「無名武将列伝」番外編−神仏に仕えた戦国領主ー
宗像氏(の一族・家臣)


【宗像氏関係地図】


※元の地図は「白い地図工房」様による。
※白山城は宗像氏が蔦岳城に移る(永禄五、1562)前の居城。

【宗像氏略史】

宗像氏は古代豪族胸肩君を祖としている。胸肩君は天照大神の三人の姫神を沖津宮(田心姫神−たごりひめかみ)・中津宮(湍津姫神−たぎつひめかみ−)・辺津宮(市杵島姫神−いちきしまひめかみ−)の三社に祭る司祭者であり、この海域の先、朝鮮半島への航路の権力も握っていた。

宗像氏は和銅二年(709)年には既に「宗形朝臣等抒」という人物が見え、天慶八年(945)に宮司職、天元二年(979)には大宮司職が認められ、宗形氏能が補任された。大宮司職は八代まで何事もなく相続されたが、九代に八代大宮司氏助の弟、氏季が就任してから大宮司の系譜が複雑となり、何度となく繰り返される大宮司職を巡る一族の争いの基となっている。長承二年(1133)にはその争いで宗像社が焼けている。

天養元年(1144)には氏助一族氏平と氏季の孫、氏信が合戦し、氏信が宗像社を後鳥羽上皇に寄進、大宮司職を安堵されたことにより合戦を終結させ、その後氏信の系統が嫡流となる基を築いた。子氏実は鎌倉幕府御家人となって嫡流の地位をさらに上昇させ、その子氏国は大宮司職相伝の前例を作ったといえる。すなわち、まず嫡男である氏昌には神事権のみを譲与し、社領支配権の譲与は大宮司死去に際して行う、という二つの段階を踏んだのである。これは氏国の上洛に伴う一時的措置(帰国すると再び全権は氏国に戻った)であったが、これ以後は宗像大宮司家当主交代に際してはこのような段階が踏まれるようになった。

鎌倉時代以後も、宗像氏は強固な支配体制を守るために、鎌倉幕府滅亡に際しては後醍醐天皇の綸旨を得て本領安堵を引き出し、足利尊氏が九州に落ち延びてきたときには尊氏・直義兄弟討伐の綸旨が下ったにもかかわらず足利氏を保護して後醍醐天皇方の勢力と戦い、その後も足利方に与して度々知行を与えられた。

ここまで順調に大宮司職が嫡子によって相続されてきたが、応永十年(1403)に幼少の氏経に代わり叔父の氏忠が大宮司職に就こうとして氏経は大内氏を頼ったという事態が起こった。この事件は程なく決着したが、室町末期にかけての大宮司職をめぐる争いの端緒といえるかもしれない。ところで、このことから、当時から宗像氏と大内氏との深い関係が伺え、宗像氏が大内氏の九州経営に協力していることもうかがうことができる。ただし、大内義弘が起こした応永の乱(応永六年、1399)では宗像氏は九州内の大内氏勢力を駆逐する役割を果たした。

戦国期には、宗像大宮司家の家督は大内氏によって安堵された。このつながりから、黒川隆尚(宗像正氏)・黒川隆像(宗像氏男)にみられるように、宗像氏の当主は山口に出仕することがあった。しかし一方で、大宮司職をめぐる一族の争いが頻発したのもこのころであり、興氏が叔父氏佐と交互に大宮司職を勤めたことや、正氏・氏続の大宮司職が大内氏の裁定で決着したこと、また正氏の子、氏貞が正氏の養子で義兄にあたる氏男の死後、千代松丸という嫡男がいたにも関わらず宗像へ強行入部し、反対派勢力を駆逐するなどの事態がみられた。

氏貞の代には、大内義隆変死後も一貫して大内氏に付き、陶晴賢が敗死した厳島合戦にも陶方に重臣を派遣するなどしている。しかし晴賢の戦死後は大内氏の九州内の領地に対して支配権をのばし、また毛利氏に通じて秋月氏を攻めたりしている。だが、この後、大友氏の勢力の宗像氏領内への侵攻や、大友氏と毛利氏の対立の発生などで永禄二年(1559)には本領の宗像を逃れて大島に移る事態となった。翌年には宗像に戻っているが、宗像氏の危機といってよいであろう。

こののち、氏貞は宗像周辺にさらに勢力を伸ばしたが、天正十四年(1586)三月、子のないまま四十二歳で死去し、さらに豊臣秀吉によって社領が没収されてしまう。ほどなく当地に入部した小早川隆景によって寺領が寄進されるが、その死去によって再び失われたため、この状況下で多くの社人が離散した。幸い慶長十一年(1606)、黒田長政によって五十石が寄進されたため宗像社は存続したが、以前の勢力を回復するには及ばず、元禄七年(1694)の嶺氏春の願書に拠れば、「惣て宗像の社人、ただ今は神職と申す名ばかりにて、百姓にてござ候」と述べるほどであった。

