結城(白河)氏


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【白河結城氏略史】

白河結城氏は結城氏三代、結城広綱の弟、祐広を初代とする。結城氏の祖、朝光が鎌倉初期の奥州征伐の功で白河庄を領有し、祐広は正応二年(1289)に白河に下向したとされている。

祐広の子、宗広は鎌倉幕府崩壊の時期にあって子らと倒幕に参加、その後は一貫して南朝方に属した。このときの所領増大により分家である小峰家を創設している。宗広の孫、顕朝の代に足利氏に屈したが、室町期は直朝が永享の大乱で北関東から南奥州の中心的人物として活躍、北関東諸家の紛争の調停を度々行っている。

これによって室町期の結城氏は比較的安定的な政治が行われたが、影響力のあった直朝死後の永正七年(1510)、政朝先妻(小峰氏娘)の子、顕頼を差しおいて後妻蘆名氏娘の子を重んじたため、結城氏と分家小峰氏の間に争いが勃発、当主政朝が追われ、顕頼が当主となった。この争いによって白河結城氏はそれまでに獲得した所領を侵略され始める結果となった。

顕頼の子の義綱の代には、結城氏の最盛期には佐竹氏本拠近くまで所領を広げていたのに対して、家中騒動を克服した佐竹氏が徐々に北方に勢力を伸ばし、驚異となり始めていた。結城氏は北条氏と結んで佐竹氏に対し、また周辺の諸勢力との連合を画策したが、那須氏とは合戦が勃発するなど、効果的な戦略が打てず、佐竹氏の侵入をとめることが出来なかった。

この情勢下で、小峰義親による結城家の武力での家督相続が行われ、この争いに乗じて佐竹氏による白河領の占領が行われた。結果佐竹義重の子、義広が義親の養子となり白河結城氏は佐竹氏の従属下におかれることとなった。

その後、義広の蘆名氏相続、義親の家督復帰、豊臣秀吉の奥州征伐などを経て、義親の家系は仙台伊達氏の家臣となり、家督を追われた本宗家の義顕はのちに佐竹氏に仕えた。

※永正期の家督争いについては、白河宗家と同等にちかい勢力を持っていた小峰氏が、白河氏の名跡を継承したという説もある。また、小峰義親による宗家簒奪についても、白河晴綱の庶子(もしくは養子)と思われる義親が、実子義顕の誕生で小峰氏の名跡を継承したのち、義顕と後継者をめぐっての争ったのではないか、という説もでてきている。(しかも、義親が「小峰」を名乗ったことは史料上からは確認されていないという)

白河結城氏系図

【白河結城氏の一族・家臣団】

・結城義顕【ゆうき・よしあき 1567(永禄10)〜1613(慶長18)】
晴綱嫡子。治部大輔と称した。九歳の時に、後見することになっていた小峰義親や白河家重臣によって居城の白河城を追われた。子孫は秋田藩に仕えている。

・結城(小峰)正成【ゆうき(こみね)・まさなり ?〜1635(寛永12)】
小峰義親の庶子。はじめ義里といった。天正十八年に甲斐に出奔。甲斐結城家の祖となる。

・結城義綱【ゆうき・よしつな 1587(天正15)〜1634(寛永11)】
義親の養子で、実は義親弟・義名の子。宮内大輔と称す。義綱が二歳の時義名が死んだので義親が養育、義親に実子がなかったので養子となった。養父と共に身を寄せた伊達家では四百八十石を給され、子孫は伊達家臣として続いた。

・中畠(畑)晴常【なかはた・はるつね 生没年未詳】
上野介。結城晴綱の庶子。母方の中畠氏を相続したため、中畠姓を称した。義親が白河城に入ったときに、晴常も晴綱の後継者の資格があったために晴常派家臣も多数存在し、義親派家臣団と深刻な対立を呈したという。しかしその後の状況は不明である。

・中畠晴辰【なかはた・はるたつ 生没年未詳】

上野介。晴常の子。結城一門ということで白河家中において重きをなしたという。父と義親との対立も晴辰の頃には解決していたようである。

・中畠晴時【なかはた・はるとき 1570(元亀1)〜1590(天正18)】
大学助。晴辰養子で実は晴辰の弟。豊臣秀吉が小田原落城後会津に向かった際、「馬尾滝」において秀吉を狙撃。しかし弾が当たらなかったため逃走し、姓を隈井と改めた。のち蒲生氏郷に従って九戸一揆に出陣、討死した。
 子の晴倶は家臣の相楽氏にかくまわれ成長したので相楽氏を名乗り、のち会津に入った加藤嘉明に仕えたという。さらにその後子孫は水戸藩に仕え、結城姓に復した。

・河東田重清(清重)【かとうだ・しげきよ(きよしげ) 生没年未詳】
上総守。白河結城氏一族といい、河東田郷に住したのでそれを姓としたという。白河義親の命で伊達氏との交渉に当たり、白河氏所領没収ののちの慶長六年(1601)、子と共に仙台に行き伊達家臣となり、三百石を賜った。

・和知直頼【わち・なおより 生没年未詳】
天文四年(1535)、白河義綱(上記義綱ではなく、晴綱父)の近津大明神への寄進状の添状を発給している。文書付箋に「白河宿老」とあるので、上級家臣であろう。今泉氏によれば、永禄四年十一月の書状が確認されているという。
 和知氏は通称「十郎」から「美濃守」の官途を名乗る系統と「右馬助」から「周防守」へ官途が変遷し、通字を「頼」とする系統があったとする。のちに幼い白河義顕を白河城より追い出し、小峰義親の入城を手引きするなどしたとされる和知美濃守は前者の系統を引くものである。
2000/11/9加筆

・佐藤忠秀【さとう・ただひで 生没年未詳】
大隅守。天正四年、佐竹氏によって奪われた赤館城(棚倉町)奪回のため出陣するとき、忠秀が軍師に任じられたという。結果、一度奪回に成功したが、再び大軍をもって奪われている。

2000/8/28「略史」加筆訂正


【追加分】

2000/11/9追加
・斑目広基【まだらめ・ひろもと 生没年未詳】

信濃守か。小泉氏によれば、天文十三年閏十一月の鹿島最勝寺鐘銘に和知直頼と共に奉行として名を記す。「白川結城氏年中行事」の正月五日の「椀飯之事」(正月に家臣が主君に酒食を振る舞う行事)に記される斑目信濃守と同一人物ではないかという。諱の「広」は結城晴綱が元服して「晴広」と称していた頃の偏諱か。

・芳賀綱勝【はが・つなかつ 生没年未詳】
左衛門。「椀飯之事」では二日目に記される。上記斑目氏より格が高い重臣と考えられるという。


【参考文献】

『福島県史』第1巻 通史編1 1969
『矢吹町史』第二巻 資料編 I 1977
『矢祭町史』第2巻 史料編 I 1983
結城錦一『結城宗広』 1941
『仙台藩史料大成 伊達治家記録』1(1972)・2(1973)
渡部正俊「戦国大名白河結城義親について」(小林清治先生還暦記念会編『福島地方史の展開』所収、1985)
垣内和孝「白川氏・小峰氏と「永正の変」−南奥白川氏の権力構造−」(『国史学』166、1999)
今泉徹「『白川結城氏年中行事』の基礎的考察」(國學院大學『大學院紀要−文学研究科−』第27輯、1996)


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