伊東氏

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【伊東氏略史】
伊東氏は藤原南家の流れであり、藤原武智麻呂の後裔、藤原木工助為憲が駿河・伊豆の国司となって工藤氏(木「」助の官職についた「」原氏)を称した一部が伊豆国伊東庄を領地としたことに始まる。
建久九年(1198)に工藤祐経の子、祐時が日向国に地頭職を賜って、その子祐光の弟祐朝が日向国に下って同地に定着した。

日向国で伊東氏一族は繁栄したが、代官として下った庶子家が土着化して、惣領家が庶子家を抑えきれなくなっていたのも事実であって、鎌倉幕府滅亡後の建武二年(1335)、もしくは延元二年(1337)に惣領家である伊東祐持が日向に下向し、南朝方である足利氏の威光を背景にして庶子家を抑えることに成功した。そのため惣領家は一貫して南朝方に組している。戦国期に至っても伊東氏は足利将軍家の威光を背景にして、一族庶子を統制せざるを得ない状況であった。

14C半ばからの祐尭・祐国の代には伊東氏全盛への基礎が形作られ、その後支配領域を拡大した。しかしそれに伴って以前から争っていた島津氏以外に、土持氏との争いも開始されている。その状況下で家中においても一族や重臣の反乱が相次ぎ、分かっているだけでも文明十八年(1486)・永正七年(1510)・享禄四年(1531)・天文二・三(1533・4)年と発生している。

伊東氏の支配体制は一門・重臣を中心とする談合体制で行われており、ある程度の成果を得ていたようであるが、支配領域の拡大に伴って根拠地が佐土原・都於郡(とのこおり)・飫肥と三箇所に分散されて、独自に支配を展開していた。このことが島津氏に国を追われる結果になった一因とも考えられる。

戦国期の当主は義祐・義益・義賢・祐兵と続き、義祐・義益の時代が最大の版図を築いた伊東氏全盛時代であったが、それにも増して勢力を拡大した島津氏に、長年にわたる勢力争いの末に敗れて、日向国を追われる結果となった。大友氏が島津氏に大敗した耳川合戦は伊東氏の日向退去によって大友氏に保護を求めたためおこったものである。

義祐と祐兵は伊予国を経由して京都にいたり、豊臣秀吉に属した。九州征伐では道案内を務め、天正十五年(1587)に旧領に復帰している。その後、朝鮮出兵での軍役をこなし、関ヶ原合戦では東軍に組し、飫肥五万七千石を領して幕末まで存続した。

伊東氏系図

【伊東氏の一族・家臣団】

・伊東義賢【いとう・よしかた 1567(永禄10)〜1593(文禄2)】
左京亮。義益長男。義益が早世した後、家督を継いで祖父の義祐から後見されたが、島津氏の圧迫で日向を退去したのち、甥の祐兵がいち早く上洛して豊臣秀吉に従い、島津征伐の時に旧領を安堵されたのに対して、義賢は大友氏を頼って長く留まっていために当主に復帰することが出来なかった。
 日向退去後に書を学び、能筆であったので文禄の役では朝鮮側との書のやり取りで難読文を解読する役として奉行衆に評判が高かったという。病で釜山から対馬を経、壱岐に渡る船中で死去。二十七歳。

・伊東祐勝【いとう・すけかつ 1570(元亀1)〜1593(文禄2)】
義益の三男。伊東氏没落後、義祐・祐兵と共に各地に流浪し、飫肥復帰の時に共に帰国した。のち朝鮮出兵で病にかかり、帰国のため出船したが強風に流され石見国に着岸し、故郷に戻れずに死去。

・伊東祐基【いとう・すけもと ?〜1578?(天正6?)】
下総権守。伊東一門。永禄十一年(1568)の島津氏との合戦では大将を務めている。耳川合戦で討死したものか。

・伊東祐審【いとう・すけあき ?〜1578(天正6)】
大炊助。祐充死後実権を握ったが程なく一門に殺害された武蔵守祐武(義祐の父祐充の伯父)の三男で、一時伊予国に逃れて浪人していたという。帰参して永禄頃には「御感状連判人数」(軍評定・国中仕置・合戦時の大将を務める伊東一門と譜代の重臣、家老もここから選ばれた)に加わっている。島津氏日向侵略の時には義祐らの出国に遅れたため、島津氏の謀略で殺された。

