逸話集
ほぼ直訳ですが、勘違いの意訳もあると思います

【出典】
「叢記」=福井県立図書館・福井県郷土誌懇談会編『福井県郷土叢書第七集 国事叢記』(上)、1961
「秀康年譜」=「浄光公年譜」『徳川諸家系譜』四(続群書類従完成会 1992)所収
「忠直年譜」=「西厳公年譜」(同上)


−家康との対面−

・その一(「秀康年譜」)

 初め、東照公(家康)はどのようなお考えがあってのことか、表向きでは秀康公をご自身の子ともなされなかったが、兄信康公は岡崎城で「なんとかして秀康を父上にお目にかけなければ」とお思いになっていた。そんな中、近く家康公が岡崎城へお入りになることを聞き、「これこそ良い機会だ」と秀康公をお招きになり家康公とのご対面の時の手はずをよくよくお教えになった。

 家康公が岡崎城にお入りになり着座なさったとき、秀康公は手はず通りに家康公の側の明かり障子を引き揺らし、「父上、父上」とお呼びになったところ、家康公は事情を察して早速お立ちになろうとなさったけれども、信康公は家康公の袖をつかみ、「信康の弟は既に三歳になりました。今日お目にかけようと思っています」と仰せになり、その勢いをご覧になって家康公は座に直られ、やがて信康公が秀康公の手を引いて参ったのを家康公は近くにお召しになって膝の上にお載せになり、ついにご父子のご対面が叶った。このとき家康公は脇差と葵紋を入れた甲冑を秀康公にお与えになった。

 信康公はこのことを殊の外お喜びになったが、秀康公はなお本多重次の屋敷でご成長なさった。そのため信康公は平岩親吉に秀康公の相印と槍の制作をお命じになったが、親吉は本多重次の忠孝を長くお忘れにならないようにと「本」の字を分解して「大」の相印と十字の槍の鞘を作って献上したのである。

・その二(「叢記」)

 ある日、信康公がご在城なさっていた岡崎城に家康公がお入りになった。信康公は予め秀康公をお預かりしていた本多重次に事情をお話になり(秀康公を登城させておき)ましたが、信康公と家康公のご対面の時、対面所の障子を秀康公は御次の間からお叩きになった。家康公はそれを聞きとがめて、誰の仕業かと詰問なされようとしたが、信康公は座をお立ちになり、秀康公の手を引いておいでになった。そして「この者は私の弟で徳川於義丸です。ご覧下さい」と申し上げたところ、家康公は秀康公を膝の上にお抱えになり、「丈夫な生まれつきであることだ」とおっしゃったので、信康公もまた「この者が息災に育ったなら、よく私の力になってくれるでしょう」と申し上げた。家康公は殊の外ご機嫌が良くあそばされ、脇差を秀康公にお与えになった。この出来事より御家中はみな於義丸君と申し上げて尊敬したけれども、これも信康公のお取りなしがあった故である。


−羽柴秀吉への養子入り−(「叢記」)

 於義丸君が秀吉公へご養子となって御下向なさる前、しばらく三河国内の民家に御逗留なされたときに、大和国奈良・摂津・和泉の医者や山伏・寺院など裕福な民や芸に秀でる者どもが悉く下向し於義丸君の旅館に集い、御祝儀を賀したということだ。本多重次・真瀬篤休などが饗応したが、このとき於義丸君は初めて御謡をお習いあそばした。長谷部釆女という越前生れの浪人が師範を務めた。
 (於義丸君は)釆女の事を秀吉公・家康公にお話になったので、秀吉公は釆女を於義丸君へ直接お付けになり、信国の刀を、家康公からは兼定の刀を拝領したということだ。

 また、ある話によれば、於義丸君が大坂城に入った時、秀吉公は於義丸君を奥の部屋へお連れになり、御髪を整え直して小袖も悉くお召し替えさせられ、再び手を引いて表にお出になって、(付き添ってきた榊原康政に向かって)「康政。いかに夷の中に育った家康の子でもこの秀吉の養子にすれば、容姿が見違えるほどになったであろう。このことを帰国して徳川殿へ伝えるがよかろう。」と様々にご自慢なさって、康政を浜松へお返しになった。これは天正十二年十二月十二日のことであるという。

 またある話では秀康公は於義丸君をご養子になされたときにお約束して「後日、実子が生まれたときにはまた別の家へ養子にする。もし、養子にしなければ百万石を与える。実子が生まれなければ天下を譲ろう」と仰ったそうである。


−養子後の出来事−(「秀康年譜」)

 初め秀康公は羽柴家の養子であったが、旗下の武士ら多くは人質同様と理解して侮り、往々にして無礼の振舞いが多かった。秀康公はこのことを憤り、「我は不肖であるといえども家康の実子でこの羽柴家の養子である。であるからには籏下の賤人であってもどうして我を軽蔑することができようか。これから後に無礼の振舞いをすれば、即座に討ち果たす」と仰ったのを秀吉公は伝え聞き、気性の剛勇を誉めて即刻諸士の無礼を禁じて、また羽柴家の紋の入った熊皮の鞘の槍を与えて人質で無いことを示し、さらに山岡備前を傅とし、小栗大六と同様に五千石を与えた。


−秀康の危険と本多重次−

・その一(「秀康年譜」)

 秀康公の母永見氏が大坂に参った。これは最近秀康公の御身に危険がある等という風説をしきりに聞いたためで、永見氏は大いに驚いて、医者の村田意竹などを従えて急いで大坂にきて秀康公を保護したのであった。
 秀吉公は(三河に戻っていた)本多仙千代を呼び返そうとした。しかし(父の)重次は仙千代の母の病が重く、孝行が必要であると称して代わりに甥の源四郎(本多冨正)を上坂させた。

・その二(「叢記」)

 秀吉公は家康公のご上洛がないことをお怒りになって、既に秀康公を害せられたとの噂であった。これを家康公はお聞きつけになったが、「三河守(秀康)は秀吉に養子として渡したので、我の子でない子供を本当に殺していたとしてもどうとも思わないので勝手である」と仰っていたという。
 このことを秀康公のお母上であるお万の方がお聞きになって三河国をご出奔なさって難波へお出でになった。このとき村田意竹が付き従った。同じように、本多重次も我が子、仙千代の行く末が心配になり浜松へ取り戻し、その代わりとして本多源四郎(本多冨正)を付けさせた。


−秀康の初陣−(「秀康年譜」)