ちなみに、氏貞直系には三人の女子がおり、長女と次女が草刈重継に嫁ぎ、三女も市川与七郎(毛利輝元家臣)に嫁いた。このため、氏貞正室が宗像から離れたため、宗像氏の直系は宗像には残らず、一族である深田氏の家系が祭祀を行って存続した。だが、大宮司職が復活したのは氏貞死去より百年以上経った元禄十一年(1698)であった。

宗像氏系図(戦国時代を中心として)

【人物一覧】

・宗像氏続【むなかた・うじつぐ ?〜1553(天文22)】
正氏の兄。民部少輔。正氏と大宮司職をめぐり争う。大内義隆の裁定で、正氏が黒川隆尚と改名して山口に出仕することで大宮司職に就いた。正氏は天文十六年(1547)閏七月の死去以前に氏続の子氏男を養子として正氏と氏続の跡を継がせた。
 しかし天文二十年(1551)、大内義隆が自害し、当時宗像氏の家督であり、山口に出仕して黒川隆像と名乗っていた氏男がそれに殉じたため宗像氏内部で家督相続の争いが再燃した。正氏の子、氏貞が陶晴賢の支援を受けて筑前下向を強行し、反氏貞派を一掃したため子の千代松丸と共に豊前の彦山に逃れる。しかし、甥の土橋氏康(のちに氏貞に殺害)に殺害された。

・宗像氏男【むなかた・うじお ?〜1551(天文20)】
氏続の子。大内氏の裁定で、正氏が養子として迎える事になった。のち黒川隆像と名乗り、山口に出仕。陶晴賢が謀叛を起こしたとき、大内義隆とともに自害した。

・宗像宗繁【むなかた・むねしげ 1469(文明1)〜1574(元亀2)】
兵部大輔。宗像社大宮司職。天文二十年に任命。折しも氏貞系と氏男系の争いのさなか就任した。宗繁自身はどちらの派閥に属していたか、あるいは中立派であったかは不明。おそらく実権はそれほど強くなかったであろうと桑田氏は述べている。百六歳で往生という。

・宗像鎮氏【むなかた・しげうじ 生没年未詳】
宗像一門と考えられる。永禄二年に大友氏の全面的な加勢を受けて宗像氏の本領を攻略した。「鎮」は大友宗麟(義鎮)の一字を与えられたと考えられるという。宗像氏貞の本領奪還後の動向は明らかでない。天文元年(1532)にも大友義鑑に属し、大内氏家臣の河津隆業を攻めて敗死している宗像氏延が存在することから、他家に属し宗像氏の本家と対立していた一門があったと考えられるという。

・深田氏俊【ふかだ・うじとし 生没年未詳】 
宗像正氏の弟。宗像氏一門として重要な位置を占めた。永禄三年三月の宗像氏貞の本領奪還における許斐要害攻略に参加している。永禄四年(1561)頃に病によって子氏実に家督を譲った。

・深田氏栄【ふかだ・うじひで 1558(永禄1)〜1635(寛永12)】
氏実の子。中務大輔。擬大宮司職(大宮司職に次ぐ職)を相続。宗像氏貞の死後、大宮司職が絶えたので事実上の宗像社の長として宗像社の領知没収に遭遇し、その再興に力を尽した。

・嶺氏兼【みね(の?)・うじかね 1522(大永2)〜1590(天正18)】
土佐守。正氏の実父氏国(氏佐)の弟であるという。宗像氏の一門として勢力を持っていた。武勇の人であったという。宗像社の神官。

・嶺氏慮【みね(の?)・うじのぶ 生没年未詳】
氏兼との関係は不明。永禄三年六月、一時宗像から大島に逃れた氏貞に従ったとして感状を発給されている。

許斐氏鏡【このみ・うじあき? 生没年未詳】 
安芸守・宮内少輔。宗像氏一門で、二十四代大宮司氏俊の甥、氏元が祖であると伝える。宗像氏の詰城である大島に占部貞保・吉田貞勝と共に遣わされて守備を勤めた。

許斐氏任【このみ・うじとう 生没年未詳】
左馬頭・三河守。氏鏡の兄にあたる。弘治から永禄にかけて重臣連署状に名がある。永禄三年の許斐要害攻略に加わっている。「宗像記」に拠れば弘治三年(1557)十月に許斐一族で謀反を起こして討伐されたというが、前記の事実から誤りであろう。

・許斐氏備【このみ・うじとも? 生没年未詳】
左馬亮・左馬頭。氏任の子。弘治年間と天正中期に重臣連署状に署名。また天正七年の秋月氏重臣起請文の宛名の一人がこの氏備であった。

・吉田良喜【よしだ・りょうき 生没年未詳】

宗像氏の重臣。良喜は入道名。正氏・氏貞に仕えた。天文末から永禄期にかけて連署状に現れる。

・吉田重致【よしだ・しげむね? 生没年未詳】
氏貞の重臣であり、また宗像社の神官。弾正忠と伯耆守を称した。永禄期から天正期にかけ活動が知られる。庶流であったが、天文二十一年の宗像氏貞の家督継承における争いで、宗像氏続についた嫡流が誅伐されたので、重致が惣領家となった。しかしこれには一門の吉田守致や秀時などが服せず、大内氏の下知によって決着したという。

