忠直履歴

(※逸話は作成中です。)

【出典】
「叢記」=福井県立図書館・福井県郷土誌懇談会編『福井県郷土叢書第七集 国事叢記』(上)、1961
「秀康年譜」=「浄光公年譜」『徳川諸家系譜』四(続群書類従完成会 1992)所収
「忠直年譜」=「西厳公年譜」(同上)
「光長年譜」=「恵照公年譜」(同上)
黒田基樹「結城秀康文書の基礎的研究」(『駒沢史学』48、1995)


※「*」「-」の使い方=月の前に(*8/01)のように付けたときは「閏月」を、日付に(08/--)と付けたときは8月日付不詳、としました。

西暦 年号 忠直の事歴 年齢
1608 慶長13 06/16
妹喜佐、毛利秀就と婚約。今日越前より発足して江戸へ向かう。(「忠直年譜」)
07/17
妹喜佐、徳川秀忠の養女として江戸城から毛利邸へ入輿。幕府よりは酒井忠世・土井利勝が供。(「叢記」)
14
1609 14 01/03
弟、吉松丸(本多冨正養子)死去。享年6歳。法号超岳院殿月照光雲大童子。(「叢記」)
05/05
長満丸(直良)の母が死去。法号長寿院殿林的周栄大姉。(「忠直年譜」)
この年
秀忠娘勝子と婚約。(「忠直年譜」)
15
1611 16 この春
家康、上洛のため忠直もまた上洛。(「忠直年譜」)
03/20
「叢記」3/27、12/20・22、左近衛少将とも記す)従四位上右近衛権少将に昇進。(「忠直年譜」)
03/23
家康参内に従う。徳川義直(尾張)・頼宣(紀伊)と同様、天杯を授けられる。(「忠直年譜」)
04/--
弟五郎八丸(直基)、家康に拝謁。藤松と改称。(「叢記」)
09/28
「忠直年譜」、26日着、28日婚姻)秀忠娘勝子、北庄城へ入輿し、婚姻の式が行われる(9/5もしくは11日江戸出発、11日駿府城到着、家康に拝謁して18日駿府発)。御供土井利勝・秋元泰朝・渡辺山城守・長谷川筑後守・近藤登之助・都筑弥左衛門。(「叢記」)
17
1612 17 01/01
駿府へ名代を遣わし、この日、年頭の御礼を申しあげる。本多正純披露。(「叢記」)
10/18
「叢記」10/20)久世但馬守を成敗。(「忠直年譜」)
11/28
先の騒動に付き、駿府において家康が親裁。今村掃部・林伊賀守・清水丹後守が処罰される。竹島周防守は無罪なるも、北庄城内に監禁、また駿府へ罪人として護送されたため恥じて帰国の途次鞠子にて自殺。(「忠直年譜」)
12/12
翌年の禁裏・仙洞御所修築の助役を命じられる。禁裏を池田輝政ら4家と共に西方、仙洞御所は黒田長政ら14家と共に東方を担当。
(「忠直年譜」)
18
1613 18 01/01
忠直、駿府城に出仕。年頭御礼を申し上げる。披露大沢基宿。(「叢記」)
05/19
江戸にて家臣中川出雲守・広沢兵庫頭、久世騒動に関連して配流。本多冨正に忠直幼少の内は補佐するべき旨を朱印を賜い国政を執らせ、同時に一族本多成重に丸岡の地を与えて越前家附家老として派遣、冨正と共に国政を執らせる。(「忠直年譜」「叢記」)
19
1614 19 03/--
忠直、越前発足。(「忠直年譜」)
04/06
忠直、駿府到着。家康に拝謁し、白銀・綿を献上。(「忠直年譜」)
04/08
「忠直年譜」、8日家康より江戸下向の命、某日江戸着)江戸に至り秀忠に拝謁。白銀・綿を献上。(「叢記」)
07/20
秀康養父、結城晴朝越前にて死去。享年81歳。孝顕寺に埋葬。法名泰陽院殿宗静孝善大居士。(「忠直年譜」)(※「叢記」泰陽院殿前金吾衛宗浄(静)善大居士)。
10/04
「叢記」3日)忠直、大坂出陣の命あって江戸より軍勢派遣の書状を越前へ遣わす。忠直も軍勢との日数を計り江戸を発足し、16日近江国坂本にて越前からの軍勢約1万5千人と合流。忠直、家康に着陣の場所を問い合わせ、23日下京に到着。(「忠直年譜」)
10/23