 (天正十五年)四月、豊前と筑前の境にある岩石城を攻めた。蒲生氏郷が城面(表?)、前田利勝が城の後背の先鋒となった。秀康公は佐々成政・水野忠重と共に二陣に列していたが、山を半ばまで登ったとき、もう落城してしまったので(これ以上の)お登りは無用、との使者が先手の二人の武将より来た。秀康公は今日合戦に至らなかったことを無念に思われ、ひどくお怒りになって涙をお流しになったのを佐々成政は深く感じ入って、「敵の城がはやく陥ちたということは二の手の威光が強かったためでございますので、これを秀康公のお手柄になさいませ」と慰めた。
 後日、成政は秀吉公の御前でこのことを詳しく申し上げて「さてさて、(秀康公は)徳川殿によく似た御気性」と誉めたのを秀吉公はお聞きになり、「いやいや成政、そうではなくて、秀康は我の養子となったので弓箭の気性もこの秀吉に似たのであるよ」と自画自賛なさったということだ。


−天皇行幸にて−(「秀康年譜」)

 四月十六日、和歌会があり、公卿や諸侯が皆歌を詠んだが、秀康公は「寄松祝」という題で

玉をみがくみぎりの松は幾千歳
君が栄えんためし成るらん

と詠んだ。


−秀康、無礼討ち−

・その一(「秀康年譜」)

 ある日秀康公が馬場に出て馬を召したとき、秀吉公の馬を預かる者が同じく出て馬を並べて馳せ、とても無礼の行いをしたので、秀康公は馳せ違う時に刀を抜き、(その者の)首を打ち落とされたので、たまたまそこに居合わせた秀吉公の御家人などが「狼藉を行った」などと囁いた。
 秀康公は馬上からその者らを睨み、「どのような理由があって、殿下(秀吉)の御家人である者が秀康と争って馬を走らせ、その上無礼をなすというのか。方々も無礼の挙動をして過ちがあっても秀康を恨むことのなきよう」と仰せになったので、恐れて近づくものはなかった。
 秀吉公はこれをお聞きになり「秀吉の子に向かって無礼をした者の罪は死罪である。天晴秀康は剛勇であるばかりでなく、早業も人に勝っている事よ」と関心なさった。

・その二(「叢記」)

 伏見の城内の馬場で秀吉公が騎馬をご見物なさって秀康公もお召しになった時、秀吉公の馬役の侍どもも(秀康公と)同じく騎乗していた所、秀康公とすれ違う時に無礼の振舞いがあったので、秀康公はご不興に感じて、馬上で一打ちにお切り落とし遊ばされた。秀吉公の見物する場所にほど近いところだったので、諸人が騒動したということだ。


−結城の老狐−(「秀康年譜」)

 この頃、結城城内に長命の老狐が住み着いていて、夜毎に妖怪となって人を惑わせることがあったのであるが、秀康公が一度弓矢の弦を弾き鳴らしてお鎮めになったところ、妖怪はたちまち消滅して二度と現れることはなかった。これは秀康公が箭の道で既に吉田重氏の奥義を究めなさったためであると、人々は感心しあったとのことだ。


−秀康の見廻り−(「秀康年譜」)

 秀康公が肥前名護屋に在陣中、毎夜家臣二人を従えて、或いはお一人で営中を巡検して、諸営の動静を視察して篝火番衛の行動を観察なさることが一晩中、或いは一晩に二三回に及ぶことがあった。結局秀康公は帰陣まで一日も怠ることはなかったということである。


−秀康と冨正−

・その一(「秀康年譜」)

 秀康公の家は近年朝鮮出兵や引き続きの邸宅の移転などで多額の出費が続き、財産を使い尽くして食料費までも乏しくなってしまったため、秀康公は本多源四郎冨正に結城に帰って家臣らでこの財政難を救う方策を相談するようにとお命じになった。
 冨正は命を承って結城に帰り、家臣らに説明して蓄財を没収して、また山林の竹木を切り出し、売り払ってお金に換え、黄金十枚にして急いで伏見に戻ったところ、秀康公はこれをお悦びになってお褒めになり、また冨正の器量と智計を大いに利用するべきであるとお思いになったからか、特にご寵愛が深く、冨正ははじめ二百石だったのが加増して七百石となった。
 これより後、冨正は頻繁に登用され、ついに老臣の第一に登って府中の城を預けられて与力と共に七万石(原文まま)を知行し、長く権威を保った。このきっかけがこの行動によるのだということだ。

・その二(「叢記」)

 伝え聞くところによれば、近年国が乱れて出陣が多く、秀朝(秀康)公は御勝手不如意となって、家臣達は資金を調えることができなかった。本多源四郎は結城に帰って、疲弊した百姓に頼み、また山林や竹木を売り払って、判金十枚を得て伏見へと戻った。秀康公は待ちかねて結城へ飛脚をお遣わしになっていたが、清見寺で冨正と行き会ったので、それから冨正は昼夜関係なく馬を走らせて伏見に到着し判金を秀康公に捧げた。秀康公はお喜びになって三百石を加増なさり、計五百石を拝領することになった。


−於国歌舞伎−(「叢記」)

 伝え聞くところによると、ある日、秀康公が御任官の御祝儀として伏見で御簾中をはじめ御家中の下々の者まで御料理を下さった。そのころ、於国という歌舞伎を演じる女性を召してご見物なされたところ、「水精之念珠」(水晶の数珠?)を襟に懸けて舞い踊ったのを秀康公はご見物になり、「水晶は見苦しい」と申されて自身の鎧の上にお掛けになり、「瑚珠之念珠」(「珊瑚の数珠?)を下された。
 ご熱心に於国の舞をご覧になって涙をお流しになり、「天下には何万人の女子がいるが、(この芸の道で)一人名をあげるならばこの女である。我は男であるが、天下で一人の男になることができない。嗚呼、女にさえ劣っていることは無念であることよ」と仰った。


−石田正宗−

・その一(「秀康年譜」)

(福島正則らの石田三成襲撃の話は省略)
 (三成が佐和山へ蟄居するに際して路次の安全がおぼつかないとして家康は)秀康公に三成を送ることをお命じになり、生駒近(親)正・中村一氏(一説に堀帯刀一人)をお副えになった。秀康公が三成に「今日、私は必ず卿を佐和山にお送りいたします。卿の家臣を二手に分けて前後に配置し、私の家臣どもには馬廻りを包んで守らせ、何か事が起こったときには力を尽くして防ぎ戦い、万一それも叶わなかった時には私と卿とで馬上で差し違えようと考えておりますので、そのお覚悟をご家来にもお申し付けありますように」と仰せになり、手勢には腹巻や胴丸などを着込ませて、鉄砲の五挺に一挺づつは火縄に火を付けて持たせて、軍令を厳しくお決めになり、閏三月十一日の早朝に三成と道の中央に乗りだしてご出立なさった。

