大村氏

参考:九州地方詳細図(別のウィンドウが開きます)

【大村氏略史】
大村氏は「承平・天慶の乱」を起こした藤原純友を祖とするとされるが、外山氏に拠れば大村氏の祖である「藤原直純」なるものが大村氏のほか、有馬氏等の祖とされていることから疑わしいという。しかも大村純尹(純忠の祖父)は「」氏を称していたことが判明しており、「藤原」氏でないことが明らかにされた。さらに外山氏によると12C初頭、平正盛の追討を受けた肥前国藤津庄庄司、平清澄の子、平直澄が大村氏の祖ではないかとしている。

直澄追討によって平家ではあるが平氏政権に服従していた大村氏も、鎌倉幕府が成立すると本領を安堵され、御家人となったとされる。元寇(弘安の役、1279)に際しては大村家信が勲功を立て、子の家直は鎌倉末〜南北朝期にかけて活躍し、鎮西探題や肥前守護などから使節として派遣されていた事が確認される。

戦国時代以前の大村氏は、惣領家は本拠をそれより後の本拠である彼杵郡ではなく、藤津郡に置いており、双方に一族諸家が存在していたとされるが、度々惣領家の交替があったことが歴代の名乗りから窺えるという。

戦国時代に入ると有馬氏の勢力の伸張に伴って、藤津郡の大半が有馬氏の領有するところとなり、彼杵郡に徐々に中心を移さざるを得なくなった。大村純忠は有馬晴純の二男であり、大村氏は嫡男貴明を廃してまで純忠を当主に据えた事情が窺えよう。

戦国も末期になると龍造寺氏が勢力を伸ばし、ついに藤津郡は龍造寺氏の支配に帰した。大村氏は彼杵郡に完全に本拠を移してそのまま近世に至り、二万七千石余を領して幕末を迎えた。

大村氏系図


【大村氏の一族・家臣団】

・大村純淳【おおむら・すみあつ 生没年未詳】
純前の末弟。家臣大村純次の養子となった。純次は純尹の従兄弟にあたり、純尹治世下の家老であった。
2001/1/1訂正(純前の子と記していたのを訂正。)

・大村純種【おおむら・すみたね 生没年未詳】

純淳の子。永禄十二年(1569)、純忠に反旗を翻す。松浦氏等の後援をうけたが失敗に終わったらしい。その後の消息は不詳。この謀叛に対して当主側について大村氏を援けた国人領主に小佐々純俊がいる(のち大村氏家臣)。
2001/1/1加筆

・大村純晴【おおむら・すみはる 生没年未詳】
一門衆と思われるが、詳細は不明。天正二年(1574)四月、松浦氏に内通した遠藤某が謀反したときに討伐に派遣されている。

・松浦(大村)頼直【まつら(おおむら)・よりなお ?〜1625(寛永2)】
松浦氏嫡流、松浦盛の子。父盛が死去した際、頼直は幼少だったために母と共に大村に移る。のち、長崎純景の娘を妻とし長崎氏の養子となった。養父純景が久留米藩士となった後も大村氏に属し大村姓を与えられて老臣となった。
 元和五年(1619)、藩主大村純頼が急死したとき、大村純勝と共に松千代(純信)の家督相続に奔走した。娘は喜前の嫡男、純頼の妻となっている。寛永二年、江戸において死す。
2002/4/15 加筆

・今道純周【いまみち・すみちか 生没年未詳】
大村一族という。老臣と職務の違いは明らかでないが「惣役」とともに中枢機関であった「兄頭役」に任ぜられていたという。

・長崎純景【ながさき・すみかげ 生没年未詳】
長崎の領主で大村純忠の女婿。初め頼純と称す。純方の子。大村氏に従い、慶長四年(1599)当時には知行千石弱を領していた。慶長十年、領知である長崎の地が幕府領となったために大村氏に反発、久留米に入った田中吉政の配下となる。しかし吉政が改易されると、故地に戻って晩年を送ったとされる。
 嗣子の重方(弟)は慶長三年から築城した玖島城(三城に代わる大村氏の居城)の奉行を務め、養父純景の退去に従わず大村氏に仕えた。長崎氏は在地領主の永崎氏の系譜を引く一族といわれる。
2002/4/15 加筆

・朝長純利【ともなが・すみとし 生没年未詳】
伊勢守。大村氏の老臣という。ポルトガル人による横瀬浦(長崎県西彼杵郡西海町)を貿易港とする願いを純忠に伝えるなど、純忠と家臣との間に介在しており、宣教師からも「大村家の主席家老」と認識されている。永禄中期ころに筆頭家老の地位にあったらしい。また、「惣役」に永禄四年から同十一年まで就任していたとされる。

