斯波(陸奥)氏

詮高−経詮−詮真−詮直(基)
建武二年(1335)、足利尊氏の命で斯波家長が陸奥に下向、戦死後、大崎氏から養子が相続(家長?)して陸奥に定着したと伝える。天正十六年(1588)の夏、南部氏に圧迫され没落。

《当主》
・斯波経詮(生没年未詳)

治部大輔。詮高の子。大永から享禄年間に家督と伝える。天文の頃隠居するという。

・斯波詮真(生没年未詳)
民部大輔。家政とも。天文頃家督相続、天文十四年(1545)、南部氏の領地に侵入、石川高信に撃退され和睦。元亀二年(1571)にも南部氏と合戦するが和睦し、このときに威勢が衰えたと伝える。天正初期に隠居。

・斯波詮直(生没年未詳)
詮基ともするが、没落直前の天正十六年の紫波稲荷社の棟札に「志和孫三郎詮直」とある。天正初期に家督、度々南部氏の侵入を受け、天正十六年に没落し潜伏。関ヶ原合戦の際に南部方の館を奪おうとするが失敗。のち南部利直に召し出されるが、大坂の陣以後去り、最上氏に寄食したという。

《一門》
・雫石(斯波)詮貞(生没年未詳)
伯耆丞。実名は詮員とも義貴とも伝える。斯波経詮の弟。雫石村に知行を与えられ、館を構えたので「雫石御所」と称された。

・雫石久詮(生没年未詳)
和泉。詮貞の子。『参考諸家系図』では実名不詳。『南部落穂集』には一貫して斯波氏側に付いた家臣として「雫石和泉久詮」がいるので、「和泉」という受領名からいちおう同一人物と考える。南部氏に敗れて花巻に隠れる。のち慶長年間に北信愛に召し出された。

・猪去(斯波)義方(生没年未詳)
斯波経詮・雫石詮貞の弟。蔵人。父詮高に志和郡猪去村を与えられて住む。「猪去御所」と称された。斯波本家没落時には一貫して斯波氏側に付くが、敗れて花巻に逃れ、身を隠す。そのまま花巻で死去した。

・猪去(斯波)久道(生没年未詳)
蔵人。義方の子。慶長年中に北信愛に召し出され、慶長十七年には南部政直の家臣となった。

《その他》
・大萱生(河村・鷲内)秀定(生没年未詳)
秀用とも。飛騨。斯波詮愛(詮真のことか?)に仕える。あるとき詮愛の鷹狩りに従い、途中で村人を害する沼の怪物退治を命じられる。秀定は沼に入り、身を枯木に見せかけていた大海老を退治した。詮愛は剛勇を賞し、海老の身を食べるように命じた。その身はとても美味しく、秀定は飽かずに貪ったが、それを見て詮愛が「鷲のようである」と呟いたため「鷲内」の家号と知行を賜ったと伝える。

・大萱生(鷲内)秀重(?〜1641)
玄蕃。秀高・秀親とも。天正年間に家督を相続する。詮直(基)に仕えるが、妻が中野康正(康実か)の以前の妻(詮直の妹)という関係で、梁田氏・石清水氏らと同様、南部氏に内通する。
 斯波氏没落以後、南部氏より知行を与えられていた秀重は、天正十七年、詮直が大萱生の館に来て援助を願ったので匿ったところ、信直の怒りを買い、大萱生の館を攻められて逃走。のち中野康正の取りなしで信直の怒りが解け、召し返されたときに「大萱生」と改称。のち慶長六年の「岩崎御陣」や寛永三年(1626)の南部利直上洛に従う。子の秀春は三戸城代となる。

・手代森秀親(生没年未詳)
秀道とも。大萱生一門。斯波氏没落時に南部氏に投降。旧知手代森村を含む五百石を与えられた。南部重直のとき罪があり、知行を没収された。

・梁田詮泰(生没年未詳)
中務。越前から来た家と伝える。代々斯波氏に仕え、詮泰のときに斯波詮直の執権となる。梁田・氏家・具志田・細川(場合によっては稲藤氏)の四名を「斯波四老」と称したと伝える。斯波氏没落時に南部氏に投降、千石を与えられた。

・梁田勝泰(?〜1621)
詮泰の子で勝光とも。大学。南部利直時代に家督相続し、慶長十四年(1609)に六百石を領していた中心的な知行地、日詰村が野田村に変更となった。南部氏の家臣団統制策の一環か。

・石清水義教(生没年未詳)
右京。先祖は山城国男山石清水の人であるという。陸奥に来て斯波氏家臣となる。知行を与えられた村が石清水という名前になったと伝える。斯波氏没落時に南部氏に寝返り、千石を与えられた。

・石清水義因(?〜1601)
蔵人。義教の子。知行を失って花巻に居住した。慶長年間に北信愛に召し出される。慶長六年、岩崎陣で討死。

・石清水義氏(?〜1660)
義因の子。慶長五年に家督を継ぎ、同十七年、南部政直に仕えた。

・石清水義長(?〜1588)
肥後守。義教の兄。義教の謀反に反対し、石清水館で反乱を起こした義教を攻撃するが守りが堅く撤退。斯波氏の本城、高水寺城に籠もるが当主詮直撤退後も城に残り、討死した。斯波当主が逃亡していたため、ほとんどが戦意を失って投降し、討死は義長や工藤茂道など一部であったという。

・長岡詮尹(生没年未詳)
長岡館主。斯波詮直の信頼が厚かったらしい。しかし、南部氏の侵入に際して離反派に館を囲まれて交戦中だったため、詮直救援に向かうことが出来なかった。詮直没落を聞いて南部氏に投降したらしく、『南部落穂集』によれば離反した石清水氏や梁田氏と同様、千石を与えられている。あるいは、当初より離反していたのかも知れない。

・乙部義説(生没年未詳)
治部。斯波氏没落時、どちらの側に付いたか明らかでないが、『南部落穂集』では梁田氏らと同様、南部氏に千石を与えられているため、離反派に属していたのではないかと考えられる。

