相馬氏

参考:東北地方詳細図(別のウィンドウが開きます)

【相馬氏略史】
相馬氏は平将門の後裔であり、途中で血脈が絶え、養子が千葉氏(平氏)から入った。相馬氏の祖は相馬師常で、源頼朝の奥州征伐に従い、戦功で相馬郡を与えられたことに始まる。六代重胤が相馬に土着、鎌倉幕府崩壊の時の鎌倉攻めに加わり、本領を安堵された。南北朝期には北朝に従っている。この重胤の代に小高城(相馬郡小高町)を築いた。小高城は慶長十六年(1611)まで約三百年に渡っての居城となった。

 室町・戦国期には領土の規模がさほど大きくないために蘆名・伊達氏などと婚姻関係を結び、その下で独立を保っていたといえる。「天文の大乱」のときには相馬氏は稙宗の側につき、度々晴宗に攻められている。そのためにそれ以後伊達氏と争うことが多くなった。天正十八年(1590)までの五十年間に三十回もの合戦があったという。

義胤(1548〜1635)の代には伊達氏の勢力拡大に伴って、徐々に劣勢に追い込まれていった。義胤は伊達氏に徹底的に抗戦し、服属するならば討死したほうがよい、と言い放ったと伝えられ、滅亡の道を突き進むはずであったが天正十八年(1590)の豊臣秀吉の全国平定によって滅亡は免れた。しかし関ヶ原合戦で伊達氏への対抗上西軍につき、所領を没収されて義胤は三春に閑居した。だが伊達政宗のとりなしで慶長九年(1604)本領を回復。六万石を領し幕末に至った。

相馬氏系図

【相馬氏の一族・家臣団】

・相馬郷胤【そうま・さとたね ?〜1601(慶長6)】
義胤の弟。父盛胤の隠居地、田中城(館)で同居し、盛胤が中村城に移った後は田中城代となる。文禄元年(1592)当時、千三百石余を領していたことが分かる。
2002/8/25加筆

・相馬隆胤【そうま・たかたね 1551(天文20)〜1590(天正18)】
兵部大夫。義胤の弟。永禄六年(1563)から中村城(福島県相馬市)の城代となる。天正十八年、伊達氏との戦いで討死。以前より「小利を貪って終には大利を失うであろう」と心配されていたといい、勇猛であったが猪突猛進型の武将であったようである。

・水谷胤重【みずたに・たねしげ 1538(天文7)〜1606(慶長11)】
式部。相馬氏の重臣。父は胤氏。天文十一年(1542)父が伊達氏との合戦に討死し、叔父胤清に養育された。長じて天正年中、度々合戦に従う。
 慶長五年、伊達政宗がわずかな手兵で相馬を通り仙台に帰る時、相馬で一泊したいと申し出、この隙に襲撃するべきとの家中の意見に対し、「仇敵でも、このように頼ってきている者を討つのは武士ではない」と発言したという。相馬義胤はこの意見を容れ、政宗は一夜を無事に過ごし仙台に帰った。この出来事のために相馬氏は改易されたあと、伊達氏のとりなしを得て本領を回復できたのだという。

・木幡継清【こばた・つぐきよ ?〜1618(元和4)】
大膳、因幡。相馬盛胤・義胤・利胤三代に仕えた老臣。度々合戦で軍功があったという。

木幡高清【こばた・たかきよ 1537(天文6)〜1642(寛永19)】
駿河。相馬氏五代に仕え、天文から天正にかけて活躍。検地代官や利胤の傅役も務めている。「相馬旧記」編纂時には古来の出来事を詳らかに語ったという。寛永十九年、百六歳で往生という。

・木幡清吉【こばた・きよよし 1570(元亀1)〜1665(寛文5)】
高清の嫡子。盛胤・義胤・利胤・義胤・忠胤と、相馬藩主五代に仕える。天正年中に各所に出陣する。慶長十六年、本城を中村城に移した時、町割屋敷縄張奉行を務める。

・佐藤為信【さとう・ためのぶ ?〜1591(天正19)】
宮内、紀伊。好信の子。小斎城(宮城県丸森町)城代となり、天正九年(1581)、郡左馬助を殺害し伊達氏に寝返った。
 佐藤氏は元岩城氏の家臣。為信の父、佐藤好信は相馬盛胤に召し抱えられ、磯部城(相馬市)を預けられて軍奉行に任じられた。しかし郡左馬助の讒言で奉行を罷免、預地を没収の上に居館を狼藉されたので討ち果たそうとしたが、年老いていたので子の為信に左馬助の誅殺を託した。為信は小斎城代になった折、伊達氏との合戦で援軍として来た左馬助を討ち果たし意趣を晴らした。
※1999/10/26改訂(「佐藤宮内」=佐藤為信でした)

・佐藤勝信【さとう・かつのぶ 生没年未詳】
為信の子。伊達氏への投降に際し、人質として差し出された。子孫は伊達一族に列した。

・泉田顕清【いずみた・あききよ 生没年未詳】
標葉郷標葉館(福島県浪江町)主。文禄始め頃の支配帳に存在している。

・岡田直胤【おかだ・なおたね 生没年未詳】
小高郷岡田館主。同じく支配帳に記されている。以下の二人も同様。

・泉胤政【いずみ・たねまさ ?〜1633(寛永10)】
中郷泉館主。

・桑折久家【こおり・ひさいえ 生没年未詳】
北郷田中館主。

・草野直清【くさの・なおきよ 生没年未詳】
顕胤時代の中村城代。中村城獲得直後に任命された模様。天文中期頃と思われる。

・藤橋胤泰【ふじはし・たねやす 1507(永正4)〜1579(天正7)】
紀伊守。泉田胤重の二男で藤橋胤隆の養子となった。永禄・元亀年間に金山城城代となる。
※2001/2/20加筆訂正(藤橋剛志様のサイト(下記)の情報による)

・門馬大和【もんま・やまと 生没年未詳】
元亀元年(1570)、丸森城(宮城県丸森町)を陥落させた後、城代に任じられた。


【参考文献】

『福島県史』第1巻 通史編1 原始・古代・中世 1969
松本敬信『相馬の歴史』 1980
『戦国大名系譜人名事典 東国編』 1985
『仙台藩史料大成 伊達治家記録』二 1973
岩崎敏夫・佐藤高俊校訂、岡田清一校注『相馬藩世紀 第一』続群書類従出版会、1999


【他サイト情報】
1)相馬氏は千葉氏一族ですので、「千葉氏の一族」(千葉ちゃん様)が詳細で、おすすめです。
2)相馬氏家臣団については「ふみやしゅう」(武藤舜秀様)で多数紹介されています。
3)藤橋胤泰のご子孫の方が「藤橋氏 桓武平氏標葉流(藤橋剛志様)を作成されています。

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