肝付氏

参考:九州地方詳細図(別のウィンドウが開きます)

【肝付氏略史】
肝付氏は伴氏の後裔といい、薩摩国惣追捕使に任命された伴兼行が安和二年(969)、都から下向し、その孫兼貞が大隅国肝属郡の弁済使となって肝属郡に入部し、子の兼俊が群名を苗字とし、「肝付」と称したという。この兼俊が肝付氏初代である。

鎌倉時代に入り、この地域に名越氏が地頭や地頭代として入部、地域を巡って争いを繰り広げているので、郡内を所領化していたことが確実であるという。しかし、六代兼藤は地頭代官に殺害されている。

南北朝期には島津氏に対抗し南朝方に属して、日向国の高城を居城として所領を拡大したが、南北朝時代末から室町時代にかけては島津氏の家臣となっている。

15C末になると、守護領国制を大隅国でも確立しようとした島津氏に対抗し、島津氏との合戦が開始された。折りしも、島津氏内部の一門での争いに乗じ、肝付氏は所領を拡大していっている。十六代兼続の時代である、永禄期(1558〜1570)前半が肝付氏の所領が最大となった時期である。

しかし、その後は肝付氏一門の内紛や家臣団の島津氏への降伏などにより、肝付氏も島津氏に屈服した。一時は本貫地である肝属郡の高山だけでも安堵された肝付氏であるが、天正八年(1580)には本貫地をも召し上げられ、別の場所に移された。

以後、島津氏家臣団に組み込まれた肝付氏は藩の下級家臣として命脈を保ったが、一方で文明年間本宗家の肝付氏に追われた庶流の肝付氏は早くから島津氏に従っており、近世は喜入領主として本宗家よりも力は大きかった。

肝付氏系図

2001/6/3「略史」加筆、系図改訂


【肝付氏の一族・家臣団】

・肝付兼清【きもつき・かねきよ 生没年未詳】
伊勢守。天文十六年の知行宛行状に署名。署名中三人(他は検見崎兼堯・安楽兼元)の中で一番地位が高いと思われる。肝付兼続から六代前、肝付兼氏の弟、山下久兼の玄孫であるという。当主が大旦那となって再興・建設した神社などに願主・奉行となっているものが多くみられる。永禄十一年まで生存が確認される。
2001/6/3加筆

・肝付兼嘉【きもつき・かねよし 生没年未詳】
肝付氏の家老。永禄四年と思われる連署状に署名している。
2001/6/3訂正:「肝付兼吉」は別人と判明(下記参照)。

・肝付兼名【きもつき・かねあきら? 生没年未詳】
治部左衛門尉。兼吉(下記「追加分」参照)の弟。永禄三年(四年とも)、肝付氏の島津氏離反直後、島津氏の属城・廻城を攻めるに際し、兼続より佩刀を与えられて夜襲し、城を奪取した後は城の守備にあたったという。のち肝付氏の勢力が衰えると一族の肝付三河入道竹友(元亀三年討死)の代わりとして志布志の地頭に任ぜられた。
2001/6/3訂正:天正三年→永禄三年

・検見崎兼堯【けみざき・かねあき 生没年未詳】
播磨守。天文末頃の家老か奉行人と思われる。永正期から八幡宮再興などの奉行・代官を務め、天文期にも同様の奉行などを務めた他、天文十六年の家臣への知行宛行状に署名している。
2001/6/3加筆

・検見崎兼泰【けみざき・かねやす ?〜1578(天正6)】
常陸介。肝付氏家老。永禄四年(1561)と思われる連署奉書に署名。また元亀元年には本願地と思われる検見崎福田寺に阿弥陀堂を建立。官途名から兼書の子と考えられる。大友氏と島津氏の合戦のとき、日向高鍋で討死した。子孫は島津家臣となっている。
2001/6/3加筆・訂正:兼堯の子と考えましたが、官途名、常陸介より兼書−兼泰と思われます。

・安楽(柏原)兼元【あんらく(かしわばら)・かねもと 生没年未詳】
下総守。「兼之」とも。姓は記録には「柏原」とも記されている。天文十六年の知行宛行状に署名。永禄五年、良兼が父兼続の命で志布志に移ったときに子の兼朗と共に従った。
2000/7/9訂正:名前の読み「あら」→「あんらく」(頴娃久虎さまのご教授による)
2001/6/3加筆

・安楽兼清【あんらく・かねきよ ?〜1576(天正4)】
肥後守。天正四年、伊東氏攻めの時に弟兼治と共に討死。安楽兼利の父という。

・薬丸兼将(政)【やくまる・かねまさ ?〜1576?(天正4?)】
出雲守。肝付家家老という。永禄四年と思われる書状に検見崎兼泰と共に署名。入道して孤雲斎。永禄三年、島津氏が肝付氏の館を訪問したとき、島津氏家臣伊集院忠朗が「宴の羮(あつもの。肉に野菜を混ぜて作った吸物)は鶴であるか」と戯れに兼将に言ったことが発端となり(鶴は肝付氏の家紋)肝付氏は島津氏から離反したという。天正四年もしくは五年に伊東氏との合戦において討死という。
※2000/2 訂正(没年判明、ブー様の御教授による)

