木曽氏


参考:中部地方詳細図(別のウィンドウが開きます)

【木曽氏略史】

木曽氏は木曽義仲の末裔で、木曽義昌までに十八代を数えるとしている。が、この説は現在では疑問視されており、様々に考察されているものの、確実にこれという説は存在していない。

木曽氏に関する史料に関しては、武田氏滅亡以前のものは偽文書の疑いが少なからずあるものがほとんどであるというが、とりあえず史料的な初見は、至徳二年(1385)の、現木曽福島町の神社棟札にある「伊予守藤原家信」と考えられるという。すでにこの時点で「木曽()義仲」の末裔であるということは、「藤原」姓を名乗っていることから疑わしいものであることが分かるだろう。また、この時期は木曽氏は「家」を通字とするらしく、義仲の「義」を通字にするのは戦国時代の頃の当主からなのである。

その後、文正元年(1466)の梵鐘銘では「朝臣家豊」とあるといい、この時期から木曽氏が木曽義仲の末裔であるということを意識するようになったようである。また、この家豊が木曽氏の系図と合致する人物の一番はじめである。

応仁の乱では、姻戚関係にあった小笠原氏と協力体制を組み、土岐氏の背後を伺うように足利将軍家から指令を受けている。この時点で木曽氏は小笠原氏とほぼ同等の勢力をもつ家として足利家から認識されていた。15C末頃には、義元(義昌の曾祖父)の存在が知られ、木曽氏はこの時代あたりからやっと系譜と文書の整合性がとれてくる。

大永六年(1526)には義元の子、義在や上杉憲政に武田信虎を上洛させるようにとの足利義晴が協力を要請している。木曽氏が関東管領上杉氏などと並ぶ程の存在であったことが伺えよう。しかし、晴信(信玄)の代になって信州地方に勢力を伸ばすようになった武田氏を、木曽への侵入を数度は撃退したものの、街道封鎖を行った武田晴信によって次第に身動きがとれなくなり、天文二十四年(弘治元年・1555)に軍門に降るに至った。

武田氏は木曽氏に本領を安堵し、穴山氏と同格に配したといい、木曽義昌には晴信の娘が嫁いでいる。併呑した勢力に対してあまりに寛容であるが、このころ行われていた越後の長尾景虎(上杉謙信)との川中島での睨み合いで兵力を木曽併呑に割けず、木曽氏との和平を急いだ、という事情があるのではないか、という。

しかし、武田氏の配下に与したのは事実であり、木曽氏重臣の千村・山村両氏が武田氏から直接支配地を安堵され、木曽氏の家臣ながら、いわば木曽氏と同格になったという点で、木曽氏が独自に支配を行えず、木曽の代官的な地位に落ちてしまったといえる。

その後木曽氏は、織田信長の信濃侵攻を前にいち早く織田氏と結び、信長死亡後は徳川家康と結び、本領を保ち続けた。一時徳川氏と羽柴氏の対立の時期には羽柴氏に与して、徳川方に木曽に攻め込まれてもいるが、徳川・羽柴両氏の和平後は再び徳川方へ帰属した。

だが、天正十八年(1590)の徳川氏関東移封によって、木曽氏も移封を免れ得ず、父祖伝来の地から下総網戸へ移らされた。この知行高一万石の地への移封は、多くの家臣を見捨てなければならない結果になったという。しかし、この地も安住の地とはならず、義昌の子、義利は粗暴な振舞多く、慶長五年頃に改易させられた。義利の弟、義通(義一)は家臣に「(義利は)先祖から伝わる本国までも離れ、この身上(改易)になったことは、我らにとってひとしお無念である」と語った。彼は母とともに木曽に戻ったというが、その後は全く分かっていない。

木曽氏系図

【木曽氏の一族・家臣団】

・上松義豊【あげまつ・よしとよ 生没年未詳】
義昌の弟という。木曽氏が武田氏の配下にあった天正八年に、織田信長の誘いをうけた義昌が信長の許へ人質として赴かせたという。甥である義昌の子、義利と不和になり、殺された。
2002/4/ 改訂:うえまつ→あげまつ(地名に拠る)