《参考・関連文献》
・『紫波町史』第1巻、同町、1972
・『南部藩参考諸家系図』第2・3巻、国書刊行会、1985

大崎氏

高兼=義直−義宣=義隆
文和五年(1354)頃、奥州管領として斯波家兼入部以来、戦国時代まで存続。

《当主》
・大崎義直(生没年未詳)

左京大夫。初名義持とされる。高兼の弟。永正年間、高兼が家督相続してまもなく死去したので第十一代当主となる。永正八年(1511)に「義持」の名で文書を発給し、「義直」での署名の初見は天文十一年(1542)。天文十四年に左京大夫に任官。
 天文三年には家臣新(井)田頼遠の謀反を発端として反大崎の家臣団が結集。乱は鎮圧したものの庇護を求めて伊達稙宗の子(義宣)を養子とするが、伊達家の「天文の大乱」の影響で義宣と対立し、稙宗派の義宣が没落・暗殺されて終結する。永禄初期から中頃まで当主の座にあったと推定されている。

・大崎義宣(?〜1550?)
伊達稙宗の末子。「天文の大乱」で養父義直が伊達晴宗側に付いたが、義宣は父稙宗に付いた。晴宗派が勝利したため弟である葛西晴胤を頼って逃亡中、桃生郡辻堂で暗殺されたと伝える。

・大崎義隆(1548?〜1603?)
左衛門佐。天正十四年(1586)の事と伝えるが、寵臣新井田刑部と伊場野惣八郎との争いから家臣団分裂の様相を呈した。伊場野が氏家吉継に、氏家がさらに伊達氏に援助を求めたため伊達氏の介入を許し、翌十五年に伊達氏は大崎領内に侵攻した。その結果大崎氏はほぼ伊達氏の傘下に入るが、同十七年には再び伊達政宗に侵攻される。その直後豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため改易されたが、上洛して秀吉より本領の三分の一を与えるという朱印状を得た。しかし約束は実現せず、朝鮮出兵では渡海して蒲生氏郷の与力となっていたらしい。

《一門》
・大崎義安(生没年未詳)
右衛門大夫。『参考書家系図』によれば義隆の弟。

・大崎義成(生没年未詳)
左京亮。義隆の子。母は葛西氏という。父と共に最上氏に仕え、客分として千石余を与えられたとされる。のち徳庵と号した。最上で死去したという。子の義久は南部氏に召し抱えられ、のち(慶長四年とするが合わない)辞して伊達政宗に仕えたという。

・高泉(高清水)直堅(生没年未詳)
大崎一門。高泉氏は大崎満持の三男もしくは詮持の二男である持家が高清水(高泉)を称したと伝える。その後、度々断絶し、直堅は大崎義兼の子が高泉氏に入ったものという。天文期の大崎家臣団の争いでは、大崎義直の対抗勢力として直堅が存在するという。

・高泉(高清水)隆景(生没年未詳)
大崎一門。長門守。高泉氏は大崎氏の「管領」と称して家中を補佐した。氏家氏は「執事」と称されるが、一門の場合「管領」と称したのだとする。隆景の「隆」は大崎義隆の一字を与えられたものだろうとされる。天正期の大崎氏の内乱では反大崎義隆側にあり、伊達政宗に仕えた。入道して布月斎と称す。のち子孫は大崎一門の由緒をもって伊達家で大崎を称することを許されている。

・百々直孝(生没年未詳)
大崎一門で、大崎教兼の二男の系統であるという。天文の大崎氏の内乱では、城代に任じられたという。子の左京(実名は隆元ともするが確実でない)も天正期の内乱で一貫して大崎方に与している。

《その他》
・氏家直康(生没年未詳)
河内守。氏家氏は大崎氏の「執事」であった。大崎義直が家督の時代の天文末頃の人物と考えられるという。高継と同時期の人物。

・氏家高継(生没年未詳)
三河守。隆継とも。大崎一門高泉氏の娘が母であると伝えられる。入道して鉄心斎と称している。義直・義隆期の執事。天正期の大崎氏内乱では伊達氏につく。

・氏家吉継(?〜1590)
弾正忠。高継と共に天正期内乱では伊達氏につく。初めて史料に出てくるのが死去の数年前であるので、詳しい動向は分かっていない。

・一栗隆春(生没年未詳)
氏家氏の庶流。放牛の孫。兵部。妻は氏家高継の妹という。天正期の内乱では当初、本家の氏家氏と同様反大崎派であったが、途中から大崎義隆側についた。大崎滅亡後は最上氏家臣となり、慶長十九年(1614)、最上家親を家督に推す志村光清らを襲撃した。

・中目重定(生没年未詳)
兵庫。隆政とするものもある。本姓は渋谷氏。大崎四老の一。上杉氏・南部氏らからの取次を担っていたと考えられるという。天正十九年(1591)の大崎葛西一揆に伊達政宗方として出陣。

・中目重種(生没年未詳)
重定の嫡男という。

・里見隆成(生没年未詳)
紀伊。大崎四家老の一。

・仁木隆家(生没年未詳)
遠江。大崎四家老の一。

・渋谷隆秀(生没年未詳)
備前。大崎四家老の一。

・一迫(狩野)隆真(生没年未詳)
刑部大輔・伊豆。高実とも。本姓は狩野氏。一迫氏は大崎氏入部以前からこの地におり、大崎氏入部後、大崎氏と姻戚関係を結び大崎一族となったという。隆真は大崎氏滅亡後、伊達氏に召し抱えられ、慶長五年、伊達政宗が上杉景勝方の白石城を攻めたときに従軍した。


※黒川氏は同盟者的な立場であり、系譜も混乱しているので除外した。他サイトを参照されたい。

《参考・関連文献》
・伊藤信「大崎氏の歴代について」渡辺信夫編『宮城の研究』3、清文堂、1983
・佐々木慶市「奥州探題斯波大崎氏の世系について−大崎氏諸系図の検討−」『東北学院大学東北文化研究所紀要』14、1983
・遠藤ゆり子「戦国期大崎氏の基礎的研究」『立教日本史論集』8、2001
・同「執事の機能から見た戦国期地域権力−奥州大崎氏における執事氏家氏の事例をめぐって−」『史苑』62-1、2001
・同「戦国期地域権力の歴史的性格に関する一考察−奥羽における大崎氏の位置づけをめぐって−」『地方史研究』296、2002
・『南部藩参考諸家系図』第3巻、国書刊行会、1985
・『仙台藩史料大成 伊達治家記録』1(1972)・2(1973)