・薬丸兼持【やくまる・かねもち 生没年未詳】
弾正少弼。兼政の子。天正二年八月、島津氏に服属するに当たって肝付氏の使いとして鹿児島に赴いた。

※薬丸氏について、拙掲示板にて薬丸流門下生様よりご指摘を頂いたところによれば、「薬丸出雲守入道孤(湖が正しいそうです)雲斎」は兼将ではなく、父の兼郷であり、子、弾正兼将は二十二で討死したとのこと。その子が壱岐守兼成で、兼成の孫、刑部左衛門兼陳は示現流の祖、東郷重位の高弟であるとのことですが、私の参考にした資料と全く異なるため、ここに特記させていただきます。(2001/6/3記)

【追加分】

2001/6/3追加
・肝付兼樹【きもつき・かねみき? 生没年未詳】
右京亮。良兼の弟。兼亮の兄にあたる。天正三年(五年とも)、兼亮と共に出奔、伊東氏を頼るが伊東氏の没落でその後の消息は不詳。孫の兼弘は薬丸孤雲の娘を娶り、子孫は鹿児島・佐土原両島津氏の家臣となった。

・肝付兼幸【きもつき・かねゆき 1592(文禄1)〜1610(慶長10)】
兼護(道)の子。はじめ兼盛。父兼護と妻が不和だったため知行を削減されたが、兼幸が訴えたため知行百石を加増された。慶長十五年、島津家久が琉球国王を伴って上洛したときに従うが、帰路暴風雨にあって水死。家督は新納忠秀の嫡男、兼康が相続した。

・頴娃兼洪【えい・かねひろ 1506(永正3)〜1538(天文7)】
左馬允・周防介。兼続の叔父にあたる。兼興の末弟。大永五年(1525)、頴娃山城守兼心に嗣子が無かったために養子となった。父兼久は家臣萩原兼宗等を附属させたという。頴娃氏も以前に肝付氏から分かれた一門である。

・肝付兼吉(義)【きもつき・かねよし 生没年未詳】
加賀守。兼続の曾祖父、兼光の弟、兼清の二男。永禄三年もしくは四年、廻城をめぐる戦いに弟兼名と共に出陣、守備している。元亀四年末には伊東氏に救援を求めるために派遣されている。

・肝付兼純【きもつき・かねずみ ?〜1572(元亀3)】
越後守。肝付兼続の祖父、兼久の弟兼実の二男。元亀三年二月、島津氏との戦いに遣わされ討死。

・肝付兼賢【きもつき・かねかた 生没年未詳】
兵部少輔・武蔵介。はじめ兼延といった。入道して龍忠。兼純の弟。天文の前の享禄年間(1528〜1531)から現れる。天文十六年、肝付良兼の元服を祝って父が建てた神社の願主となった。
 永禄四年、五男兼里は兼続が家督相続の時に殺害した叔父兼親(兼続の父、兼興の弟)の祟りを鎮めるために祭祀を行っている。

・検見崎兼書【けみざき・かねひさ? 生没年未詳】
常陸介。天文二十三年当時、曽於郡の郡司であった。

・安楽兼寛【あんらく・かねひろ ?〜1575(天正3)】
備前守。牛根城将。天正二年正月、攻めてきた島津勢の攻勢に耐えるが、救援にきた肝付兼亮と伊東氏の連合軍が大敗、島津義久が城内に射た矢につけた歌「弓もうし(失し=牛)、根もおれ(折れ)やそと引かへて かふと(兜)をぬか(脱)はやかて安楽」を読んで感じ入り、退去したと伝えられる。
2001/8/27加筆:没年の追加。また、掲示板で安楽博史様より頂きました情報によりますと、島津義久の歌に対し、兼寛は「引くもうし ねらう心ももののふ(武士)の 梓(あずさ)の弓の縁(えにし)なりせば」という返歌を送ってさらに籠城を続け、天正三年正月に開城したということです。安楽様、情報ありがとうございました。

・河越家実【かわごえ・いえざね 生没年未詳】
丹後守。入道名玄忠。天文十一年、肝付氏と禰寝氏の関係が悪化したときに肝付兼賢と共に出陣した。永禄年中高隈の地頭、元亀年中百引の地頭であった。

・和泉兼依【いずみ・かねより? 生没年未詳】
三河守。元亀三年八月、高山の神宮司阿弥陀堂造営に薬丸兼将(代官)と共に奉行として署名している。


【参考文献】

『戦国大名系譜人名事典 西国編』 1986
『鹿児島県史料 旧記雑録』前編2(1980)・後編1(1981)
『鹿児島県史料集XIII 本藩人物誌』 1973
『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺家わけ二』 1991


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