・山村良利【やまむら・よしとし 1514(永正11)〜1599(慶長4)】
三河守。「たかとし」とも。武田氏支配下の木曽氏重臣の中心的な役割を担っており、また、武田氏の直接支配も受けるという、木曽領の代官的性格も併せ持っていたものかという。また、元亀三年の武田氏の上洛作戦の折りにも、良利に独自に作戦を指示しているのが知られる。

・山村良候【やまむら・よしとき 1547(天文16)〜1602(慶長7)】
良利の嫡男。「たかとき」とも。義昌と義利に仕えた。木曽氏移住後も木曽に残って徳川氏に従う。関ヶ原合戦においては西軍方に捕らえられたがのち解放され、その忠節によって木曽の支配を命じられる。知行五千七百石で木曽を支配することは難しいと白木六千駄を与えられるが、領民にと固辞し、それによって別に五千駄を与えられた。子の良勝は尾張徳川家に仕えて代々木曽を支配した。

・千村重綱【ちむら・しげつな 生没年未詳】
内匠。高遠氏を滅ぼした後の高遠城代という。天文十八年(1549)年に武田氏によって攻略され、重綱は一命を拾って退いたという。しかし、笹本氏によれば、高遠城は天文十四年にすでに武田氏の支配下となっていることが明らかであるといい、また、「内匠」を名乗った人物が二人存在する可能性が活動期間から伺え、天文期の内匠は父、道仲(康忠とも)ともいわれる。

・千村俊政【ちむら・としまさ 生没年未詳】
右衛門佐。家晴の兄。理由は不明なものの惣領家を相続しなかったようであるが、武田氏支配下においては山村良利とともに木曽衆の中心的役割を担っていたようである。

・千村家晴【ちむら・いえはる 1497(明応6)〜1558(永禄1)】
備前守。『寛政譜』では惣領家となっているが、家晴の死後も俊政が生存しており、千村家の中心的役割を担っていたように思われ、詳細は不明。家晴の流れが江戸時代には宗家となったので家晴の時代まで遡って惣領家と改竄したものか。

・千村家政【ちむら・いえまさ 1527(大永7)〜1608(慶長13)】
家晴の嫡子。掃部助。義康・義昌二代に仕えた。天正十八年の木曽氏下総国移住に従い、のち子、良重が徳川家康に与えられた美濃国の知行地に移った。

・千村政勝【ちむら・まさかつ 生没年未詳】
家政の嫡子。掃部助。十九歳で戦死。家督は弟の良重が継いだ。

・奈良井義高【ならい・よしたか 生没年未詳】
治部少輔。木曽氏の一族とも、信濃三村氏の一族ともいうが、詳細は不明。天文中期ころまで木曽氏と同盟関係にあった国人領主。天文末期には武田氏に与している。武田氏支配下に入ってからは、木曽氏の監視役としての役割を担っていたようである。のち木曽義昌に殺された。


【追加分】

2002/4/ 追加
・馬場昌次【ばば・まさつぐ ?〜1618(元和4)】
木曽氏一門で、家村(上記系図家道の父)の四男の家系であるという。天正十八年(1590)、木曽義利の下総網戸移封に際して、千村氏らと共に従った家臣の一人である。義利改易後に浪人となる。関ヶ原合戦に際して、家康が木曽路を平定するために千村氏や昌次・利重父子らを召し抱え、幾つかの城を攻め落とすなど功があったため千六百石を与えられた。

・荻原(遠山)元忠【おぎわら(とおやま)・もとただ 生没年未詳】
木曽義康・義昌父子に仕える。はじめ遠山を名乗ったが、木曽荻原村を領したため、荻原に改めたという。


【参考文献】

柴辻俊六「戦国期木曽氏の領国経営」(『信濃』34-11、1982)
笹本正治「武田氏進入以前の木曾氏について」(『信濃』42-3、1989、のち『古代・中世の信濃社会』(1992)所収)
同「武田氏の木曽進入をめぐって」(『武田氏研究』5、1989、のち『古代・中世の信濃社会』(1992)所収)
『木曽福島町史』第一巻(歴史編) 1982
続群書類従完成会 『寛政重修諸家譜』


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