弟虎之助(忠昌)、将軍秀忠に従って江戸発足。(「叢記」)
11/17
住吉の陣所にて家康に拝謁。(「忠直年譜」)
12/04
忠直軍、城攻めで多大の死者を出し、家康の怒りを買う。(「忠直年譜」「叢記」)
12/09
家康、忠直家臣山本内蔵助を召し、攻め口の分担を下知する。またこの夜より大砲を打ち、鬨の声を上げる作戦を授ける。(「忠直年譜」)
12/17
忠直、家康に御目見え。披露土井利勝・本多正純。「日本の樊かい(「會」)」と誉められる。(「叢記」)
12/19
忠直、弟虎之助(忠昌)の目見えを命ず。24日に対面。(「叢記」)
12/22
豊臣方との和議成る。(「忠直年譜」)
20
1615 20
(元和1)
01/--
大坂より越前へ帰国。(「忠直年譜」)
01/12
『福井市史』資料編4、1988、所収「越前松平家系図」は1/27)虎之助元服、従四位下(従五位下とも)侍従兼伊予守に叙任。秀忠の一字を賜り「忠昌」と称す。(「叢記」)
04/--
大坂夏の陣おこる。忠直にも出陣の命。(「忠直年譜」)
04/09
忠直、北庄を発足。17日近江国坂本着。(「叢記」)
04/18
西岡明神辺に着陣。(「忠直年譜」)
04/28
藤堂・井伊・前田軍と共に河内路に向かう(「忠直年譜」)
05/06
夜、当日の合戦で藤堂・井伊両軍疲弊のため、翌7日の天王寺表の先陣を忠直にする旨、家康より命ぜられる。(「忠直年譜」)
05/07
忠直隊奮戦、真田信繁(幸村)等の頸を取り、城に一番乗りして火をかける(「忠直年譜」)
05/09
忠直、秀忠の伏見城帰陣に従い、伏見屋敷に帰還。(「忠直年譜」)
05/10
諸将、二条城において家康・秀忠に拝謁。(「忠直年譜」「叢記」)
06/16
嘉祥で二条城へ出仕。(「叢記」)
*6/06
二条城へ出仕。真言論議を聞くためという。(「叢記」)
*6/10
家康・秀忠に御目見え。(「叢記」)
*6/16
家康・秀忠に御目見え。(「叢記」)
*6/19
従三位参議兼左近衛権中将に昇進。(「忠直年譜」)
*6/20
官位昇進の御礼。(「忠直年譜」)
*6/21
将軍家の参内に従って参内。26日には二条城において奏楽が催される。(「叢記」)
07/13
改元。
07/18
(※「叢記」17日)忠直帰国の暇を賜う。秀忠より黄金200枚を与えられ7月中に帰着。(「忠直年譜」)
07/23
家康に拝謁。(「忠直年譜」)
09/21
本多冨正嫡子千菊丸(昌長)、本多正信の指図により、2歳で江戸へ証人として赴く。(「叢記」)
11/--
忠直弟忠昌、常陸国下妻三万石に移封。(「叢記」)
11/29
「叢記」11/9)忠直嫡男仙千代(光長)、北庄城において誕生。母は正室勝子。(「忠直年譜」)
この冬
忠直、江戸に赴く。(「忠直年譜」)
21
1616 2 01/01
年頭御礼で江戸城に登城。席次は水戸家の次、加賀前田家の前。(「忠直年譜」)
03/--
家康不例を聞き、駿府に赴く。4/17の薨去後は再び江戸に戻る。(「忠直年譜」)
06/--
越前に帰国。(「忠直年譜」)
08/25
弟忠昌、信濃国松代12万石に移封。また江戸において旧松平忠輝屋敷(浅草、元和4年とも)を拝領。(「叢記」)
この冬
再び江戸に参勤。(「忠直年譜」)
22
1617 3 04/05
長女亀子(1617-1681、高松(有栖川)宮好仁親王の妻)、北庄城にて誕生。母は正室勝子。(「忠直年譜」)
04/17
家康を久能山より日光山に改葬、この日祭礼始まる。忠直、秀忠の出発(12日)の前に日光に赴き、祭礼に参列。祭礼終了後、帰国暇を与えられて北庄に帰る。(「忠直年譜」)
(※「叢記」、大坂の陣終結して帰国後、程なく駿府へ詰め、家康死後も江戸に長くあったとして秀忠より帰国して休息すべしと命ぜられ、多くの品物を拝領。日光山改装後、中山道を通り北庄へ帰国とする)