諏訪氏

頼隆−頼重=頼忠−頼水−忠恒
諏訪盛重のとき諏訪を称す。諏訪社の神官であった。武田氏による断絶、さらに家康の時に諏訪を去るが、再び戻り、高島藩として幕末まで存続。

2003.2.24補訂

《当主》
・諏訪頼満(1480〜1539)
政満の子。碧雲斎と称す。武田信虎の妹を妻とする。父が奪われた旧領を取り戻した。

・諏訪頼隆(1499〜1530)
頼満の子。父に先立って死去した。

・諏訪頼重(?〜1542)
頼隆の嫡男。永正十七年(1520)、大祝職に就任。一族高遠頼継らの謀反により義兄武田信玄の侵入を許し、降伏するが自害させられた。子は死去の三ヶ月前に誕生し、信玄が保護。しかしあるとき信玄を親の敵として刺殺しようとしたので出家させたところ、今川義元を頼って駿河へ脱出しようとしたところを信玄の家臣に見つかり殺されたという。

・諏訪頼忠(1536〜1605)
安芸守。諏訪氏没落後、大祝職として神職にあったが、織田信長が本能寺の変で死去するとそれに乗じて高島城を回復した。徳川家康が甲斐を平定した際に酒井忠次が遣わされ、忠次の下知に従うように命じたが、頼忠は家康の命に従うのであって酒井の下知に従うのではないと、北条氏に援軍を依頼し、忠次を退かせた。その後家康の取りなしによって従う。

・諏訪頼水(1570〜1641)
因幡守。満隣の子。父と共に甲府で家康に拝謁し、本多康重の娘を妻とするよう命じられる。天正十八年に武蔵に移され、慶長六年に再び諏訪に移された。松平忠輝を預けられたときの当主。

《一門》
・諏訪頼高(?〜1542)
頼重の弟という。天文七年(1538)に大祝を兄から譲られた。兄と共に死去したらしい。

・諏訪満隆(生没年未詳)
頼重の叔父。薩摩守。武田氏に属し、諏訪の地を安堵された高遠頼継が天文十一年、諏訪の総領家となることを目論んで諏訪社を支配下に置いたが、諏訪氏の一門として武田氏に属し、高遠頼継やその弟である頼宗を攻めた。

・諏訪満親(隣)(生没年未詳)
竺渓斎と称す。頼重の叔父。満隆と共に高遠頼継討伐に参加。高遠氏らを破る。結果諏訪の地は武田氏の支配下に置かれることとなった。

・諏訪頼豊(?〜1582)
頼忠の兄。越中守。諏訪氏没落後、弟の頼清と共に武田氏に仕える。織田信長の武田攻めにより、鳥居峠で討死。頼清も高遠城に籠城、落城と共に討死した。子の頼辰はその後叔父である頼忠の庇護を受ける。徳川秀忠に仕官するも叶わず、土岐勝行に仕えた。

・諏訪頼定(?〜1602)
頼水の弟。天正十二年、徳川家への人質として駿府に下るが、のちに出奔して以後のことは不明と伝えられる。慶長七年に死去したという。

・諏訪頼雄(?〜1631)
頼忠の四男(三男とも)。源太左衛門尉・美作守。天正十八年(1590)の武蔵転封に従っている。頼忠によって家臣の家柄と位置づけられ、代々家老職を勤める家となった。嫡男の妻は兄頼水の娘。慶長十六年に一時蟄居し、翌年帰参した。

《その他》
・千野伊豆入道(生没年未詳)
諏訪氏の滅亡時、頼重が上原城に籠もる中、弟と共に在所に残っていたが、別の方面から武田氏の軍勢が侵入したことを聞き、武田軍と戦う。その後高遠頼継の謀反の時には諏訪満隆らに加わり、戦った。

・千野南明庵(?〜1542)
伊豆入道の弟。兄の伊豆入道と共に諏訪満重の滅亡時に戦うが、討死した。

・千野宗光(生没年未詳)
山城入道。「宗光」は法号とみられる。天文十五年(1546)、諏訪社の神長官守矢頼真に書状を出している。すでに諏訪は武田氏の支配下にあるが、千野氏は諏訪家臣であったと思われるので記しておく。

・千(芽)野房清(生没年未詳)

丹波。茅野重清の弟という。二つの城の城主で、千三百石を領した。頼忠が酒井忠次を追い返したあと、家康が側近の者を遣わして以前のようにするようにとの言葉を伝えた後、頼忠が家康に遣わした使者のひとり。家康の前に召され、安堵状を渡された。天正十年代に死去した。

・千野昌房(1533?〜1629)
上記茅野氏とは関係があると思われるが直接の関係は不明。光弘の子で伊豆守を名乗る。のち卜栄と号した。諏訪郡有賀城主で八百石を領し、天正十年六月に諏訪氏に従う。諏訪頼水の武蔵転封にも従い、領地である蛭川の陣屋に駐屯していたと見られるという。また、同姓の頼房も転封に従っている。

・両角重政(?〜1641)
本姓は木田氏という。重政の曾祖父である実政が二十二歳のときの永禄年中、諏訪を攻めた武田氏を大角・小角という山の間で破ったことにより、「両角」と名乗ることを命じられたと伝えられる。
 重政は始め康長といい、天正十年に諏訪頼忠に仕える。文禄三年に神戸十蔵を頼忠の命を受けて討伐。慶長十一年に江戸城普請の奉行となり、元和元年(1615)には守矢氏宛ての知行に関する書状を千野新左衛門らと計4名で署名している。次男で家督を継いだ政吉は松平忠輝の諏訪配流以降、忠輝の館の常番をその死まで二十年勤めたという。

