掲示板 「無名庵」過去ログ その二十二
No.501〜550(2002/1/2〜2002/3/12)

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[550] ○本松 投稿者:くらのすけ 投稿日:2002/03/12(Tue) 23:32
>武藤舜秀さま
『三春町史』、資料館でまだ売っているようでしたけど?


>義綱さま
ありゃ?そうでしたか>カウンタ
でも、なんで訪問する方が増えてきたのか分からないんですよ。
やっぱり量があるので、googleとかでヒットする武将名が多いんですかね?

チャットは、時間があればお邪魔させて頂きます。


>ふーむさま
少しお力になれたみたいですね。

>そういえば、足利将軍の家臣ってまだどこでも
>扱っていなかったと思うのですが(あったらごめんなさい^^;)
『足利幕府奉行人文書集成』(とかなんとか言いましたかね?)
を利用すれば結構楽なんじゃないかとは思いますが…。


>HAZUさま
さすがに南東北は強いですね(^_^)
ところで、○本松っていうのは、福島県周辺にどこまであるんですか?○戸みたいに、一から九まであったりします?
(広島にはたしか八本松があった気がしましたが)


[549] Re[548]:RE: ありがとうございます 投稿者:HAZU 投稿日:2002/03/06(Wed) 01:10
☆ 武藤舜秀 さん

>>しかし、石川弾正は小手森城で討ち死にしたと聞きました
>>がどうでしょうか?

 気になって調べてみました(^^;;
 で、石川弾正が小手森城で討ち死にしたとする説もあるよ
うですね。
 『図説二本松・安達の歴史』(郷土出版社)における日下
部善巳の説、『福島県の中世城館跡』でもその後も生きてい
ると言う説を採用しているようです。
 これらの本の内容を総合すると、この百目木の石川氏は、
石川庄を知行していた石川氏の一族で、暦応4年(1341
年)に石川貞光の6男光久が小手森に分家し石川弾正忠と称
し、石川満朝の3男盛光が百目木に分家し石川治部太夫と名
乗ったことに始まるようです。
 『伊達世臣家譜』では大内氏のように四本松久義を放逐し
たのではないように読めましたが、こちらでは大内氏と一緒
に久義を放逐したように書かれています。久義は相馬氏を頼
って逃げたようです。後で、石川弾正も相馬氏を頼ったこと
を考え合わせるとちょっと所業無常を感じます。
 また、石川弾正の行動も、四本松久義を追い、大内氏と対
立するに当たって、三春田村氏を頼り、天正14年には伊達
政宗に従い、大内定綱攻略の恩賞として小手森城、月山館を
加増されたうえ、天正16年には正式に政宗に帰属したよう
です。その後、白石若狭守の与力とされたことに不満を持ち、
相馬氏に走ったようです。
 そして、件の小手森城での再度の戦闘があり、落城となっ
たようです。
 このときに弾正の父が寄っていた百目木城も落城しており、
小手森城での弾正の戦死説は百目木城での石川摂津の戦死が
誤って伝わったのかもしれないと思われます。
 石川弾正の関が原以降の消息は、百目木に隠遁し、百目木
の名目津壇に葬られたということです。
 相馬家中での弾正の子孫は百目木を名乗ったようです。



筈衛

[548] ありがとうございます 投稿者:武藤舜秀 投稿日:2002/03/05(Tue) 18:46
HAZU様、ありがとうございます。
しかし、石川弾正は小手森城で討ち死にしたと聞きましたがどうでしょうか?

伊達世臣家譜の必要性を感じたこの頃・・・

http://www2.cny.ne.jp/yp0326/


[547] Re[544]:RE: ほとんど皆様の所へ参上しないのに… 投稿者:HAZU 投稿日:2002/03/05(Tue) 06:24
☆ 武藤舜秀 さん

>>いいですね〜うらやましいです。
>>ひとつ気になるんですけど、田村氏の家臣の「石川弾正」
>>を調べてるんですけど、何かわかりませんでしたかね?

 『伊達世臣家譜』の「平士の部」に書かれている石川家が
ありますが、そこに石川弾正のことが書かれています。
 この家は石川下野光定からでており、石川摂津守有信の子
孫になります。もともとは四本松式部太夫久義の家臣で、天
文19年大内定継が四本松久義を放逐したとき、田村隆顕に
従ったようです。その後、相馬家や伊達家に従った家です。

石川摂津有信─+─弾正光昌─+─十太夫信昌
       |      |  相馬家家臣
       |      +─専右衛門有信
       |      |  相馬家家臣
       |      +─勘十郎某
       |      |
       |      +─下野光定───仁兵衛某・・・
       |                伊達家家臣
       +─靱負某

 弾正光昌は父に従い、田村家に仕えたが、天正16年に相
馬家に移りました。慶長5年には上杉家に仕え、最上家との
戦いでは功を立てたようです。


筈衛

[546] ありがとうございます! 投稿者:ふーむ 投稿日:2002/03/04(Mon) 00:18
くらのすけさま、畠山義綱さま、
早速のお返事ありがとうございました(^^)
印叟と就盛が同じ永正年間の人物で河内守護代…まで
判明すれば、何とかなりそうです。
また図書館に行った時、史料をひっくり返してみますね。

>いやいや、一つを深く取り上げた方が良いのでは、と最近思っています。だ>んだんとマイナーな勢力を専門に取り上げるサイトが
>増えてきているようですので、うちもぼちぼち…。
そういえば、足利将軍の家臣ってまだどこでも
扱っていなかったと思うのですが(あったらごめんなさい^^;)
こっちのほうは開拓のご意志はありませんか?
とっかかると大変そうですけど(^_^;A

http://homepage2.nifty.com/OTIBO_PAGE/


[545] 知識低カ・・・。 投稿者:畠山義綱 投稿日:2002/03/03(Sun) 22:03
どうも、こんばんわ。畠山義綱です。
1年間歴史から遠ざかっていたので、(ほとんど
論文を見ている暇もありませんでした)、すっかり
知識の低カしている義綱です。能登はまだまだ覚えて
いますが、冨樫・河内・二本松あたりの知識が怪しく
なっている(言い訳?)この頃です。
 ですので、たくさんの史料を読み返せば
「遊佐河内入道印叟」の史料もでてきそうなのですが、
申し訳ございません。考察する余裕もありません・・・。

>私は現実逃避できるくらいの忙しさだった
>んだなと思いました。すいません。
いえいえ、時間的余裕もそうですが、本当に辛いのは
精神的余裕だと思いますので、皆一様では無いと思います。
現実逃避は精神的余裕を(多少なりとも)改善させてくれる
いい薬です。もっとも使い過ぎると危ないですが(笑)

>それにうちのカウンタは、「再読込」しても
これについては、うちもそうです(^^ゞ

これからも、ネットは楽しんで頑張りましょう!

