小野寺氏

参考:東北地方詳細図(別のウィンドウが開きます)

【小野寺氏略史】
小野寺氏は秀郷流藤原氏の後裔で、下野国都賀郡小野寺村より興ったという。文治五年(1189)の源頼朝の奥州征伐に小野寺道綱が従軍、軍功により出羽国雄勝郡の地頭職に任命された。だが在地には居住せず、鎌倉に住した。雄勝郡に居住したのは道綱の四代後、13C中頃の経道の時代といい、経道を小野寺氏の祖とすることも多い。一方で本流は依然として関東に住した。

出羽国に下った経道は雄勝郡稲庭に居住し、稲庭城を築いたという。経道孫、通有のときには雄勝郡の他、二郡を得るまでに勢力を伸ばした。このときに西馬内小野寺氏と湯沢小野寺氏が派生している。横手城を築いたのはこの通有のときと言われ、正安三年(1301)の築城と伝える。 南北朝期になると小野寺氏は、南朝方に属して戦ったと思われ、「建武の役、奥州の国司・顕家卿に属し上洛し、処々の合戦に軍功あり」(稲庭系図)と記されている。
 
15C中頃の小野寺氏は南部氏の幕下に属し、山北平鹿郡沼館城を居城としていたが、四年間に渡って南部氏と交戦を繰り広げた結果、勝利を収め再び横手城に復帰したという。この頃から小野寺家は独自に室町幕府に対して馬を献上しており、中央とのつながりを深めていたようである。

戦国時代にはいると、小野寺氏は再び本拠を沼館城に移す。このころの当主から人名の錯綜があり、様々な系譜によって大幅に系図が異なってしまうのであるが、以下は主に《参考文献》にもある遠藤氏の論考を基本として記述する。

十一代景道は明応四年(1495)に四十七歳で討死といわれ、子の稙道が遺跡を継いだ。この稙通は将軍足利義稙・義晴の二代に仕え、在京していた時期があり、そのときに叔父(弟)と言われる晴道が本拠の留守居として経営にあたったとされる。稙道はそののち沼館城に戻り、最上郡真室付近まで勢力を広げたが、一族(といわれる)の横手城主横手光盛(佐渡守)らの謀叛に遭い、退去した湯沢城で討死した。

稙道の子、四郎丸(後の輝道)は難を逃れ、大宝寺氏の下に保護された。三年後には大宝寺氏等の支援で横手光盛を討ち、横手城に入ったという。この輝道の時代が小野寺氏全盛時代であり、最大の勢力圏を擁したのである。

十四代義道の代には、乱世は終息に近づきつつあり、天正十八年(1590)の豊臣秀吉の小田原出兵に義道は参陣し、一部所領を削られたものの五万石の所領の安堵をえた。豊臣政権下の大名として軍役を無難にこなした小野寺氏であったが、慶長五年(1600)の関ヶ原合戦では徳川家康の要請を無視し、横手城に篭っていたため最上氏の苛烈な攻撃を受ける。

戦後、家康の参陣要請を無視したために小野寺家は改易となり、義道らは石見国津和野へ配流され、その地で死去。子孫は津和野藩主亀井氏家臣となって、幕末に至った。

小野寺氏系図

【小野寺氏の一族・家臣団】

・小野寺晴道【おのでら・はるみち 1496(明応5)〜1550(天文19)】
中務大輔、上野守。はじめ道俊。稲庭系小野寺氏で稙通の叔父、または弟とされる。大永年間(1521〜1527)、当主稙通が上洛し、滞在が数年間に渡ったため、留守居を務めたという。

・小野寺光道【おのでら・みつみち ?〜1583?(天正11?)】
輝道長子。天正十一年(1583)ころ死去したらしい。

・小野寺康道【おのでら・やすみち ?〜1641(寛永18)】
義道の弟。義道と共に石見国に流罪。その地で死去した。

・西野道房【にしの・みちふさ 生没年未詳】
飛騨守。小野寺輝道期の執事(宿老?)。天文二十四年(弘治元年、1555)に上洛、将軍偏諱と官途受領の申請を行っている。小野寺氏の分限帳である「小野寺遠江守旧臣名面書」にも「大老職 西野飛騨守」とあり、かなりの重臣であったことが伺われるが、下の道俊も記されているので、いつ頃のもの、というよりも小野寺氏家臣団の広範な時期を対象とした記録であると考えられる。

