秀康・忠直履歴 2

【出典】
「叢記」=福井県立図書館・福井県郷土誌懇談会編『福井県郷土叢書第七集 国事叢記』(上)、1961
「秀康年譜」=「浄光公年譜」『徳川諸家系譜』四(続群書類従完成会 1992)所収
「忠直年譜」=「西厳公年譜」(同上)
黒田基樹「結城秀康文書の基礎的研究」(『駒沢史学』48、1995)


※「*」「-」の使い方=月の前に(*8/01)のように付けたときは「閏月」を、日付に(08/--)と付けたときは8月日付不詳、としました。

西暦 年号 秀康の事歴 年齢 忠直の事歴 年齢
1601 慶長6 01/--
秀康、宇都宮城在城。
(「秀康年譜」)
01/04
徳川秀忠、秀康より越前拝領につき、御礼の使者として小栗五郎左衛門を遣わした事につき書状を認める。
(「叢記」・『福井県史』資料編3)
この春
秀康、上杉景勝の降伏を受けて伏見に至り、父家康に景勝の赦免を請う。
(「秀康年譜」)
(※
「叢記」は5/22結城を発して伏見にいたり、大津・敦賀を経て越前入国、または7月、景勝を伴って上洛し、そのまま越前へ入国したという説も記す)
05/05
三男河内丸(のち国松丸、直政)、近江国河内郷にて誕生。母は喜佐子と同人。(月照院)
(「叢記」)
(※「松平直政事績録」『大野市史』6、1985所収では8/5誕生とする)

05/上
秀康、伏見より越前に入る。この途中に月照院が河内丸を出産という。
(「秀康年譜」)
08/--
秀康養父結城晴朝・生母お万の方・正室結城氏等下総より移る。
(「秀康年譜」)
09/09
家臣に対して一斉に知行割(=知行宛行状を発給)を行う。(現在19通の宛行状(写し含)が現存。黒田氏論文による。)

09/--
北庄城の修築を命ぜられる。本丸・二之丸は家康の縄張という。惣曲輪は吉田好寛、奉行は清水孝正(ともに秀康家臣)が勤め、諸大名の手伝普請であった。
(「叢記」)
(※『福井県史』通史編3は手伝普請とは記していない。また「秀康年譜」は慶長7年に新城建設と記す。)
この年
越前入封後より、武功の臣を多く召し抱える。
(「秀康年譜」「叢記」)
【秀康の越前入国に至る動向(同時代史料より)】
1)「義演准后日記」慶長6年8/6条に「家康息三河守上洛、伏見へ直に越さる」とある。(『福井県史』通史編3)
2)(慶長6年)8/24付秀康書状(大関資増宛)に「伏見より去る十四日に罷り下り、北庄へ参着」とある。(黒田氏論文)
つまり、越前入封は8/14以降、8/24以前になるとみられる。
28 7
1602 7 04/22
(4/2とも)秀康、江戸へ参勤。
(「叢記」)
05/08
佐竹氏、出羽秋田へ減転封を命ぜられる。当主義宣の父、義重は大坂にいたため、秀康が三千人を用意して不測の事態に備えたという。
(「叢記」)
この年
前年より、越前入国の祝儀の使者が各所より来る。
(「秀康年譜」「叢記」)
29 8
1603 8 02/12
家康、征夷大将軍に任ぜられる。同日、秀康従三位に叙任。(「秀康年譜」)
30 この年
忠直、初めて江戸へ参勤。秀忠が側に置いて寵愛する。(「忠直年譜」)
9
1604 9 01/28
四男吉松丸、越前において誕生。母は月照院。
(「秀康年譜」)
03/--

秀康、前年末より病。秀忠、書状を遣わし、この2/23にも回復しても参勤は無用と命じ、鷹・馬を使者を添えて遣わす。しかしこの月、江戸に参勤。
(「秀康年譜」)
03/25
秀康五男、五郎八丸(直基)、北庄にて誕生。母は家臣三好長虎の娘(?〜1657、品量院)。
(「秀康年譜」)
04/20
江戸に参勤。
(「叢記」)
07/17

秀康、家康と秀忠を伏見の屋敷に招いて饗応。
(「秀康年譜」)
08/--
北庄に帰着。このころ秀康健康を害し、保養のため大野郡白山の温泉に行く。
(「秀康年譜」)(※「叢記」は湯治は翌年7月とする)
11/24
六男、長満丸(直良)誕生。母は家臣津田信正の娘(?-1609、長寿院)。
(「秀康年譜」)
この冬