・沢房重(生没年未詳)
諏訪家臣。千野房清と共に徳川家康の許へ頼忠の使者として赴く。房清と共に家康の前に召された。

・山中幸利(生没年未詳)
諏訪氏の武蔵転封に従った。

・矢島満綱(生没年未詳)
諏訪氏の武蔵転封に従った。矢島氏は諏訪氏の一族とみられる。

・鵜飼忠和(生没年未詳)
諏訪氏の武蔵転封に従った。また、神戸十蔵が謀叛したときに両角重政と共に討伐を行った。

《参考・関連文献》
・山田茂保『諏訪史概説−文化史を中心として』岡谷書店、1979
・浅川清栄『高島藩邸と諏訪一族』中央企画、2000
・『寛政重修諸家譜』6
・『新編信濃史料叢書』7、信濃史料刊行会、1972
・『茅野市史』史料集、同市、1991
・『諏訪市史』上巻、同市、1995
・『復刻 諏訪史料叢書』4、諏訪教育会、1984

小寺氏

政隆−則職−政職−氏職
赤松一門。嘉吉の乱では姫路城代であった職治が満祐と共に討死。その後豊職は赤松再興と共に復帰、赤松家年寄となり、その後自立。戦国末に没落。

《当主》
・小寺政隆(1472〜1530)

永正十六年(1519)御着城を築くが、赤松氏を守った。大永元年(1521)、浦上村宗が赤松義村を殺害すると義村の子、晴政を擁立するが村宗打倒に失敗。御着城から庄山城に移る。享禄三年に村宗に攻められて自害。

・小寺則職(生没年未詳)
享禄三年、死亡した父政職の跡を継ぎ御着城に拠る。永正年間から父と共に活動し、赤松氏の後援を行った。天文十四年(1545)、家督を嫡男政職に譲って引退。黒田重隆を家老に抜擢、小寺の苗字を与えている。

・小寺政職(?〜1582)
黒田勘兵衛の献言により織田家へ仕えるが、荒木村重の謀反に呼応して反織田の姿勢をとったため、有岡城(村重居城)の落城と共に御着城を逃れ、中国地方を流浪して備後鞆の浦で死去。

・小寺氏職(?〜1627)
政職の子。加賀守。有庵と称し、黒田家の客分となる。

《その他》
・黒田重隆(1508〜1564)
下野守。勘兵衛孝高の祖父。赤松氏に仕えていたが、没落ぶりをみて小寺則職に仕える。そのまま家老に抜擢された。天文十四年には姫路城を預けられている。このときに入道して宗卜と称したらしいが、その後も姫路城は子の職隆に任せて、自分は御着城で小寺の宿老として活躍した。

・黒田職隆(1524〜1585)
兵庫助・美濃守。初め満隆と名乗るが、主君則職より小寺の姓と実名の一字を与えられて小寺職隆と名乗る。永禄十年、家督を子の孝高に譲り、後見として活躍。

・井手友氏(1538〜?)
重隆の末子。井手左近将監の養子となる。播磨土器山で討死。

・山脇職吉(生没年未詳)
和泉守。小寺氏家老。天文十一年、黒田重隆と連署して訴訟裁定を行った。

・小河三河守(生没年未詳)
小寺氏家老。

《参考・関連文献》
・川添昭二・福岡古文書を読む会校訂『新訂黒田家譜』1、文献出版、1983
・福川一徳「中津入部以前の黒田氏」『西南地域史研究』第11輯、文献出版、1996

西園寺氏

公家−実光(公宣?)=公広(公次?)
西園寺庶流である公重が建武政権下で一旦本家と認定されるも、以後室町幕府の庇護を得た本家に敗れて宇和へ下向したと考えられるという。以後土着して戦国末まで領主として存続した。

《当主》
・西園寺(松葉)実光(1510〜?)

実清とも。永禄三年(1560)、従五位下左近衛権少将に叙任(昇進?)する。永禄八年、五十六歳で出家、家督を養子である公広(公次)に譲ったと考えられるという。
 天文十八年(1549)には「公宣」(一条房家の次女を妻としていた)の「次子」が死去した。この公宣も松葉西園寺氏(実光と同じ流れの西園寺氏)であって、おなじ松葉西園寺氏に実光と公宣が同時に存在しており、あるいは同一人物とも考えられる。

・西園寺公高(1538〜1556)
実光の嫡男と伝える。宇都宮氏に飛鳥城を急襲されたとき、出陣してわずか十九歳で討死したという。別の系図では天文十一年(1542)に死去とあるらしい。若くして死去したためか発給文書がなく、実在も定かでない。

・西園寺公広(?〜1587)
西園寺氏最後の当主。従来は、来村(板島)西園寺氏の公次が弘治二年(1556)に松葉西園寺氏に養子入りし、そのあと公宣・公広と継承したという説と、西園寺公高討死を受けて西園寺一門を還俗させ、公広と名乗らせて養子とした、という二説ある。
 しかし前述のように公宣は実光と同時代の人物(同一人物?)であり、公広は永禄十一年には西園寺氏当主であったと見られており、また同時期に西園寺氏の「公次」に宛てた書状もあるという。石野氏は公広と公次が同一人物で、弘治二年に養子となったのではなく、養父である実光が永禄八年に出家した際に家督を相続したのではないかと推測する。天正十三年(1585)、羽柴秀吉による四国平定に公広は降伏し、小早川隆景の支配下に置かれたが、小早川氏の代わりに入封した戸田勝隆に殺害された。

《一門》
・西園寺宣久(?〜1580)
宇和島周辺を領地としていた板島(来村)西園寺氏の一人。天正四年(1576)、伊勢に参詣した記録を「伊勢参宮海陸之記」として残した。

・深田公義(生没年未詳)
竹林院西園寺氏。当初は伊予に下向した西園寺氏の惣領だったともいう。土佐との国境付近(北宇和郡三間町)に領地を持っていた。しかし土佐一条氏に知行を与えられていたことが明らかとなっている。「清良記」によれば、元亀末頃に土佐一条氏に攻められて投降、一門として伊予に戻れず土佐へ赴いたという。しかし天正二年(1574)に西園寺氏に許されて再び領地に復帰したと伝える。

