Making of 佐野氏


久々の追加ですが、今回は本編も追加した佐野氏を取り上げましょう。

戦国シミュレーションゲーム、「信長〜」の最新作(私がやったのは体験版だけなのでそれに基づきます。)では佐野氏には一族の家臣が多く登場し、周辺勢力を併呑して那須、南東北地方まで勢力下に入れる、という芸当をやってのけていたのが印象的ですが、最新作でも一門以外の家臣団は見受けられません。

私も当初は佐野氏家臣団を取り上げることは難しいと思っていましたが、『田沼町史』資料編に当時を本当に反映しているか怪しいものの、家臣団の書き上げが収録されており、しかも実名まで記されているため、取り上げることに決しました。しかしそのまま家臣を載せるのもどうかと思われたので、実際の文書などに出てくる家臣の中で、官途名が一致する家臣を中心に載せています(=つまり、掲載した実名が当時使われていたものかは全く分かりません)。特に山上道牛は、天徳寺宝衍に常に従い、織田・豊臣の使者として関東の諸勢力に対して中央の意向を伝えるなど、重要な役を担っていたことが明らかとなっています。

さて、ここでは佐野氏当主の没年についての現在明らかになっていることを記していきたいと思います。

『寛政重修諸家譜』では以下のようになっています。
・豊綱…永禄二年九月二十五日
・昌綱…天正二年四月八日
・宗綱…天正十三年正月朔日

この中で、昌綱・宗綱の没年について、黒田基樹氏が考察を加えています。

まず、昌綱ですが、(天正五〜七年)四月六日付佐竹賢哲書状(大貫左衛門尉宛)に昌綱の記述があることから、天正二年没ということは否定されると言うことです。この年代比定は佐竹賢哲の花押形からの考察によるものだそうです。また、(年未詳)三月三十日付北条氏政書状(天徳寺宝衍宛)に昌綱死去の事が書かれているため、天正五年から七年の間の三月頃に死去したものと考えられると黒田氏は指摘しています。
(同氏「『下野須賀文書』の紹介と検討」『牛久市史研究』7、1998、のち同氏『戦国期東国の大名と国衆』(岩田書院、2001)に収録)

次に、宗綱ですが、宗綱は長尾顕長との抗争の結果、討死してしまったのですが、天正十三年正月には長尾氏は北条氏と対立関係にあり、佐野氏は長尾氏を支援していたことが判明しており、長尾氏との間に抗争が勃発することはありえず、翌天正十四年正月に討死したと見ることが妥当であろう、と述べています。
(同氏「戦国大名北条氏の館林領支配」『ぐんま史料研究』5、1995、のち同氏『戦国期東国の大名と国衆』(岩田書院、2001)に収録)

黒田氏は関東に関連する文書で無年号のものについて、文書中に記載される関東の情勢から年号比定を積極的に試みていらっしゃいますが、それが佐野氏当主の没年の検討にも大きく生かされているといえるでしょう。

では今回はこれにて。

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