忠直の逸話集
秀康の場合と同様、ほぼ直訳ですが、勘違いの意訳も多分にあります。

【出典】
「叢記」=福井県立図書館・福井県郷土誌懇談会編『福井県郷土叢書第七集 国事叢記』(上)、1961
「秀康年譜」=「浄光公年譜」『徳川諸家系譜』四(続群書類従完成会 1992)所収
「忠直年譜」=「西厳公年譜」(同上)


−忠直の怪力−(「忠直年譜」)

ある日、忠直公は馬場に遊びにお出でになった。奴三左衛門という者が傍らで控えていたところ、忠直公は戯れて拳で三左衛門の頭を叩かれた。すると、三左衛門はたちまち前に倒れてしまった。
 後に三左衛門は「若殿は恐るべきお力をお持ちだ。蕨のようなちいさな拳で戯れて拙者の頭をお叩きになっただけなのに、その痛みは想像を遙かに超えるもので、思わず前に倒れてしまった。まったく恐るべき強力であることだ。」と人に語った。人々は初めて忠直公が生まれつき強いお力をお備えになっていることを知ったのであった。


−忠直、越前相続−(「叢記」)

伝えるところによれば、忠直公の老臣、本多伊豆冨正ははじめ、江戸・駿府に参上して(忠直公)の御家督の御礼を申し上げた。
 そのとき、(秀忠公は)「越前国は大国であって、また北国の要地である。幼主に相違なく相続を許したのは、お前が殉死を留まったことで安堵したものなのである。国に帰って政務をもっぱらにして幼主を守り立て、中納言(秀康)の死後こそ、その恩義に報いよ。忠直が十六・七歳になったときに娘を一人与えよう。お前は、(忠直に)自分の子の様にかしづいて決して君恩を忘れるでないぞ。」と仰せになった。
 冨正は感激の涙を止めることが出来ないまま退出した。忠直公も御暇を賜り、伊豆も時服を拝領した。(冨正は)帰国のあと、政治を中心に行ったので、国民は豊かに繁栄した。

また聞くところによれば、忠直公は江戸に山手お屋敷を御拝領になり、普請があった。伊豆も浅草柳原に屋敷地を拝領した。


−勝姫入輿−(叢記)

伝えるところによれば、姫君は(北庄城の)二の丸に居住なさったとのことである。十月十九日、土井利勝らは江戸に戻った。長谷川筑前守は越前に詰めることになった。

また伝えるところによれば、姫君は越前府中の本多冨正の館にご到着になって暫くご休息なされた。その間にお歯黒の儀式を行い、冨正の妻が筆を献上した。
 北庄へ冨正夫妻もお供し、女中筆頭を大上搆苺といった。これより、府中城を「御茶屋」と称した。


−久世騒動(その一)−

(忠直年譜)
この年(慶長十七年)、老臣争論の事について裁断があった。
 はじめは家老久世但馬守の知行地の民、某(甲)が、故あって町奉行岡部自休の知行地の民某(乙)を暗殺した事が発端であった。そののち、この事件がやっと表沙汰になったとき、この乙の親族が知行主の岡部自休に訴えた。自休はこの事を久世但馬に伝えて犯人の引き渡しを求めたが、但馬は本多冨正・竹島周防守などと協議した結果、犯人を匿い、事件を握りつぶしてしまった。
 自休は今村掃部助・清水丹後守・林伊賀守らと相談し、中川出雲守から忠直公にこの一件を訴えたが、本多冨正と竹島周防はこのことを忠直に上申しなかった。
 自休は大いに怒り、「今奸計のために私が訴えても(忠直公の)お耳に入らない。私はこの事を関東に訴え、また家老共の悪を暴いてこの恨みをはらす」と語って直ちに江戸に向かって発足した。牧野主殿助も加勢として従った。
 忠直公はこの事を耳にし、人を遣わして両人を留め、「このような小事で関東の裁判を仰ぐには及ばない。直ちに戻って但馬と対決すれば、理非は明らかになるだろう。」と諭した。両人はこれを受け入れてそうならば何を求めるものであろうか、と帰還した。牧野はすぐに高野山に登って剃髪して入道した。
 忠直公は既に但馬に対して、速やかに対決するようにと命ぜられていたが、但馬は敢えて命に従わず、そのため誅伐をうける事となった。