・西野道俊【にしの・みちとし 生没年未詳】

修理亮。義道期の執事。「小野寺遠江守旧臣名面書」の一番目にある「西野修理之助」であると思われる。天正末年頃より文禄頃の文書が存在している。年代的に考えて、道房の子供とも考えられる。

・土肥道親【どい・みちちか 生没年未詳】
相模。小野寺輝道に仕えたという。小野寺氏の重臣。

・土肥(八木)親家【(どい(やぎ)・ちかいえ ?〜1575?(天正3?)】
道親の子。八木郷に住したため八木を称すという。養子の道家(下記)が相続したのが天正三年(1575)なので、それ以前に没したと思われる。

・八木道家【やぎ・みちいえ 1564(永禄7)〜1645(正保2)】
丹後。実は松岡常吉の三男。親家の死後小野寺輝道の命で天正三年に土肥家を相続。慶長六年(1601)、小野寺義道石見国配流に従い、京都まで供をする。京都で書状の取りまとめをしたものか。正保二年死去。

・松岡常吉【まつおか・つねよし 生没年未詳】
越前。小野寺輝道に仕える。義道誕生(永禄九年、1566)ののち、妻が義道の乳母となり、義道を常吉宅で養育したという。

・松岡道景【まつおか・みちかげ 生没年未詳】
常吉の長男。小野寺義道に仕え、文禄五年(慶長元年、1596)義道より一字を賜り道景と名乗り、初めて家老職を務める。小野寺氏の京都屋敷に詰め、留守居を兼任。

・松岡秀用【まつおか・ひでもち 生没年未詳】
常吉の二男。高田右馬助。義道に仕える。雄勝郡川連城代(仙台の境)を命ぜられた。

・松岡道常【まつおか・みちつね 生没年未詳】
道景の嫡子。小野寺氏の敦賀蔵屋敷の留守居を務めたという。慶長六年の小野寺氏改易の際、浪人して鮭延典膳の元に身を寄せたといわれる。翌七年、小野寺家に帰参したという。

・横手光盛【よこて・みつもり ?〜1549(天文18)】
佐渡守。横手城主。小野寺氏の家臣であったが、天文十五年(1546)、金沢八幡宮宗徒と共に蜂起し小野寺稙通を討った。しかし稙通の息、輝道によって三年後に討伐された。

・鮭延貞綱【さけのべ・さだつな ?〜1565(永禄8)】
本姓は佐々木氏。15C初頭に近江国より出羽国雄勝郡に至って小野寺氏家臣となった。貞綱は天文年間に鮭延の地を与えられ、鮭延を称したという。大宝寺氏との争いに敗北し永禄九年に死去。次男の源四郎(のち秀綱)は大宝寺氏の人質となっていたが、父の死後に大宝寺氏と土佐林氏の対立に乗じ鮭延城に帰還し、天正年間に最上氏に属した。

2000/10/4「豊嶋氏」削除:小野寺家臣でなく、安東氏に通ずる国人と判明したため。(→説明を訂正して安東氏に加える予定)


【追加分】

2000/10/4追加
・東福寺道定【とうふくじ・みちさだ 生没年未詳】

兵庫。伏見作事用板(詳しくはここ参照)を安東氏から受け取るに際して受取状を発給している。小野寺氏の中級家臣とおもわれる。

・杉沢道継【すぎさわ・みちつぐ 生没年未詳】
東福寺とともに署名。署名順では杉沢の方が上位であるように見受けられる。東福寺・杉沢共に「道」は小野寺氏当主の偏諱か。


【参考文献】

『六郷の歴史』(十四) 1985
『秋田市史』第八巻 中世史料編 1996
『戦国大名系譜人名事典 東国編』 1985
遠藤巌「戦国大名小野寺氏−稙通・輝道関連史料の検討−」(『秋大史学』34、1988)


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