07/--
秀忠上洛のため、忠直再び伏見へ行って拝謁。(「忠直年譜」)
この年
三河守より越前守へ改称。(「叢記」)
23
1618 4 01/11
弟忠昌、越後国高田25万石に転封。同時に浅野長晟の妹(1605-1623、花子、乾御前)と婚約。4/1結納、翌年11/2入輿。(「叢記」)
06/06
二女鶴子(1618-1671、九条道房の妻)、北庄にて誕生。母は正室勝子。(「忠直年譜」)
この年
この頃より忠直、暴虐となり酒色に耽るようになる。(「叢記」)
24
1619 5 06/11
弟国松丸元服。従五位下出羽守に叙任。「直基」を名乗る。(「越前松平家系図」)
05/--
秀忠上洛。忠直病によって上洛できず。(「忠直年譜」)
12/06
秀康母、長松院北庄において死去。享年72歳。孝顕寺に葬る。法号長松院殿松室妙栽(戴)大姉(大禅尼)。(「叢記」「秀康年譜」)
25
1620 6 01/18
大坂城修築の命を受け、前田利常ら諸家と共に青屋門より玉造門までの修築を担当。(「忠直年譜」)
26
1621 7 この春
近年病で参勤できず。若干回復したため江戸へ向い発足するも越前国今庄で数日滞留、関ヶ原においても病のため逗留が数ヶ月に及ぶ。ついに使者を立てて参勤不能を江戸に報じて帰国。秀忠、近藤縫殿助(用可)を遣わして病の状態を聞かせる。(「忠直年譜」)
07/29
烏丸光弘の正室(もと秀康の正室で結城晴朝の娘)、京都において死去。法号蓮乗院妙徹大姉。(「秀康年譜」)
09/29
忠直の代わりとして嫡男仙千代を江戸に遣わす。この日北庄を出発。時に7歳。10月に江戸着。(「忠直年譜」「光長年譜」)
【忠直の不参の年次】
杉原丈夫「忠直配流」(『歴史研究』266、1983)によれば「国事叢記」などは忠直の不参の年次を間違って記すという。本来は元和7・8年という。
27
1622 8 この春
再び参勤するため出発するも再び関ヶ原で数ヶ月逗留。それ以上東に向かえず、秋になり越前に帰る。(「忠直年譜」)
10/08
正室勝子付の女房、黒田局と阿蔦を殺害。本多成重江戸に状況を訴える。(「忠直年譜」)
12/晦
重臣永見右衛門尉(貞澄)ら一族を討伐。(「忠直年譜」)
28
1623 9 02/10
忠直生母清涼院、忠直の病気を将軍に伝える。(「叢記」)
02/10
光長、秀忠に召されて忠直の隠居、家督相続を命ぜられる。(「忠直年譜」)
02/22
清涼院江戸より至り、忠直隠居、嫡男仙千代へ家督相違なく仰せつける由伝える。忠直謹んで了承。(「忠直年譜」)
03/03
「叢記」15日)北庄を発して豊後に至る。途次敦賀に20日程逗留、北庄孝顕寺にある秀康の画像を取り寄せて法事。また敦賀にて剃髪、一伯と称す。敦賀以降は越前家の男の扈従が許されず、女20人ばかりと幕府の使者が従う。(「忠直年譜」「叢記」)
03/--
嫡子仙千代、帰国の暇を賜い越前へ帰る。(「光長年譜」)
05/02
豊後国大分郡萩原に着。5千石を給せられる。毎年在番の目付が幕府から派遣されて監視(豊後目付)。(「忠直年譜」)
08/--
上使嶋田治兵衛(重次)・高木九兵衛(正次)が北庄城に至り、将軍(家光、この年7/27に将軍となる)の命を伝え、かつ越前家重臣宛の老中奉書が渡される。(「光長年譜」)
29
1624 10
(寛永1)
02/30
改元。
03/15
家光、江戸城へ越前家一門を召し、越前は北陸枢要の地であり、仙千代は幼少のためその任に堪えずとして封を越後国高田25万石余に移し、同地にある忠直弟、忠昌を越前50万石に封ずことを命ず。(「光長年譜」)
05/--
本多成重、従来の知行4万石に加え、幕府より6千石余を与えられて幕府へ召し返され、丸岡に封ぜられる。(「光長年譜」)
30
1626 3 1/--
忠直、豊後国萩原より同国津守に移る。(「忠直年譜」)
32
1630 7 01/20
二男松千代(長頼)誕生。母は平賀治部左衛門の娘(?〜1632、尢ム院)。(「忠直年譜」「光長年譜」)
36
1632 9 07/23
三男熊千代(長良)誕生。母は松千代と同じ。熊千代を生んで死去。(「忠直年譜」「光長年譜」)
38
1634 11 この年
この年より豊後目付が1年交替から半年交替に改められる。(「忠直年譜」)
40
1636 13 この年
三女勘子(小栗美作妻)誕生。母は某氏の娘(小糸、自性院)。(「忠直年譜」「光長年譜」)
42
1650 慶安3 この秋
腫気を煩い治療を行う。(「忠直年譜」)
09/10
申の刻(午後3〜5時)、治療が叶わず死去。享年56歳。将軍家光より検死として石川弥五左衛門(貴成)を派遣。嫡男光長より堀三郎兵衛・佐野五郎大夫・山岡伊織を派遣。葬儀などに当たらせる。(「忠直年譜」)
10/10
府内の浄土寺において火葬。分骨して高野山に宝塔を建立。追号して西厳院殿相誉友大居士。(「忠直年譜」)
56

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