家康、秀康に使者を遣わす。秀康謹んで承る。内容不詳なるも秀忠への将軍職譲与についてかと「秀康年譜」の筆者は考察する。
(「秀康年譜」)
この年

秀康、「結城」から本姓の「徳川」へ復するという。
(「叢記」)
【秀康の復姓について】
黒田氏によれば、秀康を「松平秀康」と記すときがあるが、松平氏を称すためには他の松平氏を継承せねばならないことから、「徳川」もしくは「結城」姓を称したと考えられると指摘している。
31 この年
忠直、江戸に留まる。
10
1605 10 02/--
北庄を発し伏見に向かう。
(「秀康年譜」)
04/16
権中納言に叙任。
(「秀康年譜」)
05/01
秀忠の征夷大将軍就任を賀するため、伏見城に登城。
(「秀康年譜」)
この年
江戸麹町(現国会図書館近辺)において屋敷を拝領。伏見より建造物を移築。忠直・光長三代に渡って江戸上屋敷となる。
(「秀康年譜」)
この年
北庄城の北で火災、秀康消火の指揮を執る。
(「松平直政事績録」)
32 09/10
「叢記」4/16)元服。従四位下侍従兼三河守に叙任。将軍秀忠から一字を賜り「忠直」と称す。(「忠直年譜」)

※黒田氏は書状より元服はこの日ではなく、少なくともこの年1月以前であろうと指摘。
11
1606 11 01/10
権中納言を辞す。
(「秀康年譜」)
この春

家康、諸大名に禁裏・仙洞御所修築を命ずる。秀康、惣奉行と伏見城の留守を命じられる。御所は11月完成。
(「秀康年譜」)
この冬

秀康、本多冨正に命じて駿府築城の手伝を命ず。翌年春夏の間に完成。
(「秀康年譜」)
(※
「叢記」は翌年1/17普請開始、7/3完成とする)
この年
四男五郎八(直基)、結城の称号を授け、晴朝の家督を相続。誕生より晴朝の屋敷にて養育、ここに至り披露。(「秀康年譜」)
33 03/03
在江戸。右近衛権少将に転任。(「忠直年譜」)
12
1607 12 03/01
秀康、伏見城留守を守っていたが病が癒えないため帰国することを飛脚で駿府に遣わし即刻帰国。(「秀康年譜」)
この年(帰国直後か?)
四男吉松丸を本多冨正の養子とし、冨正の居城、府中城へ送る。(「秀康年譜」)
(冨正、駿府城手伝より帰り、次第を述べて家康より茶・大左文字(関ヶ原合戦時家康佩刀)を拝領を伝えたところ、秀康は喜び、その務めを賞して吉松丸養子のことを伝えたという。)

※吉松丸は慶長14年1月3日早世。吉松丸母三谷氏は秀康死後、府中へ赴いて吉松丸を養育。その早世後は冨正の妻となった。


04/29

秀康、於佐の局を遣わし家康に永の暇。(「叢記」「秀康年譜」)
*4/08
巳の下刻(午前10〜11時)、北庄城内で死去。享年34歳。家臣ら協議して孝顕寺にて火葬。「孝顕寺殿吹毛月珊大居士」と追号し、3日間法会を執り行う。(「秀康年譜」)
*4/09
永見右衛門(定武)、心月寺にて殉死。享年24歳。閑窓道有と追号。家臣田村金兵衛殉死。定武の子、貞澄が家督を継ぐ。(「秀康年譜」)
*4/11
大野城代土屋左馬助(昌明)孝顕寺で殉死。高岳宗心と追号。家臣長沼長右衛門殉死。子なく断絶。(「秀康年譜」)
*4/22
秀康死去の報、江戸に達す。27日、忠直に遺領相続が許される。忠直即日越前へ発足。(「秀康年譜」)
05/11
家康、葬儀のあらましを聞き、徳川家は浄土宗たるべしと述べたため、越前家家臣の協議の結果、即刻改葬を決定。京都知恩院満誉上人を招いて導師とし、帰国した嫡男忠直が遺骨を改葬、法号を「浄光院殿森厳道慰運正大居士」と改める。葬地に寺を設けて運正院浄光院と命名。さらに高野山に分骨。(「秀康年譜」)

※浄光院の地はかつて御宿勘兵衛(正倫)の屋敷地のあった所という。(「叢記」)

この年
北庄城は平城のため、その分田地が作れないとして坂井郡三宅村黒丸城跡に城を移すことを考える。惣曲輪の堀の作事を命じ、松本・加賀口は完成するも、完成を見ないうちに秀康が死去してしまったため沙汰止みとなったという。(「叢記」)
34 *4/08
父秀康死去。22日江戸に訃報達す。(「忠直年譜」)
*4/27
秀忠より秀康遺領を相違なく宛行いを命じられ、即刻帰国。途中駿府で家康に拝謁かという。(「忠直年譜」)
05/11
秀康遺骨を改葬。(「忠直年譜」)
07/09
駿府城火災により、刀・銀・綿を献上。(「忠直年譜」)
11/--
弟、虎之助(忠昌)、越前より初めて駿府へ行き、家康に拝謁。家康の命により江戸へ向い、秀忠へ拝謁、上総姉ヶ崎において1万石拝領する。忠直より家臣岡部豊後・永見志摩・上三河左衛門・毛受将監・安藤治大夫らを附属させる。(「忠直年譜」「叢記」)
13

履歴3(忠直、1613〜1650)へ / 前に戻る / コンテンツのトップ / HOME