松浦氏

参考:九州地方詳細図(別のウィンドウが開きます)

【松浦氏略史】
松浦氏は嵯峨天皇の皇子で臣籍に下った源融(とおる)の数代後の源綱の子、久を祖とするといい、源融が一字名(諱が一字であること)であったので松浦氏はそれにならい代々一字名を名乗ったとされている。また、鎌倉初期の成立である『平家物語』には前九年の役で敗れ九州に流された安倍宗任が松浦氏の祖と記しているという。

現在ではその事実は確かめようもないのであるが、刀伊の入寇(寛正三年、1019)を撃退した一人として『小右記』に「前肥前介源知」が見えるといい、松浦氏の一族に伝来した文書中に、康和四年(1102)の譲状を記している人物が源久であるので、松浦氏の祖の存在は認められる。そして久はその当時、肥前国の宇野御厨庄の検校職であった。

松浦氏は久から多くの庶流を分出したといわれ、それが「松浦党」と呼ばれる集団を形成したことが知られるが、現在ではそれは「血縁集団」ではなく血縁集団を中心とする「地縁的」なものだったらしいということが言われている。ちなみに「党」は蔑称であり、当時惣領制が全盛であった時代にあって一種の「連合体」を形成し、一族を代表するような有力者が存在しないため、「烏合の衆」的な見方をされて「党」という蔑称をつけて呼ばれたとされる。

平安末期の平氏政権下では松浦氏は平氏に属し、壇ノ浦合戦においても水軍をもって源氏を悩ましたという。しかし鎌倉幕府が成立したのちはその「烏合の衆」ぶりからか処罰されずに多くの御家人を輩出した。

元寇に際してはその矢面に立った北九州の領主であったために多くの戦死者を出したが、二度目の弘安の役では壱岐に出陣して防戦に活躍したという。

南北朝期には一族の多くが北朝方についたが、九州は南朝の勢力が強く、合戦に出陣し多くの犠牲者を出している。そのため、一時南朝方についたりしたが、今川了俊の九州下向に際して北朝方に戻っている。また、鎌倉末期から室町時代にかけて、松浦党は盛んに朝鮮との貿易を行っている。

戦国時代には庶家の平戸氏が惣領家となるが、戦国時代初期には一族の攻撃をうけて当主と子が討死するなどしている。松浦隆信の祖父、弘定(はじめ正)は有馬氏の攻撃を受けて大友氏のもとに身を寄せる状況であったが、隆信の時代になって宗家を滅ぼし、実質的に宗家の地位を手に入れた。豊臣政権とも早くから接触して豊臣大名となり、関ヶ原合戦に際しては本拠で動かず、徳川政権下で平戸6万3000石の大名として幕末まで続いた。

松浦氏系図


【松浦氏の一族・家臣団】

・松浦久信【まつら・ひさのぶ 1571(元亀2)〜1602(慶長7)】
鎮信の嫡男。肥前守。朝鮮にも病で遅れたが出陣している。妻は大村純忠の娘。(受洗名メンシア)。妻が棄教しないので離縁すると脅したが、屈せずに実家から籠を呼ぼうとしたので久信は驚き、脅す事を断念したという。慶長七年、三十二歳で急死。

・松浦親【まつら・ちかし 生没年未詳】
隆信三男。丹後守。松浦親(同名)の養子となる。没年未詳であるが二十一歳で死去という。入嗣先の松浦氏は嫡流にあたり、養父、親は父、政が平戸氏(松浦庶流で隆信らのこと、平戸氏を称したとされる)に討たれた時、幸松丸といって人質とされたが、旧臣によって奪回され「親」と名乗って嫡流を受け継ぎ飯盛城主となる。
 しかし永禄九年(1566)、平戸(松浦)隆信に攻められて降伏し、強制的に隠居させられた上、養子としていた有馬貴純の子の盛を廃嫡されて隆信の三男を養子とさせられ、平戸松浦氏の支配下に組み込まれた。これによって実質宗家となった隆信の家は「平戸」から「松浦」に改称したとされる。

・松浦定【まつら・さだむ 1571(元亀2)〜1593(文禄2)】
丹後守。親の子。朝鮮に出兵し討死した。子孫は幕府旗本となっている。

・籠手田安経【こてだ・やすつね ?〜1581(天正9)】
左衛門尉。隆信の曽祖父、豊久の四男の流れを組む。籠手田(北松浦郡田平町)に住したため籠手田氏を称したという。宣教師の記録では「当国において国王(隆信)に次ぐ重要人物」と評され、一族として中枢にあった。永禄九年の松浦氏嫡流を攻めた折にも総大将となっている。キリスト教に改宗し受洗名ドン・アントニオ。死去は天正八年(1580)ともいわれる。

・籠手田安一【こてだ・やすかず 生没年未詳】
安経の子。受洗名ドン・ジェロニモ。豊臣秀吉の伴天連追放令(天正十五年、1587)に際して、鎮信(隆信嫡子)の教会破壊と十字架撤去の命令に対し、殉教するかマカオへ出国する決意を宣教師に述べ、賞賛されている。のちに家臣を引き連れて長崎に退去した。
 一族は「桑田」に改姓して平戸藩の下級家臣として存続した。明治期に島根・新潟・滋賀県令を歴任した籠手田安定はこの末裔である。
※2002/4/15 加筆

・籠手田安昌【こてだ・やすまさ 生没年未詳】
安経の父。籠手田氏進出のきっかけは松浦興信死去後、隆信擁立反対派を抑え、隆信を家督に推した功績であるという。弘治三年(1557)、子の安経についでキリスト教入信。受洗名ドン・ジェロニモ。

・志佐純元【しさ?・すみもと 生没年未詳】
松浦党の有力庶家。純正の弟で、隆信の娘が嫁いでいた。そのため甥純量と争ったおり、隆信より支援されて永禄六年に勝利、純元は隆信支配下に組み込まれた。

・志佐純高【しさ・すみたか ?〜1592(文禄1)】
純意(純元の子か?)の嫡男。朝鮮出兵で討死。弟で佐川純昌の養子となっていた守純(1580、天正8〜1624、寛永1)は、純高の討死を聞いて朝鮮に渡海した。守純はその後福島正則に仕え、その改易後に松浦氏に帰参、慶長八年(1603)に国老を命ぜられている。
※2002/4/15 加筆

・日高喜【ひだか・このむ? ?〜1592(文禄2)】
甲斐守。岸岳城主(佐賀県相知町)波多氏の家臣であったが波多氏を逐い、壱岐に進出していた波多氏の領地も併呑して代官に波多政を立てた。しかし嫡流の波多氏が有馬・竜造寺氏と連合して岸岳城を攻めたので壱岐に退く。
 元亀二年(1571)、波多氏が宗氏・龍造寺氏と結んで壱岐を攻めたので、日高氏は松浦氏に協力を要請して波多氏らを撃退、勢力化に入った。これより壱岐は松浦氏の支配となった。のち朝鮮に出兵して平壌で討死。家督は石志氏の子が継ぎ、日高玄蕃信喜(?〜1613、慶長18)と称した。その家督は松浦一族の大学が相続し、家老となっている。
※2002/4/15 加筆


【参考文献】

外山幹夫『松浦氏と平戸貿易』 1987
『寛政重修諸家譜』 1980
『松浦党関係諸家系図集』 第二・三集 1981・1982
『三百藩家臣人名事典』7、新人物往来社、1989


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