古河公方足利氏


参考:関東地方詳細図(別のウィンドウが開きます)

【足利氏略史】

古河公方の前身は、言うまでもなく尊氏の子、基氏の流れをくむ鎌倉公方である。基氏の曾孫、持氏が時の将軍足利義教と対立して関東管領上杉憲実も持氏から離反、永享十年(1438)持氏や子らは自害に追いやられた。(永享の乱)遺児の安王丸・春王丸の二人は日光(佐藤氏は常陸に逃れたのではないか、としている)へ逃れ、もう一人の万寿王丸(のちの成氏)は信濃の大井氏の元にあった。

永享十二年、安王丸・春王丸は持氏残党に擁立され、結城氏朝に迎えられて挙兵するが(結城合戦)、上杉憲実の弟、清方ら幕府勢の攻撃で翌年落城、二人の子は捕らえられ、京都へ護送される途中に殺害された。

管領上杉憲実らは残った遺児である足利成氏(万寿王丸)を迎え、鎌倉府の再建を行った。しかし永享の乱・結城合戦などで没落した「関東諸侍」の復権を目指し、また関東管領によって実質的に運営されてきた鎌倉府の体制に参入しようとした成氏と上杉氏家臣長尾・太田氏の権力闘争が宝徳二年(1450)の江の島合戦を引き起こし、成氏は江の島へ逃れた。成氏はこの合戦で逃亡した管領上杉憲忠の帰参と長尾・太田の誅伐を幕府に願ったものの、事態は収拾せず、最終的には上杉氏主導で事態が収拾されることとなった。

このことが享徳三年(1454)に勃発した上杉憲忠殺害という、在鎌倉の上杉勢力の一掃に繋がるが、享徳の大乱として二十二年にも及ぶことになる。上杉氏は幕府よりすぐさま関東管領の任命を受け、幕府も上杉方を支持した。成氏は古河に移り、上杉氏(=幕府方)との合戦は関東各地で繰り広げられた。一方で上杉方は伊豆堀越に将軍義教の子、政知を迎え堀越公方とした。

文明十年(1478)、上杉氏と成氏は和睦、ここに享徳の大乱は終結する。成氏の子、政氏は鎌倉府体制の再構築を計るが、新興勢力とも結ぶことを視野に入れていた子の高基と山内上杉氏・扇谷上杉氏を巡って対立した。政氏死後、高基は北条氏と結び、嫡子晴氏に北条氏綱の娘(芳春院)を迎えている。晴氏は父高基の弟にあたる、義明(小弓公方、後の喜連川氏)の排除を北条氏に要請、天文七年(1538)の国府台合戦で義明らは討死した。しかし晴氏は天文十四年の河越合戦に、山内・扇谷両上杉氏の再三に渡る要請で出陣、戦後北条氏に詰問される立場となり、義氏に家督を譲った。しかし二男藤氏らと古河城に籠城し北条氏康に反抗、相模秦野に幽閉された。

義氏は小田原に移され、北条氏の支援をうけたが、上杉謙信は藤氏を擁立、また足利氏宿老簗田氏も古河公方の傀儡化を恐れ晴氏三男、藤政を擁立するなど活動するが、北条氏の関東における権力の確立にともない、このような行動は失敗に終わる。

義氏は天正十年死去するが、嫡子の早世で娘である氏姫が九歳で家督を継ぐことになった。天正十九年(1590)の小田原落城後は古河から鴻巣に退去、氏姫の孫に至って喜連川に移住し、ここに喜連川足利氏が旧古河公方家臣団をも吸収して喜連川氏を形成し、幕末まで存続した。

古河公方足利氏系図

【古河公方足利氏の一族・家臣団】

・足利氏姫【あしかが・うじひめ 1574(天正2)〜1620(元和6)】
足利義氏の娘。義氏死後わずか九歳で足利家当主となり、義氏代末期からの実質的執政機関である「御連判衆」(後述)を擁し、鴻巣御所に暮らした。秀吉の命で庶流の喜連川足利国朝と婚約し、国朝死後はその弟頼氏を夫とした。頼氏との間に義親をもうけた。

・足利国朝【あしかが・くにとも 1573(天正1)〜1593(文禄2)】
頼淳の子。氏姫と婚姻するが、氏姫が喜連川に赴かず鴻巣に留まったため事実上別居状態であった。そのなか朝鮮出兵の途次安芸で死去した。

