畠山(河内)氏


参考:近畿地方詳細図(別のウィンドウが開きます)

【畠山氏略史】

畠山氏には平姓畠山氏と源姓畠山氏がおり、平姓畠山氏であった畠山重忠(源頼朝の重臣)が滅ぼされたあとに、重忠の後室(北条時政の姪、娘の説もあり)を足利義純に配して畠山の名跡を継がせたことにより、「足利一族」で「源姓」の畠山氏が誕生した。そのため、これ以後の畠山氏の始祖は足利義純、ということが出来るであろう。

義純は畠山氏を相続してまもなく没したと考えられており、その嫡子泰国とその子国氏は鎌倉将軍家の近習などとしての活動が伺えるといい、家格的には北条氏庶流一門とほぼ同格であったとされている。しかし、鎌倉後期の活動は記録の残存状況などもあり全く不明で、鎌倉幕府滅亡後より突如として現れる。国氏の孫と考えられる高国は足利軍の主力となっている。足利尊氏が敗走して九州に逃れたときに従ったかは不明であるが、京都再占領のときは高国は南朝軍討伐に功を挙げている。

それらの戦功によって高国は伊勢守護に抜擢されるが、北畠顕家の伊勢侵入を許すなど失態を演じ、建武三年(1336)十二月の任命以来、二年あまりで守護を罷免されている。畠山氏の嫡流にあたる高国とその子国氏は奥州管領に国氏が任じられたために康永四年(1345)に多賀国府へ赴任したが、観応の擾乱の影響でもう一人の奥州管領、吉良氏と争い、父子ともども自害している。この嫡流である高国の家が二本松畠山氏の流れとなったが、高国らが陸奥に下向したのちは惣領家は高国の弟、貞国系にうつる。

貞国の孫にあたる国清は一貫して足利尊氏に従い、和泉守護、のち紀伊守護に補任される。さらに和泉・河内守護にも任じられ、その後関東執事として伊豆・武蔵の二カ国の守護に任じられ、関東公方足利基氏を補佐した。しかしのちに基氏と対立、没落する。

国清の弟、義深は畠山氏を再興、越前守護となるものの義深死後、基国の代に幕閣内部の争いで越中守護へ転任させられてしまうが、明徳二年(1391)の山名氏の反乱(明徳の乱)や応永五年(1398)大内氏の反乱(応永の乱)の戦功などで山城・河内・紀伊・尾張・越中・能登・佐渡の守護となり、このうち河内・紀伊・越中・能登は戦国末期まで畠山氏が保持した国であった。(能登は基国の孫、満家と弟満慶の代に足利義満の介入による家督相続の問題により満慶に与えられ、能登畠山家が成立している)基国はさらに管領にも任じられ、これ以後斯波・細川・畠山の「三管領」が成立する。

しかし畠山氏の隆盛も満家の子、持国の代の文安五年(1448)に至り実子(庶子で出家していた)義就を還俗させ、相続人としたため、跡目となっていた持富(持国弟)派と義就派の家臣団に分裂し、争いが勃発したことで衰微に向かってゆく。これ以後、義就と持富の子、弥三郎と政長の家督をめぐって将軍家や管領細川氏などの思惑で再三畠山氏の家督が移動、最終的に文正元年(1466)、山名持豊(宗全)が将軍足利義政に迫り家督を政長から義就に変えさせたことで政長が挙兵、十年余りにおよぶ応仁の乱が勃発したのである。

応仁の乱後も、義就流の畠山氏と政長流畠山氏の争いは続くが、義就流畠山氏は没落、その後は明らかでない。一方政長流は徳川家康に仕えて旗本となり、高家(朝廷関係の儀礼をつかさどる家)に列せられた。

畠山氏系図

【畠山氏の一族・家臣団】

・畠山稙長【はたけやま・たねなが ?〜1545(天文14)】
政長の孫。右衛門佐・尾張守。高屋城を相続、畠山義英と戦う。永正十七年(1520)、高屋城を奪われるが数ヶ月で奪回。天文三年(1534)には木沢氏ら重臣が弟長経(?〜1541)を擁立したため紀伊に逃亡。天文十一年(1542)、木沢長政が細川晴元政権に謀反を起こし、敗れたことで高屋城を回復、河内守護に復帰した。

