佐野氏


参考:関東地方詳細図(別のウィンドウが開きます)

【佐野氏略史】

佐野氏は藤原秀郷を祖とするという。秀郷から四代のちの兼行が足利に土着し、足利氏を名乗った。しかし、源頼朝の伯父で謀叛を起こした志田義広に兼行の曾孫、俊綱と子の忠綱が従ったため没落し、一方で一門の成俊は頼朝の御家人となり佐野庄を領し、養子基綱から佐野氏が正式に成立する。承久の乱では六波羅の戦いで後鳥羽上皇方の武士を生け捕った佐野太郎らの奮戦が吾妻鏡に記されている。

時代は下って鎌倉末期、「佐野安房弥太郎」(増綱に比定される)は後醍醐天皇の討伐に幕府側として参加した。鎌倉幕府が滅亡し、建武新政が開始されて、その後足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻した建武二年(1335)から翌年の間、佐野義綱は足利方として上野国から下野国の各地を転戦している。また、一族の一人が足利方として河内にまで遠征していることも知れるという。

佐野氏はその後の行動があまりはっきりとは分かっていないが、享徳三年(1454)から二十年余りに渡って続いた享徳の乱のきっかけとなった、関東管領上杉憲忠の殺害に一族の八椚氏が参加している関係から、反幕府側(鎌倉公方足利成氏方)に付いている。しかし、佐野氏へ幕府からの働きかけもあり、寛正四年(1463)頃には幕府方に付いていた。

戦国期の佐野氏は盛綱−秀綱−泰綱−豊綱−昌綱−宗綱と継承されてゆく。盛綱の代に唐沢山城へ移ったと伝えられ、泰綱は関東の情勢をうかがいつつ、戦国期佐野氏の発展に尽くしたらしい。昌綱の時代には上杉氏と北条氏に属し、どちらかに属すともう一方より攻撃を受ける、という状況であった。この時代、昌綱の弟とされる天徳寺宝衍(佐野房綱)が次代の宗綱まで、佐野氏当主を補佐した。

昌綱が天正二年(1574)に死去すると、子の宗綱が家督を相続するが、佐野氏内部の対立で宝衍は出奔したらしい。その後、滝川一益の下で北関東の諸領主との外交を担っていたと考えられているが、本能寺の変後、一益が敗走すると佐野家に帰参したと見られ、佐野宗綱の補佐に復帰した。このころ、佐野氏は北関東の領主とともに反北条氏の体制をとり、その中心、佐竹氏に従って合戦に参加したと見られている。

しかし、天正十三年(一説に十四年)正月、当主宗綱が長尾顕長との合戦で討死すると、家督相続をめぐって佐野氏家中が対立した。佐竹氏より養子を迎えようとする宝衍派は北条氏から養子を迎えようとする勢力に敗れ、佐野家中を退去した。結果、佐野氏は北条氏領国に組み込まれることになったのであった。しかし同十八年、北条氏が滅亡すると豊臣秀吉と関係を深めていた宝衍は佐野氏家督として認められる。そして富田知信の子、信種(信吉)を迎えた。

だが、信吉は徳川政権下で改易され、配流に処せられてしまう。のち信吉父子は赦免されたが、佐野氏は大名としてではなく旗本として命脈を保つに留まった。

佐野氏系図

【佐野氏の一族・家臣団】

・佐野(北条)氏忠【さの(ほうじょう)・うじただ ?〜1593(文禄2)】
左衛門佐。北条氏康の五男であるという。生年未詳であるが、杉山博氏は兄弟の生年から考えると、天文十六年か七年(1547・48)の誕生ではないかとしている。北条一門として足柄城主となるが、佐野宗綱が戦死し、佐野氏重臣らが北条氏一門の養子を望んだために佐野氏家督を継承する。
 豊臣秀吉の小田原攻めでは再び足柄城を守るがすぐに落城し、小田原城に籠もり水之尾口を守る。小田原落城後は当主氏直の高野山入りに従い、伊豆川津城主影山七郎左衛門を頼って大関斉と号した。文禄二年同国沢田村で没した。

・天徳寺宝衍【てんとくじ・ほうえん ?〜1601(慶長6)】
佐野昌綱の弟、宗綱の弟の両説があるが、年齢的に昌綱の弟で、宗綱からは伯父に当たると考えられている。佐野氏の外交に重要な位置を占めていた佐野一族。兄昌綱の死後、家中対立が原因と考えられる一度目の出奔をし、織田信長と結んで関東を支配する滝川一益の元にあって北関東諸氏と織田政権を結ぶ役割を果たす。
 本能寺の変の勃発後に佐野に帰参、甥宗綱の補佐を行なったと考えられている。しかし当主宗綱が戦死すると養子問題で家中が分裂したため再び出奔。上洛して豊臣秀吉の家臣となり、北関東の諸大名と秀吉との間で活動している。そのため北条氏滅亡後には北条方だった佐野氏の家督を継ぐことを許され、養子として富田信種(佐野信吉)を養子に迎えた。
 なお、宝衍は「天徳寺了伯」や「佐野房綱」と軍記などに記されるが、還俗した形跡はなく、また「了伯」と名乗る良質な史料も存在しないという。

