波多野氏

参考:近畿地方詳細図(別のウィンドウが開きます)

【波多野氏略史】
波多野氏の出自についてはよく分からないが、15C後半にすでに細川氏の有力な被官となり、丹波の小守護代となっていたと思われる波多野清秀の画像賛に、元々石見国に居住していたが応仁の乱で戦功を得て、細川政元から丹波国に所領を与えられた、と記されているという。石見国にいた頃は吉見を姓としていたが命によって母方の姓の「波多野」を名乗ったという。

細川政元が永正四年(1507)六月に暗殺されると、跡目争いが勃発したが、波多野氏(当時は清秀の子、元清)は情勢によって組する所を変え、それに乗じて勢力拡大を図っている。このときに弟に香西氏を継がせるなどしている。

しかし弟の香西元盛が細川氏によって殺害されると、実権を握っていた細川高国(政元養子)に反旗を翻し、阿波にいた細川晴元(政元孫)と通じてもう一人の弟、柳本賢治とともに居城である八上城に篭り、細川軍を破った。晴元は入京して実権を握り、波多野氏もその下に組した。

当時は依然として丹波国守護代内藤氏が勢力を保っていたが、波多野氏の勢力拡大を恐れた内藤氏は、柳本賢治殺害に関わったので波多野氏は内藤氏が細川晴元に対して謀叛の兆しあり、として攻め、天文七年(1538)に追い、さらに同二十二年には内藤氏を滅亡させて(松永久秀の弟、長頼が相続し内藤宗勝となる)丹波国の実権を握った。

しかしその後、内藤氏攻めで援軍として出兵した、縁戚である三好氏(長慶)との対立が起き、再三居城である八上城を攻められるも堅く守ったが、永禄二年頃に没落した。しかし丹波国に潜伏して軍事行動を行っている。そして、永禄九年に八上城を奪回した。

八上城を奪回した波多野氏当主の秀治は、それ以降「丹波国主」を称したが、永禄十一年の織田信長の上洛で信長に降った。

信長と足利義昭の関係が決裂し、義昭によって信長包囲網が敷かれると、丹波国の中心的国人である赤井氏が織田氏に反旗を翻し、天正三年(1575)明智光秀の丹波出兵を招いた。落城寸前で、波多野氏が突如として明智軍に襲い掛かり、明智軍は撤退した。

天正五年、再び丹波に侵攻した明智光秀は諸勢力を下して八上城を包囲し、天正七年、ついに八上城は落城し、波多野秀治らは安土で磔刑にかけられて滅亡した。

八上城の落城は、明智光秀の謀叛の動機とされる母の殺害でよく知られるが、実際は城兵が和平を望み、城兵によって波多野氏が捕らえられて光秀の所に送られたものだろうと考えられている。
2000/7/16 加筆訂正

波多野氏系図

※西波多野氏の詳細は不明であり、赤井氏に従属していたのでは、という説もある。

【波多野氏の一族・家臣団】(※荻野(赤井)氏は本来波多野氏と同等程度の勢力をもっていたと考えられているが、今回まとめて載せた。)

・波多野秀親【はたの・ひでちか 生没年未詳】
元清の次男、秀忠の弟という。惣領家に近い勢力を有していたと考えられる、天文三年には兄の秀忠より船井郡の郡代職に任じられており、同十三年には禁裏御所の築地普請監督を秀親ら波多野一族で請け負った。しかし宗家との関係が悪化、三好長慶との対立に際して関係を修復し、一時没収された知行を返還された。のち永禄二年にも三好方に与して、内藤宗勝から波多野宗家の退去した八上城周辺に知行を与えられているという。

・二階堂秀香【にかいどう・ひでたか ?〜1580(天正9)】
晴通の三男という。二階堂氏を継いだようである。兄弟の秀治・秀尚とともに城兵に捕らえられて明智光秀に差し出され、殺されたと思われる。