 醍醐・山科に至る頃にはすでに佐和山より迎えに来た三成の手勢をとても多く目にするようになってきたので、三成は秀康公の護衛を固辞したけれども、しばらく行った膳所の大樹のあたりに至って、三成は下馬して、秀康公の鎧をつかんで涙を流して恩を謝し、「既にそれがしの従者が追々参っておりますので、ぜひともここでお帰り下さいますように」と述べた。
 秀康公は「佐和山のこちら側の切り通しまでお送りいたします」と仰せになったところ、三成は「そのようなことがあってはそれがし、男が立ち申しません。ふたたび世間に顔出しができません」と却って迷惑であることを申したので、秀康公は「それならばここから戻りましょう」とご了承なさった。そこで三成は今は亡き太閤秀吉公より拝領した名器で、腰に帯びていた正宗の刀を秀康公に捧げた。秀康公は家臣に命じてこれをお受け取りになり、御自らもご返礼としてそれに相応しい脇差をお送りになって東西に分かれてお帰りになった。

 近正は帰還してこの出来事を家康公に詳しく言上したので、家康公はとてもご満足そうであった。三成も家臣に向かって「私が秀康卿のお人柄を見るに、雄才深慮あって、一言一句でさえおろそかにしない。年齢が三十にも達していないのに、進退・動静の推測がはずれることはない。誠に並ぶ者がない名将であろう」と評したということをのち石田家の家人が語ったと言うことである。

三成が贈った刀を「石田正宗」といった。また槍や剣の傷が二・三か所あったため、「切込正宗」とも言い伝えて家に伝来している。

・その二(「叢記」)

 また聞くところによれば、佐和山へは土屋左馬助昌春が見送った。三成は昌春を饗応して正宗の刀を持ち出してきて「これは古太閤のご秘蔵の御指料であったのを、それがしが拝領致しました。これを貴殿へ遣わし置きます。もし、三河守殿(秀康)がご覧になってお気に入りになり、御指料にもなさりたいならば本望の至りでございます」といって昌春に渡したということだ。
 また一説には、笹治大膳正時が三成を送り届けて正宗の刀を貰うともある。この正宗の刀は今(弘化三年、1846)、越後守殿(津山松平家)の家に伝わるそうだ。石田正宗とも切込正宗ともいう。


−伏見城の留守番−(「秀康年譜」)

 九月、家康公は大坂城に行って重陽を賀すために、秀康公に伏見城の留守を任せて七日に大坂に下り、かつての石田三成の屋敷に宿泊した。
 その夜、増田長盛・長束正家がかねてより三成の密謀を受けて、密かに屋敷を訪れて告げるには、前田利長が異心あって家康公が登城したときに浅野長政が出迎えて手を取り、大野治長と土方雄久が協力して家康公を亡き者にしようとの企てがあるので、ご用心なさったほうが良いということであった。
 そこで、家康公はすぐに伊奈昭綱を伏見城へ遣わして、秀康公へ留守を守っている御家人などを悉く大坂に遣わすようにとの仰せを伝えた。

 秀康公は仰せを承り、早速御家人を皆遣わしたけれども、大番組の家臣六組の内、二組はすでに家康公にお供しており、残りの四組を秀康公は伏見城に留め置かれた。これは秀康公が、万が一家康公が既に害されていたとしたならば、たとえ何百万騎を遣わしても意味がない。もし、そのようなことになったならばこのように(伏見城を死守)した方がよい、とお考えになったためである。
 そこで、「大番の侍は遣わしませんでした」とその(伏見城での)陣容を一々記して、昭綱に与えてお帰しになった。これによって御家人は伏見城から出立し、九日の明け方になって大坂に到着したものは三千八百人にのぼった。
 しかし城内での策謀は元々が奸計の空言であったので、実際には何も起きなかった。秀康公は特に留守にご用心なさって、西ノ丸へ槍二百本と鉄砲二百挺、大手口には多賀谷左近、舟入の方の口には水谷左近、松ノ丸へは物頭、舟入へも物頭を配置し、(ご自身のまわりには)馬を三匹揃えて、城内も城外も厚く守りをお固めになり、人々の落ち着きようは普段の如くであった。
 家康公は昭綱の奉った書をご覧になり、「天晴秀康は父よりも生れがすぐれておる」とご感心することがしきりであった。

 家康公はこれより増田長盛・長束正家の勧めに従って、大坂城西ノ丸にお住まいになった。十月八日には浅野長政をその領地である甲斐にお退けになったので、長政は武蔵府中に蟄居した。土方雄久を常陸太田に配流し、大野治長を結城に配流なさった。治長の母は太閤に仕えるもので、秀康公が太閤の養子であった頃に秀康公と治長とは顔を合わせたことがあったからである。


−関ヶ原前夜−(「秀康年譜」)

その一

(前略)
 (八月)二十四日、(家康公は)小山の古城にご到着なされた。丁度上方よりの早馬が来て、石田三成が軍を起こして伏見城を包囲し、攻めていることを報じた。家康公はまず、幕中に居合わせた諸士と評定をなさって、宇都宮に在陣している諸将をお召しになった。すでに白河まで進んでいた軍勢もあったが、この情報を受けて急いで小山へ馳せ戻って評定があり、ここから引き返して上方へ向かうことに決した。

 さて、本多正信に家康公が「我等が西に向かえば、(上杉)景勝はその後を追って攻め上るであろう。そうすれば関東に乱入することになる。誰がここに残って軍勢を支えることができるだろうか」と仰った。正信は「誰とは申すまでもないでしょう。秀康卿の他にはおりません」と申し上げた。(家康公は)そうであれば、と秀康公をお召しになった。正信は秀康を迎えて、「さて、秀康殿、天下の趨勢は今日決しました。よく心して物を申し上げなさいますように」と申してあとに付いて家康公の御前に参上した。

 家康公が仰られるには「このたびはお前がよくここに留まり、私のために関東を鎮護してくれれば、私の兵力を主力に上方に向かい、勝利を得ることができると思うがどうか」とのことであった。これを聞いて秀康公は顔色を変え、「秀康がどうしてここに残ることになるのでしょうか。ただどこにあっても(父上の)先駆けこそいたしたく存じます」と仰ったところ、(家康公は)「上方の軍勢は国々の兵の寄せ集めである。たとえ何百万騎であったとしてもどれほどのことがあろうか。そもそも上杉家は代々坂東の大将で、中でも亡き輝虎入道に至っては弓矢を取って天下に並ぶものはなかった。その子息として景勝は幼い頃から戦の中で育ち、老境を迎えている。今景勝に向かって互角に戦える者は多くはない。お前の敵としては良き敵である。上方に向かって戦うよりも、一人ここに残って戦ったならば弓矢を取って面白く、さらに西に向かう軍勢は皆妻子を東国に留めているので、今にも景勝が攻めてくるかと片時も安心することができない。お前が宇都宮にあって景勝を押さえれば、麾下の諸士は皆安心し、軍勢が一体となって敵を討つことができる。この大任にあたることができる者は天下にお前以外にあるだろうか」と仰ったので、秀康公は承諾して「秀康、未だに合戦は慣れておりませんが、景勝一人の軍勢と戦うのにどれほどのことがありましょう。ありがたくも大将を名乗ることをお許し頂いたからには、ここに留まり(家康公の)ご威光をもってお鎮めいたします。」と申し上げた。

