村上氏


参考:中部地方詳細図(別のウィンドウが開きます)

【村上氏略史】

村上氏は源頼義の弟、頼清の流れを組むとされている。頼清の孫の盛清は、長兄で白河上皇に仕えていた惟清の養子となっていたが、嘉保元年(1094)、惟清が罪を得て伊豆国に流されたときに、信濃国更級郡村上郷に配流されて、その子為国が地名をとって「村上」と称し、村上氏の祖となったという。

為国は、保元元年(1156)に勃発した保元の乱で崇徳上皇側につき、子の基国もそれに従った(小林計一郎氏は基国は藤原忠通(後白河天皇側、崇徳上皇と対立)の判官代であったので不審とする)。乱は後白河天皇側の勝利に終わったが、為国の妻が後白河天皇の寵臣、藤原通憲(信西)の娘だったことで赦免を受け、平治の乱(平治元年、1159)では信西側(清盛側)についたと考えられている。

治承四年(1180)、木曽義仲が挙兵すると、為国の長男である信国は義仲に従って入京したが、後白河法皇と義仲の関係が悪化するといち早く法皇側につき、寿永二年(1183)に義仲が後白河法皇を攻撃した際に法皇側について奮戦、さらに源義経に従い一ノ谷で戦ったという。しかしそれ以降、鎌倉幕府政権では御家人となった一族も確認されるが、あまり活動を伺うことできないという。むしろ京都に在京していた御家人として職を全うしたのではないかと考えられている。

時は下って鎌倉末期、村上義光(日)と義隆父子は後醍醐天皇の挙兵を鎮圧するために出陣した北条氏と戦い、天皇の子、護良親王を逃すために討死した。幕府滅亡後に起きた北条時行による中先代の乱(建武二年、1335)には信貞が「信濃惣大将」を命じられて京都より発行、北条方鎮圧を目的として国内各地を転戦した。さらに足利尊氏が後醍醐天皇に謀反を起こすと足利に与し、越前金ヶ崎城に向かって新田義貞と戦った。この頃、村上氏は信濃国守護小笠原氏と同等の勢力をもっていたが、これ以後に室町幕府が守護支配を強化するに従って「信濃惣大将」としての地位が微妙なものとなっていったという。

至徳四年(1387)、信濃国守護が管領斯波義将の弟、義種となると、村上師国ら国人は連合して反抗、幕府は義将を守護に替え、守護代に二宮氏泰を下向させた。師国らは二宮氏も逐っている。しかし義将がしばらく守護となっており、何らかの政治的解決が図られたものであろうという。次いで応永六年(1399)、斯波氏に代わって小笠原長秀になると小笠原氏はその歴史的経緯から村上氏を対等に遇したものの、国人の所領を押領するなどしたため村上満信らが連合して挙兵、長秀は京都に退き守護を解任され、斯波氏を経て信濃国は幕府領国となって代官が入部するが、これにも村上氏らは反抗した。のち足利持氏が足利義教に反抗して討伐された永享の乱(永享十〜十一年、1438〜9)以前に村上氏は持氏に通じて幕府方の小笠原氏と合戦する状態にあったが、持氏討伐を前にした永享九年に足利義教に降伏している。

政清の時代には、満信の系統から宗家が移ったとされる。応永二年(1468)頃、村上氏は更級郡村上郷から埴科郡坂城(木)郷に拠点を移したという。そしてこのころ、海野氏を破って海野の地を知行するなど、北信濃において勢力を広げていった。政清の子政国、孫顕国の事績は明らかとなっていないが、村上氏はこの時期に勢力を大きくしていったのだと考えられるという。

政清の曾孫に当たる義清も当初は勢力拡大を続け、武田信虎と連合して海野・根津・真田・矢沢の諸氏を信濃から逐うなどして上田東部一帯までを手に入れたが、信虎が嫡子である晴信(信玄)に逐われて信玄が家督相続すると信濃侵攻を開始、上田原合戦・砥石城の戦い(砥石崩れ)など二度まで信玄を退けたが、一族・家臣の切り崩しにあってついに天文二十二年(1553)、越後へ逃れることとなった。越後では義清の子、国清(景国)が上杉氏一門の山浦氏の名跡を与えられて一門に列するなどし、本能寺の変後、海津城代となるが失政で解任、完全に上杉氏の家臣化して会津転封に従った。

国清はその後の消息が明らかでなく、村上氏がどうなったかはよく分からないが、小林計一郎氏の研究に拠ってまとめたい。村上義清の系統を称した家は二つあるという。一つは水戸藩士村上氏、もう一つは信濃に住んだ浪人の村上氏である。