《その他》
・三善春範(生没年未詳)
左衛門佐・三河守。長宗我部元親の書状で宇都宮興綱と共に西園寺当主への取りなしを依頼されている。西園寺氏の奉行・側近クラスの家臣であると考えられるという。三善氏は西園寺本家の家司を勤めた家の分流と考えられるという。

・宇都宮(久枝)興綱(生没年未詳)
左近太夫。三善春範と共に長宗我部氏からの宛名に記されている。宇都宮氏一門であり、永禄十二年に西園寺公広がある神社に戦勝祈願をしたときの代官であった。久枝郷に領地や居城を持っていたので、「久枝」とも称した。

・宇都宮(野村)乗綱(生没年未詳)
左近尉。宇都宮興綱とは別系統。石野氏は当初独立的であったが、西園寺氏の直臣に組み入れられたとする。天正七年(1579)、西園寺公広が上甲氏に官途を与える書状を奉じている。白木城主であったが、その後白木城には西園寺氏の直属家臣、緒方氏が入っている。

・朝立春綱(生没年未詳)
左衛門督。「河野分限録」によれば、三善らと共に「黒瀬衆」という直臣団のひとりとして記されている。

・中村永時(生没年未詳)
播磨守。『宇和軍記』によれば「公広御城衆」の一人。石野氏は公広が板島から本家西園寺氏を相続したときに引き連れてきた家臣団なので特にこのように記載されているのではないかとしている。

・上甲光康(生没年未詳)
上甲氏は西園寺氏の直臣として存在し、元亀二年(1572)に西園寺公広から上甲筑前守が五百貫文の土地を与えられ、天正三年(1575)には上甲伝兵衛尉が市之進に任じられている。この両名は実名が分からないが、山本大氏執筆の『戦国大名系譜人名事典 西国編』の西園寺氏の項にこの上甲光康が飛鳥城代であったと記すので、ひとまず載せておく。

・緒方惟照(生没年未詳)
豊後大友氏の家臣、佐伯惟教の孫。惟教は弘治二年(1556)、当時大友一門中心となっていた加判衆を奪回するため、小原鑑元らと共に反乱したが、すぐに鎮圧されてしまったため伊予に逃れ、西園寺氏の庇護を受けた。永禄十二年(1569)に豊後へ帰還したが、息子惟実の子、惟照を伊予に残留させた。
 惟照は天正九年(1581)に父惟実の本領を安堵され、白木城代に任じられている。緒方氏はその後、西園寺氏滅亡後に庄屋となったと伝える。

・今城能親(生没年未詳)
天文六年(1537)、京都の連歌師周桂の庵で近衛稙家らと共に連歌会に招かれて出席している。西園寺十五将の一人という。


※いわゆる「西園寺十五将」は実際は西園寺氏に属していない者も多いと言われ、確証が取れないので列記するに留める。

・勧修寺(御荘)基詮(一条氏に詳述) ・西園寺宣久→上記 ・魚成通親
・法華津法延 ・今城能親→上記 ・土居清良
・渡辺(河原淵)教忠(一条氏に詳述) ・宇都宮乗綱→上記 ・河野通賢
・竹林院(深田)公明→深田公義? ・紀(北之川)親安 ・津島通孝
・摂津実親 ・宇都宮(萩森)房綱 ・宇都宮宣綱



《参考・関連文献》
・山本大「西園寺氏」『戦国大名系譜人名事典 西国編』新人物往来社、1986
・福川一徳「豊後水軍についての一考察」『九州中世史研究』第3輯、文献出版、1982
・石野弥栄「南北朝・室町期の伊予西園寺氏−公家大名成立の前提−」『國學院雑誌』88-10、1987
・同「伊予国宇和郡における戦国期領主の存在形態」『瀬戸内海地域史研究』第8輯、文献出版、2000
・野澤隆一「足摺岬金剛福寺蔵土佐一条氏位牌群」『國學院雑誌』87-4、1986
・西田正憲『瀬戸内海の発見』中央公論新社、1999

豊前宇都宮(城井)氏

正房−長輔−鎮房−朝房
下野宇都宮氏の一族、信房が鎌倉幕府草創のときに豊前地頭として下向し、以後朝房まで続く。以後は福井松平藩士となる。

《当主》
・宇都宮(城井)正房(1478〜1561)
豊後守。興房の子。

・城井長輔(1506〜1588)
一般には長房とするが、文書写しでは「長輔」とする。また「長甫」もよく知られている。子の鎮房が謀殺されたあと、館を攻められて殺された。

・城井鎮房(1536〜1588)
出家して宗永。黒田氏入国後の豊前で頑強に抵抗したが、降伏。嫡子朝房らを人質として提出した。黒田氏に挨拶に参上した際、謀殺された。

・城井朝房(1571〜1588)
鎮房の嫡男。黒田氏に降伏するときに人質として遣わされる。黒田如水らの肥後鎮定に従うが、鎮房謀殺の報を受けた加藤清正らに肥後での館を囲まれて自殺。懐胎していた妻が助命されて生まれた子供がおり、その後福井松平家家臣となった。

《一門》
・城井房統(生没年未詳)
正房の弟という。龍王城代であったが、弘治二年、大友氏に攻められ降伏。

・野中重(鎮)兼(?〜1587)
宇都宮一門。長岩城主。大友氏に攻められ降伏。その後、豊前一揆で黒田氏によって滅亡した。

《その他》
・白川脩秀(生没年未詳)
白河氏は北条高時の時代、豊前に流されて城井氏に預けられ、譜代家臣となったと伝える。戦国期には重臣の一人であったらしい。

・白川重秀(生没年未詳)
脩秀の父、氏信の弟に当たる。養子となって本家を相続した模様である。鎮房の時代、今までの知行地の宇佐郡から京都郡へ移された。

・白川信元(1556〜1642)
重秀の子。宇都宮氏が没落すると筑前に逃亡。その後黒田氏に許されて帰還した。

・進右近(?〜1588)
実名は不明。代々城井氏に仕えてきた家柄と伝える。進家に伝来する文書には「進主計允」宛ての文書があり、天文二十四年(1555)にはこの「進主計允」が石見三隅合戦に派遣されている。