ちょっと宣伝ですが、3/15にチャットを開催しますので
よかったら、お越し下さい。

長文ご容赦。

http://www1.odn.ne.jp/~notohatakeyama/


[544] Re[543]: ほとんど皆様の所へ参上しないのに… 投稿者:武藤舜秀 投稿日:2002/03/03(Sun) 21:24
> えー、三春に行ったから、という理由がすべてではありませんが、
> 田村氏に人物の追加をしています。

いいですね〜うらやましいです。
ひとつ気になるんですけど、田村氏の家臣の「石川弾正」
を調べてるんですけど、何かわかりませんでしたかね?
何せ、三春町史は持ってるんですけど、「近世」の資料ですから天正の終わりから始まってるんですよ・・・(泣)

http://www2.cny.ne.jp/yp0326/


[543] ほとんど皆様の所へ参上しないのに… 投稿者:くらのすけ 投稿日:2002/03/02(Sat) 23:50
お祝いにいらしていただき、誠にありがとうございます。

えー、三春に行ったから、という理由がすべてではありませんが、
田村氏に人物の追加をしています。
三春で探す前に、こちらでみられるものを整理したら追加が必要、と感じまして。


>武藤舜秀さま
一時的な閉鎖なんですね。復活お待ちしておりますよ。


>野州さま
>おいらも現実逃避したいな〜(失礼)
義綱さまへもですが、私は現実逃避できるくらいの忙しさだったんだなと思いました。すいません。

>葦名も気になるので興味ありますね。
なんだか、「止々斎」を名乗る年代の再検討のようなのをやってましたよ。

>ん〜通史編と資料編をセットで買いたいような、買いたくないような・・・(^^;
通史編もたしか、最新の研究成果が載っているので
まとめて買ってしまいましょう(^_^;)

>吾妻の豪族とは保科とか諏訪でしたっけ。
>何か違うような気がしますが、他に名前が思い浮かばない・・・
いや、草津とか、浅間山の東側にいる豪族の、斉藤?とか
ですね。具体的には名前が思い出せないですが。

>詳しくは分かりませんでしたが、江戸期を入ったところまでで終わっているので、1600年代の前半頃ではないですかね。
資料集が意図的にそれ以降を省略している可能性はありませんか?


>義綱さま
ご無沙汰しています。他の方々の掲示板でもたまにすれ違ったりしますね。
もうそろそろ49000ヒット達成ですね。かなり人数的に先をいってしまい、申し訳ない気持ちですが、やっぱり人数より継続年数なんじゃないでしょうか?それにうちのカウンタは、「再読込」しても
1カウント増えますんで、ずいぶん水増しされていると思います(^_^;)


>ふーむさま
ご訪問ありがとうございます。

>やはり全国の大名を扱っておられるサイトさんは
すごいです…うちはぼちぼちと(笑)
いやいや、一つを深く取り上げた方が良いのでは、と最近思っています。だんだんとマイナーな勢力を専門に取り上げるサイトが
増えてきているようですので、うちもぼちぼち…。

>遊佐河内入道印叟なる人物についてご存知ありませんか?
河内畠山氏に関しては、下の義綱さまが専門ですが、
とりあえず弓倉弘年「室町時代紀伊国守護・守護代等に関する基礎的考察」『和歌山県史研究』17,1988、によれば、

遊佐就盛は義英の河内国守護代で、紀伊では永正四年六月と八月の
二通の文書が知られるそうですが、受領名は書いてありません。
とりあえず、これだけお知らせしておきます。


[542] いやはや・・・ 投稿者:武藤舜秀 投稿日:2002/02/28(Thu) 22:13
畠山様、宮野州様、ご丁寧にありがとうございます。
基本的なところはあまり変わらないと思いますが、
新しく出直しということです。

http://www2.cny.ne.jp/yp0326/


[541] 今更×3 投稿者:ふーむ 投稿日:2002/02/28(Thu) 02:06
大変ご無沙汰いたしました(^^;
六万ヒットおめでとうございます!
やはり全国の大名を扱っておられるサイトさんは
すごいです…うちはぼちぼちと(笑)

ところで、せっかくなので皆さまに
お尋ねしたいのですが、
遊佐河内入道印叟なる人物についてご存知ありませんか?
河内の畠山義英の家臣で
1511年の船岡山合戦にて細川・大内連合軍に敗戦し、
捕えられて自害させられた…まではわかっています。
河内守を称しているので、河内守護代遊佐氏の当主で
長教のご先祖と思われるのですが、
実名がわかりません…(T_T)
「就盛」かなっ、とは思うのですが、調査不足で。

図書館に行って調べればよろしいのですが、
よろしければお力添えをお願いいたします(ぺこっ)。

http://homepage2.nifty.com/OTIBO_PAGE/


[540] 今更×2 投稿者:畠山義綱 投稿日:2002/02/28(Thu) 00:14
六萬ヒットおめでとうございまする!
いや〜だいぶヒット数多いですねぇ。
うちもヒット数抜かされ、さらに差も
広がる一方です。

>東北旅行
私も現実逃避したいですなぁ。

>武藤舜秀殿
直接的には初めまして?でしょうか。
再建されるとの由。ぜひ再建の折には
リンクさせてくださいませ。
宜しくお願い申し上げます。

http://www1.odn.ne.jp/~notohatakeyama/


[539] 今更・・・ 投稿者:宮野州 投稿日:2002/02/27(Wed) 22:55
六万hitおめでとうございます。

東北に旅行ですか。
いいな〜
おいらも現実逃避したいな〜(失礼)

更に今更レスで恐縮ですが・・・

> ただ、若松にある県立博物館の紀要は結構おもしろそうでしたね。蘆名盛氏の発給文書考だとか、
葦名も気になるので興味ありますね。

> 中世通史編の付録に中世資料編の補遺がついたりして、なかなか親切です。
ん〜通史編と資料編をセットで買いたいような、買いたくないような・・・(^^;

