小田氏


参考:関東地方詳細図(別のウィンドウが開きます)

【小田氏略史】

小田氏は宇都宮氏の一族で、宇都宮氏祖の宗綱の四男、知家を初代とする。知家、嫡男知重は八田氏を名乗り、四代時知から小田と称した。知家、知重は鎌倉幕府御家人として活躍、常陸国守護職を代々継承した有力領主であった。

その守護所として築城したのが小田城(筑波郡筑波町)であり、戦国時代までの居城であった。
しかし宗家が一貫して安定していたわけではなく、庶流で一族の茂木氏に守護権を奪われている。(さらに守護職は佐竹氏へと移ったが、小田氏は戦国期においても「屋形」号を許された有力な領主の一人であったことは確かである)また、鎌倉末期にかけては他の一族が没落して北条氏権力の常陸国への進出を余儀なくされている。

鎌倉幕府崩壊に際しては小田治久(初名高知)は幕府方として転戦したものの、滅亡後は建武政権に従い、のちまで南朝に与し、北朝方の佐竹氏と対立を続けた。が北畠親房の小田城入城で北朝方の高師冬などの攻撃を受けてついに降伏、一転して南朝勢力を攻めたが守護職の回復は果たし得なかった。

その後も上杉禅秀の乱鎮圧などで活躍したものの、勢力の回復は難しかった。さらには明応五年(1496)の本宗家と庶子家の相続争いもあったが、堀越公方の子、政治を養子として迎えた小田氏は、なんとか戦国大名化への道筋を開き、佐竹氏とも比較的安定した関係を樹立、佐竹氏の南進をくい止めている。

政治の子、氏治の代になると北関東の情勢は一層複雑化、佐竹氏も南進を開始し、徐々に勢力を削がれ始める。これをくい止めようと長尾(上杉)氏と好を通ずるも、氏治は弘治年間から天正末頃までに小田・土浦・木田余等の諸城を転々とせざるを得ないほど周辺諸勢力に攻撃を加えられている。

最終的には佐竹氏の勢力の前には小田氏は屈服を余儀なくされ、天正十八年の豊臣秀吉の小田原攻めで小田氏は没落した。のちは結城秀康に氏治・守治が仕え、越前国に従った。また秀康の三男、松平直政の家に、秀康の側室になった氏治の娘の子(善治)が仕えたという。

小田氏系図

【小田氏の一族・家臣団】

・小田守治【おだ・もりはる 1557(弘治3)〜1610(慶長15)】
氏治の嫡子。母は江戸忠通の女。天正十八年(1590)には家督を相続していたと考えられるという。しかし直後に没落し、その後は結城秀康に従って越前に移住した。秀康・忠直代の分限帳に「千石 小田彦太郎」と見られるのだが、その後は不明。

・菅谷政貞【すげのや・まささだ 1518(永正15)〜1592(文禄1)】
本姓紀氏。左衛門大夫・摂津守。土浦城主で小田氏の宿老。入道して全久と号す。しばしば他家との交渉にあたった。

・菅谷勝貞【すげのや・かつさだ 1493(明応2)〜1575(天正3)】
摂津守。政貞の父。勝貞の代に土浦城を攻めて攻略し、その後居城としたという。

・菅谷範政【すげのや・のりまさ 1558(永禄1)〜1612(慶長17)】
左衛門大夫。はじめ政光。天正十八年、土浦城を退去するが、徳川家康に父子ともに召されて千石を与えられた。

・菅谷範貞【すげのや・のりさだ 1580(天正8)〜1618(元和4)】
範政の嫡子。関ヶ原合戦では大久保忠常に属して上田城を攻めた。大坂の陣では二條城番。戦後は伏見城を守り、その地で死去。

・菅谷政頼【すげのや・まさより 1528(享禄1)〜1559(永禄2)】
政貞の養子。永禄二年(1559)の太田資正との合戦で討死したという。娘は範政の妻となった。

・信太治房【しだ・はるふさ ?〜1570(元亀1)】
掃部助。小田氏の重臣。信太氏の嫡流。永禄中頃、白河結城氏との交渉にあたっていたことが知られる。佐竹氏の圧力を受け、佐竹側に組することもあったらしく、元亀元年に氏治が木田余城に入城した日に土浦城で殺された。