・進主計(?〜1588)
右近の子。城井鎮房が殺されたときに父と共に討たれた。

・貫親清(生没年未詳)
天文二十年、馬ヶ岳城城代に任じられる。同二十四年、毛利方について動かなかった城井氏らを大友宗麟が攻めたときに攻められて降伏。

・塩田兼矩(生没年未詳)
内記。「城井軍記実録」という軍記によれば、宇都宮の家中で鬼神と呼ばれたという人物。天正十四年、黒田氏が城井氏らを攻めたときに黒田家臣曽我重治を討ち取ったとする。

《参考・関連文献》
・小川武志『豊前宇都宮興亡史』海鳥社、1988
・『伊良原−民俗文化財の調査−』福岡県文化財調査報告書143集、1999
・『福岡県史』通史編福岡藩(一)、同県、1998

阿蘇氏

惟豊−惟将=惟種−惟光=惟善
大宮司家を初めとして阿蘇社の神官は健磐龍命と阿蘇比盗_の系譜を引いていると伝わるが、大宮司家の初見は宇治惟宣の十二世紀前半。以後代々継承して現在に至る。

《当主》
・阿蘇惟豊(1493〜1559)
惟憲の子で、菊池氏に養子に入った惟長(武経)の弟。大宮司職を継承。永正九年(1512)、菊池家から戻った惟長と子息惟前に追われるが、甲斐親宣の助力で同十一年には復帰。従二位(天文十八、1549)まで昇進する。

・阿蘇惟将(?〜1582)
惟豊の子。

・阿蘇惟種(?〜1584)
惟将の弟。惟将死後家督を継ぐが、まもなく死去。

・阿蘇惟光(1582?〜1592)
惟種の嫡男。わずか三歳で家督を相続。甲斐宗運の死後、島津氏が侵攻を開始したため、天正十三年に館を脱出。翌年にかけて消息が途絶える。同十五年に惟将・惟種の母が羽柴秀吉に使者を遣わし、三百町の安堵状が与えられるとともに、惟光・惟善兄弟は佐々成政に預けられた。のち梅北一揆の責任を負わされて自害させられた。

・阿蘇惟善(?〜1654?)
惟光の弟。当初は共に佐々成政に、次いでお互いに分かれて預けられ、惟善は小西行長の元へ身を寄せる。惟光自害ののち、一時身を隠したが、慶長の役で行長に従って出陣したと伝わるという。慶長六年(1601)、加藤清正より神社領を与えられ、阿蘇社は復興。惟善は近世の阿蘇社初代大宮司となった。

《一門》
・阿蘇惟前(生没年未詳)
惟長の子。一時惟豊を追い出して大宮司となるが、すぐさま奪還される。大永三年(1523)に堅志田城(中央町、宇土や八代寄り)を攻めて入り、以後天文十三年に没落するまで在城。没落後は相良氏を頼り、ついで薩摩へ逃れた。

・阿蘇惟賢(生没年未詳)
惟前の子。天正八年(1580)、阿蘇へ還り、惟光らに忠誠を誓う起請文を提出、これにより大宮司家の紛争は終結した。

《その他》

※主として天文十三年(推定)・永禄三年・天正十二年の三期の家臣連署状より家臣を抽出したので、はじめに文書内容を記す。

天文十三年=勅使下向につき引出物として免田も同様一反に十五文出金命令(権大宮司ほか宛)
永禄三年=満願寺西坊、北掃部頭討死により、子息赤房丸西坊相違なく相続の旨、出家して坊職連続を命ず(満願寺宛)
天正十二年=大友宗麟に長松丸(惟光)幼少につき指南頼み入る旨副状(志賀親守宛)

・甲斐紹貞(生没年未詳)
掃部入道。天正七年と思われる室原氏宛書状で宗運と連署し、また天正九年の龍造寺氏への甲斐一門起請文に署名する「掃部入道紹□」と同一人物と思われる。宗運とどのような関係であったか不明だが、近い一族であると思われる。

・甲斐親成(生没年未詳)
左近将監。天文十三年の書状や、同時期と見られる仁田水惟久や西惟充との連署に加わる。『阿蘇郡誌』の城跡の記載に「中原城」があり、ここに「甲斐将監嫡子同監物重次の居城なりし」とある人物と同一人物ではないかと考えられる。

・西惟充(生没年未詳)
弾正忠。天文十三年の書状に署名。下の惟玄とは官途名から親子関係であることが考えられる。

・西惟玄(生没年未詳)
弾正忠。永禄三年の文書に署名。また、天正十二年の文書では「西越前守惟延」が署名している。

・西惟栄(生没年未詳)
主計允、三河守。同名で「主計允」と「三河守」が存在するが、同一人物でまず主計允、次いで三河守と称したと推測しておく。永禄三年の文書に連署するが、上記弾正忠系の西氏より連署の位置から地位が高いように思える。また別の書状では国人から阿蘇の家老か当主へ案件を取り次いでおり、そのような位置にいたと考えられる。

・仁田水惟久(生没年未詳)
出雲守。天文十三・永禄三年の双方の文書に署名している。

・仁田水惟栄(生没年未詳)
左衛門大夫。天正十二年の連署状に署名。

・村山惟民(生没年未詳)
宮内少輔。天文十三・永禄三年の文書に署名。

・村山惟貞(生没年未詳)
美濃守。元亀二年を中心として「成君弁済司職」の事について男成氏と取り次ぎ関係にあったようである。天正十二年の文書では「美濃守惟尚」が署名しており、また、「美濃守惟尚」は惟将が当主であった時代にも、北里(矢津田)和泉守宛感状の中に出てくるので、「美濃守惟貞」と「美濃守惟尚」は同一人物なのかもしれないが保留しておく。

・佐渡重幸(生没年未詳)
常陸介。永禄三年の文書に署名。

・小陣惟富(生没年未詳)
治部太輔。永禄三年の文書に署名。

・中村惟冬(?〜1580)
伯耆守。阿蘇氏家臣。宇土の矢崎城代となり、島津氏との合戦で討死した。甲斐親宣が病気で阿蘇家老衆の合議が進まない、という甲斐氏の重要性を書状に認めた一節は有名。