> 確かにあれはぶ厚いです。古書店なら少しは安くなってるんですかね?
調べてみたら約一万でした。
専門家でもない限りちょっと手を出せないですね。

> 勢力が落ちていないとはいえ、館林?長尾氏に庇護を求めて断られていたりしますので、指示できるほどは…?
> ただ、北条氏が一気に駆逐できるほどの凋落はなかった、と。
その辺りが妥当な考え方でしょうね。
やはり苦しいかな・・・

> 信濃侵攻は吾妻の豪族が背後から村上氏等々に脅かされているので、攻めた、という記憶がありますが(かなりいいかげんです)。吾妻の豪族とは保科とか諏訪でしたっけ。
何か違うような気がしますが、他に名前が思い浮かばない・・・
武田ではなくて、北信濃の連中からの圧迫で攻めたということですか。
でも信玄と戦って負けたんでしたよね。
ま、調べればいいんでしょうが、そこまでする気は今のところないので(汗)

>> 何らかの原因で地元に戻ってきたのか、それとも・・・
> それとも、お手討ちになったとか…?^^;
子孫ありとは書いてありましたが、名前はなかったので、あるいはその代で・・・

> 「貫」ですか…。たしか越前ではすべて石高表示だったような…。
> わざわざ貫に換算しなおしたのだろうか…。
そうでしたか。
そうなるとちょっと怪しいですね。

> その系図がいつ書かれたものか不明ですが、
詳しくは分かりませんでしたが、江戸期を入ったところまでで終わっているので、1600年代の前半頃ではないですかね。

> 武藤舜秀さん
> 今新しくし直しているんです。
おお、そうでしたか。
再開を期待しています。

[538] 城郭調査済み 投稿者:八戸三郎 投稿日:2002/02/27(Wed) 18:43
弥兵衛館をあれから少し調べました。
『秋田中世城館』だったかな^^;
舘の沿革が書かれていましたが、周囲の距離や出土品などであまり詳しくは書かれていませんでした。この館について語り継ぐ一族がいるようですが、一族についても名前だけでした。

「蒼天録」というのは信長のゲームですよね。南部の将も何十人か出てくるんですかね。

[537] 一時閉鎖について 投稿者:武藤舜秀 投稿日:2002/02/27(Wed) 17:29
いや、今新しくし直しているんです。
表示の仕方をいろいろ変えたり、いじくってます。

ただ、年表方式は変わりませんけど。

http://www2.cny.ne.jp/yp0326/


[536] 御礼 投稿者:くらのすけ 投稿日:2002/02/25(Mon) 23:36
おかげさまで6万ヒットに到達致しました。
ありがとうございます。今後ともよろしくお願い致します。

この週末は思い立って会津地方に出かけていました。
若松や三春に行って来ました。序でに図書館にも寄ってみましたが、
あまりめぼしいものはありませんでした。
ただ、若松にある県立博物館の紀要は結構おもしろそうでしたね。蘆名盛氏の発給文書考だとか、蒲生郷成?家文書の紹介とか、
伊達政宗発給文書一覧表(?)が載っていたりとか。

>八戸三郎さま

>まだあまり分からない舘なのでしょうかね。
>辛抱して待ってみたいと思います。
城館調査などはしていないのでしょうかね。よく分かりませんが。


>武藤舜秀さま
いつも節目の時にご来訪ありがとうございます。
ところで、サイト休止には驚きました。
いろいろあるのでしょうが、復活をお待ちしてます。

>あまり最近書き込みが少ないような気がするのは私だけでしょうかね?
「私の」でしたら、深くお詫びします。ちょと年度末にかけて
忙しくて…(そんな中旅に出るのはなぜ?と言われそうですが、はっきり言えば、「現実逃避(^_^;)」ですね。)

「この掲示板全体の」でしたら、そんなこともあるでしょう、
と申し上げておきます。うちの掲示板は閑散期と繁忙期?の波が大きい気がしますから…。
いずれにしろ、気にして頂いてありがたいことです。


>二見丹波守さま
ごぶさたしております。

>歴史ある地方紙ですからね。テレビCMの受け売りですが・・・。
そうらしいですね。
秋田出身の友人は、地方紙なのに独自のソース(地方紙は大体大手新聞社から記事を配信してもらっているらしい)で記事が組み立てられている、と自慢していました。そのときは実感しなかったんですけど、今回の記事でちょっと実力が分かった気がしますね。

>秋田と言えば男鹿のなまはげですが女鹿と言うところが山形(県境)にあります。やっぱ関係あるんでしょうかね。
今地図をみたら、ありました。今初めて気がつきましたよ。
不思議ですね。
やっぱり、上下・男女等々…の地名は対なんでしょうかねぇ?
(でも宮城?には「女川」に対する「男川」はないですね)


※余談
旅先でLOGINに「蒼天録」の体験版が付いてることを期待して
見てみましたがありませんでした。さらに今日正式に発売延期が発表された由。体験版で武将がどれくらいいるか確かめたかったんですけどねぇ。

[535] 魁新報社 投稿者:二見丹波守 投稿日:2002/02/22(Fri) 23:35
歴史ある地方紙ですからね。テレビCMの受け売りですが・・・。

下浜と言ったら本荘市から秋田市に行く間の駅であったはずでしたが。
何もないので降りたことはありません。ちなみに上浜は象潟です。
秋田と言えば男鹿のなまはげですが女鹿と言うところが山形(県境)にあります。やっぱ関係あるんでしょうかね。

[534] 60000HITおめでとうございます 投稿者:武藤舜秀 投稿日:2002/02/22(Fri) 21:13
あまり最近書き込みが少ないような気がするのは私だけでしょうかね?

http://www2.cny.ne.jp/yp0326/


[533] ありがとうございます 投稿者:八戸三郎 投稿日:2002/02/16(Sat) 19:34
検索してくださって、どうもありがとうございます。

「館跡を歩く」見ました。
弥兵衛館を歩いたのでないのが、非常に残念です。
マニアックなのでほとんど文献がないようです。(T_T)
まだあまり分からない舘なのでしょうかね。
辛抱して待ってみたいと思います。

