朽木氏

参考:近畿地方詳細図(別のウィンドウが開きます)

【朽木氏略史】
朽木氏は六角氏とともに佐々木氏の一族である。佐々木信綱の二男、高信が与えられた所領から高島氏を名乗り、高信の孫、義綱が朽木荘の地頭職を父、頼綱より与えられて朽木氏を名乗るようになる。

室町時代中頃の長禄四年(1460)には朽木荘は幕府御領所となったので、朽木氏は幕府に仕えた。そのために六角氏が長享元年(1487)、足利義尚に討伐軍を起こされた時、朽木氏は同族にもかかわらず幕府軍として六角氏攻撃に加わっている。このことから同じ近江国に住している嫡流で近江守護の六角氏に対し、朽木氏が独立した存在であった事がわかるという。

しかし、戦国時代に入ると、六角氏の権力伸張にともなって、朽木氏はその参加に組み入れられる事を余儀なくされる。大永五年(1525)、六角定頼の浅井氏攻めの折は、朽木稙綱は先陣を務めたという。

一方で、所領である朽木谷は将軍の避難所としてしばしば将軍が下向し、朽木氏は将軍を優遇したので幕府に仕えた庶子も何人か出ている。

朽木元綱ははじめ六角氏に仕えたのであるが、その立場は同盟者的な立場のようである。その後朝倉氏・足利義昭・織田信長と主を次々に替えていったが豊臣秀吉に仕えて高島郡の太閤蔵入地の代官や、太閤検地で越前国の検地役人を務めた事が知られる。

関ヶ原合戦のときには、始め西軍に属していたが東軍に寝返った。しかし所領は削減されている。だが江戸時代に入り、特に元綱三男の稙綱は六人衆(のちの若年寄)に加えられ、最終的には若年寄も務めている。そのため二万石を領する大名となり、幾度かの転封の末、丹波福知山に定着した。


朽木氏系図


【朽木氏の一族・家臣団】

・朽木藤綱【くつき・ふじつな 生没年未詳】
形部少輔・長門守。稙綱庶子。父とともに在京し、足利義輝の御部屋衆となる。義輝暗殺に際して若狭国に落ち延び、その後足利義昭の御部屋衆に復帰。天正四年まで京都での活動がうかがえるという。

・朽木成綱【くつき・しげつな 生没年未詳】
左兵衛尉。稙綱庶子。足利義輝・義昭に仕える。義昭のもとでは「詰衆番衆」となっている。将軍の命を諸氏に伝達する役目も勤め、他に惣領家と将軍家の利害調整にも活動していた事も窺える。元亀二年(1571)以降消息が不明となるが、慶長二年(1597)の故足利義昭の四十九日法要に現れたという。

・朽木輝孝【くつき・てるたか 生没年未詳】
足利義輝の御部屋衆や御内書の副状発給、将軍への申次役を勤めている。義昭のもとでも奉公衆としての活動が伺われ、また近衛家の家礼としての活動もしているという。義昭が織田信長に追放されてからは、藤綱・成綱とともに朽木谷へ戻り惣領家に仕えたらしい。

・朽木宣綱【くつき・のぶつな 1582(天正10)〜1662(寛文2)】
元綱の嫡子。兵部少輔。京極高吉の娘を娶る。元和二年(1616)には徳川家康の太政大臣任官に際し、配膳役を務めた。

・宮川右衛門尉【みやかわ・うえもんのじょう 生没年未詳】
朽木本家の重臣。実名は不詳。京都に在京する朽木氏の庶子からの書状を受け、惣領家に言上している。


【追加分】

2001/4/22追加
・宮川頼忠【みやかわ・よりだた 生没年未詳】
朽木家臣。天文十六(1547)、当主晴綱の代理として田地売券に署名。また前年に下の宮川貞頼・日置貞忠と共に名寄帳に署名している。また、上の宮川右衛門尉との関係は不明。

・宮川貞頼【みやかわ・さだより 生没年未詳】
朽木氏家臣。上の宮川氏との関係は不明。あるいは貞頼の「頼」は宮川頼忠に与えたか。そうだとすれば貞頼の方が本家筋に当たると考えられるが詳細は不明。

・日置貞忠【ひおき・さだただ 生没年未詳】
朽木氏家臣。天文十五年の文書に署名。詳しいことは分かっていない。


【参考文献】

西島太郎「室町中・後期における近江朽木氏の系譜と動向」(『日本歴史』591、1997)
同「中・近世移行期における近江朽木氏の動向−国人領主から旗本・大名へ−」(『年報中世史研究』24、1999)
藤田達生「室町末・戦国初期にみる在地領主制の達成−近江国朽木氏」(同『日本中・近世移行期の地域構造』第二章、 校倉書房、2000)
『戦国大名系譜人名辞典 西国編』(新人物往来社、1986)


 HOMEへ / 武将列伝indexへ