・高森惟直(?〜1584)
伊予守。諸書により惟居とも。阿蘇地域が島津氏の侵攻を受ける中、最後まで大友氏側に与同する姿勢をみせ、島津氏に攻められて討死。惟直には十代後半の美しい娘があり、城外の村に家臣を付けて匿ったが、家臣が外に出て戦う最中に薩摩兵に肩に担いで奪われたので、その家臣は娘ごと薩摩兵を切り倒したと伝わる。

・男成家継(生没年未詳)
右衛門兵衛尉。天文十五年、神前に落ちた木によってもたらされた年々の吉凶を覚書として遺した。

《参考・関連文献》
・阿蘇品保夫『阿蘇社と大宮司−中世の阿蘇−』阿蘇選書2、一の宮町、1999
・吉村豊雄『藩制下の村と在町−近世の阿蘇−』阿蘇選書3、一の宮町、2001
・『大日本古文書』家わけ13、東京大学出版会、1971
・『熊本県史料』中世編第1(1961)・第3(1963)・第4(1967)
・『阿蘇郡誌(復刻版)』臨川書店、1986
・『戦国大名系譜人名事典 西国編』新人物往来社、1986
・古城貞吉ほか編『肥後文献叢書』第1巻、隆文館、1909

種子嶋氏

忠時−惠時−時堯(−家次)−久時−忠時
種子嶋氏は当初「肥後」と称していた。これは島津氏に代わり多祢島(種子島)地頭になった北条一族名越氏の地頭代で、鎌倉幕府の滅亡後に在地に残って島主となった。その後戦国末期に島津氏の支配下に入って江戸・幕末を迎える。

《当主》
・種子嶋忠時(1468〜1536)
左兵衛尉・武蔵守。時氏の子。明応六年(1497)に武蔵守に任官、永正元年(1504)家督を継ぐ。忠時の時代、館が全焼して家伝の文書等が焼失した。

・種子嶋惠時(1503〜1567)
左兵衛尉・加賀守。忠時の子。天文十二年(1543)に弟である時述と禰寝重長らが謀反を起こしたのを告げられると従者数十人のみで屋久島に脱出した(謀反の目的が惠時一人だったため)。嫡子時堯は重長らに館を攻められて窮地に陥るが助かり、その後惠時は謀反を鎮圧した。
 永禄九年(1566)に居館を出て隠居。隠居のきっかけは禰寝の甥のところに滞在した帰り、風雨に遭って肝付領内浦に漂着し、海賊に襲われやっとのことで種子嶋へ帰ったことであるらしい。また鉄砲伝来の時の当主である。

・種子嶋時堯(1528〜1579)
左兵衛尉・弾正忠・左近衛将監。初め直時と称した。入道して意釣と号す。天文十年弾正忠、弘治四年(永禄元年、1558)に左近衛将監に叙任。
 天文十二年、叔父時述らは謀反して時堯の居館を急襲、手勢約五十人の内十余名が殺された。時堯は家臣に背負われて居館を脱出、妙久寺に逃れて自害寸前だったという。結局、時述・禰寝重長らの目的が惠時だったため、時堯にはそれ以上害を加えず、特に重長は屋久島の割譲を条件に撤兵した(このとき祐筆が偽印を以て誓詞を作成したので、翌年奪い返している)。
 鉄砲伝来時には南蛮人に砲術を習い、百発百中の腕前になったと伝える。また永禄三年にはわずか五歳の嫡男、家次に家督を譲ったが、同五年に家次が死去してしまったため再び家督に就いた。度々島津氏の要請により家臣を派遣している。

・種子嶋家次(1556〜1562)
時堯の嫡子。禰寝尊重の娘と時堯の間に誕生。わずか五歳で家督を譲られるが、二年後に死去してしまった。

・種子嶋久時(1568〜1611)
左近太夫・左近将監。母は家臣黒木道純の娘。入道して一琢と号す。また初名克時。天正八年(1580)に島津義久の「久」を与えられて久時と改名。このころ島津氏の傘下に入ったらしい。その後は島津氏の命での出兵がしきりとなり、龍造寺氏攻めや岩屋城攻めなどにも家臣を派遣している。
 文禄二年には朝鮮に渡り、同四年秋、種子嶋や屋久島の本領に替えて薩摩の知覧に領地を与えられるに至った(慶長三年、島津家の家老に任ぜられ、翌年種子嶋等を与えられた)。

・種子嶋忠時(1612〜1654)
武蔵守・左近太夫。武蔵守は江戸に赴いたときの寛永七年(1630)に左近太夫に改めている。父久時の死去から八ヶ月経った慶長十七年八月に生まれる。幼少のため島津氏の支配下にあり、家老の専横の処断を島津家久が行ったりしている。
 元和六年(1620)、九歳で元服、「忠」は島津忠恒(家久)の一字で、伊勢貞昌が理髪役を勤めた。元服後の忠時は島津家臣として活動し、江戸詰めを行ったりした。

《一門》
・蒲生茂清(1505〜1550)
越前守。惠時の同母弟。外舅である蒲生充清の養子となった。

・種子嶋時述(1498〜1543)
出雲守。禰寝重長の加勢を得て惠時に謀反し、誅せられた。謀反は惠時の浪費癖についての諌言を、家老達が惠時と同母弟である時述に願い、時述がそれを受け入れたことに起因する。時述の諌言は当時彼を疎んじていた惠時に無視され、その恨みが募ったのだという。時述には当時三歳になる子がおり、乳母が鹿児島に逃れたためのち出雲守時連と称して島津氏家臣となったと伝える。

・種子嶋時貞(1522〜1604)
摂津守。惠時らの弟。詳しい経歴は不明。

・種子嶋時式(?〜1591)
弾正・武蔵守。時堯の弟。天正二年、牛根城攻めに軍功があり、島津義久から武蔵守と改めるようにと命じられ、かつ鎧一領を賜った。

・肥後時典(生没年未詳)
下総守。種子嶋氏が「種子嶋」を称する以前の姓「肥後」を称していることから、一門のようである。時典は西村時弘と共に時述自害の使者を務め、また翌年禰寝重長に割譲していた屋久島を攻めて奪還。また元亀年中の屋久島長田城修築にも見える。