・・・『中世出羽の領主と城館』・・・気になります。
もしやこれに載っていたりして(笑

[532] まずは 投稿者:くらのすけ 投稿日:2002/02/16(Sat) 13:45
新刊紹介もどきから。
『中世出羽の領主と城館』伊藤清郎編、高志書院、3800円


>こたつ城主さま
熱弁、ありがとうございました(^^;)

>それまでさんざん文句言ってた信越新幹線にも乗り、
>「釜飯が冷めてる、トンネルが多くて景色が見えない」
その上新幹線では釜飯を扱う数がずいぶん少ないみたいですね
(重いからと言っていたような…)
おぎのや自身は国道沿いの店で車相手に商売をすることにシフト
したから安泰みたいですが。
新幹線開通後に、交通費をケチる為に横川まで各停、それから軽井沢までバスに乗りましたけど、在来線の時より景色よかったですよ。でもずいぶん時間かかりました。

>そしたら……あるのは子供が遊び場とする
>「フツーの公園」なんですね(汗)。
御館にいったんですか?そりゃまた大変なマニアぶり…(笑)。
しかし、そもそも御館の乱の時に焼けたんじゃ…?

>それ以来……トンネルが掘られて以来の春日山にも行けないほど、
>この出来事は私にトラウマとなって残っているのであります。
春日山にトンネル掘られたんですか?私は10年位前に行きましたが、そのときは掘られていたのかな?

しかし、関東圏にすんでいる人は地方の史跡変形について
あまり大きな声で言えない気が…
関東(特に東京)自体、江戸の「史跡」(当時は史跡ではないですが)を破壊しまくった上に今の東京がありますからね。
これに関しては、少し論点がずれてるかもしれません。



>野州さま

>>『新編 高崎市史』
>最近でたみたいですよね。
まだ刊行中かもしれませんよ。中世通史編の付録に中世資料編の補遺がついたりして、なかなか親切です。

>『戦国大名と外様国衆』でしたか、結構ボリュームのあるやつですよね。
>値段もかなりボリュームがありましたが・・・(^^;
確かにあれはぶ厚いです。古書店なら少しは安くなってるんですかね?

>憲政が思ったほど権力が落ちてないとすると、破れかぶれに下野に侵攻、もしくはその配下勢力に指示したとも・・・
>たしか天文年間に信濃に侵攻して信玄に叩かれてますよね。
勢力が落ちていないとはいえ、館林?長尾氏に庇護を求めて断られていたりしますので、指示できるほどは…?ただ、北条氏が一気に駆逐できるほどの凋落はなかった、と。
それと、信濃侵攻は吾妻の豪族が背後から村上氏等々に脅かされているので、攻めた、という記憶がありますが(かなりいいかげんです)。

>何らかの原因で地元に戻ってきたのか、それとも・・・
それとも、お手討ちになったとか…?^^;

>知行三百貫で子孫は越前にありと書いてありますです。(汗)
「貫」ですか…。たしか越前ではすべて石高表示だったような…。
わざわざ貫に換算しなおしたのだろうか…。
あと考えられるのは、その系図がいつ書かれたものか不明ですが、
秀康から忠昌に従って上総→信濃→越後、そして越前復帰、
という経過をたどれば給帳に記載がないことも考えられます。




>八戸三郎さま
はじめまして。二見さまのところからおいでですか。

>由利十二頭関連で秋田市下浜羽川に
>弥兵衛舘というものがあるようなのですが、
>これについて何かご存知でしたら教えてください。
「舘」を「館」に変えて検索したら、秋田魁日報社のサイトに
ぶつかりました。

http://www.sakigake.co.jp/kikaku/2000/yakata/yakata_01.html

ネット上ではこれくらいしかないみたいですね。
ほとんどお力になれないですが…
それと、魁新報社って、結構マニアックな連載をしてますね。
上も「館跡を歩く」という連載だし、今は佐竹氏の連載をしてるみたいです。







[531] 弥兵衛舘について 投稿者:八戸三郎 投稿日:2002/02/16(Sat) 09:45
はじめまして

二見さんのところから来ました。
由利十二頭関連で
秋田市下浜羽川に弥兵衛舘というものがあるようなのですが、
これについて何かご存知でしたら教えてください。
いきなりすみません。(__)
よろしくお願いします。

[530] 以外と揺れた 投稿者:宮野州 投稿日:2002/02/12(Tue) 23:31
ご返答ありがとうございました。

> どなたか忘れましたが『埼玉県史研究』の早い号の論文です。
>(僧が逃げながら状況を記した文書(経の裏書)が発見されたとかで)
それは興味ありますね。

>『新編 高崎市史』
最近でたみたいですよね。
『群馬県史』があるかどうか分らないので、こっちを当たってみようかな。

> 上野でしたら、黒田基樹氏の本がオススメです。
『戦国大名と外様国衆』でしたか、結構ボリュームのあるやつですよね。
値段もかなりボリュームがありましたが・・・(^^;

憲政が思ったほど権力が落ちてないとすると、破れかぶれに下野に侵攻、もしくはその配下勢力に指示したとも・・・
たしか天文年間に信濃に侵攻して信玄に叩かれてますよね。
あれはどういった理由でしたっけ。
信濃に進展を求めようとしたという理由だったら、当時は北は長尾、西は武田、南は北条という勢力がいましたから、一番弱いと思われた東にベクトルを向けたのかなとも・・・
まああまり書いてしまうと、ネタ切れになってしまうのでこの辺で。(^^;

> ただ、仕えたとしても、越前転封時に従わずに残留したり、越前に行っても給帳が作成される以前に故郷に戻っていたりする可能性も考えられるので、
そうですか、いませんでしたか。
何らかの原因で地元に戻ってきたのか、それとも・・・

ちなみにこの記事が載っていたのは、『上三川町史史料編』の「石崎系図」で の通長長男で八郎左衛門通辰というものが、知行三百貫で子孫は越前にありと書いてありますです。(汗)
私のほうも暇があったら調べてみます。

[529] トラウマ 投稿者:こたつ城主 投稿日:2002/02/10(Sun) 03:17
くらのすけ様、お久し振りでございます(^^)。

長野オリンピックの時ですか。家に居ました。

実は長野オリンピックって、あんまし賛成じゃなかったんです。
よく松代に行ってたのですが、町の中央にデカデカと背の高い
ホテルが建ってしまい、「これで町が盛り上がるんだっ!」
と地元のためには喜んだのですが、どっから見てもクッキリ
と建物が見えるので、「景観が……(-_-;)」と、いかにも
観光客ならでは贅沢なワガママを言ったりしていました。

