畠山(二本松)氏


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【二本松畠山氏略史】

二本松畠山氏は、実質的には河内畠山氏が惣領家が移ってしまったものの、嫡庶の面から見れば嫡流であり、鎌倉幕府滅亡後、畠山氏嫡流に当たる畠山高国・国氏父子は国氏が奥州管領に任じられたので康永四年(1345)に多賀国府へ赴任した。

しかし、それから程なく観応二年(1351)、観応の擾乱の影響が奥羽に波及してきたことで、もう一人の奥州管領に任じられていた吉良氏によって、宮城郡岩切城で高国と子、国氏・直泰がいずれも自害するという結末を迎える。かろうじて窮地を脱した大石丸(平石丸とも、国氏の子でのち国詮)は在地に匿われたと言われている。

文和三年(1354)に大石丸は幼少で判形をすえることができなかったものの、白河結城氏に対して同心を乞う書状を発した。当時は吉良氏・尊氏方の管領として下向した斯波氏・尊氏に反して奥州に下った石塔氏が激しく争っており、それに乗じようとしたものであったらしいが、吉良氏・斯波氏の連合軍に敗れ、下向以来の本拠地であったとおもわれる二本松に退いた(しかし二本松はあくまでも領地であり、下向後、国氏らは陸奥国府である多賀城に常駐していたらしい)。

至徳元年(1384)、畠山国詮は神社に対して神領として村々を安堵する判物を発給しているが、一方で現在の宮城県地域に保持していた領地は、斯波氏らに押領されつつあり、その支配力は二本松周辺しか発揮し得ない状況であった。

畠山国詮の子は四人おり、三男満泰(正室の子)が家督を継承し、他の三人は一門格となったが、戦国期にこれが原因で争いも発生している。

戦国期には二本松地域は蘆名氏と伊達氏の対立の場となり、両者の間で去就をはかっている畠山氏の状況が伺える。伊達家の天文の乱に際しては、当主畠山義氏は伊達稙宗方についているが、晴宗方につく家臣もおり、稙宗方の田村氏らが出陣、家中の反義氏派を討伐している。

天文の乱ののち、再び二本松は蘆名氏と伊達氏との間で争いの場となり、永禄期には蘆名氏が畠山氏を服属させたという。天正二年には田村氏を介して伊達氏と和睦するが、田村氏と蘆名氏の関係が悪化すると蘆名側に傾き、伊達氏との関係が悪化している。天正十一年には畠山氏は蘆名・白河・岩城・佐竹氏と連合して伊達・田村氏との対立を明確にしていくが、安定した状況にあった。しかし大内定綱の去就をきっかけとして蘆名・伊達間の対立が深刻化し、ついに天正十三年に合戦が開始された。伊達氏は大内氏を攻め、敗走させたが、畠山氏は援軍を派遣、また大内氏が二本松を経て蘆名氏の元へ走ったため、畠山氏は伊達氏の攻撃対象となった。当時の当主、畠山義継は伊達氏の籏下に属すことになるが、この服属後の御礼のため伊達輝宗の館へ赴いたときに、輝宗殺害事件が発生する。

畠山義継とその時従っていた重臣は討死、子の国王丸ら二本松城に籠もった畠山家臣らは一年間に渡り伊達氏の攻撃を耐えたが、国王丸は降伏して会津に逃れ、二本松畠山氏は滅亡したのである。しかし、国王丸の弟の流れが江戸時代水野氏の家老として存続したという。

二本松畠山氏系図

【二本松氏の一族・家臣団】

・畠山(二本松)義氏【はたけやま(にほんまつ)・よしうじ 1530(享禄3)〜1547(天文16)】
修理大夫。家泰の弟で、家泰から家督を継ぐ。伊達家の天文の乱では稙宗方についた。天文の大乱は二本松家臣団と当主の対立を発端とする、という説もある。家泰・義氏共に早世したので父村国の弟で村尚の嫡子、義国が後継となっている。