 正信はそれを聞いたとたんに「よくぞお申し出くだされた。殿がよいご子息をお持ちになったことはどれほどの果報でありましょうか。さて、関東をお護りなさるためには、大将御自らがせねばならない事をお伺いいたします。さて、いざ大事が起こったとき、その変事に対応するご軍略は様々ございますので、いまここですぐに伺うというわけには参りません。ただ、お見込みの大まかな点を承りたく存じます」と望んだ。
 それに対して(秀康公は)「秀康がここに留まるからには、景勝が打って出れば死力を尽くして防戦し、江戸から西へ一歩も出すことなく、景勝を討ち取るつもりである。もし軍勢を出さない場合は、ゆっくりと鷹狩りでもして毎日を過ごし、上方の軍勢の勝ち戦の便りをお待ち申し上げる次第である。」と仰せになったので、家康公の感激はひとかたならぬものであった。たいへん涙をお流しになり、やがて御鎧を取り出して「そもそもこの鎧は家康が若かった時から身につけ、ついに一度も負けることがなかった。父の嘉例になぞらえてこんど奥州の押さえの大将となり、よい戦いをして天下に名を揚げよ」と仰せになり、手ずからこれをお与えになり、その他数々の物をお与えになって奥州の押さえの大将軍に任じた。

 また蒲生秀行を副将軍に任じて共に宇都宮城の本丸に置き、二ノ丸に小笠原秀政、三ノ丸に里見義康、その他に黒羽城に岡部長盛と伊賀・甲賀の同心二百人を率いた服部正成、佐野城主佐野信吉を置き、総勢二万五千人で景勝に備えた。
 一方、那須七騎と称した蘆野・大田原・那須・福原・千本・大関・伊王野の七家の人質を秀康公に付けて、また常陸下妻城には多賀谷左近、下野山川城には山川朝信、結城城は老公結城晴朝が留守を守り、由良国繁は上野金山城と常陸牛久城の両城を守り、皆川広照・水谷勝俊・成田民憲・那須資晴・大田原晴清は鍋掛に在陣して、松平信一は上野(注に上総の説あり)布川城で佐竹義宣の押さえとし、伊達政宗は陸奥岩出山城、相馬義胤は中村城、最上義光は出羽山形城、戸沢政盛は林崎城、平岩親吉は上野厩橋城、松平一生は三蔵城、植村泰忠は勝浦城、鳥井忠政は下総(注に上総ともあり)矢矯城、松平忠利は小美川城にあって前後の軍勢となった。右の三方向の諸将合わせて三十余名、すべてが秀康公の指揮を受けることになっていた。

 秀康公は一時退いて養父、結城晴朝に告げて、又諸臣を召して家康公の仰せの内容などをお話しになって、「さて我等は壮年の身でありながら目の前で跋扈する敵を差し置き、押さえの任務を承ったことについて、おのおのはどうしたことだと思ったことであろうが、一つには父上のお心をお休めするための孝行、二つには私は未熟の身ながら老練の景勝を押さえて、奥の押さえの数十名の諸将を私の一手に引き受けて指揮することが弓矢を取る武将の本懐であるからである。であるから、今すぐにでも事が起こったならば、景勝を討ち取るまでは生きてこの地に帰るまいとの覚悟であるので、皆々もこのように心得て精一杯精励するべし」と諸士に向かって戒めて結城城の留守を老公に預け、馬上の侍の五百余騎を率いて出陣して宇都宮城に移った。

 蒲生秀行はもともと宇都宮城の城主で、今は副将に任ぜられているので、家臣を集めて「秀康卿は亡き太閤の養子である。結城晴朝の家督を継いだといっても実際は徳川殿(家康)の御二男である。この秀行も徳川殿の婿ということで会津の押さえの大任をこの二人にお与えになったのである。私が考えるに、景勝は天下に卓絶した老練の大将で、その兵士も我等二人分の軍勢の十倍ほどあろう。特に秀行は若年、また軍勢が少ない。秀康卿は勇猛の大将であるから、おそらく我等は秀康卿の後にお従いすることができないであろう。それなので我等の軍勢が戦功をあげる日は無い。であるから我等の軍勢が秀康卿の軍勢より一歩でも前に進むことができたならば、死体を戦場に晒したとしてもまったく恨むつもりはない。このような考えなので密謀も奇計も用いることはしない。ただ速やかに敵陣に分け入り、戦死しようではないか。私からお前達への年来の恩義を考えて、私の下知を守って命をなげうち、名を留めよ」と涙を流して話したので、家臣は皆この言葉に感激し、義を重んじて死ぬことを恐れない表情が顔に表れたということである。

その二

 家康公が小山の陣を引き払った後は、上杉景勝が大軍を率いて、江戸を目指して討ち出るとの雑説が様々に飛び交い、那須七党の人々をはじめとして皆の心は落ち着かなかった。
 秀康公は何を思われたのか、使者を上杉方に遣わして、「今回、上方の兵乱のため家康はここの陣を引き払って西へ向かい、その留守居として我等がこの地に残っております。安穏として毎日を送るのは退屈で耐えられないので、ひと合戦致しましょう。ご同意なさったならばそれ(伊達方?)へ取りかかるのか、こちらへご出馬なさるのか、(あなたの)ご返事次第でございます。」と仰せ入れになったところ、景勝は「御使者かたじけなく存じます。内府(家康)が引き払って御留守として貴殿がご在陣なさっておられる由。私にできることがあれば何なりと承ります。ただ、合戦の事については、輝虎以来、人が留守をしている時に仕掛けることはしておりません。内府がまたお戻りになられましたら先手をなさいませ。そのときに一戦致しましょう。今、御留守にお若い方がいらっしゃる所に合戦を仕掛けることなど思いも寄らないことです。」と返答したので雑説はたちまち止み、人々は秀康公の知勇を賞賛して伝えた。