・畠山政国【はたけやま・まさくに 生没年未詳】
播磨守。稙長の弟。稙長紀伊逃亡後、畠山長経擁立が長続きせず、天文五年(1536)にはすでに政国が擁立されていた。しかし正式に家督を相続できず、天文七年に高屋城に入城し、畠山在氏とともに河内半国守護体勢を形成。しかし木沢長政とともに没落。その後家督をついだ晴熈の「惣領名代」として細川氏綱の乱に荷担している。
 一般には天文十九年没と伝えられていたが、天文二十二年に出家して紀伊に在国していたことが判明している。

・畠山高政【はたけやま・たかまさ 1527(大永7)〜1576(天正4)】

尾張守。晴熈名代として細川氏綱の乱に参加していた畠山政国の嫡男。天文二十一年に家督を相続。のち紀伊に出奔するが再び河内に復帰。永禄三年(1560)に三好長慶に攻められ堺に退去。その後在京して幕府や織田信長との折衝に当たっていたと思われるという。

・畠山昭(秋)高【はたけやま・あきたか ?〜1573(天正1)】
高政の弟。はじめ政頼。永禄八年に家督を相続。永禄十一年に足利義昭が織田信長とともに入京すると出仕、高屋城に復帰するが、元亀四年(1573)に遊佐信教に殺害された。

・畠山晴熈【はたけやま・はるひろ 生没年未詳】

政長流畠山氏。播磨守・伊予守。稙長の弟ではじめ勝熈。河内に復帰した稙長の死去の前に家督を相続。しかし当初は能登畠山氏から養子を迎えようと稙長は考えており、死後家督を巡って争いがあったという。

・畠山在氏【はたけやま・ありうじ 生没年未詳】
義英二男。上総介・右衛門督。木沢長政に擁立される。天文六年(1537)十一月に代替わりの安堵状を発給しているが、木沢氏の没落にともなって天文十二年正月に飯盛城が陥落し没落。その後復権を目指していたが、「河内牢人衆」(『天文日記』)と認識されていた。
 天文十八年には三好長慶との合戦に敗れてさらに没落。天文二十四年に河内真勧寺に書状を発給したことが確認されているが、以後の消息は不明。
2001/3/21加筆

・畠山尚誠【はたけやま・なおのぶ 1531(享禄4)〜?】
在氏の子。在氏没落後家督を継いだらしい。天文二十一年にの五月から六月にかけて、河内入国を目指して活動している状況が伺える。しかし三好長慶の勢力が強く実現しなかった。弘治二年(1556)には政長流畠山高政の武将安見宗房に加勢したとされるが、当時かなり局地的な勢力になってしまったことが想像できるという。
 その後、永禄元年(1558)に金剛寺宛に判物を発給、同八年に足利義昭と通じていることが知られる。軍記物ではその後松永久秀の仲介で畠山高政の家臣となったとされているという。
2001/3/21加筆

・遊佐太藤【ゆさ・たかひさ? 生没年未詳】
「太藤」は通称か。「帯刀」の音通とも言われる。実名は明らかとなっていない。遊佐長教が天文二十年に暗殺されたのち、幼少(当時四歳)であった嫡男信教の成長までの家督代行者と考えられるという。天文二十二年閏一月までに幕府御供衆に列している。のち、畠山高政との確執が発生、いまだ幼少ながら長教嫡男の信教の擁立が計られ、その時点では信教は擁立されなかったものの、太藤は以後消息が不明となった。