・佐野信吉【さの・のぶよし 1566(永禄9)〜1622(元和8)】
修理大夫。天徳寺宝衍の養子で実父は富田知信の五男。信種と名乗っていたが信吉と改名。関ヶ原合戦に際しては居城の唐沢山城におり、結城秀康の指揮下にあった。慶長七年(1602)には春日岡に築城(春日岡城・佐野城)し、唐沢山より移った。しかし慶長十九年七月、所領没収を命ぜられ、信濃国松本に配流された。大久保忠隣の改易に連座してのことと伝えられる。
 その後元和八年二月赦免され、江戸に戻って程なく死去した。子の久綱も同様に許され、幕臣として復帰した。

・山上綱勝【やまがみ?・つなかつ 生没年未詳】
入道名の「道牛」の方が著名。上野国山上村の生れという。宝衍に従って行動し、関東の大名と中央政権をつなぐ使者の役割を果たす。佐野四天王の一人。

・赤見綱重【あかみ・つなしげ 生没年未詳】
「御老臣」と記される佐野氏の重臣。秀顕の子という。秀顕は下野国奈良渕城主で、元亀二年に赤見村に居住した。そのため赤見と称したとする。

・赤見綱高【あかみ・つなたか 生没年未詳】
六郎。綱重の子。天徳寺宝衍の腹心であったようで、隠居所を赤見郷と定めたとき、綱高に普請を命じたとされる。また佐野氏忠が当主の時にも出陣時には他の家臣の家人を率いていたことが判明する。

・大貫定行【おおぬき・さだゆき ?〜1590(天正18)】
越中守。武重とも。「四天王」の一人。「北条記」によれば、佐野宗綱戦死後の養子について、合議を行なった時の家老の一人であった。のち小田原攻めの時、天徳寺宝衍が佐野城に籠もる家臣に降伏を呼びかけたが、ひとり定行のみが従わず、「命は義よりも軽い」と自害したという。

・大貫武基【おおぬき・たけもと 生没年未詳】
伊勢守。定行の子。父と共に佐野城攻めの時に死亡したものであろうか。

・竹沢定冬【たけざわ・さだふゆ 生没年未詳】
刑部少輔。四天王の一人。清秀の子。父清秀は伊勢崎城主であったという。

・飯塚綱豊【いいづか・つなとよ 生没年未詳】
兵部少輔。「御客臣の内」。天徳寺宝衍が二度目に佐野家を退去した時、宝衍が佐竹家に取り立てを依頼した人物。天徳寺宝衍派の家臣であったと考えられる。

・高瀬綱清【たかせ・つなきよ 生没年未詳】
紀伊守。名は武正とも。田沼秀直(山城守)の弟。佐野(北条)氏忠が当主であったときの文書に頻繁に登場し、兵糧調達や唐沢山城修築・出陣などが命じられている。

・高瀬正道【たかせ・まさみち 生没年未詳】
遠江守。はじめ六郎左衛門と称したか。天正中頃、佐竹氏側の佐竹賢哲との間で書状をやり取りしているのが確認される。佐野氏側の佐竹氏の取次であったと考えられるという。高瀬綱清との関係は不明。正道は「御客家」の田沼秀直の弟という。

・福地寧久【ふくち・やすひさ 生没年未詳】
出羽守。「御客家」と記される。父丹波守綱久は丹波国福知山城主であったと記すが詳細は不明。天正十五年十月二十八日付佐野氏忠の書状の宛名に現れるが、子の福地帯刀の方が宛先として残っている書状が多いため、氏忠が家督の時期に福地氏は家督が子の智之に変わったものと考えられる。

・福地智之【ふくち・ともゆき 生没年未詳】
帯刀。寧久の子。佐野氏忠より参陣・初雁の上納などを命じられている。


【参考文献】

『田沼町史』三 資料編2、1984
『田沼町史』六 通史編(上)、1985
『寛政重修諸家譜』14
杉山博「北条氏忠の佐野支配」(『駒沢史学』25、1978)
粟野俊之「天徳寺宝衍考−戦国後期の関東と織田・豊臣政権−」
(『駒沢史学』39・40、1988、のち同氏『織豊政権と東国大名』(吉川弘文館、2001)第三章第二節に増補の上収録。)


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