その三

 黒羽城に在城を命じられた岡部長盛・服部正成は、敵の城の動静を窺うために那須の者を遣わしたことが度々あったが、帰還してその様子を報せるものはなかった。そこで正成は配下の伊賀者を選抜して三人を遣わしたところ、城内の広さ、険しさ、兵力、鉄砲や玉薬の数まで手に取るように様子を詳しく調べて戻ってきて、城攻めが容易であることを伝え、今まで遣わした那須の者は全て城の大手に磔となっていることを報じた。
 長盛・正成はその技に感嘆し、その子細を秀康公に言上して、「この者らが見たところに間違いはございません。急いで攻めて乗っ取ってしまいましょう」と願った。それを聞いて秀康公は、「上方の軍勢が万一敗れた場合、たとえそれくらいの城を二つ三つとったところで詮無いことだ。もし勝利を収めたとすれば、今わざわざ手を下して攻めるまでもなく、自然に我等の手に入るであろう。城を取ることは意味がないことだ。」と言って両人に軍勢を出すようにとお命じにならなかった。


−越前拝領などの話−(「叢記」)

その一

 伝え聞くところによると、今年(慶長五年)、秀康公の御戦功が莫大であったので、家康公より播磨・越前のどちらかの国内を拝領するとの事を秀康公はお聞きになって、そのお悦びは大きなものであった。
 ある日、秀康公は近習をお召しになり、ご雑談のはじめにこのことをお話になったところ、長谷部釆女は、「越前を御拝領なさいませ」と申し上げた。秀康公が仰るには「世の中では一が播磨、二が越前と言われているので、播磨が良いのではないのか」とのことであった。釆女は「越前は大国で、要害の地もございます。そのうえ武蔵まで(播磨より)近く、京都へ行くにも便利で北陸の中心でございます。越前を御拝領なさるのがよいでしょう」と申し上げた。

(後日談)

 (越前拝領後)ある日、秀康公が長谷部釆女をお召しになって「播越の内どちらかを(家康公は)下し置かれるというので、その方に相談したところ、『越前をお望みなさるのがよろしいでしょう』と言った。お前の生れ故郷という理由で、大雪の降る国へ移させたのだな」とご立腹であったということだ。

その二

 古老が語る話によれば、秀康公の御給帳(分限帳)を見たところ、越前国の石高六十八万石余り(注:「叢記」は越前の他もあわせて計七十五万石を領したとしているため)は家臣の知行となっているようだったので「どうやって(生活を)賄っているのだろう」とある人に尋ねたところ、「それは知らない。我等が耳にしたところでは、佐渡国から江戸へ運ぶ金がこの国(越前)を通過するので、それを運ぶ頭が『御用はありませんか。』と御年寄中(家老衆)へお伺いして、要望通り金を献上して、通過するということだ。」という答えだった。
 忠直公の時代になって「秀康公の時代の通り金を差し上げることは一切してはならない。さすれば、越後を通って金を運ぶように。」と(幕府)老中が仰せ渡したと伝え聞いている。であるから、賄い料は家臣団への御知行の他は(幕府の)ご協力があったように思われる、ということであった。

その三

 また聞くところによると、秀康公が越前を御拝領なされるとき、「敦賀は重要な港であるので、幕府へ召し上げて、替地を遣わすべきか」との家康公のご意志であったので、本多正信は天下のためにもいかがなものか、と考えて、常に江戸城に出仕して御用部屋に詰めていたが、(家康公の)御次の間でいつも寄りかかっていた柱があった。
 この柱を人は「佐渡柱」と称したが、ここで居眠りをし、夢をみながら驚いた振りをして「お許し下さいませ。」とうわごとのように語る様子が(家康公の)お耳に達し、「何を申しているのか。」と幾度もお尋ねになったとき、「このたび、敦賀の代わりとして別の地をお与えになった事を秀康公が『お前のせいだ』とことのほかお叱りになったと思って驚いている夢を見ました。」と申し上げたのでご承知され、そのまま敦賀も含めて越前一国をお与えになったとのことである。


−関ヶ原後の秀康−(「秀康年譜」)

その一

 (慶長六年の)春正月、秀康公は諸将の兵を率いて宇都宮城にあった。ある日、兵糧が乏しく兵士の顔に飢餓の色が見えることをお聞きつけになった秀康公は、役人をお召しになってその理由をお尋ねになった。
 それによれば、現在兵糧が乏しく、諸軍に配分するには不足しており、その上今配分してしまっては、万一事が起こったときに手当として与える分がない。三日もすれば補給が来るので、そのときに充分に兵糧を配分することができるということであった。
 秀康公は「もし今合戦があれば、皆がこの秀康のために命を捨てる者たちであるのに、この窮乏をそのままにして、どうして後日の備えをすることができようか」と仰せになり、今ある米俵を取り寄せて俵の口を切りほどいて、手ずからすくってお与えになったので、(諸士たちは)いささかの米を得ることができて皆陣中で飢えを忘れて、感激の涙を流して喜んだ。

その二

 伊達政宗は福島での合戦で、上杉家の岡野左内という者と戦って軽い怪我を負ったが、ある日秀康公に出会い、下馬しないでその傷を指さして「このように散々な目にあったので、下馬することが難しい状態です。無礼はお許し下さい」と申して馬に乗ったまますれ違った。秀康公は笑いながら近臣の者に向かって「政宗は軽い怪我を大けがのようにもっともらしく申して下馬しなかった。今に始まったことではないが、傲慢な者であることよ」と仰せになった。

その三

 関ヶ原の合戦で石田三成が滅亡したのちも、上杉家の軍兵は奥羽の合戦でたびたび勝利を得たけれども、何となく軍の威光は日を経る内に衰えて、独立しながらも枯れてゆく状況になってゆくことを景勝は早くから感じて、老臣の直江兼続と相談し、今の内に降伏をするに越したことはない、と一決した。
 そこで使者を遣わしてその仲裁を秀康公に願い、「景勝は愚かなことに誤って石田三成の奸計に乗り、長臣の直江兼続の言い分を信じて、最終的に逆徒の名を蒙ってしまったとは言っても、もともと徳川家に対して敵対する心はありません。今、前非を悔いて大罪を謝り、伏して軍門に下る心づもりです。除封されても切腹を命じられても少しも恨むことはありません。万が一特別のご恩を受けて少しの知行を残していただき、先祖の供養を続けることができるならば、これに勝る悦びはございましょうか。とにかく、命に従うことをよろしくお伝え頂きたい」と強く願った。
 秀康公は「石田三成は敗れ、景勝は援助を失って孤立してしまった。その勢いの弱まったところに乗じて攻め滅ぼすことは最も武道の本意ではないことだ。それに罪を謝り降伏を私に願うのは、窮鳥が懐に入るようなものであるので、救わないのは義に反する。また上杉氏は累代の名家であり、一度滅ぼしてしまうことは仁義でない。私が不肖といってもこの三つの過ちを犯すことができようか。きっと今日願った事を遂行しましょう。」と了承なさって使者をお帰しになり、兵をまとめて伏見に凱旋して(家康公に)景勝が望んだ事をお伝えになり、赦免を切にお願いになった。
 その結果、家康公はそれを容れて秋元富朝に深谷の浪人、大沼越後という弁舌が立つ士を副えて会津に遣わし、また西笑承兌と本多正信らの活動によって、六月二十二日、景勝の罪を許し、伏見に参上すべき旨をお命じになった。上杉家の家臣はその危険を考えて、諫めて思いとどまるように説得する者が多かったけれども、景勝はそれに従わずに七月一日に会津を発して伏見に至り、家康公に拝謁した。八月二十四日には、家康公は景勝の所領、会津百三十一万石を没収してその内で直江兼続の知行、米沢・福島三十万石を景勝にお与えになるという命を伝えた。