・信太範宗【しだ・のりむね ?〜1573(天正1)】
伊勢守。木田余城主。信太氏庶流で治房の叔父にあたる。小田氏への謀反を疑われて菅谷政貞に殺害された。子孫は津軽氏などに仕えたという。

・福田俊幹【ふくだ・としみき 生没年未詳】
山城守。永禄六年に信太治房とともに寺社に対して連署状を発行している。福田は管見の限りこの文書しか存在が確認されないが、連署の順番から信太より格上となるので、小田氏の重臣である事が考えられる。

・岡見治資【おかみ・はるすけ ?〜1569(永禄12)】

弾正忠。「小田氏治味方地利覚書」(佐竹義昭が存在しているので永禄六年(1563)までのもの)に「おかミのたんちやう」とある人物であろう。永禄四年、岡見左近将監の父、越後入道玄栄の為(菩提供養?)として、東林寺に一貫文を寄進している。永禄十二年の手這坂合戦で討死した。

・岡見治広【おかみ・はるひろ ?〜1617(元和3)】
治部大輔。牛久城主。先述の「小田氏治味方地利覚」には「うしよく(牛久) おかミの山しろ」とある。山城(守)は治広の父か。
 「源姓岡見氏系図抄」(『龍ヶ崎市史』中世史料編所収)では治資の子で、治資戦死後、幼少のため下の岡見宗治の父、越前守頼勝に養育されたとある。多賀谷氏と争い、敗れた岡見主殿(治資の子か、「源姓岡見氏系図抄」では頼勝実子)を保護した。天正八〜十年(1580〜82)頃には小田原に赴いて北条氏に臣従した。天正十五年には実子を人質として差し出している。のち結城秀康家臣となった。子らは紀州徳川家の家臣などになっている。
2001/1/21加筆

・岡見宗治【おかみ・むねはる 生没年未詳】

中務大輔。足高城主。岡見治広の又甥という。天正十年頃には北条氏に従属的な存在であった。天正十五年に治広と同様に「証人」の提出を求められたのに対し、実行しなかったので「治部大輔(治広)同然に小田原の御下知に応ぜられ、この度進上あるべく…」と北条氏照から督促を受けている。子らは井伊家・紀伊徳川家に仕えたとある。
2001/1/21加筆


【追加分】
2000/4/29追加
・茂木治泰【もてぎ・はるやす 生没年未詳】

山城守、のち式部少輔。小田氏の庶流で、住した茂木村(栃木県茂木町)を名字とした。弟の義政は那須氏家臣、千本氏の養子に入ったという。

・茂木治良【もてぎ・はるよし 生没年未詳】
筑前守。治泰の子。天正年中、結城氏と戦いこれを破ったという。のちに佐竹氏に仕え、茂木城を移る。佐竹氏の秋田移封に伴って子、義成とともに従った。
2001/04/14訂正(「もぎ」→「もてぎ」、宮野州様のご指摘による。)

2001/1/21追加
・小田朝治【おだ・ともはる 1529(享禄2)〜天正10(1582)】

氏治の兄。故あって母と共に北条氏を頼って小田原へ逃れ、北条氏の元にあった。子朝家は北条氏照に属し、北条氏滅亡後は松平忠吉に仕え、元和四年(1618)からは水戸徳川家に仕えて水戸藩士となったという。

・小田友治【おだ・ともはる 生没年未詳】
左京亮。氏治の長男。守治の同母兄。理由は不明ながら北条氏政・氏直に仕えていた。北条氏滅亡後豊臣秀吉に、その後は慶長三年(1598)に徳川家康に拝謁し、松平定勝に仕えたという。二男友重は初め宇都宮某の養子となっていたが、兄義治の早世後家督を継ぎ、松平家に仕えたらしい。


【参考文献】

『土浦市史』 1975
『寛政重修諸家譜』 1980
『茨城県史料 中世編5・6』 1994・1996
『龍ヶ崎市史』中世史料編 1992
石川豊『中世常総家譜 下巻』 1992
信田汎二『常陸国信太郡に足跡を残した人達』 1998
黒田基樹「常陸小田氏治の基礎的研究−発給文書の検討を中心として−」(『国史学』166、1998)
市村高男「戦国期常陸南部における地域権力と北条氏−土岐・岡見・菅谷氏の消長−」(『地方史研究』231(1991)、のち同氏『戦国期東国の都市と権力』(1994)所収)


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