Making of 大宝寺氏

皆様、「烈風伝」は楽しんでいらっしゃいますか。いろいろ批判もあり、私もいろいろ言いたいことはありますが、「新武将作成」ができるということだけで私は充分(?)です。

さて、今回は大宝寺氏です。「天翔記」ではじめて登場した大名です。あれだけ武将が登場したものの家臣が存在せず、今回も当然のことながら独立勢力化してしまったので家臣はいません。しかし、上杉氏との関係で若干家臣らしき人物が現れることを知っていたため、少し調べただけでそこそこの人物が判明しました。

土佐林氏は老臣の家といわれているので当然採用しました。ただ、同等の勢力を誇っていた家を家臣化して、老臣として外交などに当たらせているので、大宝寺氏の家臣団構成はかなり貧弱だったことが予想されます。しかし、歴史を調べているとなかなかの勢力だったことが伺え、歴史が少し違えば最上氏のほうが滅亡・弱体化していた可能性もあったのではないかと思われます。(大宝寺氏などをただ単に「弱小大名」と呼びますが、歴史の結果であって、その当時を丹念に見れば、上手くいけばその地域を支配下にできたのではないかと調べていて感じました。最終的にはいろいろ政治体制の不備が露呈して滅亡してしまうのですが。)

大宝寺義増については、『鶴岡市史』の系図には掲載されていないにも関わらず、「晴時の子」や「義氏の父」となっているので良く分かりません。ただ、義増の時代に上杉氏に臣従することになり、子供の「満千代」を春日山城に在府させることなどが決められたということで、この「満千代」を義氏で「あろう」と推測しているのみなので、「義氏」が別人で別系統であることも考えられます。

また、他の国人として大川氏や来次氏などが見えますが、独立傾向が強いようなので本文には載せませんでした。庶流の砂越氏も同様です。

さて、義氏が「悪屋形」と呼ばれた、との話がありますが、この「屋形号」を与えたのは織田信長です。大宝寺氏は中央と繋がりを持とうとしていたわけです。事実、そういう点には気を使っていたようで、晴時は上洛して「左京大夫」の官職を得ています。そのような中央の情勢に影響されたためか、国内の政治体制の確立を急いだようで、国人領主を「国人領主」の自覚があるうちに強引に家臣団に編成しようとしたのが滅亡の要因でしょう。織田信長が本能寺に討たれたちょうど翌年の六月に義氏は側近に城を囲まれ自害しました。前森氏永を合戦に赴かせたところ、急に引き返し尾浦城を急襲したと伝えられます。

さて、家臣団の年齢推定です。

・土佐林禅棟…死亡時、六十代後半と推定。
・土佐林氏頼…死亡時、四十代と推定。
・東禅寺氏永…謀叛当時(1583)、三十代後半から四十代前半と推定。
・東禅寺勝正…兄、氏永より五歳前後年下と推定。
・米沢秀久…天文十年当時、三十代前半と推定。
・高坂中務…死亡当時、六十代後半から七十代前半と推定。

「烈風伝」では、本城を持っていないと「独立勢力」とみなされるようで、大宝寺氏はプレイできないのですが、あくまでも「歴史のリアルさ」を追及する方はご利用ください。

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