その四

 去る関ヶ原合戦の年の上田城攻めの際、中山勘解由・太田甚四郎・戸田半十郎・辻左次衛門・斉藤久右衛門・鎮目半次郎・小野次郎右衛門・浅倉藤十郎の八人は軍令違反のため武蔵・吾妻に流罪されたのであるが、秀康公はその冤罪をとても哀れみなさって、軍旅や転封などの多忙にも関わらず、なんども切に秀忠公に訴えて哀れみを請われたところ、ついにここ(慶長七年)に至ってお許しが出され、八人が全て召し返されておのおの三千石を給せられた。


−家臣団の増強−(「秀康年譜」)

 秀康公の名士をお愛しになるという性格は天性のものであって、人が食や色を好むのと同様であった。かつての結城の領地は狭く、多くの家臣を養うことができないということを何よりも残念に思われていたのであるが、このたび大国を賜ることになったので知行を惜しむことなく、その人の力を計って武功が有名になっていた士をお招きになった。
 このことで新たに家臣となった者は、久世但馬・吉田修理・江口石見がおのおの一万石づつ、落合美作・岡越後・加藤四郎兵衛が各五千石づつ、中川駿河は四千石、太田安房は三千石、梶原美濃は二千石、永井善左衛門は知行高不詳、青木新兵衛千五十石、その他越前に来て家臣となった者はそれぞれの才能の優劣にしたがって登用し、知行高は皆厚く遇された。
 また、武芸が堪能の家臣には吉田印西・河村長門・土屋市兵衛・山口軍平などがいた。

 北条家の浪人の関根織部という者がいた。秀康公のお召し出しに応じずに「それがしはかつて(北条)氏直に従って高野山に登ることができませんでした。なんの面目があって再び世に出てお仕えすることができましょうか」と答えた。秀康公はそれをお聞きになって「人はそれぞれできることとできないことがある。戦場にでて戦功をあげることは貴殿の得意なことだ。しかし頭を丸めて山に登ることは貴殿には不向きなことだ。今、貴殿が世に出て私に仕えるということは、貴殿の得意な所を存分に発揮して天下のために備えるということではないか。」とお話しになったので、織部は感じ入って世に出て秀康公に仕えた。

 こういうことがあったので、天下に役に立とうと願う者は、秀康公の士を愛してそれぞれに応じてお使いになるということを伝え聞いて、知行の多少を気にしないで名君に仕えようと先を争って越前の国に至った。それによって国に集まって来るものは毎日のように多く、農民や商人も恵みのある政に喜び、楽しんでそれぞれの仕事に従事し、様々な国から移り住んでくる者も多かったので、入封してそれほど立ったわけではないけれども、今までの疲弊していた国の雰囲気が一変して国は大いに栄えた。


−越前御制外−(「叢記」)

 伝え聞くところによれば、上野国碓氷峠には(幕府の関所)番人がいた。秀康公は参勤するに当たって鉄砲をお持ちになっていたのを、(番人が)止めた。
 (秀康公は)お家柄が格別であることは(幕府より)前もって知らされていたというのにそれを聞いていないことは不届きである、としてお怒りになり、(番人支配の)御家人に申しつけて成敗するとのことであったので、番人達は皆恐れて江戸にその旨を言上した。秀忠公は「秀康に殺されなかったことが幸いであったことよ」と仰せになって事は落着したとのことだ。

 また聞くところによれば、(秀康公が)江戸へお着きの日、秀忠公はお鷹狩りに事寄せて品川までお出迎えなさって、御対面の上ご同道なされ、直接御本丸にお入りになったということだ。秀康公のお乗り物も御玄関に横付けするようにと申しつけられた。
 秀忠公はお待ちになって「お先へ」と仰せになったところ、秀康公は「将軍のお先に行くことは(憚られます)」と仰せになってお控えなされたけれども、「御案内するためでございます」との秀忠公の仰せだったのでお先にお入りになり、ご饗応を済ませたとのことである。
 それ以後、秀康公は二の丸の御殿にお入りになった。越前家の御家老や御供の衆は、御老中方のお屋敷を明けたところを宿所としてご饗応されたとのことである。

また古老が伝えるには、秀康公の家は江戸でのお取り扱いは御制外のお仕置きであると申し伝えている。このため先年信州碓氷の御関所に鉄砲をお持ちになったとき、番人は(止めたのは)当然であったけれども、江戸でのお取り扱いは御制外との事であったということだ。そのため、御旗本で暇を下された者は皆、当家へ出仕したということである。天方通興や松平(加藤)康寛をはじめとして多かった。

また聞くところでは紅の装束というのは、将軍家・摂家の内の一人、そして秀康公だけであったとのことである。禁中の御式目にも決められているとのことだ。

また、烏帽子の式法に「片まへ(前?)」「諸まへ」というものがあるとのことだ。将軍家と秀康公は「諸まへ」とのことである。これは御子孫に至ってもこの式法に従っている。


−秀康と福島正則−

その一(「秀康年譜」)

 今年(慶長五年)より翌年まで、全国の大小名は自ら越前国に来たり、或いは使者を遣わして、秀康公のご入部をお祝いする者がとても多かった。特に福島正則は普段から(秀康公の)待遇が最も厚かったので自ら参上した。
 秀康公は城外にお出迎えになり、正則を伴って城に入り、様々のご饗応をなされた。正則が雑談の中で近くに座っていた越前家の家老などに向かって話すには、「それがし、今後はこの御城下に邸宅を頂いて旅館を営み、度々参上して秀康公の御機嫌を伺いたいものですな」ということであった。さらに退出の時にはとても慇懃に家老の家臣に礼を言って、「それがし、秀康公の御下知を承るときがあるだろう事を長く忘れません。秀康公がもし天下の御大事とお考えになり、お立ちなさることがある時には、正則は必ずお味方に参上仕ります。これは決して偽りを申しているわけではありません。しかし亡き太閤の遺命がございますので、秀頼がこの世におわす限り、自分の身でありながら、自分の心のままに任せることは難しいのです。」と語って帰国した。
 秀康公はこの言葉をお悦びにならなかったのであろうか、そののち正則を疎んじになったと言うことである。

