――――+

+―義綏――――――義方――――――義達――――――義貫――――――+
                                  |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――+

+―錠 ――――――修蔵

[403] Waiting for JAPAN 投稿者:肥後もっこす(仮) 投稿日:2000年07月25日 (火) 21時28分
『柳営婦女伝系』の「天樹院殿御局 松坂局」の項に
》一説に松坂局は、水野監物忠善の家人二本松右京義継か女なりと云々、
という記述がありますが、これが子孫なのかな?
メモ引っくり返してたら見つけたので……。

[402] Re[399]:RE: 再び疑問 投稿者:hazu 投稿日:2000年07月25日 (火) 00時44分
>>たしかに稙国・稙家のみが歴代で「氏」を使ってません。

 先に参考とした『仙台人名大辞書』によりますと、
黒川景氏―――某   ―――顕氏  ―――永房  ―――+
天明4年没 文明7年没 明応9年没 永正8年没 |
+―――――――――――――――――――――――――――+

+―某 ―――景氏  ―――租国  ―――禎家  ―――+
享禄2年没 天文21年没 永禄3年没 永禄11年没|
+―――――――――――――――――――――――――――+

+―晴氏―――某   ―――某
 慶長4年没 慶長5年没 寛永3年没

 もともとの出典は黒川郡史のようです。
 みなさまのお話と違うところは景氏が二人いるところと、稙国・稙家
の名前が違っているところです。景氏を黒川氏初代としてしまったため、
誤認したと思われるようなほかにもおかしなところがありますが(^^;
 また、『宮城県姓氏家系大辞典』によりますと、有力な説は大崎家分
家ですが、関東公方足利家末流との説もあるようです。
 むかし、黒川御所があったところから来ている説だとは思いますが、
この場合面白い説だと思いましたのでアップしました。


筈衛

[401] Re[398]:RE: 再び疑問 投稿者:hazu 投稿日:2000年07月25日 (火) 00時44分

>>hazuさま(はじめまして!天神さまに続き、大崎氏にお詳しい方
>>登場ですね)

 大崎は精しくないです(^^;
 福島県、宮城県、茨城県の話に少しずつ参加しようと考えています(^^;)


 筈衛

[400] Untitled 投稿者:戦武堂 投稿日:2000年07月24日 (月) 21時20分
>上杉家の家臣で大崎姓のものいないかな(^^;

少なくとも幕末にはいません。 

  
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