・遊佐高清【ゆさ・たかきよ 生没年未詳】
左衛門大夫・越中守。永禄後期以降、畠山氏の奉行人として活躍。遊佐氏の一族であると思われる。

・安見宗房【あみ・むねふさ 生没年未詳】
美作守。畠山氏の重臣。一般的には「直政」で知られているが、実際は「宗房」を名乗ったことが弓倉氏によって明らかとなっている。遊佐氏の一族であり、河内地方の有力国人野尻氏の一族、安見氏の養子となったが、のち遊佐姓となっている。
 畠山高政と対立、高政が宗房を討伐しようとしたが河内国人が逆に高政を討つ動きが明らかとなり、紀伊に出奔するという事態を招いた。足利義昭の上洛後、奉公衆に取り立てられた。

・丹下盛知【たんげ・もりとも 生没年未詳】
備中守。当初平盛知と称していたことが知られ、天文十五年(1546)から同十七年の間に丹下氏に改姓している。紀伊国において小守護代を務めるなど、畠山氏の有力被官。永禄年間の畠山氏の没落による紀伊退去に従っている。河内時代は安見宗房とともに領国経営の中心を担った。

・丹下盛賢【たんげ・もりかた ?〜1545(天文14)】
備後守。畠山稙長時代の重臣。稙長が紀伊に退いたときにも従っている。河内守護代である遊佐長教の下に位置し、稙長の意を長教に伝える役割を果たしていたようである。

・丹下遠守【たんげ・とおもり 生没年未詳】
越前守。河内の国人で当初遠隆とも称す。遊佐氏も名乗り、養子として丹下氏に入ったと考えられる。畠山昭高期の奉行人と考えられるという。

・三宝院快敏【さんぽういん・かいしゅん 生没年未詳】
高野山の子院のひとつ三宝院の僧であったらしい。紀伊国衆で、紀伊国の小守護代か郡代クラスに登用されたと考えられるという。稙長の河内復帰にも従っている。

・飯沼康頼【いいぬま・やすより 生没年未詳】
畠山氏家臣で、稙長から政国期にかけての奉行人。

・走井盛秀【はしりい・もりひで 生没年未詳】
備前守。守護代遊佐氏の上級の被官であったが、守護代の地位向上や守護畠山氏の家督相続の内紛に伴う守護・守護代による二重支配体制により、畠山氏家臣と連署して文書を発給。畠山氏奉行人としての役割も担った。


【追加分】

2001/3/21追加
・平誠佐【ひら・あきすけ? 生没年未詳】
左衛門大夫。畠山尚順側の家臣と考えられるという。天文二十一年(1552)五月、遊佐家盛と共に大和国宇智郡(現五條市)の栄山寺に宛てて禁制を発給した。

・遊佐家盛【ゆさ・いえもり ?〜1552?(天文二十一?)】
越中守。在氏の時代からの家臣であろうという。上記平と共に禁制を発給したが、その十日後の二十三日、「高屋衆安見大将にて内郡へよせかけ半死半生に戦ひ総(州脱ヵ)方の遊佐越中殿を始とし(中略)百ハかり高屋方へ打取了」(「天文間日次記」)とあることから、安見宗房を大将とする政長流畠山氏との合戦で討死したらしい。


【参考文献】

今谷明・藤枝文忠編『室町幕府守護職家事典 下』1988
森田恭二『河内守護畠山氏の研究』 1993

弓倉弘年「戦国期河内畠山氏の動向」(『國學院雑誌』83-7、1982)
同「天文年間の畠山氏」(『和歌山県史研究』16、1990)
同「室町時代紀伊国守護・守護代等に関する基礎的考察」(『和歌山県史研究』17、1990)
同「戦国期河内国守護家と守護代家の確執」(米原正義先生古希記念論文集『戦国織豊期の政治と文化』、1993)
小谷利明「「天文御日記」にみえる河内守護勢力と本願寺−贈答関係と家格秩序を中心に−」(『八尾市立歴史民俗資料館研究紀要』5、1994)
矢田俊文「戦国期の守護家」(同著『日本中世戦国期権力構造の研究』(1998)所収、当初「戦国期河内国畠山氏の文書発給と銭」として『ヒストリア』131(1991)に掲載)

弓倉弘年「畠山義就の子孫達」(『南紀徳川氏研究』4、1991)
畠山義綱様よりご提供頂きました。この場を借りて御礼申しあげます。)


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