その二(「叢記」)

 また古老の伝えるところでは、全国の諸大名が使者を遣わして御入国のお祝いを述べた。また自分で参上してお祝いを述べるものもいた。福島正則は越前に来てお祝いを述べた。越前家の家老どもに戯れ言で「今後それがしも土地を頂き、御城下に居住して秀康公の御機嫌を伺いたいものです。」と言ったことを秀康公はお聞きつけになり、お笑いになったということだ。
 正則が帰国するとき、(正則の)家老を御礼に(越前家の諸士へ)訪問させた。(越前家が)丹生郡にある白鬼女川を渡るための船を出したとき、正則の家来の一人は川下を馬で渡った。正則は怒り、「(秀康公の)御領国の(川の)深い・浅いをうかがったことで、秀康公の印象が悪くなることは迷惑である」と言ってその家臣に切腹を申しつけたという。


−越前御制外2−(「秀康年譜」)

 (慶長九年)二月二十三日、秀忠公は今村彦兵衛を使者として、(秀康公に)巣鷹と馬を与え、再び書状で病状を詳しくお尋ねになった。また関東へ下向するとの噂を聞こし召され、遠距離の疲労をご心配になって、たとえ病気が本復したとしても江戸へ参勤することはまったく無用であることを詳しく申し伝えさせたが、秀康公は敢えて楽に過ごすことをなさらず、三月、ついに越前を発足して江戸に赴かれた。
 秀忠公のお喜びは大きく、自ら品川宿までお出迎えになってご対面なされ、旅館から出発するとき、駕籠の前後をお譲り合いになってなかなか決まらなかったので、結局両公は駕籠を並べて道をお進みになった。

 秀康公は二ノ丸御殿を御宿所としてお入りになって、家老以下の御供の者は大久保忠常の役屋敷(役職の時に利用する屋敷のことか?)を明け渡されたところに逗留した。この日、未の刻(午後一時〜三時)、秀忠公が二ノ丸の御宿所にお入りになり、献酬の礼や様々な御談話が長い時間あってお戻りになられた。
 翌日、秀康公は御本丸にお登りになった。全ての老中が出迎え、案内をして(秀忠公)にご対面があってご饗応があった。このとき、秀康公の駕籠が御本丸の門内に入ったことから、忠直公に至るまで、常に同様であった。世の人々は朱雀門を「越前下馬」と称したが、それはこの出来事に始まるという。

 その翌日、秀忠公は駿馬を十一疋お贈りになった。秀康公はその中でも最上のものを二疋選んで、その他の九疋はお返しになった。近臣は「その一番良いものを選んで拝領し、そうでないものをご返却なさるということは、人々はひょっとしたら秀康公のことを不敬である、と思わないでしょうか」と申し上げた。秀康公が仰るには「我が国は小さく、財政も豊かでない。旅行の途中に役に立つものをいただいて、不要のものをかえすのは、分をわきまえているということだ。秀忠公は私の状況をご存じである。どうして不敬であるといってお咎めになるだろうか」ということであった。

 ある日、秀康公は御本丸に御登城なさった。従士等はお帰りになるのは遅くなるだろうと考え、全てが宿所に戻ってしまったが、殊の外早くお戻りになって御玄関にお出でになったけれども従士は一人も居なかった。
 「呼びに行け」と(秀康公が)仰せになっている内、見送りに出てきた御老中の指図で、当番であった両番(小姓組と書院番組)の士、数人に命じて供奉して二ノ丸にお送りになった。
 この月、秀康公は江戸を発して伏見にお着きになった。

(「叢記」は本丸登城の出来事を慶長七年に記す。)


−秀康の神威−

その一(「秀康年譜」)

 (慶長九年)七月十七日、秀康公は家康公と秀忠公を伏見の邸宅にお招きして饗応なさって、相撲を余興として催しになった。上段に両公、その次に御家門の人々や招かれた方々、諸家の老臣までが列座して、庭には諸家の従士や家中の人々がおり、その他集まって来たものは数千人に上った。
 相撲人(興行を行う人?)は東西の大関を越前の嵐追手(公家が抱える相撲の名人で、天下一との名があった)と加賀の順礼(前田利勝家臣、松村総次郎という者で、北野千本の勧進相撲に出場、七日間に三十三番を行って全て勝利したとのことで、「順礼」の名があった。嵐よりも一段に体格が大きく強い男であった)と決めた。

 前相撲の取り組みの十余番は既に終わり、大関の勝負になった。晴れの場所での取り組みだったので、両者は互いに力を尽くして互角の勝負であった。見物の人々は拳を握って歯を食いしばり、それぞれ贔屓の力士に「彼よ勝て、これよ勝て」と口々に叫んで、固唾をのんでわき目もふらずに観戦した。
 ついに嵐追手がかけ声を発して順礼を投げ飛ばした。庭にいた人々は一同感動して、御前の前であることも忘れて不敬の者も多かったので、目付役人がそれぞれ制止しようとしたけれども全く聞き入れる様子はなかった。

 時に秀康公が座を立って庭に臨み、左右をきっとお見回しなされたところ、人々は皆声を潜めて息をとどめ、庭全体が粛然となった。「さて、次の取り組みで順礼が勝てば五分五分になる。勝負を決せよ」との家康公の命で三度取り組みをした結果、嵐が勝って相撲が終了した。

 家康・秀忠両公はお悦びは普通でなく、お帰りののち、家康公は近臣に「今日の饗応はまことに楽しかった。特に秀康の神威は実に人の心目を驚かせたものよ。」と仰せになったとのことである。

その二(「叢記」)

 七月十七日(六月十日とも)、家康公・秀忠公が伏見で秀康公の御館にお入りになり、(秀康公は)その御饗応として相撲をお命じになった。嵐追手之助(備前生れ、二百石)と加賀の松村宗次郎(異名を順礼)と取り組み、三回(嵐追手之助が)勝ち、両公はとても御感心なさった。

 老士が云うには、このとき庭で群れ集まった者たちが叫び声をあげて止まなかった。警備の士が鎮めようとしても鎮まらなかった。このとき秀康公が庭をご覧になったところ、いっぺんに鎮まった。
 両公がお帰りあそばされ、近習の人々に「今日の秀康の饗応で、相撲が最も珍しい見物であった。お前達も見たか。」と仰せになった。(近習達は)皆が順礼と嵐の相撲の勝負の批評を申し上げた。家康公は「そのことではない。秀康の群衆を鎮めた器量に感心したのだ」と仰せになったとのことだ。


