土佐一条氏

参考:四国地方詳細図(別のウィンドウが開きます)

【一条氏略史】
一条氏は藤原北家の九条道家の子、実経(1193〜1252)によって創設された。(兄に鎌倉幕府第四代将軍、九条頼経がいる。ちなみに、道家の祖父は『玉葉』を書いた九条兼実である。)のち、八代兼良の時代、応仁の乱が勃発し、それを避け奈良・興福寺に逃れた。

兼良の子、教房は関白も務めたが、応仁の乱に際し実経の代からの宗伝の地、土佐国幡多荘へ下向、領地の回復を試みた。結果、一条氏は次第に領地を回復、幡多荘を基盤として発展の基礎を築き、戦国公家大名化の道を歩んでいく。

教房の曾孫、房基(1522〜1549)の時代には父房冬の早世の影響が国人の反抗となって現れ、高岡郡の津野基高が蜂起するなど国人領主が自立性を強めつつあった。津野氏は三年後に降伏し、一条氏は高岡郡を勢力圏とするが、房基はその四年後の天文十八年(1549)、二十八歳で没した。自殺とも伝えられている。

房基の子、兼定は父の死により七歳で家督を継いだ。後見として「康政」なる人物が天文末期頃政治に関わっていたらしい。だが兼定が成人した頃には既に東に長宗我部氏が境界を接しており、土佐一条氏は風前の灯となっていた。

そのような情勢の中、兼定は遊蕩につのり、家臣の反発を招いた。家老たちは合議で兼定の子、内政を家督とし長宗我部氏に後見を託すことを決め、それによって一条家の存続を図ろうとし、兼定は出家、宗惟と号し、豊後大友氏のもとへ追放された。内政は長宗我部元親により岡豊城に近い大津城に移され、実質的に土佐一条氏は終焉を迎えたのである。

その後兼定は天正三年(1575)、大友氏の後援を受け宿毛に侵攻して中村を覗い、四万十川を挟み長宗我部氏と合戦に及んだ(渡川合戦)。しかし兼定は敗走、伊予に逃れ宇和島沖の戸島に隠棲し天正十三年、死去した。元親に内通した近習に切り付けられ、片腕を失いその傷が元という。子の内政は天正八年に死去した。元親の手の者に暗殺されたとも言われる。

しかし、近年では、四国を統一した長宗我部氏の任官(天正十六年、従五位下侍従)が外様の中大名クラスの格付けでしかなかったという点で、有名な一文

「土佐大将ハ長曽我部ト云人也、チャウスカメと云ト思ヒシ、面白キ名字也」に続く、「土佐ノ一条殿ノ内一段武者也ト云々」(『多門院日記』天正十三年六月二十一日条、下線筆者)や、

『信長公記』における「土佐国捕(補)佐せしめ候長宗我部土佐守…」(天正八年六月二十六日条)

という記述を積極的に評価して、土佐一条氏(内政、天正五年、従四位下右近衛中将に叙任や子、政親、天正十四年十二月、従四位下摂津守に叙任)が長宗我部氏を超越する存在であった、とする論考も出てきている。

(2001/2/13加筆)

土佐一条氏系図

【土佐一条氏の一族・家臣団】

・一条内政【いちじょう・ただまさ ?〜1580(天正8)】
兼定の子。長宗我部氏の庇護の下元親の娘と縁組し大津城に居住。大津御所と称される。元親の臣、浪川玄蕃の謀叛に関係したとされ、伊予に追放されその地で死去、もしくは元親の手の者に暗殺されたという。なお「内」は京都一条本家で、元亀四年(天正元、1573)から天正三年(1575)の間土佐中村に下向していた一条内基の偏諱だともいう。

・一条政親【いちじょう・まさちか 生没年未詳】
内政の嫡子。長宗我部氏臣、久礼田道祐に養育された。関ヶ原合戦の戦後処理で長宗我部氏が没落すると、土佐を去り京に上ったと伝えられるが、その後の消息は不明。

・源康政【みなもとの・やすまさ ?〜1575?(天正3?)】
兼定が幼年の時に後見し、国政を司った。房基の弟といわれているが確証は無い。朝倉氏によれば(下記論文参照)、一条氏と縁戚関係であった醍醐源氏の一族で一条家の家司、源(みなもと)氏ではないかという。永禄期中頃まで後見したらしい。康政の曾祖父と推定される源康俊の娘が一条兼良の側室となって四人の子を生んだので、土佐一条氏との関係を深めたとみられるという。
 康政の父と考えられる「源之康任」は大永二年(1522)、土佐中村の不破八幡宮に寄進を行っている。また、康政の娘、峰子は安芸国虎に嫁いだという。有田頴右氏は天正三年、長宗我部氏との合戦で切腹したのではないかと指摘している。
1999/10/31その後資料によれば、天正三年(1575)に一条兼定と(おそらく)共に書状を発給している事が判明。
2001/2/11加筆
2002/1/20加筆


・秋利康次【あきり?・やすつぐ 生没年未詳】
市正。康政の子といわれる。永禄七年(1564)年の康次署名の文書が残るという。兼定の側近であったらしい。

・津野基高【つの・もとたか 1503?(文亀3?)〜1553?(天文22)】
天文十一年(1542)、一条房基に叛く。同十五年八月、降伏。

・津野定勝【つの・さだかつ 生没年未詳】
基高の子。長宗我部氏の一条氏攻めの協力を要請したが、拒否したため長宗我部氏恭順に一決した家老衆に伊予に追放された。

・津野勝興【つの・かつおき ?〜1578(天正6)】
定勝の子。定勝追放後に家督。長宗我部元親に降伏し、元親の子、親忠を養子に迎えた。

・土居宗珊(算)【どい・そうさん ?〜1571?(元亀2?)】
一条氏の老臣。知勇に優れていたという。兼定に諫言して手討にされた。または宗珊がいるため幡多郡に侵攻することを避けていた長宗我部元親の謀略で謀叛の噂をおこさせたともいう。