しかし実は、このホテルを見たのは長野オリンピックがとっくに
終わってからでして(爆)、何のかんの言ってやっぱりこの辺り
には来るんだなぁ、と我ながら関心しました(笑)。

同様に、それまでさんざん文句言ってた信越新幹線にも乗り、
「釜飯が冷めてる、トンネルが多くて景色が見えない」
とさんざん文句を言ったわりに、「やっぱ長野はいいなぁ(^^)」
の言葉で締め括れる自分って、どうしようもない奴と呆れました。

長野オリンピック以後、大々的な改装をした国民宿舎にも、
去年改装以来はじめて訪れまして、「きっと派手派手しく
なってるに違いない」とそれまで牽制して来たのですが、
「結構良い具合に改装されてる(^^)」とか喜んだ次第。

ところで、どうしてこうまで史跡周辺の変化に対して
頑固者になってしまったか、と言いますと、その全ての原因は
「御館城跡」のトラウマからなのでございます。

実はここ、松代とか春日山とか直江津の国分寺とか行った後に、
「いよいよ激突、御館の乱だっ!」と凄んで参った所でした。

そしたら……あるのは子供が遊び場とする「フツーの公園」
なんですね(汗)。今はどうだか知りません。もう随分前の
事です。しかも今もそうだったとして、平城なんですから、
当たり前だったと思わねばならない城跡なんですよね。

しかし若かった私は、「春日山が立派だから、きっと御館城も
『何かが』立派に違いない!(こういう観光客ほど厄介なもの
って無いですね)」と凄んでおったのであります!

それ以来……トンネルが掘られて以来の春日山にも行けないほど、
この出来事は私にトラウマとなって残っているのであります。


ご清聴、ありがとうございました(爆)。

http://www.page.sannet.ne.jp/kotatu


[528] Re[527]: 上野退去寸前の山内殿の動向と石崎氏に関して 投稿者:くらのすけ 投稿日:2002/02/09(Sat) 20:59
どうもこんばんは。冬季オリンピックが始まりました。
皆さんは、長野の時はどうしていましたか?
私はとても暇だったのでずっとテレビ観戦でしたが。あれから4年ですよ。早いですね。

野州さま
>憲政(この当時は憲当でしたね)の上野退去の記事が書いてあったのを思い出しました。
> 永禄元年まで上野国境付近をうろうろしてたとのこと。
> あの最近の説の典拠文献は最後に紹介しているものどれか、例えば『高崎市史』辺りでしょうか?
従来の説を覆して、平井城落城-憲政退去の年代を確定したのが、どなたか忘れましたが『埼玉県史研究』の早い号の論文です。
(僧が逃げながら状況を記した文書(経の裏書)が発見されたとかで)

『新編 高崎市史』には、
天文21年(1552)に北条氏によって平井城が攻められて憲政が退去、その後越後国境付近(群馬県北部、沼田とか吾妻)で情勢をうかがうものの、北条氏の勢力が伸展し、永禄元年(1558)8月頃に越後に逃れたらしいです。このときに沼田氏に家中騒動が勃発したらしい、ともあります。
また、(永禄元年)7月3日付平子孫太郎宛成悦(上杉憲政)書状には「不思議の世上故、当国に打ち越し候、然る処、爰元相整え候間、近日上州へ打ち入るべく候…」とあるそうで、この頃にはすでに越後に居たのでしょう。また、市史では
「憲政の越後入りはこのように上野の城主クラスの人物数人を引き連れたもので、従来考えられてきたような敗残の落ち武者としてではないことがわかる。」と書いています(ちょっと憲政びいきか?)。

> しかし死に体の憲政に下野に侵攻する余裕、
>もしくは指示などできたかな・・・憲政の可能性は薄いか・・・
上記より、「死に体」とまでは行っていないと思われます。

> とまあ独り言はどうでもいいとして、上野の勢力の勉強もしなければ、と最近感じています。
上野でしたら、黒田基樹氏の本がオススメです。

> もう1つは、宇都宮氏の家臣に多功氏がおりますが、その家臣に石崎氏というのがいるんですが、その系図を見てみると宇都宮氏改易後結城秀康に仕えたとあります。
> しかしそちらの秀康/忠直給帳には石崎氏の記載がありませんでした。
> 越前関連の史料には家臣に石崎氏の名前はありませんか?
ちょっと分からないですね。「岩崎」ならいますが。
ただ、仕えたとしても、越前転封時に従わずに残留したり、
越前に行っても給帳が作成される以前に故郷に戻っていたりする可能性も考えられるので、その辺を調べる術はなさそうです。
何にせよ、文書に石崎姓の人が居たら注意してみます。

長文失礼しました。

[527] 上野退去寸前の山内殿の動向と石崎氏に関して 投稿者:宮野州 投稿日:2002/02/08(Fri) 00:09
ども。
2点聞きたいことがあります。

そちらの山内上杉の記事改めて見てみましたら、憲政(この当時は憲当でしたね)の上野退去の記事が書いてあったのを思い出しました。
永禄元年まで上野国境付近をうろうろしてたとのこと。
あの最近の説の典拠文献は最後に紹介しているものどれか、例えば『高崎市史』辺りでしょうか?

しかし死に体の憲政に下野に侵攻する余裕、もしくは指示などできたかな・・・
憲政の可能性は薄いか・・・

とまあ独り言はどうでもいいとして、上野の勢力の勉強もしなければ、と最近感じています。

もう1つは、宇都宮氏の家臣に多功氏がおりますが、その家臣に石崎氏というのがいるんですが、その系図を見てみると宇都宮氏改易後結城秀康に仕えたとあります。
しかしそちらの秀康/忠直給帳には石崎氏の記載がありませんでした。
越前関連の史料には家臣に石崎氏の名前はありませんか?