・伊東皈雲【いとう・きうん 生没年未詳】
相模守。皈雲は入道名。「介副」(補佐役)を務めた。知勇兼備の将といわれた伊東加賀守(祐安)が討死したのちは、家中の年長者としてしばしば当主の諮問に答えていたようである。天正五年の伊東義祐の都於郡の退去には従っているものの、天正八年の日向国退去には見えないので、この間に死去したものか。

・木脇祐守【きわき・すけもり 1526(大永6)〜1580(天正8)】
越前守。天文二十年(1551)に鬼ヶ城の城代となる。永禄初期には「執事」(家老とほぼ同義)となった。伊東氏が島津氏に追われた際、退去することが出来ずにそのまま隠れて留まっていたところ、剛勇を恐れた島津氏に捜索され「腹を切」された。木脇氏は一時断絶ののち、伊東一門が名跡を継いだ家である。

・荒武宗並【あらたけ・むねなみ 生没年未詳】
右京亮。天文期の執事。天文初期から連署状に署名している。荒武氏は伊東氏の日向入国以来の家臣である。

・荒武歓久【あらたけ・かんきゅう 生没年未詳】 
兵庫頭入道。天文十八年、島津氏との合戦の折に重陽の節句の祝いとして、両軍が見守る中で島津方の中馬武蔵と相撲の勝負を行い、勝利して頸を得た。当主近習であったといわれるが、のち「御感状連判人数」に加わっている。

・野村文綱【のむら・ふみつな 生没年未詳】
「御感状連判人数」に名を連ねている。執事とも記されている。兄、刑部少輔は家老であった。

・落合兼仲【おちあい・かねなか 生没年未詳】
淡路守。天文期の執事。

・長倉祐守【ながくら・すけもり 生没年未詳】
兵庫頭。天文期の執事。長倉氏は伊東氏とともに、東国から入部した伊東氏の家臣である。

・長倉祐政【ながくら・すけまさ ?〜1578?(天正6?)】
「御感状連判人数」の一人。耳川合戦に大友氏とともに伊東氏の残党として出陣している。戦後の動向は不明。戦死したものと思われる。

・佐土原佐摂【さどわら・すけかね ?〜1578(天正6)】
摂津守。天文末期より家老か。伊東氏退去後も大友氏の後援で島津氏に抵抗。しかし耳川合戦の大敗をうけて、篭っていた三納城を囲まれたため自害した。

・佐土原祐章【さどわら・すけあき 生没年未詳】
肥後守・筑後守。天文期の執事。佐土原氏は室町期からの伊東氏の家臣。

・湯地定時【ゆぢ?・さだとき ?〜1578(天正6?)】
三河守。「御感状連判人数」のひとり。佐土原佐摂とともに伊東氏退去後も日向に残ったが、佐摂と共に三納城に篭って自害。


【追加分】

2001/3/21追加
・長倉祐省【ながくら・すけよし 生没年未詳】
能登守。天文初期の「御感状連判人数」の一人。天文三年二月二十八日付寄進状への署名が確認される。

・荒武宗置【あらたけ・むねおき 生没年未詳】
右京亮。上記長倉祐省と連署している。地位的には長倉の方が上か。

・壱岐秀兵【いき・ひでたけ 生没年未詳】
兵部少輔。伊東氏の代官。天文三年の文書二通に署名がみられる。伊東氏の代官の職掌としては代官所轄における神社遷宮・祭礼での太刀などの献上や所轄の夫役の徴収などであったという。代官の家柄は天文年間には「御陣人数積衆」として見え、主に近習であった。

・壱岐秀吉【いき・ひでよし 生没年未詳】
上記秀兵との関係は不明。官途名を名乗っていない(弥六左衛門尉)ので、庶流などと考えられる。

・宮田儀庸【みやた・よしのり? 生没年未詳】
播磨守。伊藤氏の代官。壱岐秀兵と共に署名しているが、宮田の方が地位的に上の様である。


【参考文献】

「日向記」(『史籍雑纂』第一 所収、1912)
福島金治「室町・戦国期の伊東氏の領国支配について」(『宮崎県史研究』5、1991)
永井哲雄「日向の戦国大名伊東氏について−その成長過程と支配機構の一・二について−」(『宮崎県地方史研究紀要』6、1980)
『寛政重修諸家譜』
『国史大事典』


【他サイト情報】
伊東氏に関しては「飫肥城松尾の丸」(にしこ様)が専門的に扱っていておすすめです。

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