田村氏

参考:東北地方詳細図(別のウィンドウが開きます)

【田村氏略史】
田村氏は『寛政重修諸家譜』では、坂上田村麻呂を祖とするが誤りであり、氏が祖であるらしい。
田村地方は南北朝時代までは田村庄司家が支配していたのであるが、それ以後はこの田村氏が田村地方を領有した。両者の関係は一族との説もあるが明らかではない。

田村氏の史料の初見は享徳三年(1454)年、田村直顕の時代である。長禄四年(1460)には将軍足利義政が奥州国人に足利成氏誅伐の御教書を下したが、田村氏にも出されているのが確認されている。14C末から15C始めに現れた田村義顕は田村氏発展の基礎を固め、永正年間(1504〜1520)には三春に居城を移している。

隆顕・清顕の時代には近隣の国人と協力し支配下で従わない豪族を滅ぼしつつ、伊達氏と婚姻関係を結び、三春を中心に急速に勢力を拡大した。しかし隆顕死去(天正二、1576)後、清顕は蘆名・白河・佐竹など有力大名の同盟に囲まれ劣勢の状況となり、蘆名氏などの攻撃に守勢を余儀なくされた。

天正十四年(1586)、清顕が後継を定めないまま死去し、清顕未亡人(相馬氏)のもと一門で政務を見ることになったが、家中は親伊達派と親相馬派に二分してしまう。やがて伊達・相馬間の争いが伊達氏に有利な形で講和が結ばれたため、田村家中も相馬派が一掃され、伊達に服属することとなった。伊達政宗は同年九月三春に入城し、清顕の甥孫七郎(氏顕の子)を宗顕と名乗らせ、田村家を相続させた。宗顕ののちは政宗の孫、宗良が養嗣子となって分知、岩沼三万石の大名となった。天和二年(1682)に一関に移封、明治維新に至った。

田村氏系図

【田村氏の一族・家臣団】

・田村氏顕【たむら・うじあき ?〜1578(天正8)
清顕の弟。岩瀬に侵攻し、二階堂氏と合戦した結果、田村方二百三十余人が討たれたが、氏顕も討ち死にした。また、田村氏の系図では天正三年とも言い、『福島県史』では天正十二年の大内氏との合戦の時としている。
2002/3/3加筆訂正(没年訂正等)

・田村顕頼【たむら・あきより 生没年未詳】
義顕の弟。宮内少輔。入道して月斎聖休と号した。明応年間(1492〜1500)に誕生というが疑わしい。実名は、「頼顕」とする系図もいくつか見られるが、文書の署名は「顕頼」である。当主の通字とみられる「顕」を与えられたと考えられるだろう。
 永禄二年(1559)隆顕とともに出陣、二階堂氏から奪った小泉城の城代に任ぜられた。清顕死後の家中騒動では伊達方につく。合戦で戦功が多かったため、「畑に地しばり(キク科の植物。茎が細く地を這い回る)田にひむろ(氷室?)軍に月斎」(=畑・田・合戦に迷惑なものの例えか?)と称されたという。
2002/3/3加筆訂正
※「地しばり」の参考→http://www.oyama-tcg.ed.jp/users/hk/hana/plant010.htm

田村顕基【たむら・あきもと 生没年未詳】
隆顕の弟。右馬頭。「顕定」「顕貞」と記す系図もある。入道して梅雪斎と称す。家中騒動では清顕未亡人と共に相馬方につく。娘は田村清康の妻となる。父義顕より小野郷を与えられて新町城主となったという。
2002/3/3加筆訂正