[526] Re[524]: お久しぶりです 投稿者:くらのすけ 投稿日:2002/01/31(Thu) 22:44
ぬーぼ様、お返事遅くなりました。今年もよろしくお願いします。

> 今年もよろしくお願いします。さて、最近僕が疑問に思っているのは、兼持という文字です。誰の名前なのか?そこで壱岐守の嫡男に
> 刑部之丞という人がいます。兼陳の親父さんですね。資料が手に入ったので、今は大学からつなげているので手元にありませんが、この人であるという小説を書かれた先生のお言葉をメモした物がありますので、いずれお話します。

おお。そもそもの疑問から入られたのですね。これだけこちらと食い違いがあるということで。期待しております。

[525] 無題 投稿者:くらのすけ 投稿日:2002/01/25(Fri) 00:04
No.525「剣道大会の覇者に、なぜ日本刀を…」は
マルチポストと確認したので、削除しました。

[524] お久しぶりです 投稿者:ぬーぼ 投稿日:2002/01/22(Tue) 13:46
今年もよろしくお願いします。さて、最近僕が疑問に思っているのは、兼持という文字です。誰の名前なのか?そこで壱岐守の嫡男に
刑部之丞という人がいます。兼陳の親父さんですね。資料が手に入ったので、今は大学からつなげているので手元にありませんが、この人であるという小説を書かれた先生のお言葉をメモした物がありますので、いずれお話します。

[523] うわ…すいません。 投稿者:くらのすけ 投稿日:2002/01/20(Sun) 23:14
10日以上も放置してました。広告書き込みを削除したのを
書き込みしたと思いこんでいたようです。

>ぴえーるさま
フォローありがとうございます。

>橘治郎さま
そういうことははじめから言ってください。

>畠山義綱さま

>陪臣の身分で所領5万石(あれ3万石だったかな・・・?)。
>普通なら小大名級ですからね。いやはや、さすが前田百万石。
本多より多いのかな?外様的な家臣だからですかね?


>逸影殺幻龍さま
初めまして。KUBOさまがご説明の通りです。
検索などで分かりそうな事項であれば、出来れば調べてから質問していただけると有り難いです。(^_^;)

>没落大名さま

>墓地もお城の敷地内に作られたようです。
>お墓の石碑には「大崎城」と有る事から、柏倉村の城で通称「柏倉城」なのでしょう。
大崎城ですか。ますます想像がかき立てられますね(^_^)
お墓があるということですが、城跡はまだ一族の方々が土地をお持ちなんですか?

>ただ、家紋が違うのです。
家紋って、2種類くらいありますよね。

>武藤舜秀さま

>陸中には宮城郡と言うところがあります
>(宮城郡は今の仙台市周辺)から大崎氏と関係がありそうですね。
そうでしたか〜。宮城って、昔からの地名だったんですね。だから県名になったのか。

>先日は、わざわざおいでいただきありがとうございます。
>昨年末以来いろいろとゴタゴタしておりましたが、少し落ち着いて参りました。
いえいえ。年末年始は大変でしたね。最近更新も再開されたようで何よりです。今年もどうぞよろしくお願いします。

>二階堂万作さま
ようこそおいで下さいました。

須賀川二階堂氏の本家というと、鎌倉幕府に仕えていた家なんでしょうか?ちょっと今のところは詳しくは分からないのです。お力になれなくてすいません。

[522] 私のルーツ教えて 投稿者:二階堂 万作 投稿日:2002/01/16(Wed) 20:35
私は、宮城県の若柳町に住んでいる者です。
大正2年に系図(紺紙金泥?)などすべて焼失。
それ以来、私達に階堂家はこの世から行方不明。
過去に、系図を見た人の覚書では、その始まりは、御食子(ミケコと振り仮名)そして藤原の鎌足さんとのこと。
そう書いていたらしい。後なにやら書いてあるが、良くわからない。
福島県の須賀川城主は当家先祖の支流とか、代官として高野山に大先祖供養と正安二年、松島の大宮司と争論合戦に及んで討ち死にしたとか。
色々書いてある物は有るんですが。
迷い込んだこのHP.なにやら尋常でない様子。
どうぞ、教えてください。私の焼失した過去を。
お願いします。

[521] Re[520]: 今年もよろしくお願いします。 投稿者:逸影殺幻龍 投稿日:2002/01/15(Tue) 14:42
> >くらのすけさん
>  先日は、わざわざおいでいただきありがとうございます。昨年末以来いろいろとゴ
> タゴタしておりましたが、少し落ち着いて参りました。なかなか更新もままなりませ
> んが、今年もどうぞよろしくお願いします。
>
> >逸影殺幻龍さん
>  はじめまして。
>  「コシャマインの戦い」ですが、長禄元年のことといわれておりますので、西暦で
> いいますと1457年のことになります。
>
すいません。どうも応仁の乱と勘違いしてたようです。

[520] 今年もよろしくお願いします。 投稿者:KUBO 投稿日:2002/01/14(Mon) 10:59
>くらのすけさん
 先日は、わざわざおいでいただきありがとうございます。昨年末以来いろいろとゴ
タゴタしておりましたが、少し落ち着いて参りました。なかなか更新もままなりませ
んが、今年もどうぞよろしくお願いします。

>逸影殺幻龍さん
 はじめまして。
 「コシャマインの戦い」ですが、長禄元年のことといわれておりますので、西暦で
いいますと1457年のことになります。

http://homepage1.nifty.com/t-kubo/


[519] Re[513]: そんなに親切じゃありません 投稿者:武藤舜秀 投稿日:2002/01/14(Mon) 00:05

> >群馬県に在る宮城という場所なので面白い偶然ですね。
> 群馬にそのような地名があるんですね。
> でも「宮城」って江戸時代からあった地名なんですかね?
> (というか「宮城県」の「宮城」は江戸時代の地名と何か関係有るのだろうか…?)

