「無名武将列伝」番外編
隠岐に生きた人びと-隠岐氏-


隠岐マップ
※元の地図は「白い地図工房」様による。

【隠岐氏ミニ略史】

隠岐島は古代より遠流の地と定められ、承久の乱を起こした後鳥羽上皇や後醍醐天皇が配流となった所として有名である。

支配としては、鎌倉幕府草創時の建久四年(1193)より佐々木定綱が石見・長門の守護と兼任したが、佐々木氏が承久の乱で後鳥羽上皇方についたために所領没収となり、定綱の弟、義清が補任され、後鳥羽上皇の監視の任も務めた。孫の晴清の代から隠岐に居住、隠岐氏と称し、宮田(くんだ)城を居城とした。佐々木氏は鎌倉幕府崩壊−建武新政期と引き続いて守護となるが、暦応四年(1341)、讒言により失脚した。

その後隠岐守護は佐々木氏討伐の功のあった山名氏に任じられたが、明徳の乱で没落、これで功のあった京極高詮(佐々木一族)が出雲守護と兼任し、隠岐には弟の秀重を守護代として入れた。この京極氏一族も隠岐に入った佐々木氏と同様、隠岐氏と称した。

京極氏の本宗は応仁の乱で没落したが、隠岐の隠岐(京極)氏は尼子氏と被官関係を結んで宗清の時代に隠岐島全域の統一に成功、隠岐を支配したが戦国期の動乱で滅亡した。

系図は省略します。

【隠岐氏の一族】

・隠岐宗清【おき・むねきよ ?〜1544(天文13)】
秀重から三代目の領主。居城を宮田から甲尾(国府尾)に移す。享禄三年(1530)、隠岐一宮の水若酢神社神主との深刻な対立が発生したが、平和的解決がなされた。しかしこれに乗じた島内の諸領主が反乱。宗清は尼子氏の援軍を得て、天文十年に都万城主都万宗林・那具城主桃井清信・また箕尾氏などの島後の諸領主や島前の福瀬氏などを滅ぼして隠岐統一を完成したという。
 永正十一年(1514)には宝定寺重尊・村上清景を奉行として国分寺を再興した。
2002/8/25加筆

・隠岐豊清【おき・とよきよ 生没年未詳】
宗清の嫡子。詳細は不明であるが、この時代には隠岐の支配者として見られるものの、尼子氏の家臣団に組み込まれつつあったとみられている。
2002/8/25加筆

・隠岐幸清【おき・ゆききよ 生没年未詳】
左衛門尉。天文十三年(1544)九月、隠岐氏当主である豊清が父、宗清の遺志によって松江の清安寺に六町六反余を寄進したが、当主の判物とは別に隠岐氏家臣十三名連署の副状が発給された。幸清はその日下(日付の真下)に署名している。隠岐氏一門であろう。
2002/10/1追加

・隠岐清慶【おき・きよやす? 生没年未詳】
右衛門尉。上の幸清らと共に寄進状副状に署名している。当主が「清」を実名の下につけるのに対して、この人物は上に「清」がついている。おそらく当主から一字与えられたと考えられる。隠岐氏一門でも傍流にあたるのであろう。
2002/10/1追加

・隠岐為清【おき・ためきよ ?〜1569(永禄12)】
豊清の嫡子。尼子氏の被官化していたので、しばしば出雲の合戦に参陣しているが、毛利氏が出雲に進出すると毛利氏に組した。その後、隠岐に尼子勝久が渡ってきたときにはこれを支援し、勝久と共に出雲に出陣するが、のちに叛いて討たれた。
2002/8/25加筆

・隠岐清実【おき・きよざね 生没年未詳】
為清の弟。兄の死後、尼子氏の後援を得て家督を継ぐ。元亀二年(1571)には伯父清家が毛利方から家督を承認されているため、これ以前に家督を喪失したと考えられる。
2002/8/25追加

・隠岐清家【おき・きよいえ ?〜1582(天正10)?】
為清の弟と考えられるという。元亀二年、家督相続。天正二年(1574)に改めて毛利氏から隠岐国を安堵される。天正十年には家督を甥経清に譲り、当主となった経清と共に惣社大明神の修造をおこなった。のち、経清と対立して殺害されたようである。
2002/8/25加筆訂正(没年削除)

・隠岐経清【おき・つねきよ ?〜1583(天正11)】
為清の嫡子。天正十年に家督を相続。伯父清家と対立しこれを殺害したとされるが、その理由として、家督を継いでいた清家に毛利氏を離れ、豊臣氏に付くことを進言したが、容れられなかったことが伝えられている。しかし家督相続の翌年、天正十一年には隠岐国を支配するのは吉川氏であり、吉川元春に殺されたと伝えられる。

・隠岐景房【おき・かげふさ 生没年未詳】
為清の末弟。永禄十一年、兄為清らと共に国府尾神社の修造を行っている。尼子氏の合戦で討死した。

・稲葉信重【いなば・のぶしげ 生没年未詳】
隠岐氏家臣。永禄十一年四月、国府尾神社の修造の作事奉行となり事に当たった。
2002/8/25追加

・宝定寺慶久【ほうじょうじ・よし?ひさ 生没年未詳】
与三右衛門尉。天文十三年九月の家臣連署副状に署名。隠岐宗清の功に記した、永正十一年の国分寺再興の奉行、法定寺重尊との関係は不明であるが、年代から考えると、子のように思われる。
2002/10/1追加

・青清次【あお?・きよつぐ 生没年未詳】
新次郎。天文十三年の文書に署名。父か祖父と思われる清資は、明応八年(1499)年に田地寄進状の署名が見られる。隠岐氏の譜代筋の家臣ではないかと考えられる。
2002/10/1追加

・寺本歳昌【てらもと・としまさ 生没年未詳】
助右衛門尉。これも天文十三年の文書に署名する。さらに青清資と共に寺本清真が明応八年に寄進状に署名している。この家も譜代筋の家ではないかと思われる。
2002/10/1追加


【参考文献】

永海一正『隠岐の歴史 改訂版』 1989
西ヶ谷恭弘『国別 守護・戦国大名事典』 1998
『島根県歴史人物事典』山陰中央新報、1997
『新修島根県史』史料編1 1966
『国史大辞典』


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