・足利頼氏【あしかが・よりうじ ?〜1630(寛永7)】
国朝の弟、幼名龍王丸。国朝の死去により急遽寺から呼び寄せられ、国朝の代わりとして在京。その間に元服、頼氏と名乗る。氏姫と婚約、義親をなした。義親の子、尊信が祖父・頼氏の死去によって鴻巣から喜連川に移り、ここに元古河公方足利氏は喜連川氏(足利庶流)に統一され、喜連川氏として代々続いた。

・芳春院周興【ほうしゅんいん・しゅうこう ?〜1579(天正7)】
古河公方の一族か血縁者という禅僧。はじめ芳春院ではなく瑞雲院と称した。晴氏段階から姿を見せ始めているが、義氏の公方就任から頭角を現した。義氏とその母、芳春院(北条氏綱女)の奏者として、両者を補佐する立場にあった。芳春院死後に義氏の命で芳春院周興とあらため、芳春院の遺領の代官に任ぜられたり、奏者や奉行組織の頂点として重きをなした。

・芳春院松嶺【ほうしゅんいん・しょうりょう 生没年未詳】
はじめ周興に従う禅僧であったが、周興死後、芳春院を襲封、役割を引き継いだ。氏姫時代も奉行衆としてみられる。

・簗田高助【やなだ・たかすけ ?〜1550(天文19)】
中務大輔。成助の子で関宿城主。足利高基の片諱を受けていると思われるという。父の時代に庶流である政助が権力を掌握したが、足利政氏の失脚によって復帰、古河公方宿老筆頭となる。また一族の内部分裂を克服して、庶流を家臣化することに成功したようである。晴氏と共に天文十五年(1546)の河越野戦に出陣、戦後は嫡子晴助に家督を譲り隠居、道柵と号した。

・簗田助縄【やなだ・すけのり 生没年未詳】
晴助の弟、助綱の子であると思われるという。持助の跡を継ぎ、実質的に嫡流となっている。

・簗田助利【やなだ・すけとし ?〜1615(元和1)】
助縄の後継者とおもわれる。持助の子、或いは弟であるらしい。北条氏没落後、慶長期まで在地に留まっており、入部した徳川氏の家臣となった。大坂の陣に出陣し、討死。子孫は幕臣として続いた。

・梁田助実【やなだ・すけざね 生没年未詳】
右馬助。簗田氏庶流と思われるという。しかし足利義氏末期の御連判衆に加わっている。天正十八年の小田原合戦に参陣し、北条氏没落と運命を共にしたという。

・一色氏久【いっしき・うじひさ 生没年未詳】
右衛門佐。鎌倉府からの譜代の家臣であり、義氏時代から実質的政務を担当していたという。義氏死後、「古河御所様各御奉行」「古河御奉公人」「御連判衆」などと呼ばれており、氏姫段階にいたって正式に「御連判衆」として確立され、北条氏との折衝に当たった。秀吉の天下統一後、一時彼らの知行地についてが問題となったが、氏姫の石高、三百三十二石の中から給付されることになり、御連判衆は存続した。

・町野義俊【まちの・よしとし 生没年未詳】
備中守。御連判衆の一人。鎌倉幕府の問注所執事の家柄という。文禄五年段階で御連判衆の中に確認されなくなっている。

・小笠原氏長【おがさわら・うじなが 生没年未詳】
兵庫頭。御連判衆の一人。

・高氏師【こうの・うじもろ 生没年未詳】
大和守。足利氏の譜代家臣。御連判衆のひとり。

【参考】
簗田晴助…持助の二代は『戦国人名事典』にも載っているのでこちらでは触れませんが、生没年が『〜事典』では未詳となっているのでそれのみ示しておきます。
・晴助【1524(大永4)〜1594(文禄3)】
・持助【?〜1587?(天正15?)

【参考文献】

佐藤博信『古河公方足利氏の研究』 1989
佐藤博信「房総における簗田氏領の歴史的位置」(『千葉史学』33、1998)
長塚孝「戦国期の簗田氏について」(『駒沢史学』31、1984)
『戦国大名系譜人名辞典 東国編』 1985
『戦国大名家臣団事典 東国編』 1986


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