・吉田宗栄【よしだ・そうえい ?〜1552(天文21)】
佐渡入道。吉田氏嫡流であったが、氏続の子、千代松丸の擁立を企てたため宗像氏貞の討伐を受け、子の内蔵允らと共に滅亡した。

・吉田秀時【よしだ・ひでとき 生没年未詳】
和泉守。宗像氏重臣。永禄三年の許斐要害攻略に参加。弘治から元亀年間の連署への署名がみられる。子の秀辰は天正三年に父が保持していた内浦郷(宗像郡と遠賀郡を結ぶ交通の要衝)と白浜郷の代官職を安堵されている。

・国分直頼【こくぶ・なおより 生没年未詳】
若狭守。正氏時代からの家臣で弘治年間頃までの活躍が知られる。出自は不明である。

・寺内尚秀【てらうち・なおひで 生没年未詳】
氏貞の父、正氏の代から活躍している重臣。実名の「尚」は正氏(黒川隆尚)の一字であると考えられよう。

・寺内秀郷【てらうち・ひでさと 生没年未詳)】
上の尚秀との関係は不明。尚秀と同時期に活動しており、吉田宗栄を討ち、また氏続の子、千代松丸を殺害したという。氏貞の守役であり、氏貞成長後に家臣団の中で重要な位置を占めたと考えられるという。子の貞秀は宗像氏家臣中で名家と言われた大和家を継いだ。

・占部尚安【うらべ・なおやす 生没年未詳】
宗像正氏時代より仕えている重臣。天文七年(1538)には隆尚から加増されている。陶晴賢が敗れて滅亡した厳島合戦に子の尚持と共に宗像氏から派遣された。永禄三年、許斐要害の攻略前に出城を建設し、宗像氏の本領復帰に尽力した。

・占部尚持【うらべ・なおもち 1496?(明応5?)・1527?(大永7?)〜1560(永禄3)】
尚安の子。しばしば父尚安に従い行動している。永禄三年三月の許斐要害攻略に参加したが、同年八月に合戦で討死した。六十五歳とも三十四歳ともされるが、子の貞保の年齢を考えると、大永七年生まれが妥当ではなかろうか。

・占部貞保【うらべ・さだやす 1548(天文17)〜1632(寛永9)】
尚持の子。永禄八年十二月に元服、氏貞の一字「貞」を与えられた。許斐氏鏡の項で記したように、大島の守備を命じられている。

河津隆家【かわづ・たかいえ ?〜1570(元亀1)】
旧大内氏家臣。西郷に居住して代官を兼ねていたが、大内氏滅亡で宗像氏が同地に勢力を伸ばしてきたので勢力下に入る。
 西郷の旧大内氏家臣は河津氏を中心とした「衆」として認識されていた。毛利氏に通じていた宗像氏が大友氏に攻められ、和睦するときの条件のひとつとして殺害された。嫡子は河津氏が宗像氏家臣となった時から出仕していたが、この一件で名を改め、宗像一門に列せられたという(晴気氏澄)。

・米多比正兼【よねたび?・まさかね 生没年未詳】
元大内氏家臣。同氏は大友氏家臣の立花道雪に属した一族と宗像氏に属す一族に分かれて存続したが、正兼の一族は室町時代に宗像氏と契約状を交わしている間柄であった。元亀年間には宗像氏重臣として連署状に署名するまでに取り立てられた。

・瓜生益定【うりう?・ますさだ 生没年未詳】
やや同盟者的な立場から家臣へと移り変わったと思われる。永禄三年、遠賀郡山田郷代官職を与えられた。大友氏の宗像氏領侵攻で氏貞が大島に逃れたときに他の宗像氏重臣と共に従っている。


【参考文献】

桑田和明「戦国時代における宗像氏の家臣構成について」(『福岡県地域史研究』15、1998)
同「「新撰宗像記考證」について」(『同上』10、1992)
同「中世末期北九州における戦乱の一考察−宗像氏貞の渡海、在島、所領回復−」(『同上』17、1999)
同「室町・戦国時代における筑前宗像氏の動向−大内氏との関係を中心に−」(『九州史学』96、1989)
同「大内義隆の滅亡と筑前宗像氏−大内義長・陶晴賢との関係を中心に−」(『同上』105、1992)
同「戦国時代における筑前国宗像氏貞の遠賀郡進出と支配」(『地方史研究』278、1999)
同「戦国時代における筑前国宗像氏発給文書の一考察−官途状・官途吹挙状・加冠状を中心に−」(『駒沢史学』55、2000)
宗像神社復興既成会『宗像神社史』下巻(1966)・附巻(1971)
中村正夫編・校訂『宗像郡地誌綜覧』(文献出版、1997)
『室町幕府守護職家事典』下巻(新人物往来社、1988)


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