Making of 松浦氏

今回も本編と同時更新です。松浦氏は当初、なにも参考になりそうなものがなかったので作成は出来そうもないと思っていました。しかし、大村氏だけではあの辺りには有馬氏も、松浦氏もいたし、そちらの方がむしろ大村氏より有名(だと思う)なので、バランスが悪いと思っていたところ、ふと地元の市立図書館に行ったときに地方史の棚(『○○県の歴史』のような簡単なものが少しある)をみてみると、大いに参考にした『松浦氏と平戸貿易』があり、しかも家臣団の項も独立して多少記述があって、これ幸いと借りてきました。

しかしもともと西日本の戦国史は詳しくなかったので松浦氏も高校の教科書レベルのことくらいしかわからなかったのですが、まさか「宗家の交替」のような大規模な家中の争いが戦国期に行われていたとは夢にも思っていませんでした。そもそも、松浦氏が「一字名」を名乗ることが江戸時代中頃からのことと思っていましたから、「松浦隆信」と二字の名を名乗っていても何ら不思議に思わなかったわけです。

また、鎌倉〜南北朝期の対朝鮮貿易のことは本編でも少し触れましたが、そういう対外交渉を行っていたということは、水軍を利用して、その時期流行った「倭寇」にも参加していた、ということであって、藤原定家の『名月記』の嘉禄二年(1226)の状に松浦党というものが、朝鮮半島の島に上陸して合戦し、半分は死亡したが残りは資材を奪って逃げた、ということが記述されているそうで、ある意味そういう面も持ち合わせていたという事を知りました。まあ、半農半漁の生活だった為でしょうが。

先ほど触れた「一字名」は松浦氏に代々続く習慣のようなもののようですが、庶家も一字名を名乗るところが多かったようです。日高氏や波多氏も松浦の庶流です。しかし、戦国末期に実質宗家となって江戸時代も大名となった松浦平戸氏ですが、江戸中期頃まで「一字名」を名乗りません。これはなぜなんでしょうか。私は「宗家を滅ぼした引け目が消えるまでにおよそ100年を必要とした」ように思うのですが、どうでしょうか。

ちなみに『甲子夜話』を記した松浦清(号静山)も平戸藩主で、鼠小僧と同じ時代に生きた人です。鼠小僧が捕らえられて処刑されたことを記しています。詳しくは氏家幹人『殿様と鼠小僧』(中公新書)をご参照ください。

最後に隆信−鎮信の代について。隆信−鎮信の代が二回あったのをご存じでしょうか?始めは戦国末期の隆信−鎮信の時代で、鎮信の子、久信を挟んで代がリセットされたかのように隆信−鎮信(二人とも別人)が続きます。なので本などでは「法号」で呼ぶことが多いようで、はじめの隆信・鎮信は「道可」・「法印」、次の二代は「宗陽」・「天祥」というそうです。伊達政宗や朝倉孝景も二人存在しますが、「二代続けて」というのは珍しいのではないでしょうか。ちなみに朝倉氏の場合、当時は先代の孝景(分国法を定めたほう)を「英林」と法号で呼んだそうです。やはり「立派な先祖にあやかる」ことが当時は重要視されていたのでしょうか。(逆に早死になどした当主の官職を避けることは江戸時代にはあったようです)

ながくなりましたが、これにて。

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