三村氏

参考:中国地方関係図(別のウインドウが開きます)

【三村氏略史】
三村氏は清和源氏の流れを組み、常陸国新治郡三村郷に住して三村を称したとされる。その後、信濃国の東筑摩郡洗馬郷に所領を得て苗字の地を去った三村氏は、鎌倉時代には備中の成羽地域に移住したという。これはこの周辺の地頭職に補任されたためといわれている。

やがて庶子家を分出させて一族が繁栄、備中国人に成長したという。『太平記』には元弘の乱に際し新見・成合・那須・三村らが後醍醐天皇のもとへ馳せ参じた、と記されているという。その後新田義貞に敗北した後、九州で再起を図って京都へ向かった足利尊氏に三村能実が従ったことが分かっている。

14C末には三村信濃守が成羽荘を横領、続いて水内北荘に勢力を伸ばし、備中の有力国人として台頭した。永正五年(1508)、大内義興の元にいた足利義尹が上洛を企てた時には三村家親の父と思われる備中守宗親が義尹の元へ参じている。その後は大内勢として尼子氏についた国人領主を攻めている事が確認され、天文十二年(1542)の大内義隆の出雲攻めにも三村修理亮が参加している。この修理亮が三村家親という。

天文後期になると、家親は積極的な行動を見せるようになり、毛利氏と結んで備中の統一を目指そうとしたようである。備中の有力国人庄氏の拠る松山城を永禄四年(1561)に攻撃、庄氏を出雲に追いやり、松山城主となっている。備中をほぼ手中に収めた家親は備前に勢力を拡大しようと図るが、備中に勢力を拡大しつつあった宇喜多直家に暗殺された。この暗殺は鉄砲を使用した暗殺のかなり早い事例であるという。

家親死後、家督は元親が継ぐが、翌年の宇喜多氏との合戦で惨敗し、ここから三村氏凋落が始まる。毛利が織田信長との関係で宇喜多氏と結んだ事で、それまで毛利氏に従ってきた三村氏は宿敵の宇喜多直家と結ぶことを拒み、織田陣営に付く事を選択した。そのために毛利氏・宇喜多氏から両面にわたって攻撃を受ける事になり、天正三年(1575)についに滅亡に至った。元親には当時八歳になる勝法師という子がいたが、利発さを恐れた小早川隆景に殺されたという。

三村氏系図

【三村氏の一族・家臣団】

・庄元祐【しょう・もとすけ ?〜1567?(永禄10?)】
家親の長男。庄氏一門の穂田実近の養子に送り込み、猿掛城を奪ったという。父暗殺後、弟である当主元親の宇喜多攻めに参加して討死(名禅寺崩れ)したとも、元亀二年に宇喜多勢と戦って戦死したともある。

・三村実親【みむら・さねちか 1556(弘治2)〜1575(天正3)】
家親の二男。上田家実の養子となる。鬼身山城主(総社市)。養父家実らに内通されたため、城兵の助命を求めて切腹した。二十歳であったという。

・三村元範【みむら・もとのり ?〜1575(天正3)】
宮内少輔。家親三男で楪城主となる。毛利氏に攻められ、松山城に撤退中に宍戸勢に攻められて討死。頸は三村側の戦意喪失を目的として二男実親の拠る鬼身山城に送られたという。

・三村政親【みむら・まさちか ?〜1575(天正3)】

家親の弟。右京亮を称す。備中国吉城主。毛利氏に攻められて落城し甥元親の拠る松山城に合流、松山落城で討死。

・三村五郎兵衛【みむら・ごろうびょうえ ?〜1563(永禄6)】
三村一門。実名は不詳。当主家親が宇喜多直家によって暗殺されたため弔い合戦を主張し、宿老三村親成(家親の弟)の反対を押し切って城攻めを強行。討死した。

・三村親宣【みむら・ちかのぶ 生没年未詳】
親成の嫡男。父親成が三村家の毛利氏離反(宇喜多氏が毛利陣営に参じたため)を強硬に反対したため元親に討伐されそうになり、共に毛利家を頼って落ち延びた。三村氏滅亡後、毛利氏により父親成は鶴首城主に復帰した。

・楢崎元兼【ならさき・もとかね 生没年未詳】
月田城主。家親の娘を妻としている。毛利氏を離反する事には三村親成と共に反対し、毛利側に付く。毛利の後詰として宇喜多直家が出陣すると城に軍兵を迎え入れた。

・明石俊重【あかし・とししげ 生没年未詳】
兵部大輔。三村氏の譜代の臣という。援軍として鬼身山城に派遣されていたが上田家実とともに毛利氏に内通。戦後兵部大輔を与えられている。


【参考文献】

『岡山県史』第五巻 中世 1991
『総社市史 通史編』 1998


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