・赤井時家【あかい・ときいえ 1494(明応3)〜1581(天正9)】
越前守。荻野(赤井)直正の父。天文二年(1533)、父忠家と共に細川晴国を奉じて挙兵した波多野氏に居城を攻められた。細川晴元の家臣、赤沢景盛らの派遣に波多野氏を退けるが、父忠家がこの戦闘で討死し、再び波多野氏が攻めてきたため播磨国に退いて別所氏を頼る。
 のち丹波国に復帰した。ちなみに直正は二男であり、一族の荻野家の当主となっている。(のち赤井姓に復帰。)
2001/11/10加筆

・赤井家清【あかい・いえきよ 1525(大永5)〜1557(弘治3)】
直正の兄。若年の時よりしばしば戦功があったという。守護代内藤氏ら三好方との合戦で深手を負い、早世したため子の忠家を直正が貢献する体制となって家中を取り仕切った。妻は波多野元秀の娘という。夫家清の死後は荻野直正に再嫁し、波多野氏との同盟関係を保ったという(ちなみに直正の後妻は近衛前久の妹)。
2001/11/10加筆

・赤井忠家【おぎの・ただいえ 1549(天文18)〜1605(慶長10)】
家清の子。家督を継いだ当時は若年だったため叔父直正の後見を仰いだ。元亀元年(1570)には織田信長より丹波の一部を安堵する朱印状を与えられている。明智光秀の丹波攻略で居城を落とされたのち、豊臣秀吉、その後徳川家康に仕えて伏見で死去。

・荻野直義【おぎの・なおよし 1571(元亀2)〜?】
直正の子。直正死後、赤井幸家の後見で明智光秀の丹波制圧に対したが、天正七年(1579)に落城。そののち、藤堂高虎に仕えたとされる。

・赤井幸家【あかい・よしいえ ?〜1579(天正7)】
刑部少輔。直正の弟。直義が幼年のため後見するが、明智光秀の丹波平定軍に敗れて討死した。

・荻野秋清【おぎの・あききよ ?〜1554(天文23)】
荻野(赤井)直正の伯父。黒井城主。直正に殺されて城を奪われた。このことから直正は「悪右衛門尉」を名乗るようになる。

【追加情報】
※大槻氏論文によれば、元清(稙通)は享禄三年(1530)六月八日没という
(2001/11/10加筆)


【追加分】

2000/7/16追加
・酒井豊教【さかい・とよのり 生没年未詳】

和泉守。波多野氏家臣の酒井松鶴丸との関係で人夫役を免除された領主、味間伊豆守に対して、酒井伊賀守とともに波多野元秀判物の副状を発給している。おそらく酒井氏家臣でなく、波多野氏家臣と思われる。酒井氏は永正年間波多野氏と戦って敗れ、臣従した。

2001/3/15追加
・荒木清長【あらき・きよなが 生没年未詳】
波多野氏の有力家臣。船井郡代であった。天文五年(1536)十二月、波多野秀忠は清長に対して幕府御料所を引渡すように命じている。また天文十年にはこの幕府御料所を荒木氏が違乱したため、その停止を細川晴元が秀忠に命じている。しかし、実際はこの違乱は秀忠の意図に則った荒木氏の行動であったと考えられるという。

2001/6/16追加
・江田行範【えだ・ゆきのり ?〜1579(天正7)】
新田義貞の一族、江田行義の子孫。波多野四天王、また波多野七頭家の一人で綾部城主。天正七年(1579)、織田氏の丹波侵攻で波多野氏と共に滅亡した。
(拙掲示板にお書き込み頂いた、えだ@プレスタージョン様の投稿を一部改訂して採用させていただきました。ありがとうございました。)


【参考文献】

『丹波氷上郡誌 上巻』 1985
『兵庫県史』第3巻 1978
黒部亨『ひょうご合戦記 戦国の武将たち』 1998
芦田岩男「丹波波多野氏の勢力拡大過程」(『兵庫県の歴史』26、1990)
八上城研究会『戦国・織豊期城郭論−丹波国八上城遺跡群に関する総合研究−』 2000
大槻準「戦国期における丹波の豪族・赤井氏の盛衰−荻野直正を中心にして−」(『史泉』94、2001)
『戦国大名系譜人名事典 西国編』 1987


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