若狭武田氏

参考:近畿地方詳細図(別のウィンドウが開きます)

【若狭武田氏略史】
若狭武田氏は甲斐武田氏の庶流である。甲斐武田氏は甲斐国守護のほか、安芸国守護も兼任しており、蒙古襲来に際し、はじめて安芸国に下っている。のち安芸国守護が武田信成(武田晴信の八代前)のとき弟の氏信に与えられ、安芸武田氏が成立した。
 
 その後氏信の曾孫、信栄が永享十二年(1440)、一色義貫を討ち、戦功として若狭守護職が与えられた。信栄は若狭下向直後に若くして没し、守護職は弟の信賢が継いだ。信賢は若狭の経営にあたり、青井山(小浜市)に城を築くなど若狭武田氏の基礎を築き、応仁の乱では東軍に属し活躍した。家督は信賢の弟国信が継ぎ、この系統が続いていく。

 
 国信の子、元信の時代(15C末〜16C初め)に若狭武田氏は最盛期を迎えるが、土一揆の蜂起や、丹後に出兵し逆に丹後勢の若狭への侵入を許し、朝倉氏の救援で撃退するなど、既に支配に陰りが見えてきていた。元光の時代には後瀬山(小浜市)に城を築いて青井山から移り、滅亡までの居城となった。信豊の頃になると丹後の海賊の侵入・河内における三好氏との戦いの敗北などで弱体化し、信豊・信統父子の家督争いやそれに関わって有力家臣が相次いで反乱を起こすなど、さらに弱体化した。幼少で家督を継いだ元明のときにはもはや「断絶眼前」(朝倉文書)であり、

「元明若狭ノ領主タリトイヘトモ、浪人ノ如クニシテ小浜ノ城ニ住ミタマフ」(若狭国伝記)

という状況であった。ついに永禄十一年(1568)、武田氏の遠縁にあたる朝倉氏は若狭へ侵入、元明を保護し、越前へ連れ去った。これによって実質的に若狭武田氏の支配は終わりを告げた。

だが、朝倉氏が織田氏によって滅ぼされると、元明は若狭に復帰して神宮寺に住み、実質的に若狭を支配する織田氏の傀儡としての役割を果たしたのであった。しかし、元明が本能寺の変に際して明智氏に呼応したため、天正十年七月十九日、近江で殺害され、若狭武田氏は断絶したのであった。


2002/7/22加筆…武藤舜秀様の掲示板への書きこみ(元明の殺害)によって資料を見直し、加筆しました。

若狭武田氏系図

若狭武田氏の一族・家臣団

・武田信方【たけだ・のぶかた ?〜1582(天正10)】
義統の弟。武田宗家の混乱の中、遠敷郡宮川を拠点に勢力を伸ばし実権を握る。永禄十年(1567)には、義統に変わって足利義昭からの上洛要請を受けた。これを拒否したことが、年寄衆の退去に繋がった。また、元亀元年(1570)には、反信長勢力の山県氏を攻めている。
 その後の活動は不明であるが、天正十年の甲斐武田氏の滅亡時に生け捕られて殺害されたとの伝聞が奈良興福寺の『多門院日記』に記されているという。どうやら甲斐武田氏のもとに身を寄せていたらしい。
2002/7/22加筆訂正

・粟屋勝久【あわや・かつひさ 生没年未詳】
越中守。国吉城主。永禄年間、武田義統から離反、若狭が信長の支配下に入った後も若狭衆の主要メンバーとして活躍。

・逸見昌経【へんみ・まさつね ?〜1581(天正9)】
駿河守。高浜城主。天文二十年以前に出家し駿河入道宗全と号す。武田義統に謀叛。のち織田信長に属し、若狭衆として行動。天正九年没。

・内藤元兼【ないとう・もとかね 生没年未詳】
筑前守。天文七年、若狭彦神社の上葺の棟札銘に修理奉行として記されている。内藤氏は武田氏から守護代、小浜代官などに任じられた重臣で代々「筑前守」の官途を名乗り、遠敷郡西津天ヶ城を居城とした。

・内藤勝高【ないとう・かつたか 生没年未詳】
筑前守。弘冶二年(1556)年当時武田信豊の奏者を勤めていた。

・内藤勝行【ないとう・かつゆき 生没年未詳】
元亀年間に現れる勝高の子と思われる人物。

・熊谷勝直【くまがい・かつなお ?〜1552(天文21)】
弾正大夫。天文十年ころ、幕府料所安賀荘の代官を務めていた。天文二十一年、信豊に「不義」をしたとして自殺させられている。熊谷氏の本貫地は武蔵国熊谷郷であり、安芸熊谷氏の一族。

・熊谷統直【くまがい・むねなお 生没年未詳】
永禄九年(1566)、武田義統に対し挙兵したため、敵対しない旨の起請文を書いている。永禄年間には、武田氏の重臣が自立性を強め、武田氏と度々合戦に及んだ。

・熊谷直之【くまがい・なおゆき 生没年未詳】
治部大夫・治部丞・大膳。永禄〜元亀年間に存在したことが知られる。朝倉氏の永禄十一年(1568)の若狭侵入に対し防戦、元亀元年(1570)の信長の朝倉攻めに従軍。

・白井光胤【しらい・みつたね 生没年未詳】
石見守。白井氏は武田氏の若狭入部当初からの被官。義統の弟、信方の年寄衆で、信高が義統に反旗を翻そうとしたとき、それに反対して家中を息子の勝胤とともに退いた。

・白井勝胤【しらい・かつたね 生没年未詳】
民部丞。粟屋勝久の謀叛時の永禄四年正月、家臣を率いて義統方について奮戦、感状を与えられた。前述の信高謀叛の時、父とともに退いた。


【追加分】

2002/4/15追加
・粟屋元行【あわや・もとゆき ?〜1541(天文10)】
左京亮。元勝の子。粟屋氏は若狭武田氏の重臣。元隆らの家が惣領家で、元行の家は庶子家に当たる。代々在京奉行を務めると共に、元行は遠敷郡宮川保(幕府御領所)の代官を務め、公用銭の収納などに当たった。

・粟屋光若【あわや・みつわか 生没年未詳】
大永七年(1527)、川勝寺の合戦で討死した周防守家長の子。式部丞。信豊の奏者として活躍したことが確認されている。

・粟屋勝春【あわや・かつはる ?〜1535(天文4)】
粟屋氏の惣領家の一族。父親栄は元隆の叔父にあたり、武田元信の隠居に際して、家督を継ぐ元光を補佐するようにと頼まれる程、信頼を受けており、また、三条西実隆を師として源氏物語の講義を受けるほどであった。勝春は大永年間から戦死する天文四年まで、各地を転戦していた。父と同様、三条西実隆の元に出入りして古典文芸にも親しんでいたことが知られる。

2002/7/22追加
・月甫清光【がっぽ?・せいこう  ?〜1538(天文7)】
国信の弟。永正十年(1513)に建仁寺第二百五十一世となる。三条西実隆と親交があり、歌道の指導をしばしば受けた。武田元光を後見し、政治的にも重要な地位にあったという。


【参考文献】

『戦国大名系譜人名事典 西国編』 1986
『小浜市史』通史編 上巻 1992
『福井県史』通史編2 中世 1994
黒田智「信長夢合わせ譚と武威の系譜」『史学雑誌』111-6


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