 今村・清水・林らはかねてより本多冨正と仲が悪く、この時に乗じて久世と本多が並んで没落することを望んだので、忠直公に対して「今、久世を征伐するのは本多に勝るものはおりますでしょうか。この度の討手は伊豆(冨正)にお命じになされませ」と申し上げた。忠直公はすぐに冨正を召したが、冨正は危険を感じて府中城を離れなかった。冨正は人質を賜ることを望み、人質が渡された後に初めて召しだしに応じて北庄城に参上し、十月十八日、命を受けて久世邸に行き、従者を門の外に待機させて但馬と会談した。会談が終わり冨正が返ろうとするとき、久世家臣の木村八右衛門が冨正を殺害しようとした。但馬はこれをとどめ、「私の最期は今日目前に迫っておる。私の死後、私の存念を語ることができるのはただこの人を頼るのみである。決して手を動かしてはならぬ。」と固く制した。そのため冨正はわずかのところで免れて門外に出、備え置いた家臣を進めて久世の屋敷を攻め囲んだ。
 久世方にいた婦女や老人・子供は前夜全て脱出していたので、精鋭の家臣百五十二人が力を尽くして防戦した。寄手は先を争って攻めたが、屋敷を陥れることはできなかった。
 翌日になり、但馬は自ら火を放ち、その中に自害して果てた。久世但馬の家臣は討死、或いは自害して一人も生き残ったものは無かった。また、寄手の討死は二百七人出たということである。
 十九日、忠直公は青木新兵衛入道芳斎・永井善左衛門安盛を使者に立てて弓木左衛門入道斉安と上田隼人に死を賜った。二人は自害し、家臣は皆戦って討死するものがすこぶる多かった。竹島周防は久世党の頭目であったので、刀を取り上げて北庄城の櫓の中に監禁した。
 ここに至ってこの越前国内の動乱が関東に聞こえたため、閏十月十八日、書状を遣わして本多伊豆守・竹島周防守を召しだした。今村掃部助・清水丹後守・林伊賀守は本多冨正が勢いを得てますます権勢を増すのを嫌い、本多らに召しだしの書状が来たのも知らずに三人で大御所(家康)に訴えるべしと駿府に至った。この時、家康公は猟りで江戸に居ると聞き、江戸に行き武蔵国忍城下で訴状を家康公に提出した。そのとき、既に本多・竹島も召し出しに応じて忍城下に参上していた。たまたま土井利勝が将軍秀忠公の使者として忍城に来ていたので、家康公は利勝に命じて越前諸士の訴えを聞き届けさせた。
 利勝は今村掃部などの旅館に来て本多などを呼びだし、自らは中央に座って両党を左右に列座させ、訴えの内容を詳しく聞きただして逐一書面に記録し、夜半になってやっと利勝は忍城内に帰ってこれを報告した。
 家康公は二三行ばかりご覧になって、「この事は江戸で将軍と共に聞こう」とその書面を再び利勝に戻した。

 十一月二十七日、江戸城西の丸において、家康公・秀忠公は諸士の訴えをお聞き遊ばされた。本多冨正は「岡部自休が訴える内容としては、私はもとより自休側にその理があると知っていましたが、久世但馬は武名の高い宿老、今農民の訴えにより処罰する事を見るに忍びませんでした。そのため久世の側に立って自休の訴えを聞き入れませんでした。」と述べた。
 竹島周防に対しては、なぜ先の主人(秀康)の恩を忘れて、幼い主君を軽蔑する但馬に組みしたことはどのような考えが合ってのことか、という質問が発せられた。周防は「私はいままで但馬と親類の縁もなく、交際もありませんでした。ただ、考えると先君(秀康)が越前にお入りになったはじめに、秀康公は『私は国を得て喜んだことが二つある。一つは北陸の要地に拠ることになったことと、二つは有名な士である久世但馬を家臣に迎えることが出来たことである。』と仰って、但馬が佐々成政に仕えて功名が特に多かったことを感心されて他の家臣に比べて厚遇なさいました。先君がこのように愛した人物であったため、私も特に尊敬する心を持っておりました。そのため理非を論ぜず但馬に与して自休の訴えを拒んだことは先君の恩をお慕いする余りに起ったことでございますのでこのために罪を得て重罪になるとも全く悔いることはありません。」と述べた。
 その他、諸士の訴えた内容をつぶさには載せないが、私(筆者)が事情を勘案して考えると、久世・本多が権勢を増し、他の同輩を軽蔑する等のことがらを挙げて嫉妬の心から訴え出たことであるので、家康・秀忠両公の考えを動かす者はなかったようである。
 翌二十八日、今村掃部助・林伊賀守・清水丹後守を処罰し、丹後は仙台伊達政宗へ、伊賀は上田真田信之へ、掃部は岩城鳥居忠政へお預けと決まった。本多伊豆守は今後益々忠誠を誓って国務を指揮し、竹島周防守は今までの通り政事の合議に参加するべき旨を命じられ、各々越前に帰国した。周防は途中駿河鞠子の宿で自殺した。これは以前、城内の牢に入れられて、江戸に行くときも檻のついた車に乗せられたことを恥じ、再び人に対面することが出来ない、との考えからであるという。

旧記に記すには、今村以下の罪を断ぜられてのち、大御所は本多伊豆を召しだして直に厳しく譴責なさった。伊豆はこのことを秘して人に告げなかった。そのため他の人はこのことを知らなかった。


以下続く。

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