浪人の村上氏の祖、景国は国清の子供であったが、国清が死んだときに幼少であったために国清の養子となっていた高国(後述、水戸藩士村上氏)の後見を受けるが、高国が家督につこうとして景国を殺害しようとしたので母と共に出奔、各地を放浪して三河に着き、本多忠勝に預けられて本多忠清と名乗ったという。しかし忠勝と共に上洛したとき、人を殺害したために逐電、しばらく隠れていたが再び忠勝に預けられ、のち真田信之に預けられて中風で死去(寛永十三年、1636)したという。その子義豊は父の死後、その遺言で母と共に真田家を立ち退き、武蔵川越、江戸へ出て松平信綱に頼って家名再興運動をしたが、信綱の死で願い叶わず、そのころ迎えにきた旧臣らに伴われて信濃に戻り、旧臣らに養われて川中島に居住したという。この義豊は「村上家伝」を作成して信濃東部・北部に頒布した。明治にも再びこの村上氏は家名再興を運動し、華族への取り立てを嘆願したという。

水戸藩士村上氏は国清の養子、高国に始まるという。国清に子供が居なかったので(景国は晩年の子という)、妹が嫁いでいた会田清幸の子、高国を養子としたのだという。高国は関ヶ原合戦の後、上杉氏が米沢へ減転封された時にも従ったが、のち大坂に向かって豊臣秀頼に与し、大坂の陣のあとはしばらく伏見に潜伏、そのあと旧臣に招かれて信濃へ行き、娘が水戸藩に仕えた縁で水戸藩士となった。子孫が一時五百石を給せられるまでになるが、十八世紀末に罪を得て断絶、子が特に二百石を与えられて再興を許され、幕末まで続いた。幕末の当主、道雪(節)は和歌・画をよくしたという。

村上氏系図

【村上氏の一族・家臣団】

・村上義兼【むらかみ・よしかね ?〜1534(天文3)】
水戸藩士村上氏の「村上家系図」によれば、義清の同母兄という。嫡男はいた(義房)が幼少であったため、弟である義清が家督を継ぐことになったとする。

・村上義房【むらかみ・よしふさ 生没年未詳】
義兼の嫡男で、父の義兼死後、義房が幼少のため叔父義清が家督を継いだという。義清の娘を妻とした。しかし義清の家督も弟にあたる国清が相続し、活動は全く伺えない。あるいは国清の家督相続が決定する前に死去したものであろうか。

・村上高国【むらかみ・たかくに 1571(元亀2)〜1659(万治2)】
兵部大輔。村上国清の養子。村上義清の娘が会田清幸に嫁いで生んだ子という。上杉氏の米沢移封後に大坂に行って豊臣秀頼に属し、大坂落城後は京都に潜んで剃髪、「兵部入道道楽斎」と号したという。旧臣の招きで信濃に行っている間に娘が徳川頼房に仕え、その縁で水戸藩に出仕、三百石を給されたという。

・屋代正(政)国【やしろ・まさくに 生没年未詳】
越中守・左衛門尉。永正年中(1534〜1520)村上顕国に仕えた正重の子。初め村上義清に属し、のち武田氏に仕える。妻は村上義清の娘。

・屋代正長【やしろ・まさなが ?〜1575(天正3)】

政国の養子。実は政国弟、室賀勝永の二男。長篠合戦で討死する。のち勝永の四男、秀正(勝永とも)が屋代氏の家督を継いだ。秀正の子、忠正は徳川忠長の家老となり、忠長自害後は越後高田の松平光長に預けられ、蟄居を命じられるがのち赦免。幕臣に復帰した。

・室賀盛清【むろが・もりきよ ?〜1540(天文9)】
下総守。山城守宗国の子。信俊の父。剃髪して操寿軒と号す。

・室賀信俊【むろが・のぶとし ?〜1575(天正3)】
山城守。盛清の子。はじめ経俊と称し、武田信玄から一字を与えられて信俊に改めたという。屋代正重の二男、勝永(政国の弟)を養子とした。天正元年に長篠城に在城したことが確認される。弟であるらしい室賀経秀(正武とも。治部少輔)の流れは尾張徳川家に仕えたという。

・室賀勝永【むろが・かつなが 生没年未詳】
大和守。満正とも。屋代政国の弟で、室賀信俊の養子となる。二男正長、四男秀正(勝永)を屋代政国の養子とし、五男満俊が室賀氏の家督を継いだ。満俊の養子、正俊(屋代忠正の弟)は徳川家光の男、徳松(徳川綱吉)の家老に附属されて七千三百石までなり、子の正勝のときに綱吉が将軍となって幕臣に復帰、室賀氏は幕末まで五千五百石を領した大身の旗本となっている。