陸中には宮城郡と言うところがあります(宮城郡は今の仙台市周辺)から大崎氏と関係がありそうですね。

http://www2.cny.ne.jp/yp0326/


[518] 群馬の宮城ですが 投稿者:没落大名 投稿日:2002/01/12(Sat) 02:32
>くらのすけ様
>「宮城」って江戸時代からあった地名なんですかね?
明治以降の地名のようです。
小さな村を統合した中に「赤城神社」が有った為に付けられたようです。
この辺りは柏倉村と呼ばれていたそうです。
余談ですが、ここには「柏倉城」という名前の当一族の城跡が残っています。
城跡と言っても残っているのは土塁・門・お堀・倉・井戸位です。
母屋は焼失してしまったそうです。
門は「長屋門」で、入り口を挟んで左に6畳?二間、右に一間有ります。
墓地もお城の敷地内に作られたようです。
お墓の石碑には「大崎城」と有る事から、柏倉村の城で通称「柏倉城」なので
しょう。
ちなみに、知名度は殆どゼロです。
でも最近小さな村指定の史跡の札が付きました。

>あの奥州というと、あの大崎氏の可能性があるんですね。
可能性は有るかもしれません。
石碑からは約500年前に此方に流れて来るまで大きな勢力を誇っていたと
有ります。
ただ、家紋が違うのです。
改易された時に変更されたのでしょうか?。

長々とすみませんでした

[517] 初投稿です! 投稿者:逸影殺幻龍 投稿日:2002/01/11(Fri) 15:05
初めてここにきました!

蠣崎氏についてなんですが、コシャマインの乱は1467年だと思うのですが・・・。

[516] 密かな宣伝(?) 投稿者:畠山義綱 投稿日:2002/01/10(Thu) 23:40
どうも、こんばんわ。畠山義綱です。

>石橋和義殿
お役に立てて幸いです。あまり江戸期になると私も
詳しくないですが、室町・戦国時代ならなんとか
お手伝いできます。何かありましたら、私の
HP(下記URL)へどうぞ!・・・と密かな宣伝行為!

>くらのすけ殿
長家は江戸期になっても、かなりの勢力ですよ。陪臣の
身分で所領5万石(あれ3万石だったかな・・・?)。
普通なら小大名級ですからね。いやはや、さすが前田百万石。

http://www1.odn.ne.jp/~notohatakeyama/


[515] Re[514]: 512 投稿者:橘 治郎 投稿日:2002/01/10(Thu) 13:15
ぴえーる殿 早速のご教示ありがとうございます。このページは以前に見たことがあります。関ヶ原の後に自害したことになっていますが、慶長7年の古田織部の茶会に招かれた記録があります。戦後かなり時間が立ってから自害したのでしょうか。あるいは同じ官職名を名乗る別人でしょうか。このような理由で没年が知りたかったのです。この種のことがらを調べるのに適した史料はあるでしょうか。

[514] Re:512 投稿者:ぴえーる 投稿日:2002/01/09(Wed) 22:11
Googleで検索すれば没年も略歴も判明。

http://www.google.co.jp/


[513] そんなに親切じゃありません 投稿者:くらのすけ 投稿日:2002/01/09(Wed) 19:45

>義綱さま
出てきてくださってありがとうございます(^_^)
穴水で良かったんですね。はじめは石川県の博物館とかを
想像していたんですが。とりあえず検索してみて正解でした。


>没落大名さま
大崎さまですか。あの奥州というと、あの大崎氏の可能性が
あるんですね。

>私が今住んで居るところは、
>群馬県に在る宮城という場所なので面白い偶然ですね。
群馬にそのような地名があるんですね。
でも「宮城」って江戸時代からあった地名なんですかね?
(というか「宮城県」の「宮城」は江戸時代の地名と何か関係有るのだろうか…?)

>書き込まれていた内容の殆どは、
>大胡城の城主が牧野氏と記されている事から1600年以降の事のようです。
それでもすごいですよ。お墓、大切になさってくださいね。

>石橋和義さま
どういたしまして。ほとんどは義綱さまのお陰ですけど。
長氏って、加賀藩でもかなりの重臣だったんですよね。
「長町」という武家屋敷も保存(見学可能)されてますし。
なにかご友人のことで分かったことがあったら、ご報告してくだされば幸いです。これからもよろしくお願いします。

>橘 治郎さま
えーと、どこかでお会いしましたっけ?
生駒修理って、誰ですか?うちの「官職辞典」にもありませんし…
「google」とかで検索してみましたか?『戦国人名事典』を調べてみましたか?もう手におえなそうですか?

[512] 生駒修理の件 投稿者:橘 治郎 投稿日:2002/01/09(Wed) 18:18
古田織部の消息の内容について調べていますが、書かれた年月日を特定するため、宛先である生駒修理(亮)の没年と略歴をご教示いただけると幸いです。

[511] ありがとうございました 投稿者:石橋和義 投稿日:2002/01/07(Mon) 00:40
くらのすけさま、畠山義綱さま、たいへん参考になりました。長姓を持つ友人に家の由来を調べてほしいと依頼され、なにかヒントを与えていただけたらと思いお邪魔させていただきました。どうもありがとうございました。深い知識と詳細な分析力に、このようなサイトをつくっていらっしゃる方がいるのかとたいへん驚かされました。これからもお邪魔させていただきたいと思います。本当にどうもありがとうございました。

[510] 失礼しました 投稿者:没落大名 投稿日:2002/01/07(Mon) 00:27
くらのすけ様、早速のお返事ありがとうございました。

>どちらの流れを組むお方なのでしょうか
書き込む時間が遅く、寝ぼけていたのか書き漏れてしまったようです。
すみません。

私は、大崎と申します。
墓地に書き込まれていた文章に由りますと、奥州陸前(宮城県)から
流れてきたようです。
私が今住んで居るところは、群馬県に在る宮城という場所なので面白い
偶然ですね。

書き込まれていた内容の殆どは、大胡城の城主が牧野氏と記されている
事から1600年以降の事のようです。

[509] 長家古文書について 投稿者:畠山義綱 投稿日:2002/01/06(Sun) 22:50
どうも、こんばんわ。畠山義綱です。

お呼ばれしましたので(笑)参上仕りました。
長家の古文書はたしかに、穴水町歴史民俗資料館が
所蔵しております。実際に同資料館では本物が見れます。
また、『図録長家史料』という本も発行していて購入も
できます。おそらく電話をすれば郵送などの方法が
あるかと思われます。
 長家のご子孫は、現在東京に在住なさっていらっしゃる
ようです。そのご子孫の方が昭和49年に長家古文書を
穴水町歴史民俗資料館に寄託したと前掲書には書かれてお
ります。

横レス失礼いたしました。

[508] 正月休み 投稿者:くらのすけ 投稿日:2002/01/06(Sun) 19:34
今年は特に新年という気がせずに終ってしまいます。
(友人と夜8時から朝6時過ぎまでほぼ同じペースで飲み続けていた、というのは正月だからなせる業なのだろうけれど)

そういえば、最近車の前に正月飾りを付けるのがめっきり減りましたね(え?ずっと前からですか?)