《その他》
・西村時弘(生没年未詳)
壱岐守。種子嶋氏家老。筆頭であったらしい。種子嶋時述の謀反に際してこれを惠時に告げ、時堯を守る命を受けて館へ向かって防戦した。また時述を自殺に追い込む使者を勤めた。

・西村時貫(生没年未詳)
時弘の嫡男。織部丞。一説に、鉄砲伝来の船が漂着したのは、西村浦という西村氏の領地であったらしい。中国人と筆談を行った人物でもあるという。時述の謀反時には父と共に時堯の屋敷に籠もり応戦。

・西村時安(生没年未詳)
越前守。上記の西村氏との関係は不明。弘治年間から度々島津氏の援軍に出陣し、元亀年中には伊地知氏と戦って重傷を負った。天正十五年、島津氏が羽柴秀吉に攻められたときには島津歳久の撤退を助ける。文禄期には老臣であったが一時蟄居していた。だが文禄の役には久時に先発して朝鮮に渡海、慶長の役にも両度出陣している。

・西村時玄(生没年未詳)
周防守。永禄十一年、時堯には男子がなく、大友宗麟の庶子(林殿)を養子にもらい受けに派遣を命じられる。しかし当時時堯の側室が妊娠しており、出生後に行動を起こすことを進言。しかし聞き入れられずやむなく豊後に向かい、養子の話ではなく鷹を貰い受けることを話題とした。結局男子(久時)が出生し、帰国した時玄に時堯は大いに喜び、地頭職を新たに与えた。
 久時が幼少で家督を相続したのち、当主が天文十二年の謀反から家臣の屋敷を接収し、修理も出来ずに使用し続けていたのに、時玄の屋敷は華美を極め、専横を振るったと伝える。それ故か天正七年、謀反を誘った家臣を殺害して謀反を未然に防いだにも関わらず、連座とされ子供を追放させられた。

・野間家政(生没年未詳)
伯耆守。種子嶋氏家老。種子嶋時述の謀反は、家政の嫡男家成が禰寝重長に謀反を誘われ、それを父に告げたことにより発覚した。家成と共に時堯の館へ入って防戦に努めている。

・野間家年(?〜1595)
筑前。家成の子かとも考えられるが関係は不明。文禄の役の時、久時は渡海には及ばないと説得し、一時久時は渡海を留まる。太閤秀吉の命に従わないと御家断絶、という危機感を抱いていた他の家老たちと対立があったようである。文禄二年に子家成と渡海し、同四年正月、前年か年初に子の家成が朝鮮で病死したのを悲しんで無断で帰国したため誅せられた。

・野間安繁(?〜1615)
忠時の幼少時の家老。当主幼少のため私曲があり、島津氏に改易されて鹿児島で自殺させられた。

・上妻家続(生没年未詳)
阿波守。種子嶋時述謀反の際には時堯の屋敷で防戦。永禄九年、時堯に随行して鹿児島から帰る際、禰寝領の大泊浦で上陸して放火、民家百余を焼き、所司(代官?)を討ち取る。また元亀年中には肥後時典と共に屋久島の長田城修築の命を受けた。

・上妻家長(?〜1636)
入道して壽木。家続と何らかの関係があると思われる。高橋紹雲の籠もる岩屋城攻めに参加、また秀吉の薩摩征伐において島津歳久の撤退を助ける。文禄の役が始まる前、肥前名護屋での兵站基地建設に遣わされてもいる。当然朝鮮にも出陣した。
 元和元年の家老衆の私曲で再び家老となり、新任の家老を指導する立場に置かれたらしい。島津家老衆からの書状(元和四年)に「別に仰せつけらるべき人案内無く候」という事からも立場がうかがえる。寛永三年(1626)に島津家久の娘が忠時に嫁いだ際、家久の命で駕籠に付き添った。

・上妻家直(?〜1599)
父家長と共に慶長の役に出陣。帰国後、島津氏の伊集院幸侃攻めに出陣、討死した。

《参考・関連文献》
・『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺家わけ四』鹿児島県、1994
《種子嶋氏関係リンク》
All about 種子島
「種子島家譜」のほぼ全文の読み下しに取り組んでいる。

その他

・高橋(江釣子)吉久(生没年未詳)
周防。先祖代々和賀氏の家臣であったと伝える。慶長五年、南部氏が和賀氏を攻めたときに離反、南部に降る。和賀川渡海が洪水で困難なところを吉久の案内で流れが緩やかなところを渡った。この褒賞で江釣子に知行を与えられ、その後江釣子を称したという。

・小山信政(1510〜1586)
『小山市史』通史編で市村高男氏は小山氏の家臣団について、戦国期に一門が何人かみられることを指摘している。この信政は成長の弟、和泉守政景の子であり、初め秀重と名乗ったという。子信基・信胤は津軽に下り、津軽家家臣となったらしい。

・赤尾清世(生没年未詳)
浅井家臣。天文末期頃の井口氏と三田村氏の用水相論において、三田村氏が浅井亮頼と同忠種を頼ったのに対して、井口氏はこの赤尾氏を頼っている。赤尾清綱との関係が想起される。あるいは父あたりではなかろうか。

・稲地(大方)秀保(1534〜?)
主水助。筒井氏家臣。当初は在地領主的家臣であったようであるが、筒井氏の伊賀転封に同行した。大和国平群郡の大方氏の一族であるが、筒井順慶の母が「大方殿」と称したため、それを避けて改名したと伝えられる。

・稲地正次(生没年未詳)
秀保の子。天正十四年に本地を筒井順慶から安堵されていることから、同時期に家督を相続したのではないかという。筒井氏の代官を勤めた。筒井氏改易後は帰農したという。

・『南部藩参考諸家系図』第3巻、国書刊行会、1985
・『小山市史』史料編(1980)・通史編I/史料補遺編(1984)
・永島福太郎「伊賀筒井氏の民政−近世封建制成立の一考察−」『史学雑誌』61-11、1952
・長谷川裕子「中近世移行期村落における用水相論の実態とその展開−近江国姉川・高時川用水を事例に−」『立教日本史論集』8、2001

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