・田村清通【たむら・きよみち 生没年未詳】
右馬頭。顕基の子で小野(新町)城主。家中第一の大身という。

・田村清康【たむら・きよやす 生没年未詳】
右衛門大夫。田村一門で船引城主。清顕死後の一門談合体制に参加。

・田村重顕【たむら・しげあき ?〜1579(天正7)】
清顕の弟。天正七年、二階堂氏を攻めたが討死。

・橋本顕徳【はしもと・あきのり 生没年未詳】
刑部(少輔)。家中騒動の時に伊達方についた。清顕死後の家中を田村一門とともに運営。田村家中が相馬方と伊達方に二分しているのをまとめ、伊達氏への接近を図った。子の但馬(諱は不明)は伊達政宗の室、北夫人に仕え、元和五年(1619)に死去したという。
 なお、片倉家文書の田村家臣団記録中では「田村宿老」には四人が記され、その中の一人が「橋本伊予守」となっているが、顕徳との関係は不明。顕徳はその下の格(大越顕光らと同格)で与力五十騎を任されている。
※2000/1/10訂正(橋本貞綱と顕徳が同一人物と判明したため削除)
2002/3/3加筆


・常葉清重【ときわ・きよしげ 生没年未詳】
伊賀守。常葉光貞の子か。光貞(摂津守)は田村氏の重臣と思われ、天文十四年(1544)、大越顕光と共に石川氏と田村氏の和解に努力することを約している。清重は『奥陽仙道表鑑』に、上の橋本とともに蘆名・二階堂両氏の田村郡侵入を撃退した武将として記されている。
2002/3/3加筆

・下枝左膳【しもえだ・さぜん 生没年未詳】
・石川弾正【いしかわ・だんじょう 生没年未詳】

ともに永禄八年の石川晴光攻めに従軍。


【追加分】

2002/3/3追加
・田村重時【たむら・しげとき 1499(明応8)〜1572(元亀3)】
下野・刑部。田村直顕の弟、重顕の孫。父は重為。詳細は伝わらないが、子孫は二本松氏(畠山氏か?)の家臣となったという。

・田村顕長【たむら・あきなが 生没年未詳】
顕基の次男で清通の弟に当たる。「三春四老之内」という。

・常葉光貞【ときわ・みつさだ 生没年未詳】
上記常葉清重の項にあるように、天文十四年七月の泉左衛門尉宛書状に署名している。

・常葉貞之【ときわ・さだゆき 生没年未詳】
甲斐守。天正年間に田村清顕に仕えたが、天正年間、相馬義胤に討滅されたという。田村氏系図(隆顕の項)に「田村籏下館主一族」があり、そこに「常盤甲斐 常盤館主」とあり、この人物と思われる。上の光貞・清重との関係は不明である。子孫は蒲生氏郷に仕えたという。

・大越顕光【おおごえ・あきみつ 生没年未詳】
紀伊守。大越館主。伊達家重臣片倉家の文書の田村家家臣団を記した記録には西方の与力五十騎を与えられる武将として記される。五十騎はかなり上位に位置する数である。相馬と通じていたので伊達家の策謀で田村家を追われ、岩城家に身を寄せる。岩城家滅亡後は入道して「未了」と称し、浅草に隠退した。
 のち岩城氏と祖が同じであるということで貞隆と共に居住した。子は岩城貞隆、のち佐竹義宣に仕えたという。

・新田信政【にった・のぶまさ 生没年未詳】
美作守。「田村宿老」の一人。「伊達治家記録」中にも田村一族と共に頻繁に記される。

・中津川親宗【なかつがわ・ちかむね 生没年未詳】
兵衛太輔(記載のまま)。田村一族であるという。田村氏系図の家臣書き上げに記される「中津川次郎右衛門大夫」や片倉家の記録に「中津川兵衛佐」(共に中津川館主)と関係があると思われる。書状写が残っていることから存在が明らかとなっているが、文中に田村清顕の事が記されているので、天正中頃の人物であると考えられる。


【参考文献】

『福島県史』第1巻 通史編1 原始・古代・中世 1969
『三春町史』 第1・7巻 1982・1978
『仙台藩史料大成 伊達治家記録一』(宝文堂、1972)


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