神保氏

参考:中部地方詳細図(別のウィンドウが開きます)

【神保氏略史】
神保氏は本貫地が上野国多胡郡神保村であるといわれ、畠山氏の被官となった。明徳三年(1392)の、畠山氏の家臣記録に既に計三人の神保姓の者が見えている。

 遊佐氏・椎名氏と共に越中の守護代に任じられた神保氏は、畠山家の相続争いで討伐されるなど勢力が一時衰えたが、放生津(現 富山県新湊市)を本拠とし、15C中頃には二郡(射水郡・婦負郡、富山中部地域)を掌握する勢力となっていた。

15C末から16C初めにかけて、神保慶宗は椎名氏の所領である新川郡(富山東部)に徐々に進出していった。折しもこの頃、越後国で守護を倒して実権を握った守護代、長尾為景が加賀一向一揆平定のため永正十一年(1514)越中へ出陣したが、神保慶宗の攻撃を受け失敗に終わってしまう。そのため為景は慶宗討伐に全力をあげ、度重なる出兵の末、同十七年、ついに神保慶宗は滅亡する。しかし神保氏は再興の時を窺い、享禄五年(1532)にはすでに加賀の一揆支援のため派兵する程に勢力回復を遂げている。  


 天文中期頃慶宗の子(または孫)と考えられる長職があらわれ、長尾側に組し支配権を認められていた守護代椎名氏と抗争を繰り返したのだが、その状況下で天文末期頃、従来の支配地域の東限であった神通川を越えて、富山に築城した。だが早くも永禄三年(1560)には上杉謙信が椎名氏援護のため越中に出陣したため、神保氏は富山城を放棄、増山城(現 砺波市)に撤退し、同五年頃まで上杉氏と敵対した。同十年頃になると椎名氏が反上杉体制(一向一揆側)をとり始め、神保氏は上杉方(反一向一揆側)に組した。だが当主長職が上杉方、嫡子長住が反上杉方と家中対立が発生し、長住は追放されたようである。上杉方についた神保氏であるが、そのために一揆勢の攻撃に遭い、度々謙信に出馬を要請していたことが知られる。


 元亀二年(1571)頃に神保長職が死亡(推定)した後、家臣団の拠っていた城は一揆勢に攻められ落城し、神保氏・家臣団の消息は不明となる。その後越中を統一した織田信長の配下として追放された神保長住が越中に戻り一時越中支配を行うが、支配が安定すると佐々成政への権力集中のため追放された。神保氏はその後幕臣として存続した。

神保氏系図(推定)

【神保氏の一族・家臣団】

・神保氏張【じんぼう・うじはる 生没年未詳】
安芸守。越中守山城主。『寛政重修諸家譜』によれば、畠山義綱の子という。神保長住が織田信長によって越中を追われてからも越中にとどまり、佐々成政の家臣となる。

・神保長城【じんぼう・ながしろ 生没年未詳】
長職次男か。長男長住と長職との対立により、家を継いだと思われるが、長職死後の動向は不明。

・神保長国【じんぼう・ながくに 生没年未詳】
長職の三男と思われる。長職死後も活動を続けていた模様だが、詳細は不明。

・神保職広【じんぼう・もとひろ 生没年未詳】
長職の一族か。天文二十三年(1554)頃守山城に在城していた。

・神保覚広【じんぼう・よしひろ 生没年未詳】
近江守。神保氏一族と考えられる。永禄十二年(1569)に上杉氏と神保氏の仲介を行い、長職より知行をあてがわれている。知行地は婦負郡の一部であった。

・水越勝重【みずこし・かつしげ 生没年未詳】
越前守。神保氏の重臣。富山城築城に深く関係したらしい。永禄五年には富山本覚寺に寄進をしている。一説にのち神保長職を称したとの説もあったが、現在は否定されている。

・水越職勝【みずこし・もとかつ 生没年未詳】
勝重の後継者か。神保長職死後の元亀三年(1572)に神保一族の覚広や小島職鎮らと共に上杉方の武将に対し、一向一揆が越中に攻め込んだ事についての注進に署名している。

・寺島職定【てらしま・もとさだ 生没年未詳】
神保氏の重臣。天文から永禄期にかけて活躍し、上杉方に組した神保家中で単独で反上杉の体制をとった。

・寺島信鎮【てらしま・のぶしげ 生没年未詳】
職定の後継者ではないとも思われるが、天正八年(1580)に、寺島氏代々の権限であった「紺屋職」の補任を行っている。

・狩野良政【かのう・よしまさ 生没年未詳】
越中の国人。神保方についていた。一族と思われる下の宣久が永禄四年(1561)に寺に寄進をしているので永禄の初め頃没か。

・狩野宣久【かのう・のぶひさ 生没年未詳】
良政の後継者か。神保氏富山城退去後も神保方についていて、今後の動向について尋ねている。


【参考文献】

『富山県史』通史編II 中世 1984


【他サイト情報】
神保氏については「越中戦国志」(神保越中守長職様)がとても詳細でおすすめです。

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