・飛鳥井曽衣【あすかい・そい 生没年未詳】
実名は不詳。藤原北家飛鳥井氏の出で、京都の混乱を避けて土佐に下向(永禄六年までには土佐に下向していることが確認されるという)、土佐一条家に仕えて剃髪し、「曽衣」と名乗る。
 飛鳥井家は蹴鞠や和歌の家として知られ、国人などに蹴鞠指南をしたといい、一条内政が大津城に移されたときにも従って長宗我部氏に蹴鞠の指南をしたと伝えられる。また、曽衣は外交的役割も担っていたとされる。

・加久見左衛門【かくみ・さえもん 生没年未詳】
土佐の豪族。一条氏と縁戚関係であった。一条兼定追放後、内政を立てて専横につのっていた家老衆を討伐した。結果的にこれが一条家の衰亡を早める結果となった。

・敷地藤安【しきち・ふじやす ?〜1549?(天文18)】

民部少輔。塩塚城主で国侍。同じ国侍の入野家重から申し込まれた娘の縁談を断ったことで入野に一条房冬へ讒言され、追討令を受けて討死した。剛の者だったという。

・立石摂津守【たていし・つのかみ ?〜1574(天正2)】
天文年間(1532〜1555)から一条氏の後見役だったと伝える。兼定追放後の家老衆討伐に加久見左衛門らとともに加わった。のち一条内政の後見役も務めたという。天正二年、長宗我部氏の庇護の下にある一条氏を悲しみ、「自身の後見の至らなさが土佐一条氏を滅亡に追いやった」と七十余歳で自刃したという。


【追加分】

2001/2/13追加
・東小路(一条)教行【ひがしこうじ(いちじょう)・のりゆき 生没年未詳】

一条氏の「御一門」と称された一条氏一家衆の一つ。一条房家の子。天文十八年(1549)に従五位下に叙任された。子の教忠は河原渕氏の養嗣子となっている。

・河原渕教忠【かわはらぶち・のりただ 生没年未詳】
式部少輔。東小路教行の子。河原渕氏は西園寺氏側の資料によれば西園寺氏に通じていた勢力と認識されているが、一条氏一門が養子に入ったので一条氏と緊密な関係を持ったと考えられるという。
 一条氏と河野氏との合戦で河野氏の軍勢が帰陣して平穏になった祝いとして、永禄十三年(元亀元年、1570)十一月に延川村(北宇和郡広見町)の天満宮を再興している。

・町顕古【まち(の?)・あきふる 生没年未詳】
母は一条房家の娘。一条氏家司の家柄。天文十七年(1548)に従五位下に叙任。西園寺氏の流れを組む御荘の谷氏(御荘氏を名乗る)の名跡を戦国期になって実質的に継承した御荘(町)顕冬の長子(ただし、谷氏の御荘氏も滅亡したわけでなく、一条氏が滅亡すると歴史に再びあらわれるという)。一条氏家臣の町顕量(町氏本家)の養子となった。御荘氏の家督は定顕が相続した。

・白川兼親【しらかわ・かねちか 生没年未詳】
一条氏家臣。国人であった大平国興の領地である高岡郡東部の蓮池城を天文十三年(1544)に給せられた。大平国興は天文九年(1540)までこの地を支配していたことが確実なので、天文十三年までに一条氏に攻略されたと考えられるという。

・加久見宗孝【かくみ・むねたか 生没年未詳】
土佐守。加久見氏は土佐の豪族であったが、宗孝の父か祖父と考えられる宗孝(同名)の娘が一条教房に嫁ぎ、一条房家を生んだことから勢力を強めた。天文三年(1534)八月、土佐清水にある蓮光寺の鋳鐘の勧進が行われたときに署名しているのが確認される。

・加久見宗頼【かくみ・むねより 生没年未詳】
左衛門尉。宗孝と共に勧進に署名。一条房家の外祖父の加久見宗孝は当初左衛門尉を名乗り、のち土佐守と称したことから、上の宗孝の子か。「左衛門」の称より、加久見左衛門と同一人物の可能性も考えられる。


【参考文献】

『土佐清水町史』上巻 1980
『戦国大名系譜人名事典 西国編』 1986
野澤隆一「足摺岬金剛福寺蔵土佐一条氏位牌群」(『国学院雑誌』87-4)、1986
朝倉慶景「土佐一条兼定時代文書にみられる康政文書についての一考察」(『土佐史談』168)、1985
同「土佐一条氏と大内氏の関係及び対明貿易に関する一考察」(『瀬戸内海地域史研究』8輯、2000)

渡邉哲哉「土佐一条氏について−対国内諸国人関係に於ける「格別」の意味−」(『海南史学』33,1995)
石野弥栄「伊予国宇和郡における戦国期領主の存在形態」(『瀬戸内海地域史研究』8輯、2000)
秋澤繁「織豊期長宗我部氏の一側面−土佐一条氏との関係(御所体制)をめぐって−」(『土佐史談』215、2000)
有田頴右「一条殿奉行人源康政について」(『土佐史談』216、2001)


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