>武藤舜秀さま
資料は収集継続中、ということで楽しみです。

>でも、「大村君」によれば祖先は藤原氏だと言っています。
>ここでは平氏と書いてあります。
「平氏」というのは、当初は「平氏」で通していた(寄進銘から判明)けれど、途中より「藤原純友」の子孫と称するようになったと言われているので、系図では「藤原氏」となっているのでしょう。

>しかし、子孫だったら直系の証か何か持っているはずなのに資料をコピーって?
昔は子供がたくさんいましたからね。昔も一種の「コピー」
(文書を忠実に写す。花押も)で分家に渡し、本家が本物を持つ(一部分家に渡してしまう例もあるようです)、ということだったらしいですよ。
うちの「武将列伝」でも大村氏の分家をいくつか出してますが、その流れを組んでいるのですかね。

>北畠具顕さま
お越し下さいまして有り難うございました。今年も宜しくお願いいたします。

>畠山義綱さま
今年も宜しくお願い致します。

>マイナー大名は有限資源(笑)だけに、
そうですね。ついでなのでここにひっそりと現時点で情報収集しているものを書いてしまいましょうか。
西園寺・宗像・阿蘇・斯波(陸奥)
これで打ち止め(の予定)です。

>没落大名さま
ようこそおいで下さいました。よろしくお願いします。
どちらの流れを組むお方なのでしょうか。気になります。


>石橋和義さま
初めまして。ようこそおいで下さいました。

>長続連の名前で書き込みをされている方がいらっしゃいますが、長一族の方でしょうか。
>長家文書はどこで保存されているかご存知でしょうか。
>また長氏の嫡流家は現代まで存続しているのでしょうか。ご教示ください。
ご本人がお出でになれば一番良いのですが、とりあえず私が分かるところのみ。
長家文書は検索エンジンで調べてみたところ、「穴水町歴史民俗資料館」所蔵のようですね。しかし、町立の博物館があんな豪華な目録をだせるのかな…?(目録は見たことあります。どこかの大学が調査に入ったんだろうか?)
御子孫が健在かどうかは、おそらくいらっしゃるんじゃないですかね?

…殆ど答えになっていないですね。義綱さま、お分かりになります?

そろそろ「利家とまつ」が始まりますね。

[507] 発見! 投稿者:武藤舜秀 投稿日:2002/01/04(Fri) 22:10
私の親友の「大村君」が九州の大村氏の子孫であるらしいとのこと。

これは昨日その「大村君」と話していたら、元々大村氏の子孫で、「大村君」の祖父がわざわざ九州の大村まで行って資料をコピー(?)してきてその資料は門外不出とのこと。
でも、「大村君」によれば祖先は藤原氏だと言っています。
ここでは平氏と書いてあります。

しかし、子孫だったら直系の証か何か持っているはずなのに資料をコピーって?

でも、大村純忠はその資料に載っていたらしいです。(そりゃそうですがね。)でも、純忠がキリシタンだってことを本人は知らなかったですし・・・

http://www2.cny.ne.jp/yp0326/


[506] はじめまして 投稿者:石橋和義 投稿日:2002/01/04(Fri) 21:22
はじめまして。初めての書き込みですがよろしくお願いします。
長続連の名前で書き込みをされている方がいらっしゃいますが、長一族の方でしょうか。長家文書はどこで保存されているかご存知でしょうか。また長氏の嫡流家は現代まで存続しているのでしょうか。ご教示ください。

[505] 初めまして 投稿者:没落大名 投稿日:2002/01/04(Fri) 02:10
明けましておめでとうございます。
初めての書き込みですが、どうぞ宜しくお願いします。

こちらへは、当一族のルーツを調べて居た時にヒットしました。
これからも、時々お邪魔すると思いますが宜しくお願いします。

しかし、ルーツを調べていると、意外な物に関連や答えが有って面白
いですね。

[504] 遅馳せながら。 投稿者:畠山義綱 投稿日:2002/01/03(Thu) 19:43
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い申し上げます。

マイナー大名は有限資源(笑)だけに、更新も
大変かと思いますが、期待しております。
今後ともご指導ください!

[503] お年始 投稿者:北畠具顕 投稿日:2002/01/03(Thu) 09:39
本年も相変わりませず。

[502] 明けましておめでとうございます 投稿者:武藤舜秀 投稿日:2002/01/02(Wed) 17:49
今年もどうかご支援御鞭撻の程よろしくお願い申し上げます。

阿賀北衆の資料増えたんですが、まだ更新できず。
早く更新したいんですが、仕事が忙しくて家に帰ったら
すぐに寝てしまうんですよ。(笑)

http://www2.cny.ne.jp/yp0326/


[501] 明けましておめでとうございます 投稿者:くらのすけ 投稿日:2002/01/02(Wed) 17:29
皆様、明けましておめでとうございます。
今年も宜しくお願いいたします。


>宮下帯刀左衛門尉さま
あけましておめでとうございます。今年も宜しくお願いいたします。今年はご無沙汰しているサイトに少しはご挨拶に行かないとなぁ…と思います。お邪魔できるネタも持ち合わせていませんし、
実現できるか分からないのですが。

>ぴえーるさま
宜しくお願いいたします。
「八代日記〜」で5時前に書いてましたが、こちらをご訪問なさった7時過ぎまで起きていらっしゃったんですか?
お体大切に(^^;)

>確か豊臣秀次に連座して自害したはずなので没年は分かるはずと
>熊谷氏の系図を作ろうとして面倒だからと新年早々投げ出した男が
>一言残して立ち去ります。

http://home.att.ne.jp/iota/toudou/kashin%20a_o.htm
の、「岡本安貞」の項に記述がありますね。
『群書類従』の系図部か何かが出典でしょうか?
しかし、初期のものはいろいろ見直す必要が有りそうですね。
若狭武田なんて自治体史だけしかみてないもんな〜。

>あと私のサイトのURLですが、正確には下記の通りですので
ありゃ、すいません。直しておきました。
今年も宜しくお願いします。

>戦武堂さま
今年も宜しくお願いします。
できればまた、信長の新作発売直後に武将一覧などアップしていただければ有難いなぁ、と(無理なお願い)。

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