・福沢顕昌【ふくざわ・あきまさ 生没年未詳】
村上氏の塩田荘の代官。修理亮。村上氏一族と考えられるという。天文十三年(1544)六月、伊勢大神宮に所領の一部を寄進している。上田東部の地域を新たに寄進していることから、天文十年に武田信虎らと共に真田氏などを破った結果、この地域を村上氏が新たに手に入れたものと考えられるという。

・清野信秀【きよの・のぶひで ?〜1565(永禄8)】
はじめ清秀。伊勢守。国俊の子。村上家の代官九家の上座にあったという。村上義清に従って越後へ退き、のち信濃に戻った。中沢清季宛の義清書状中(下記【参考】を参照)の「清野伊勢守」はこの信秀と考えられる。清野氏は村上為国に信濃国埴科郡清野の地を与えられて同地に住したことで清野を名乗ったという。

・清野満成【きよの・みつなり 1565(永禄8)〜1629(寛永6)】
越中守。信秀の孫。父に関しては明らかでない。武田信玄・勝頼に仕え、滅亡後は蘆田信蕃の家臣と同じく家康に出仕。のち信蕃の子、松平康真(加藤宗月)に従って上野国藤岡に居住。康真が人を切って高野山に逃れたときにも従って同年の関ヶ原合戦に参加し、のち藤岡に帰って死去した。

・杵渕国季【きねぶち・くにすえ 生没年未詳】
左京亮。杵渕氏は代々村上家に仕えた家という。天文十六年(1547)の村上義清の感状に拠れば武田信玄との戦いで殿を務めたなどとある。しかし、書状中に既に義清が越後へ退いていることを記しており、疑問が残る(義清の越後への撤退は天文二十二年。)。だが水戸藩士村上氏と連絡を取っていた村上氏旧臣に「木根渕土佐守」が見えるため、「杵渕(木根渕)」と称した村上家臣は存在したと考えられる。

・中沢清季【なかざわ・きよすえ 生没年未詳】
『寛政重修諸家譜』では「清秀」とする。杵渕国季の子で初め杵渕大炊介と名乗っていたという。清季より「中沢」に改めた。父は村上義清に従って越後に行ったが、清季は武田氏に従ったらしい。越後へ行くことを願ったようであるが義清より武田氏に仕え続けるように命じられている書状がある(これも天文十五年の物であり、疑問である)。生没年未詳だが、天正十年までの生存は確認される。

・中沢久吉【なかざわ・ひさよし 1546(天文15)〜1620(元和6)】
清季の子。清正ともある。武田氏、その滅亡後は北条氏に仕えて信濃国岩村田城を守る。そののち小田原に母ら人質がいることを省みず、徳川方の蘆田信蕃に内応した。それ以降の動向は不明であるが、子の久次は関ヶ原合戦の時には徳川秀忠に従って上田城を攻め、その後上野国藤岡に知行を与えられて大坂の陣にも従った。

【参考】
(2001年1月17日、「無名庵」への私(くらのすけ)の投稿より抜粋)

出典は
下山治久編・神崎彰利監修『記録御用所本 古文書−近世旗本家伝文書集−上巻』(東京堂出版、2000.9)です。

今回は面倒なので読み下しのみで。
・村上義清書状(中沢彦次郎宛)

「清野伊勢守方まで一書を以て申し越し候趣、尤もに候、然りと雖も、あとあとより宛行候領知に離れ候こと、殊念(残念か)に候間、武田に随い罷り在るべく候、この旨に相背き、この方へ参り候とも、且つ忠義に非ず候、必ず必ずこの方へ参り候こと無用に候、この趣を用いず参り候は永の不忠に候条、この趣に任すべく候段、下野守如何様(いかよう)申し遣わし候とも君命に応ずべく候、そこもと志賀・高坂・内山落城候とも、時節到来に候、委曲勢州申し越すべく候、不備、
(尚々書)
尚々、その地に相留むべく候、この方親左京(彦次郎親)も二心無く奉公候ままこれを懸け候、武田に随うべく候、この表気遣い申すまじく候、源吾(村上国清)も機嫌よく育ち候、心安かるべく候申すべく候、
 天文十五年(1546)
    七月十六日   少将朱印(村上義清)
  中沢彦次郎殿」

【参考文献】

『長野県史』通史編3 1987
信濃史料刊行会編『信濃史料』11 1970
小林計一郎『信濃中世史考』 1982

下山治久編『記録御用所本 古文書−近世旗本家伝文書集−』 2000
『寛政重修諸家譜』4
松平秀治「史料紹介 室賀家史料」(徳川林政史研究所『研究紀要』昭和48年度)


【他サイト情報】
村上氏に関しては、ご子孫と伝える村上雅清様の「信濃村上一族」がお手持ちの系図等を駆使して詳しく解説なさっており、おすすめです。

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