Making of 安東氏

 二回目は安東氏です。安東氏は家臣団がさっぱり分かりません。通称が多くなってしまったのはこのためです。今回は通史編は使えず、いくつかの史料編で作成しました。

一番参照したのは「湊・檜山両家合戦覚書」という、山形県史・本荘市史等といろいろな所に入っている資料です。これは一般に安東実季が晩年に筆記させたと言われている資料で、その中に武将が出てきます。たとえば戸沢氏の領地を侵犯した時の記述ですが、「戸澤ト秋田ト合戦数度ニ及、此時ノ侍大将賀成播磨、鎌田河内武威ヲ振ルト云々」という感じで出てきます。これによって4人を載せました。
しかしこれでは説明文の書き様が無いのでもしかしたら、と思い『三春町史』(秋田氏が最後に転封されて定着した地)の資料編を見てみると家臣の家系覚書がありました。が、没年は書いておらず、事跡は1行か2行程度でした。

そんな中、安東氏の家臣団を作成したわけです。人数・説明とも少ないですがご了承ください。
ちょうどPUKで「五十目秀兼」という人物が出てくるので人数的には丁度いいと思います。

さて、安東家家臣の年齢推定です。

・大高筑前…下の子供から比定し、1520〜30年頃の誕生と推定。
・大高胡斎…天正十五年当時、三十代前半と推定。
・嘉成重盛…秋田氏常陸移封後も生存している様なので1550〜60年頃誕生と推定。
・鎌田河内…愛季〜実季期に活躍と考え、天正末期に五十代前半と推定。
・竹鼻伊予…天正期にはすでに入道していたようなので天正半ばに五十代と推定。

ちなみに、「湊・檜山両家合戦覚書」に「フニ内平右衛門」という人物が登場し、大高・賀成よりも格が上で宿老である、と書いてあったのですが、「フニ内」がどういう漢字なのか分からなかったので載せるのを断念しました。

現状ではこのように参考にするものなどがあまりないため、奥羽地方の中心的領主だったにもかかわらず家臣団についてがわかりません。しかし将来、「秋田県史」などが出ればこの問題は解決されるでしょう。

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