−白山温泉の妖怪−(「秀康年譜」)

 (慶長九年)八月、秀康公はこのころ体調が思わしくなかったので、保養のために白山温泉に行かれた。そこでは当時、妖怪がいて白衣を着、夜毎に谷に出て歌を歌うとの風説があったため、秀康公はこれをご覧になろうとお思いになり、ご自身でそこに行ってご覧になろうとしたが、それは谷川の水の流れが激しく、岩に当たって波をあげるのが白衣のように見え、歌を歌う声に聞こえたのは泉の響きであったということだ。


−秀康と景勝−(「秀康年譜」)

 五月朔日、秀康公は伏見城に御登城なさって新将軍の秀忠公に拝謁し、就任のお祝いを申し上げ、物をご献上されたことは礼式の如くであった。
 この時、上杉景勝は(同じ権中納言ではあるが)先官であることから、秀康公は席をお譲りになってその次に座ろうとなさった。景勝もまた席を譲り、秀康公を先にしようとして、お互い譲り合って時間が経ってしまったので、将軍のご命令で秀康公を上座とし、景勝をその次座とした。
 秀康公のお振舞を見たり聞いたりした人はその礼節や謙譲の心の大きさに感心して、ますます秀康公を尊敬し、威望は益々お盛んになった。


−江戸上屋敷拝領−(「秀康年譜」)

 この年、秀康公は江戸の山手に邸宅の地を賜った。家臣の高木豊前はその地が広大であって過分であるために固辞した。
 本多正信は「御末裔までご繁栄に及び、狭いことでお困りにならないよう、予め考えて申し上げることではないのか」と言ったけれども、豊前は強く辞退してその地の半分を受け取った。
 秀康公はこの邸宅にお入りにならないでご薨去遊ばされ、秀康公の伏見の邸宅を移してこの地に建て、二世公(忠直)・三世公(光長)がお住まいになった。
 世に麹町屋敷といった。


−秀康と朝日丹波−

その一(「松平直政事績録(藩祖御事績)」『大野市史』第6巻、史料総括編に所収)

 ある日、北荘城の北方から出火し、秀康公は御自らご出馬なさって防火の指揮をお執りになった。(秀康公が)朝日丹波重政の子、佐助重宗をお召しになって仰るには、「重宗の働きは考えていたより悪かった。お前は勇士の器に似ず、父に劣っている」などと辱めになった。
 これは重宗の行く末を案じてお励ましになったことであったが、重宗は恐れ入って弁明する言葉もなく退き、あまりに面目ないことだと自殺してしまった(時に重宗が十八歳のことであった)。
 秀康公はこの事をお聞きつけになって深く哀れにお思いになり、重政をお召しになって、「さてさて、私の一言の誤りでお前の嗣子に腹を切らせてしまったことの面目のなさよ。しかし今更悔いてもどうしようもない事だ。しかしせめて国丸(直政)をお前に遣わすので、養子として重宗の代わりと考えてくれ。」と仰せになった。
 しかし、(重政は)このような恐れ多いことはお受けし難いことであります、と再三お断りを申し上げたので、(秀康公は)「それならば子にはしないが、お前の家に置いて作法を良く教え、のちのちには将軍家の御扈従として召し出される様に育てるように頼む。」と仰せになって直政公を重政の屋敷に下した。
 こうして一年余りお育て奉ったが、丹波は図らずも谷伯耆の家臣と争って越前を退去した。

(筆者注:朝日重政はのち帰参し、松江藩の重臣となる。)

その二(「叢記」)

伝え聞くところによれば、朝日丹波守源重正は、国松丸君(直政)をお育て奉っていた。重正の嫡子、千之助は忠直公の御小姓であった。
 ある日、忠直公は千之助に対してお怒りになってお叱りなさったので、千之助は自殺してしまった。秀康公は不憫にお思いになって国松丸君をお下しになり、のち(国松丸=直政は)大野城を御拝領なさったので、重正は長く御傅の臣になった。


−父との別れ−

その一(「叢記」)

四月二十九日、家康公が駿府にいらっしゃった所(囲碁をなさっていた時という)、秀康公から御佐の局が遣わされて秀康公の言葉を伝えた。
「私は春ごろより煩い、病がとても重く生きながらえることが出来ないようでございます。先月五日には薩摩守(松平忠吉)も死去しましたが、またこのような事態になってしまいました。それがしまでお父上に先立ってしまうことは何と申し上げることもできません。お別れとしてこのことを申し上げる次第でございます。」

 家康公はお嘆きになること尋常ではなく、しばらくして「越前守(秀康)の忠誠と孝行はいちいち数えることが出来ないほど多い。しかし、越前一国のみしか与えていなかったことは全く残念であった。病が少しでも癒えたらば祝儀として越前の他、近江の一部、下野の一部をあわせて百万石を与えよう」と仰せになったので、於佐の局は御朱印を持って、急いで帰国の途に着いた。
 しかし、三河岡崎に至って秀康公ご逝去の報を聞いたので、局は涙しながらも考えて「大切な御朱印を越前に持参してもこのようになってしまったのでいかがであろうか」と岡崎から駿府に戻り、すぐに登城して囲碁をなさっていた家康公にご逝去を伝えて、御朱印を返上した。
 家康公はとてもお嘆きになりながらも、「女性の分として私の言ったことを察して返却したことは感心なことだ。」と仰せになった。
 一方で越前の家臣らは女でありながらこのような機転は不必要なものを、と末世までも於佐の局の所行を申し伝えて憎んだという。

その二(「秀康年譜」)

(死去の前)秀康公は於佐の局を駿府にお遣わしになって、
「私秀康は病が日々に重くなり、回復するとも思えません。ちかごろ薩摩守(松平忠吉)も死去し、そのうえこの秀康も先立ってしまうことはなんとも申し様がございません。」と今生の御暇を局から申し上げたところ、家康公の悲しみは大層なものであった。
(家康公は)「男子が多かった中でも特にすぐれて秀康は度々勲功があったが、越前一国のみしか与えなかったことは残念であった。」と仰せになって、今回の病気回復のお祈りとして、近江・下野両国の中で御加増なさって、計百万石を宛行う旨の書をお書きになり、「いそいで帰国してこの事を秀康に申し聞かせるように」と仰せになった。
 局は急いで帰国したが、岡崎で秀康公がご薨去なさったことを伝え聞いたので、すぐに駿府に引き返してこのことを申し上げて書出しを返上した。
 家康公はことのほかお悲しみになって、しばらくして「局は女の身にありながら悲しみの中によく気づいて書出しを返したものである。」と仰せになった。


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