・朝長純基【ともなが・すみもと 生没年未詳】
純利の嫡子。純基も「惣役」を純忠の代に務めたという。娘が朝長前純(浅田左門、江戸初期の家老)の妻となっている。
2002/4/15 加筆

・朝長純安【ともなが・すみやす ?〜1563(永禄6)】

純利は兄にあたる。針生貞治と共に横瀬浦の奉行。横瀬浦をポルトガルとの貿易港とした大村純忠に対して反感をもつ重臣等のクーデター(永禄六、1563)によって殺害された。キリスト教に入信し、受洗名ドン・ルイス。

・朝長純兵【ともなが・すみたけ 生没年未詳】
大村純前代の老臣という。純利の父または祖父にあたるものか。

・一瀬栄正【いちのせ・ひでまさ 生没年未詳】
父は田中氏を称すが、栄正が天正年間、深堀氏の攻撃を受けた長崎純景を後援し、一瀬口で功を挙げたために大村純忠より「一瀬」を称するように命ぜられたという。朝長純利とともに「老臣」といい、合戦において功が多かったという。

・宮原純房【みやはら・すみふさ 生没年未詳】
常陸介。惣役を務めていた。また鑓の達人として評判が高かったという。祖父の貴房は有馬氏の家臣で、父前勝が有馬氏の娘(大村純前の室)の大村氏輿入れに従い、それによって大村氏の家臣となったという。

・針尾貞治【はりお・さだはる 生没年未詳】
伊賀守。横瀬浦の奉行。クーデターに参加し朝長純安を殺害。また永禄九年に謀反し大村純忠の攻撃を受けたが、松浦氏の支援によって退けている。近世に入ると、針尾氏は徐々に藩主の信頼を受け、長納は島原の乱鎮定に功があるなど、次第に地位を増していっている。
2002/4/15 加筆


【追加分】

2001/1/1追加
・大村良純【おおむら・よしずみ 生没年未詳】
純前の兄。紀伊守。長男であったが病により家督を相続できなかった(外山氏は母が有馬氏と関係がなかったために家督を相続できなかったと述べている)。純忠の家督相続後、家臣団が分裂したが、その一部はこの良純派を形成した。子に純重がおり、家臣となったと考えられる。

・大村純宣【おおむら・すみのぶ 生没年未詳】
喜前の弟。西郷純久の娘を妻とする。文禄の役に出陣。慶長元年(1596)六月、休戦して諸将が帰国する中、喜前の代わりとして朝鮮に留まった。子孫は断絶している。
2002/4/15 加筆

・大村純直【おおむら・すみなお ?〜1618(元和4)】
喜前の弟。右馬助。朝鮮出兵に兄喜前に従って出陣。その後伏見城でしばしば徳川家康に拝謁し、髭が美しかったので家康より「右馬助」と称すべし、との命を受けて右馬助と改めたという。大坂の陣にも出陣したが、子孫は断絶している。
2002/4/15 加筆

・大村純景【おおむら・すみかげ 生没年未詳】
関ヶ原合戦のおり、石田三成が九州の大名を勧誘したときに喜前はそれに応じず、家臣であるこの純景を関東に使わし、二心のないことを示したという。

・朝長重則【ともなが・しげのり 生没年未詳】
上の朝長一族との関係は不明。大坂の陣の時にむやみに領知を動かないように、との命を受けていた当主喜前の代わりとして大村純直と共に出陣した。

・庄頼甫【しょう・よりひろ? 生没年未詳】
大村純尹時代に有馬氏の侵攻に際して、一軍を率いた庄左近太夫の弟であるという。和泉守。大村純忠時代の老臣であった。

2001/3/15追加
・大村純勝【おおむら・すみかつ 1565(永禄8)〜1659(万治2)】
大村家の老臣。二歳のときに父純定が戦死したため(祖父純辰は存命)、純忠の居城、三城に引き取られて成長した。天正十四年、十九歳の時、謀叛した長純一攻めにおいて先駆けを務める。文禄・慶長の役にも出陣。
 元和五年(1619)、純頼が急死し、二歳の松千代(純信)が残されたが、純勝は松浦頼直と共に家督相続に奔走して実現。娘亀千代を犠牲として神に願う程であった。純信が幼少の間は、純勝と富永忠清が藩主名代として江戸に詰めたという。妻とした女性が短命であったらしく、朝長純基・純安の娘、今村勝高の娘の計三名を迎えている。
2002/4/15 加筆


【参考文献】

外山幹夫『松浦氏と平戸貿易』 1987
外山幹夫『中世九州社会史の研究』 1987
藤野保「近世における大名家臣団の展開過程−大村藩「新撰士系録」を中心として−」(『史学雑誌』65-6、1955)
『大村市立史料館所蔵資料目録』 1980
『三百藩家臣人名事典』7、新人物往来社、1989
『新訂 寛政重修諸家譜』12


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