Making of 三村氏

2000年はじめての「Making〜」ですが、すでに3ヶ月くらい新たな追加を行っていなかったようです。終わらせてしまったつもりはないので、少しずつは更新していこうと思います。

今回は三村氏を取り上げます。三村氏は結構所領が移動していて、常陸国→信濃国→備中国というように、西へ西へと移動しています。信濃国時代は鎌倉時代にあたっているので、長野県の地方史ではこの時代の三村氏を取り上げる方もぼちぼちいらっしゃるようです。

さて、戦国時代の三村氏は大内氏に組して尼子氏と戦い、大内氏に組していた事からでしょうか、自然に毛利氏に組するようになったようです。。滅亡の要因は、毛利氏に離反したことが挙げられるのですが、毛利氏と結んだ時代の当主、三村家親の状況判断は中々のものだと思います。それを伺うことができるのではないか、私が思うことがもう一つあり、「宇喜多氏に暗殺された」ということが個人的には宇喜多氏の切羽詰った状況が伺えるようで、これは宇喜多直家の一流の謀略手腕というよりも、この手段をとらざるを得なかった宇喜多氏の危機感が感じられるような気がします。

【下克上の典型といわれる宇喜多直家ですが、浦上氏のところで参考にした寺尾氏の論文では、直家が浦上宗景についた直後から頭角を現してくるという説を否定しており、宗景の重臣の連署には当初は全く現れておらず、また直家が滅ぼして支配下に入れたとされている松田氏の所領には浦上宗景の代官衆が派遣されていた事が明らかになっています。さらに浦上氏の天神山城の落城時期の考察から、浦上氏が没落したのは宇喜多氏によるものではなく、織田氏などと結んだ浦上氏に対する、信長の越前出兵の隙を突いた毛利氏の備中平定であるということです。そもそも浦上宗景自体が兄、政宗や赤松氏から独立して一勢力を築いているので、ある意味で「下克上」を成した人物の一人と言えるでしょう。】 

さて、話を元に戻して、三村家親の暗殺についてみてみます。彼は永禄9年(1566)に鉄砲で暗殺されたのですが、『岡山県史』では杉谷善住坊が元亀元年(1570)、織田信長を狙撃しようとした例をあげて、それより4年も前に鉄砲を使って暗殺が行われた事を「要人狙撃事件としても大変早い事例」と述べています。

この三村家親を鉄砲で撃った人物ですが、ご存じの方もいらっしゃると思いますが、遠藤又次郎・喜三郎の兄弟です。又次郎は「浮田」姓を与えられて「浮田河内守」と名乗っています。彼らは遠藤氏の三男・四男で諱はそれぞれ「家久」「宗慶」。家久の「家」は直家の片諱とのことです。兄たちも宇喜多氏に仕えて城代などを歴任しています。遠藤氏はもともと遠江国出身。家久の曽祖父の代に美作国に移住してきたという事です。

その後の遠藤家の足跡はなかなか複雑です。宇喜多氏に仕えつづけて関ヶ原で宇喜多氏が改易されたため浪人するも、家久の嫡男が幸運にも300石で池田忠雄に召し出されます。(ただし、遠藤家の伝承では、宇喜多家の家臣の子孫ということで、まずは医師という名目で召し出されたそうです。)しかしその後、池田家の当主の幼少相続のために、鳥取池田家と岡山池田家が入れ替わるという出来事で父祖の地を離れ、鳥取に移ることになりました。

ちなみにこの時岡山に移ってきたのが池田光政で、名君として知られ、また「国主は一国の人民を上様(将軍)より預かり奉る」という有名な言葉を残している人物です。

遠藤家は家久の家系がそのまま池田家に仕えて、鳥取に定着して明治維新を迎えました。なぜ又三郎・喜三郎兄弟が暗殺に関わるほどの狙撃技術を身に付けたのは知る由もありませんが、本来このような役目を担う人物は素性が知れない、という印象が強いと思います。しかし首尾良く暗殺を成功させ、宇喜多家に仕えてからその後300年近くの来歴が分かるというのは興味深い気がします。これも戦国という時代の成せる技なのでしょうか。

1発(かは分かりませんが)の弾丸が家の歴史を消し去ったのではなく、きっかけを作った、と言えましょうか。

久しぶりの事とて、かなり無駄に書いてきてしまいました。では今回はこれにて。

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