Making of 本間氏


苦しいときの「Making〜」、今回は「番外編」に登場した佐渡本間(羽茂)氏を取り上げます。
まず、本間氏と聞いて「本間様には及びもせぬが、せめて成りたや殿様に」と謡われた山形酒田の本間氏(本間美術館や本間氏旧本邸で有名)を連想される方もいらっしゃると思いますが、この本間氏とはおそらく流れは一緒でしょうが、戦国期には関係はなかったようです。酒田本間氏は大宝寺氏に仕え、その時代のいつ頃からか酒田に住んで商人となったようです。

さて、本題に入りまして、佐渡の本間氏については、戦国末期、上杉景勝の佐渡攻略前後の状況は分かるのですが、上杉謙信の時期の動静については明らかではありません。島内部での抗争がそれだけ激しかったのでしょうか?『新潟県史』の資料編でみても、佐渡島の戦国期文書の残存状況は惨憺たるものです。三分の一くらいが「検討の余地あり。(ひどい場合は「明らかに江戸期の筆跡である」)」という記述によって、怪しい物であるということが指摘されていました。はっきり当時の物であるとされているのは本編でも触れた天文二十一年の文書とその他数えるほどのようです。

このような状況なので、記録物を繙くしかなかったのですが、羽茂本間氏当主はほぼ記述に統一性はあるものの、家老の人々の錯綜が甚だしい有様です。以下、家老の名前を見てみましょう。

まず、「佐渡風土記」では「蟹才蔵仲成」「林主計勝憲」の二人(実在した羽茂本間氏の家老は海老名、それが蟹とあるのが面白いと思います。この「蟹」は「海老」と勘違いしたもののような気がします。しかも読みは「かにさいぞう」。可児才蔵となにか関連づけようとしたのでしょうか。)

「佐渡古実記略記」では「白井勘兵衛義延」「井田治部左衛門尋直」「南条民部隆景」「山口式部光行」「小泊新七元道」「柳生与右衛門則連」の六人。

「本間縁起」では「井田監物」「海老名弾正・新蔵」「藤井勘解由」「田中勘七」「羽生帯刀」の六人を載せています。しかし「四字名」(四天王の意味か)という家老を務めた家の名字が「佐渡古事記」というものにはあり、「白井・尾方・計良(けら、と読むのでしょうか)・糟谷」の四家といいます。

このように、一致する人名というのは、ほぼいません。この中には家老というよりも、在地の武士も含まれていると考えられます。

一方で江戸初期の史料では「本間対馬守家老海老名弾正忠子孫(中略)同人家老藤井勘解由子孫」とあり、少なくとも海老名氏・藤井氏が羽茂本間氏の上層家臣であったことはほぼ間違いないでしょう。とくに海老名弾正はかなり有名な家臣だったらしく、本間高貞が上杉景勝に攻められて落城の時に、自害しようとしたのをとどめ、逃げることを勧めたともされていますし、羽茂城の跡に名前が残ってもいます。そういうわけで是非とも海老名弾正の諱が知りたかったのですが、力及びませんでした。(一時海老名弾正が「真国」とあるのでかなり喜んだのですが、応永頃の人物でした。)

ちなみに本編に記した井田尋直については「羽茂村誌」の古老談として記してあるそうです。諱が分かる数少ない人物なので実在についてはやや怪しげな所もありましたが掲載しました。

本編は、系図も省略し、略史についても不明な点が多く、人物についても戦国末期の人物に集中してしまったのですが、ある程度佐渡の動きは分かっていただけるかと思います。

では、今回はこれにて。

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