・畠山義国【はたけやま・よしくに ?〜1580?(天正8?)】
右京亮、修理大夫。上述のように義氏の従兄弟にあたり、宗家を相続。嫡流であった畠山満国の裔、本宮宗頼が一門から当主を迎えたことに不満をもち、謀叛を企てたが露見して義国が討伐したという(義国養父、義氏の代との説もある)。
 また、天文二十年(1551)に蘆名氏と田村氏の抗争を義国、結城(白河)晴綱が斡旋して講和を行っている。子、義継が天正二年頃(1574)には伊達家と交渉しているので、当時は隠居していたことが考えられる。

・畠山義綱【はたけやま・よしつな 1574(天正2)〜1589(天正17)】
義継の嫡男。国王丸。二本松城落城の時に逃れるが、蘆名盛重の家臣、沼沢出雲守らに殺害されたという。弟の義孝は上杉景勝に仕えて戦功あり、のち水野家に仕えたという。

・畠山政仲【はたけやま・まさなか 生没年未詳】
安房守。「奥州茶話記」所収の相馬家臣畠山氏系図に二本松義国の弟、二本松安房義秀がおり、二本松藩内の古城跡を考察した『積達館基考』でこの人物を政仲であろうとしている。義国の白河結城氏への書状の副状が数通見られる。

・畠山盛国【はたけやま・もりくに 生没年未詳】
右馬頭。上記政仲の子という。「奥州茶話記」所収の相馬家臣畠山氏系図では国秀。蘆名氏への書状が確認される。

・新城信常【しんじょう・のぶつね ?〜1586?(天正14?)】
弾正忠。義継の従兄弟にあたる。椚山城主。元亀二年(1571)の田村清顕の書状に既に見えている。義継が伊達輝宗を殺害し、政宗に殺されてから義継嫡子の国王丸と重臣が籠城したときに中心的人物として活躍した。武功の者という。

・新城国常【しんじょう・くにつね 生没年未詳】
心安斎淨閑と号す。二本松義国の弟に当たるという。信常の父。常閑を信常とするものもあるが、上記田村清顕の書状に信常と共にみえるので同一人物ではないと思われる。また信常の父は直継とある系図もあるが、義国の偏諱を受けていると思われる「国常」が適当と考え、こちらを採用した。

・鹿子田国胤【かのこだ・くにたね ?〜1585?(天正13?)】
和泉守。鹿子田氏は畠山国詮の二男、満詮を祖とする。「鹿子田殿」と称され、「杉田」を姓としたようである。「鹿子田」を称したのはこの国胤の代よりという。『続群書類従』の畠山系図では相馬国分より養子に入ったという記述がある。義継が伊達輝宗を殺害したとき従っていた重臣に鹿子田和泉がみえるが、この人物であろう。

・鹿子田継胤【かのこだ・つぐたね 生没年未詳】
右衛門佐・日向守。国胤の子。いつの事かは不明だが白石で討死し、子の孝胤は秋元家に仕えたという。

・遊佐重勝【ゆさ・しげかつ 生没年未詳】
下総守。生没年は不明だが、正保年間(1644〜1647)に八十歳前後だったという。父遠江守重定が河内畠山氏に仕え、その後二本松に来て畠山氏に仕えたとあるが、伊達家の天文の乱にすでに重臣として遊佐美作守がいるので、その流れを組むと考えられる。伊達家による重臣層の切り崩しで兄の丹波守某や箕輪玄蕃らと共に伊達家に寝返り、知行を与えられた。

・高玉常頼【たかたま・つねより ?〜1589(天正17)】
紀伊守。落城後、二本松周辺が伊達領となったあと、二本松旧臣として反乱を起こした。畠山一門。


【参考文献】

『福島県史』第1巻 通史編1 1969
『矢吹町史』第二巻 資料編 I 1977
『二本松市史』第3巻 資料編1 1981
『伊達世臣家譜』第三巻(復刻版仙台叢書)1975

『仙台藩史料大成 伊達治家記録』1(1972)・2(1973)


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